ジム 5
翌日の、同じくらいの時間。
花村はヴィアン・ヴニューで、龍子とばったり出くわした。
「花村さん」
いつものようにカウンターの隅へ向かおうとすると、窓際の席に座っていたパンツスーツ姿の女性が声をかけてきた。
「虎牙林さん!」
花村が驚いたのも無理はない。スーツの女性は龍子だった。彼女はそれに加えて、いつもはツインテールの髪を、後頭部でバレッタ留めしている。一見すると別人の、いわゆる「バリキャリ」、バリバリのキャリアウーマンにしか見えない。
「昨日はありがとうございました」
落ち着きを取り戻した花村は、笑顔で礼を述べつつ自然と口にしていた。
「スーツ姿も素敵ですね」
「!! あ、ありがとうございます」
恥ずかしげに答えた龍子は、なぜか言い訳をするように、めずらしい出で立ちの説明をしてくれた。
「このあと、オフィスに行かなきゃいけないんで」
「お仕事ですか? 大変ですね。頑張ってください」
「ありがとうございます」
もう一度、今度はにっこりと返した彼女が、やや唐突に話題を変えてくる。
「あの、花村さんて、ジムにしかいらっしゃらないんですか?」
「え?」
「プールの監視とか、ご自分のトレーニングで泳がれたりとかは、しないのかなって思って」
「ああ」
そういうことか、と花村は理解した。
「アルバイトの子たちはジムとプールをローテーションしてますけど、サブチーフやチーフになると、さすがに自分の部署を離れられないんです。あ、でも自分のトレーニングではたまに泳いでますよ。もちろん皆さんの邪魔にならない時間とか、コースを選びながらですけど」
指導する側が運動不足では話にならないので、どこのクラブでも、スタッフは自身もしっかりトレーニングするよう命じられる。そうでなくとも花村は大学時代からトレーニングする癖がついているし、レボリューション湘南は他のスタッフも、太一や知香乃のようなアルバイトも含めて、ほぼ全員が定期的に施設で身体を動かしている。
じつは、スタッフがトレーニングすることのメリットは他にもある。ジムやプールに勤務時間外のトレーナーやインストラクターが現れると、大抵の会員たちは挨拶や世間話をしにきてくれる。結果、そこでの会話がきっかけとなって、普段は使っていないトレーニングマシンに興味を持ったり、新たなレッスンに参加してもらえることも多いのだ。スタッフのトレーニングは自分の身体をつくるだけでなく、会員たちとの信頼関係をつくることにも繋がるのである。
「そっか。空いてる時間帯に泳がれてるんですね。だから会えないのか」
なんだか残念そうな口ぶりで龍子が言うので、花村はどきりとしながら訊き返した。
「え?」
「あ、いえ! 泳ぎも上手そうだから、プールで会えたらアドバイスとか、いただけるかなって」
「僕は全然上手くないですよ。子どもの頃、一応ここのスクールには通ってましたけど。フォームのアドバイスだったらツルさん、じゃなかった、スイムチーフの鶴川に訊いてみるのが確実だと思いますよ」
謙遜でもなんでもなしに言うと、龍子は少しだけ唇をとがらせたあと、面白そうな顔になって返してきた。
「鶴川さん、たしかに物凄く上手ですよね。子どもたちにお手本見せてる姿に、びっくりしちゃいました」
「可愛くない着ぐるみ、って感じの見た目ですけどね」
花村だけでなくスタッフ全員が遠慮なく指摘していることだが、鶴川は小太り体型からなかなか脱出できない。ジムにも定期的に顔を見せるものの、本人いわく「チーフはストレスが溜まるんだよ。だからついつい、使っている以上のカロリーを取っちゃうんだよねえ」とのことである。
にもかかわらず、いざ水に入れば半魚人かと見紛うようなスピーディな泳ぎをしてみせるのだ。地元の幼稚園からずっと一緒だというスズケイは、「痩せてた頃は、インターハイとかインカレの常連だったみたい。平泳ぎなんか、気持ち悪いくらい速かったもん」と言っていた。
花村の「可愛くない着ぐるみ」という表現がおかしかったらしく、龍子は声に出して笑ってくれた。
「あはは。けど本当に、泳ぎはさすがチーフさんて感じです。私も、あれぐらい泳げればなあ」
「でも彼が、虎牙林さんの泳ぎを褒めてましたよ。四泳法ともいいフォームだって」
「本当ですか? 良かった。私も子どもの頃、ちょっとだけ習ってたんです」
嬉しそうに顔を輝かせた龍子だったが、すぐに「あ、いけない」と口に手を当てた。
「もう行かなきゃ! じゃあ花村さん、また。失礼します」
ビジネスウーマンふうの見た目に相応しい、完璧なお辞儀。
そうして龍子は、飲み終わったアイスティーのグラスを「ごちそうさまでした」と返却口に返し、颯爽とヴィアン・ヴニューを出ていった。
「……ほんとにOLさんだったんだ」
間抜けな感想をつぶやくと、テーブルを拭きに来た新井場が、にやりと言ったものである。
「花村君、頑張ってたじゃない。連絡先ぐらいは交換できた?」
「そういう会話じゃありませんよ!」
あたふたと否定する花村を笑うように、彼女が置いていったグラスの氷が、涼しげな音を立てた。
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《昨日もありがとうございました。北海道のお土産、美味しかったです! お陰様で今も、体調はまったく問題ありません。こうして運動を続けられるのが本当に嬉しいです。
あのとき、勇気を出して身体を動かすように勧めてくれたこと、心から感謝しています。先生もどうぞご自愛ください。あ、まさに釈迦に説法ですね(笑)。それでは、また。》
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