フロント 1
自分はどうやら男性にもてるらしい、と理解したのはいつだったろう。
中学生、いや、思春期を迎えたくらいだったか。少なくとも小学五年生のときにはすでに、ラブレターというものを複数もらった記憶がある。残念ながら、自分が気になっていた男の子は、別の女子のことが好きだったみたいだけど。
弟が「姉ちゃん、また手紙もらったの?」などと呆れ顔で言うようになったのも、その頃だったはずだ。直後に必ず、「みんな、見た目に騙されてるよなあ」という失礼極まりない台詞が続くので、すかさず頭を引っぱたくのがお約束だった――。
「キャラメルフラペチーノ、ショートサイズでお待ちのお客様!」
「あ、はい」
カウンターから呼ばれた声に、スズケイこと鈴本ケイは我に返って顔を上げた。六月らしい、半袖のプルオーバーシャツにガウチョパンツという格好が、小柄なアイドルのようなルックスによく似合っている。
視線を向けた先から、エプロンをつけたカフェのお兄さんが、にこやかにフラペチーノを差し出してくる。
「お待たせしました。気をつけてお持ちください」
「どうも」
笑顔で受け取ったカップの側面には、ウインクする子猫と、《いつもありがとう!》という台詞が手描きされていた。
「わあ、可愛い! ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。いつもありがとうございます」
お兄さんも、にこにこと答える。たまに見かける彼は、おそらく学生アルバイトだろう。さっぱりしたショートヘアと細い眉に、きらきらした笑顔。昔はよくあったという、学園祭の「ミスター○○・コンテスト」みたいなのに出れば、入賞くらいは確実にできそうな感じがする。
「今日もお洒落さんで、可愛いですね」
お兄さんは愛想よく、そんな言葉までかけてくれた。慣れた口調だし、下手なナンパみたいな台詞だが、爽やかボーイなので軽薄な感じはしない。
「ありがとうございます」
もう一度、こちらも笑顔のまま礼を述べて、スズケイはカウンターから離れた隅の席に腰を落ち着けた。自宅マンションからほど近いお気に入りのカフェだが、一方で職場のレボリューション湘南からも、二駅しか離れていない。別にやましい行為をしているわけではないけれど、せっかくのオフだし誰かに会って気を遣ったりせず済むなら、それに越したことはなかった。
ていうかあの子、絶対、私を女子大生だと思ってるよね。
フラペチーノをすすったスズケイは、爽やかボーイの顔を思い出して、小さく苦笑してしまった。
この手のカフェでカップにイラストを描いてくれるのは、主に空いているときだ。だが週末の昼下がりである今は、それなりに混んでいる。にもかかわらず、女子受けの良さそうな子猫のイラストを描き、しかもさり気なくタメ口の《いつもありがとう!》。さらには、本人も自信を持っていそうな爽やかスマイルと、「可愛いですね」の追撃である。
あと六、七年遅く生まれてたら考えたかもなあ。
自分が本当に女子大生だったら、次あたりにメールアドレスを渡されたりすれば、連絡くらいは取ってみるかもしれない。実際、店内に見える本物の女子大生らしき何人かは、彼の方をちらちらと伺っている感じだ。
ごめんね。こう見えて私、アラサーなの。一応、担当部署のチーフもやってるんだから。
ぺろりと舌を出したスズケイは、スマートフォンを取り出し、写真投稿アプリ『フォトグラム』を開いた。風景や料理をお洒落に撮った、俗に言う〝映え〟る写真を、自分もたまにアップしている。ただ、繋がりがあるのはリアルでも知り合いの、それも同性の友人ばかりだし、写真も彼女たち以外には非公開にしているため、凝った撮影などはしない。食べたものや遊びにいった場所、観た映画のことなどをシンプルに報告して、リアクションやコメントのやり取りを楽しむだけだ。
「あ、昨日のも上げとこう」
久しぶりの休日を楽しみながら、レボリューション湘南のフロントチーフは、のんびりとつぶやいた。
翌日の午後二時。アイドリングタイムらしく、レボリューション湘南のフロントは、比較的ゆったりした時間が流れていた。
「スズケイさん、また差し入れもらったんですか?」
スズケイが一人でフロントに立っていると、休憩から戻ってきたアルバイトの飯島さやかが、目ざとく声をかけてきた。さやかは十九歳の大学一年生で、推薦入試で早々に進路を決めた半年ほど前から、アルバイトをしてくれている女の子である。しっかり者で頼りになるし、ボブカットに赤いフレームの眼鏡が似合うルックスも、とてもキュートだ。
彼女の言葉通り、スズケイの手元には常連のおじさんがくれた、有名チョコレートブランドの箱が置いてあった。
「うん。今さっき、前田さんから。会社でいただいたそうだけど、自分は甘いもの苦手だからって。みんなでいただきましょ」
「やった! ありがとうございます!」
もとよりその返事を期待していた様子のさやかが、眼鏡の奥で目を輝かせる。
「じゃあ私、冷蔵庫に入れてきますね!」
ほくほく顔でさっそく箱を手にした彼女は、背後のドアを開け、ふたたび事務所に入っていった。奥の休憩室に、従業員用の冷蔵庫が置いてあるのだ。
この子たちの方が、よっぽど可愛いんだけどな。
背中まで嬉しそうな姿に、昨日カフェで言われた台詞を思い出したスズケイは、小さく肩をすくめた。さやかと話していると、内側から自然に発散される若さというか、瑞々しいエネルギーのようなものを実感させられる。かくいう自分もまだ二十六歳だが、社会人を三年以上も経験していると、女子大生という生き物はやはり眩しく見えてしまう。
「冷蔵庫の一番上に入れてきました! あと《一人一個ずつ》って、ちゃんとメモもつけておきましたよ」
笑顔のまま戻ってきたさやかだったが、スズケイの足下を見て、「あれ?」と怪訝な顔をした。
「それも差し入れですか?」
「ああ、うん」
見つかっちゃったか、とスズケイはぺろりと舌を出した。フロントカウンターの裏側には引き出しや棚が沢山設置してあるが、さやかの目はその最下段、上下に広い棚の部分を注視している。
「こっちはさすがに、さやかちゃんにはあげられないからね」
置いてあった縦長の紙袋を、スズケイは苦笑とともに取り出してみせた。
「ひょっとして、お酒ですか?」
「うん、赤ワイン。そんなに高いものじゃないけど」
こう見えて酒豪のスズケイは、どんなジャンルのアルコールも大好きで、有名な高級ワインの名前などもいくつか覚えている。
「あれ? でもスズケイさんがうわばみってこと、会員さんたちには知られてませんよね?」
「そのはずなんだけど、ね」
どこでそんな単語覚えたのよ、と内心でつっこみつつ、スズケイは顎に人差し指を当てて小首を傾げた。トレードマークのポニーテールが揺れ、コケティッシュな雰囲気が漂う様に、さやかが「うわ……」と声を漏らす。
「……超可愛い。超エモい」
「え?」
「いえ、スズケイさん、相変わらず可愛いなあって」
「エモい」という言葉の意味はよくわからなかったが、なんにせよ褒めてくれたらしい。だがそう言うさやかも、特に若い男性会員からよく差し入れをもらっていることを、スズケイは知っている。
「さやかちゃんの方が、全然可愛いでしょ」
「いえいえ。あたしたちはほとんどないですけど、フロントにスズケイさんがいないときだけは、よく訊かれるんですよ。今日はスズケイちゃん休み? とかって。完全にアイドルですね」
「うわばみ呼ばわりされるアイドルってのも、ねえ」
いたずらっぽく返すと、さやかは「ご、ごめんなさい!」と両手を振ってから、すぐに何かを思い出す表情になった。
「あ。そういえばこの前も、お酒いただいてませんでした?」
「ああ、うん。そうなの」
さやかが指摘した通りだった。先週もめずらしい外国のビールを、スズケイは差し入れとしてもらっている。しかも同じ人物からだ。
「飲兵衛だと思われてるのかな。でもそういう話、会員さんとは本当にしたことないんだけど」
「ですよね。少なくとも表向きは、うちのナンバーワンアイドルですもんね」
微妙に失礼な台詞はあえてスルーして、スズケイはもう一度首を傾げた。
「お酒をいただくこと自体もそうなんだけどさ、じつは――」
言いかけたとき。「こんにちは」と、エントランスのガラス扉が開いた。
「あ、こんにちは!」
さやかと二人、見事に重なった声で挨拶を返し、スズケイは笑顔で続けた。
「虎牙林さん、今日はこのお時間なんですね」
「はい。ピラティスのクラスを受けてみたくて。二時二十分からでしたよね」
今やすっかり常連となった女性会員、虎牙林龍子がにっこりと歩み寄ってきて、カウンターに置いてある光学式リーダーに自身の会員カードをかざす。
会員はカードに記されたバーコードを、これに読み取らせることでチェックイン、チェックアウトをセルフで行えるようになっている。今は余裕のある時間帯だが、スズケイたちフロントスタッフは新規入会者や見学希望者への対応、ロビーに並んだサプリメントやちょっとしたウェアの会計といった煩雑な仕事も多いので、非常に助かるシステムだった。
レッスンスケジュールを確認したさやかが、やはりにこにこと龍子に答える。
「初級のマットピラティスですね。はい、十四時二十分からAスタジオです」
「わかりました。ありがとうございます」
もはやお馴染みのツインテールを揺らして、龍子はさやかにも、優しい笑みを向けてくれる。髪を下ろしたスーツ姿もたまに見かけるが、車で来ることが多いのか彼女はチェックインの時点で、スポーツウェアにツインテールという出で立ちになっている場合がほとんどだ。美人でスタイルもいいので、知らない人が見たら、レッスンインストラクターだと思われるかもしれない。
「じゃあ、今日もお願いします」
「行ってらっしゃいませ」
いつものように挨拶を交わした三人だったが、二、三歩歩きかけた龍子が、ふと足を止めた。「あら」といった顔で、カウンターの上を見つめている。
「どうされましたか?」
スズケイが尋ねると、龍子はカウンターの上に出しっぱなしになっていた紙袋を手で示した。露骨に指差したりしないところが、この人らしい。
「ワインですか?」
「ああ、はい。差し入れでいただいてしまって」
「めずらしいですね」
軽く笑って龍子は小首を傾げた。フィットネスクラブへの差し入れにワイン、というのはたしかにそう思われるだろう。
「お二人とも、お好きなんですか?」
重ねての質問に、さやかが真っ先に首を振る。
「いえいえ! 私はまだ未成年ですから!」
「じゃあ、スズケイさんが?」
通い続けるうちに、龍子はフロントスタッフの名前もすっかり覚えてくれたようで、今ではスズケイもあだ名で呼んでもらえる。
いつもながらそれが嬉しかったのと、年齢が近い(たしか入会時の書類では、龍子は今年で二十五歳になるはずだ)ことも相まって、スズケイは自然と正直に答えていた。
「たしかに、お酒は嫌いじゃないです。ていうかここだけの話、本当は大好きなんですよ。あ、でも内緒にしといてくださいね。フロントチーフが飲兵衛だなんて、なんだか格好悪いですし」
「じつは、うわばみらしいですよ」
からかう口調のさやかをじろりと睨むと、もう一度不思議そうにワインの紙袋を見ていた龍子は、声を上げて笑ってくれた。
「あはは。でもたしかにスズケイさんが酒豪っていうのは、イメージとギャップがありますね」
「虎牙林さんは、飲まれるんですか?」
気を取り直したスズケイが訊くと、「私、下戸なんです。肌も弱くてすぐ赤くなったり、場合によってはかゆくなっちゃうんですよ」と恥ずかしそうな答えが返ってきた。
「へえ」
さやかが、意外な様子で目を丸くしている。
「虎牙林さん、綺麗で格好いいから、小洒落たバーとか超似合いそうなのに」
「ありがとうございます。仕事でつき合わなきゃいけないこともありますけど、そういうときはウーロン茶ばっかり飲んでます。プロテインとか出してくれるバーなら、大歓迎なんですけど」
いたずらっぽく笑う通り、龍子はチェックアウトの際に、フロントでよくプロテインドリンクを買ってくれる。ただし筋肉を大きくしたいわけではなく、あくまでも運動後のタンパク質補給が目的らしい。
「なんか、ハナちゃんみたい」
釣られて笑みを深くしたスズケイの台詞に、龍子は「え?」と目を見開いた。
「ジムの花村さんですか?」
「ええ。ハナちゃんも下戸なんですよ。コロナ前からもともと飲み会とかが苦手で、それでも呼ばれたときは、やっぱりウーロン茶ばっかり飲んでたって言ってました」
「へえ」
花村の顔を思い浮かべたのだろうか、龍子は視線を宙に向けて何度か頷いた。
そういえばいつだったか、彼が龍子に一所懸命謝る姿を目撃したことがあるが、逆にそれをきっかけに二人の距離は縮まったようだ。一ヶ月程前にあった盗撮犯の逮捕劇も、龍子の協力で、花村がジムから証拠写真を撮ったことが決め手になったと聞いている。
「下戸同士、お食事でも行かれてみたらいかがですか? 見ての通り人畜無害な男の子だし、ハナちゃんも虎牙林さんとなら、むしろ喜んでご一緒させてもらうと思いますよ」
「あはは。人畜無害って言われたら花村さん、微妙な顔しそうですね」
自然な感じで勧めてみたが、上手にかわされてしまった。頃合と見たのか、龍子はそのまま「じゃあまた」と笑顔で手を振り、ロッカールームへと消えていく。
「う~ん。さすがはバリキャリツインテール、ガードが固いですねえ」
見送ったさやかが、意味不明なことを言っている。「何よ、その失礼なネーミングは」とつっこみながらも、じつはスズケイも同感だった。
本当のところはどうか知らないが、花村が龍子のことを気にかけており、龍子も彼と話すときはまんざらでもなさそうだという噂は、スイムチーフの鶴川や、カフェ『ヴィアン・ヴニュー』の新井場からの情報だ。ちょっとだけお節介を焼いてみようとしたものの、たしかに向こうが一枚上手というか、スマートな大人の対応だった。
「私も、お似合いだと思うんだけどなあ」
隣ではさやかが、残念そうにまだつぶやいていた。