ジム 4
「あれ? 花村君、何やってんの?」
十分後。花村は左端に置かれたトレッドミルの上で、常連のおじさんに声をかけられた。
「あ、いえ。ちょっと動作の確認を」
「どっか故障? ランニングマシン、人気あるもんねえ」
「そうですね。残りは問題ないので、すみませんが利用される際は他をご利用ください」
「俺は大丈夫。このあと太一君のショートレッスンだから。じゃ、頑張って」
答えたおじさんは笑顔で手を振って、小さい方の『Bスタジオ』へと歩いていった。ガラス張りのスタジオ内では、ジムスタッフが担当する十五分程度のミニレッスンの一つ、『ザ・腹筋クラス』を担当する太一が、参加者用の小さなマットを並べるなどして準備に入っている。
少々後ろめたさを感じつつ花村がカウンターを振り返ると、「まあ仕方ないよ」という笑顔で、北が頷くのが見えた。
「確認できたら、あとは北さんが?」
左から二番目に当たる隣のトレッドミル上から、龍子が訊いてきた。先ほど花村と、さらに北にも「変なお願い」について説明した彼女は、それを証明するため現場に留まってくれている。幸いなことに、アイドリングタイムの今はトレッドミルの利用者はいないし、他の利用者たちからも、使っていた機体の不調を、龍子が花村に訴えているようにしか映らないだろう。
「はい。一応、写真もさり気なく撮ってみます。鮮明には映らないかもしれませんけど」
緊張気味の面持ちで答えた花村は、手にした自分のスマートフォンを掲げてみせた。こちらもまた、資料用に不良箇所の写真を撮っているように見えるはずだ。
「ごめんなさい、おかしなことを頼んでしまって」
龍子が頭を下げるので、花村はすぐに首を振った。
「とんでもありません。僕が言うのもおかしな話ですけど、気づいてくださってありがとうございます。問題は、現行犯で押さえられるかどうかですが」
「そうですね。でもこれまでも、この曜日のこの時間でした。きっと、時間割を把握しているんだと思います」
「なるほど」
頷いた花村は「じゃあ、やってみます」と、トレッドミルのスタートボタンを押した。小さな駆動音とともに足下のベルトが回り出す。
「角度は、結構つけた方がいいんですよね?」
「はい。十度以上にしてください」
龍子の声に応じて、花村は胸の前にあるコンソールパネルに手を伸ばした。左端にある「傾斜」と書かれた上下の矢印を、上方向に数秒間押し続ける。
モーター音とともに、トレッドミルの前方が上昇していく。いつも龍子が走っているインクラインの状態だ。それに伴い、コンソールパネルに表示される傾斜角度の数値も増加する。8.0、8.5、9.0――。
数字が10.0を超えたところで、花村は目を見開いた。
「あ!」
「どうですか?」
隣の龍子がやや小声なのに気づいて、慌てて自分も声のトーンを落とす。
「います。あのクリーム色をしたマンションの、貯水槽の陰ですよね?」
「ええ。若い女性っぽくないですか?」
「たしかに。髪を結んでるし、体型的にも間違いなく女性ですね」
コンソールパネルを撮影するような仕草で、花村は持ったままでいたスマートフォンのレンズを正面に向けた。一面のガラス窓の向こう、五十メートルほど先に見える「クリーム色をしたマンションの、貯水槽の陰」がスクリーンに映し出される。
マンションの屋上にはたしかに、女性らしき影があった。床や貯水槽と似たような色のパンツルックなので、ちょうど保護色になっている。おそらくは、それも計算してのことだろう。
花村は素早くシャッターを切った。
貯水槽の陰にいる女と、同じように。
女は両手に、望遠レンズらしきもののついた一眼レフカメラを構えているのだった。カメラが狙う先は、近くの高校のグラウンド。いや、正確にはグラウンドの端に立つ、運動部の部室棟らしき建物のはずだ。
午後三時前後。高校の部室。望遠レンズつきのカメラ。やっていることは明らかだ。
盗撮、ですね。
龍子に視線を戻した花村は、口の形だけで伝えた。放課後の部活動に備えて着替える、高校生たちを狙っているのだろう。被害者の性別や性自認がどうであれ、そういったデータを悪徳業者に売ることで金を稼ぐ人間が存在すると、ネットのニュースで読んだことがある。
龍子も囁くような声で、だがはっきりと答える。
「はい。どう見ても、そうとしか思えなくて」
これこそが龍子の「変なお願い」だった。
最近、近所で増えているという盗撮被害。あるとき左端のトレッドミルから見えた、カメラを持つ怪しい女性。
二つが結びつき、もしやと思った彼女は、それでも念のため他のトレッドミルからも件のマンションを確認してみた。すると、意外な事実に気づいたのだという。
盗撮女がいた貯水槽の陰はちょうど、左端のトレッドミルを大きく傾斜させたときにしか、見えない場所だったのだ。
今から十分ほど前。
「一週間くらい前、花村さんに失礼なことを言ってしまった日がありましたよね」
花村、そしてカウンターの内側に立つ北を前にして、龍子は語り始めた。
「あのときと、さらに一週間前にも同じように、女の人がカメラを構えているのが見えたんです。でも確信は持てなかったし、そもそもそんな人間がいたら、他の会員さんだって気づいてるはずだと思って。私は入会したばかりですし」
「だからジムを利用するたび、必ずトレッドミルを使うようにされてたんですね」
北が微笑むと、龍子はほっとした表情で続けた。
「はい。他のトレッドミルからも、あの場所が見えているかどうかを確認しながら。そうしたら左端の一台で、しかも大きくインクラインさせたときにしか、見えない場所だっていうのがわかったんです」
「なるほど」
花村は大いに感心させられた。盗撮犯らしき人間を発見しつつも慎重に確認を重ね、そのうえで勇気を出して自分たちに相談してくれた、龍子の行動力と思慮深さに。面と向かって糾弾されたときやベンチプレス事件のときにも感じたが、運動神経がいいだけでなく、とても賢い人なのだ。
自然に頭を下げると、なんと北もカウンターのなかで同じ行動を取っていた。チーフトレーナーとサブチーフトレーナー、二人の声が重なる。
「申し訳ございません」
「え?」
いきなり揃って詫びられた龍子は、切れ長の目を見開いてきょとんとしている。
顔を上げた北が、眉をハの字にしたまま笑顔で説明した。
「ここから、それもジムのなかから見えることなわけですから、本来なら我々が、真っ先に気づかなければいけませんでした。申し訳ありません」
「でも、クラブ外でのことですし」
逆にフォローしてくれる龍子に対し、北は「いえ」と穏やかに首を振る。
「たしかにそうですが、この街の一企業として、我々には地域に貢献する義務があります。CSRという言葉をご存知ですか?」
「ああ、はい。Corporate Social Responsibility ですよね」
見事な発音だった。ひょっとしたら龍子は、英語も堪能なのかもしれない。
「ええ。日本語にすると『企業の社会的責任』というやつです。我々は利益を追求するだけでなく、自分たちの活動が地域や社会に与える影響についても、責任を持たなければなりません。ましてや今回の場合、目と鼻の先で、れっきとした犯罪が行われている可能性があるわけです。地域社会の一員として、それ以前に一人の人間の集まりとして、レボリューション湘南店は犯罪行為を見逃すわけにはいきません」
穏やかな口調ながら、きっぱりと言い切る北のこういうところを、花村は心から尊敬している。トレーナーとしての専門知識は自分の方が上かもしれないが、グループのリーダーとして、そして人として、大事なところにはしっかりと芯が通っている上司なのだ。
「北の言う通りです。僕も虎牙林さんに、それを思い出させてもらいました」
気がつけば、花村自身もにこやかに告げていた。
「え? 私、ですか?」
「はい。先週のベンチプレスのときです。虎牙林さんは真っ先に、石上のことを守ってくださいました。仰っていた通り俺のミスでしたから、自業自得ということで見て見ぬふりをすることだってできた状況にもかかわらずです。そもそも虎牙林さんはスタッフでもなんでもない、あの男と同じ会員さんなんですから」
「ご、ごめんなさい。あのときは同じ女性として許せなくて、つい」
龍子の顔が少しだけ赤くなった。目の角度も下がっているように見える。
恥ずかしそうに逸らされかけた目をしっかり捉え直して、花村はあらためて礼を述べた。
「本当にありがとうございます。虎牙林さんに、もっと安心してうちのクラブを使っていただけるよう、俺も頑張ります」
「そこは〝僕たちも〟でしょ、ハナちゃん」
隣で北が苦笑する。いつの間にか、またしても一人称が「俺」になっていたようだ。ちなみにベンチプレスの一件は、翌日すぐにみずからが報告済みで、話を聞いた北は「へえ、ハナちゃんにしては軽率なミスだったね。以後気をつけて。でも、虎牙林さんならわかる気がするなあ。今度、僕からもお礼を言っておくよ」と不問に付してくれた。
「というわけで虎牙林さん、重ね重ねですが本当にありがとうございます。実際に盗撮行為を確認できたら、すぐに私の方から警察に通報させてもらいますので、どうぞご安心ください」
北の言葉に「じゃあ、私もそれまで立会わせてください」と、気を取り直した龍子も頷いたのだった。
かくしてレボリューション湘南からの通報により、高校の更衣室を撮影していた女性盗撮犯は、その場で現行犯逮捕と相成ったのである。