フロント 2
「ちょっと、良樹」
「ああ、お疲れ様。どうしたの」
同じ日の夕方。早番で仕事を終えたスズケイは、クラブの駐車場でスイムチーフの鶴川良樹を捕まえることに成功した。レボリューション湘南の営業時間は、午前九時から午後十時で、早番と遅番のシフト制が組まれている。今日は鶴川も、自分と同じく早番だったようだ。
「このあと、ひま?」
近寄ってニッと笑うと、逆に彼の方はぎくりとした顔になった。
「え? 明日、オフなの?」
「ううん。明日は遅番」
「そ、そう。あ、送っていこうか」
取り出した車のキーを見せながら、鶴川はわざとらしくスズケイの質問をスルーする。彼は普段、愛用の軽自動車で通勤している。
だがスズケイは、逃がさないわよという表情で、頭一つぶん高い位置にある彼の顔を見上げた。
「ひまだったら、一杯だけつき合って」
「…………」
「車はいつもみたく、ここに置いてけばいいでしょ」
「いや、あの……」
「明日は? 早番?」
「……オフ、です」
か細い返事に、スズケイの目が輝く。
「ナイス! じゃ、行きましょ。こないだのお店でいい?」
「いや、でもそっちは明日も仕事が――」
「だから、一杯だけだって」
「ち、千野先生を誘えばいいじゃん。仲いいんだから」
「今日はガールズトークの気分じゃないの。それに千野先生は、明日も朝からレッスンの曜日だもん」
チーフインストラクターの千野かおりと仲良しのスズケイだが、鶴川も月に二、三回のペースでこうして飲みにつき合わせている。ただ、いつもは休日の前夜に誘うことが多いので、彼は面食らったようだ。
「前みたいに、無理矢理チューとかハグとかしないからさ。ほら、行こ行こ」
堂々と笑顔で言い、スズケイは鶴川の腕を取った。彼が思わず逃げようとした理由は、これなのだった。決して酒癖が悪いわけではないが、アルコールが回るとスズケイはやたらとスキンシップが多くなるのだ。もっともそこまで酔うのは、子どもの頃からよく知る鶴川と二人で飲むときくらいだが。
「遅番て言っても、ほんとに大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫! ちょっと訊きたいこともあるし!」
ふわふわとポニーテールを揺らして、スズケイは人の良いスイムチーフを、最寄駅前の繁華街へと連行していった。
「でさ、良樹」
「うん?」
駅前にあるダイニングバー。
バター醤油の風味がついた蒲鉾のソテーを飲み込んでから、スズケイは鶴川の顔をじっと覗き込んだ。ちなみに蒲鉾は地元の名物で、会員さんがよく差し入れでくれたりもする。先週ふらりと入ったここは、近隣の名産品を使った創作料理が美味しく、いい店を見つけたと二人して喜んだのだった。
「あんたが、そんなことするとは思ってないんだけどさ」
「?」
きょとんとする鶴川の顔を見ると、スズケイはいつも笑ってしまう。本当に「大きなぬいぐるみ」みたいだ。スイミングスクールのお母さん方も、こっそりとそんな感想を口にしながら、安心して子どもを預けてくれている。
「まさか、あたしとこうして飲みに行ってること、会員さんとかに言いふらしてないわよね?」
「へ?」
何言ってんの? という表情とともに目を丸くされた時点で、スズケイは確信できた。うん、大丈夫だ。
同時に、ほんの少しでも彼を疑ってしまったことを申し訳なく思う。
「ごめんね、疑っちゃって。ちょっと最近、気になることがあって」
正直に謝ってから、かたわらの黒ビールをぐいっとあおる。ピッチャーまがいの大ジョッキで運ばれてきた黒ビールを見た鶴川は、「たしかに〝一杯だけ〟かもしれないけど……」と呆れていた。そんな彼は普通サイズのジョッキで、中身もこれまた普通の生ビールを行儀よくたしなんでいる。もともと、それほど強くはないのだ。
「気になること?」
「うん。なんか、少し気持ち悪いんだよね」
鼻の頭に可愛らしくしわを寄せてから、スズケイは「少し気持ち悪い」ことについて説明した。
「会員さんからもらう差し入れで、お酒が続いてるの」
「お酒? あれ? でも酒飲みってことは、知られてないんじゃなかった? フロントチーフのイメージもあるから、って言ってたじゃん」
「そうなの。にもかかわらず、お酒の差し入れが連続してて。しかも、それだけじゃないのよ」
「それだけじゃない?」
ますます不思議そうな顔をする鶴川に、スズケイは事情を明かした。
「もらうお酒が、直前にあんたと飲んだものばっかりなの」
「えっ? どういうこと?」
ふたたび目を見開く鶴川に、さらに詳しく説明する。
「先週ここであんたと飲んだとき、ちょっとだけいいワインをボトルで頼んだでしょ? 五千円ちょっとした、赤の」
「ああ、あの、なんとかかんとかってやつ? 牛肉と合ってて美味しかったよね」
「ジュヴレ・シャンベルタンね。そうしたら今日、会員の遠藤さんが、もろに同じやつを差し入れでくださったのよ」
「へえ。それはたしかに、めずらしいかも」
鶴川も素直に驚いている。五千円を超える、しかも直近に飲んだのとまったく同じ銘柄の赤ワイン。さやかに語った通りべらぼうに高価なものというわけではないが、フィットネスクラブのフロントに対する差し入れとしては、やはりポピュラーとは言えないはずだ。
「遠藤さんって、あのお金持ちっぽい人だよね? ITベンチャーの社長さんだっけ」
「うん。でもそれにしたって、ピンポイントすぎない? 遠藤さんご自身は、ちょっといいワインをもらっちゃったけど僕は飲まないから、って仰ってたんだけど」
「ふーん。たまたまなのかなあ」
スズケイの倍近く太い、むっちりした腕を組んで鶴川が唸る。
と、そこで彼は、何かを思い出した表情になった。
「あれ? でも今、直前に俺と飲んだものばっかりって言ったよね? てことは――」
「うん」
頷いたスズケイは、黒ビールを口にしてから真剣な顔で告げた。
「その前にも、同じような差し入れをいただいたのよ」
「えっ!?」
「先々週もやっぱり遠藤さんから、クライアントさんにもらったからって、ビールの詰め合わせを。それもベルギーとロシアと、スコットランドのやつ」
「!! それ、ビアレストランで、俺と飲んでた国のばっかりじゃん!」
「そうなの。だからどっかで見られてるみたいで、気持ち悪くて」
言葉通りどこかからの視線を心配するように、スズケイは険しい顔を周囲のテーブルにめぐらせた。だがもちろん、遠藤という会員どころか、こちらを注視しているような人間は誰もいない。
「うーん。会員さんがストーカー紛いのことしてるとは、思いたくないけど。大体、どうやって飲んだお酒の銘柄を知ってるんだろう。それともやっぱり、たまたまなのか……」
これまた地元名産の鯵の干物をつつくとともに、鶴川は真剣に考え始めた。なんだかんだ言いながらも、こうして必ず自分の味方になってくれる彼のことを、スズケイは心から信頼し、そして感謝もしている。
「まあ、実害があるわけじゃないから。ごめんね、疑うようなこと言っちゃったうえに、変な話で」
詫びながら上目遣いで見つめると、顔を上げた鶴川は「ううん。気にしないで」とにっこり返してから、日頃のお返しとばかりにからかう台詞を続けてきた。
「どうでもいいけどさ、そういう営業スマイルつくっても、俺には効かないってわかってるでしょ。うちのナンバーワンアイドルさん」
「何よそれ。また無理矢理チューするわよ」
「ちょ……! 今日は一杯だけって言ったでしょ! ほら、そのジョッキ全部飲んだら帰るよ!」
「いいじゃない。どうせオフの予定もないんだから、つき合いなさいよ」
「余計なお世話です。俺だって本気を出せば――」
「ふーん。本気を出した結果、街コンで振られて帰ってくるわけね。へえ~」
「うるさいなあ。だったら誰か紹介してよ。あ、知ってるだろうけど、俺は面食いだからね。可愛い系がタイプだから」
「美人はだめなの? 虎牙林さんみたいな」
「ああ、虎牙林さん。たしかに綺麗だよね。でもどっちにせよ、あそこまで綺麗だとちょっと気後れするなあ。それにほら、彼女はハナちゃんのお気に入りだし」
「そうよね。ハナちゃんも、もうちょっと頑張ればいいのに。今日だって――」
いつの間にか普段通りの会話になっていた二人だが、スズケイも約束を守って大ジョッキ一杯で我慢し、ささやかな飲み会はお開きとなった。