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ジム 3

 ベンチプレスの事件から、一週間ほどが経過した。

 言葉通り龍子は、あれ以降もなんら変わらぬペースでクラブに顔を出してくれている。日中にふらりと現れて筋トレしていくこともあれば、夕方から来て人気のスタジオレッスンに参加することもあるが、トレッドミルでの坂道ランニングだけは欠かさない。スタイルにはなんの問題もないように見えるが、女性ということもあって、必要以上に気を遣っているのかもしれない。

 また、プールにも引き続きよく現れるという情報を、花村はスイムチーフの鶴川から聞くことができた。


「ハナちゃんお気に入りのツインテール美人さん、午前中、プールに来てたよ」


 この日、ちょうど休憩が重なった花村と鶴川は、クラブの三階にあるカフェ『ヴィアン・ヴニュー』で、カウンターの端に並んで遅い昼食を取っていた。ヴィアン・ヴニューは関係者が二十パーセント引きの値段になるので、会員たちの邪魔にならないこうした席で、スタッフや契約インストラクターもよく利用するのだ。


「別に、お気に入りとかってわけじゃないですよ」


 ランチメニューのナポリタンをフォークに巻きつけながら、花村はすかさず否定しておいた。


「でも、綺麗だとは思うでしょ?」

「それは、まあ」


 こちらは好物のカツカレーを頬張りつつ、鶴川が面白そうに笑う。スイムチーフのくせに小太り体型の鶴川は、いつもにこにこしていることも相まって「ぬいぐるみみたいなコーチ」として、クラブが運営するスイミングスクールでも人気の存在である。だがじつは有名体育大学出身で、かつては日本選手権にも出場したほどのスイマーなのだとか。

 大きなカツの切れ端を飲み込んで、鶴川は思い出すように続けた。


「泳ぎもかなり上手かったよ。四泳法を一通り、どれもいいフォームで泳いでた」

「ああ、なんか想像できます」


 その点は花村も、すぐに納得できた。龍子はどう見ても運動慣れしている。泳ぎに関しても、クロール、平泳ぎ、背泳、バタフライの四泳法をすべて身につけていると聞いても、まったく不思議ではなかった。ひょっとしたら、どこか別のクラブに通った経験があるのかもしれない。


「それにしても、本当に何してる人なんでしょうね」


 ナポリタンを食べ終わった花村は、あらためて素朴な疑問を口にした。鶴川によれば今日は午前中に来ていたということだから、相変わらず彼女はランダムな時間に、ランダムな場所へ出没中らしい。


「あの宝塚みたいな、お姉さんのこと? たしかに時間がまちまちだよね」


 カウンターの内側から、長身の男性も話に加わってきた。カフェの店長、(あら)()()(ひと)()だ。人美という名前だが三十一歳のれっきとした男性で、自身より年下のスタッフが多いレボリューション湘南のなかでは、兄貴分的な存在として頼りにされている。

 ジーンズ地の小洒落たカフェエプロンで手を拭ってから、新井場は続けた。


「うちでの注文も、いろんなものを頼んでくれるよ。お昼どきはランチメニューだけど、それ以外の時間に来てくれたときなんかは、スイーツもよく召し上がってるかな」

「へえ」


 花村と鶴川は、思わず顔を見合わせた。クールな印象の龍子だが、じつは可愛らしい一面もあるのだろうか。


「新井場さん、虎牙林さんと話したりするんですか?」

「お会計のとき、ひとことかふたことぐらいだけどね」


 花村の問いに答えた新井場は、「あの人、コガバヤシさんていうんだ?」と眉を上げた。


「ええ。虎の牙に林で、虎牙林さんです。下の名前は龍子さん。難しい方の、ドラゴンの龍です」

「おお、なんかえらく強そうな名前だな」

「ですよね」


 さすがに面と向かってそんなことは言えないが、龍子本人は自身の名前について、どう思っているのだろう。


「まあでも、いい会員さんだよね。熱心にクラブを使ってくださるし、マナーもいいし。ビート板が置いてある棚の前を通ったときなんか、自分が使ったわけじゃないのに、綺麗に並びを整えたりもしてくれるよ」


 カツカレーを食べ終えた鶴川も、感心した口調で彼女の印象を口にした。たしかに龍子は、ジムでも使用マナーがしっかりしている。自分が使った機器は、それほど汗をかいていなくても備えつけの雑巾で必ず拭いてくれるし、トレーニングマシンの重りも、必ず一番軽い位置まで戻してから次へと移動する。そんな部分からも、ジムの利用経験があることが伺えるのだった。


「ひょっとしたら、うちのあの〝伝説〟を試してたりして」


 セットのアイスコーヒーを二人に出しながら、新井場が笑って口にする。花村はすかさず訊き返した。


「伝説?」

「あれ? 花村君、知らないの?」

「なんのことです?」

「このクラブって、ちょっと面白い伝説があるんだよ」

「え?」


 フィットネスクラブという場所に似つかわしくない、「伝説」という単語に怪訝な顔をすると、鶴川も「あれ?」と意外そうな声を出した。


「そっか、ハナちゃん知らなかったんだ。うちに来てもう一年になるから、てっきり誰かから聞いてるのかと思ってた」


 新井場に「いただきます」と頭を下げてから、アイスコーヒーのグラスを手にした鶴川は、そうしてレボリューション湘南に伝わる「伝説」について教えてくれた。


「このクラブにはね、〝すべてを肌で感じたときに願いが叶う〟っていう言い伝えがあるんだ」

「すべてを肌で感じたとき?」


 おうむ返しに繰り返すとともに、花村は首を傾げるしかなかった。一体どういう意味だろう。


「俺もよくわからないんだけど、昔からの常連さんによれば全部のトレーニングマシンとレッスンプログラム、それに今はカフェメニューも含めて、〝すべて〟を制覇するってことなんじゃないかって」

「ああ、なるほど」


 言われてみれば、逆に他は考えられない気もする。ちなみに三階の一部を改装して、このヴィアン・ヴニューがオープンしたのは三年前だそうだ。


「でも、それって結構簡単じゃないですか? 時間さえかければ、誰でも達成できそうですけど」


 すると、「ところがそうでもないんだよ、これが」と新井場がにやりと笑った。


「ジムに関しては花村君が言うように、時間さえかければ楽だろうね。でもスタジオとかプールのレッスン、あとはうちのメニューってなると、なかなか難しいと思うよ」

「え? ……あ、そうか!」


 数瞬の後、花村は気がついた。


「プログラムの時間割とかメニューは、季節ごとに改変されるからか!」

「正解。実際、うちのメニューもついこの間、新年度に合わせてちょっといじったばっかりだしね」

「なるほど」


 隣で鶴川も頷く。


「プールもそうだよ。スクールは子どもたちの上達具合を見ながら、早ければ学期ごとで、アクア系のレッスンプログラムも半年に一回は、必ずリニューアルするようにしてるんだ。スタジオも同じくらいのペースじゃなかったっけ?」

「はい。基本は半年ごとだって、北さんが言ってました。もちろん、千野(ちの)先生と相談しながらですけど」


 千野先生とは、レボリューション湘南のチーフインストラクター兼プログラムディレクター、千野かおりのことだ。三十歳になる千野は、ここの社員ではなくフリーランスの有名インストラクターで、クラブの看板レッスンとなるエアロビクスやヨガを担当するだけでなく、どんなプログラムを取り入れるかという方針や、イントラ=インストラクターの採用オーディション、さらにはレッスンプログラムの時間割作成など、スタジオレッスン全般を統括している。当然、その責任に見合ったギャラも支払っているが、


「レボリューション湘南さんは、イントラデビューさせてもらった思い入れのあるクラブですから」


 とのことで、彼女の実績とネームバリューからすれば、格安で契約してくれているのだという。そんな千野のレッスンにも龍子はよく参加しており、中級者以上向けのエアロビクスなどもさらりとこなす姿を、花村も何度か見かけたことがある。

 いずれにせよ、そうやって頻繁に変わるプログラムやメニューがあるなかで、提示されているすべてのものを体験するというのは、新井場が語る通りなかなか難しいだろう。レボリューション湘南は毎週水曜に休館日もあるが、スタジオレッスンだけでAスタジオとBスタジオ、合わせて百本近いプログラムが週六日のうちに実施されている。プールでのレッスンを合わせれば、トータルで百三十近くに上るはずだ。


「まあ、さすがに現実的じゃないよね。誰が言い出したかは知らないけど、だからこそ伝説なのかも。――お、(あき)()ちゃん、ありがとう」


(かがみ)》という名札をつけたアルバイトの女の子が、「お願いします!」と元気よく持ってきたオーダーに答えつつ、新井場は笑っている。トマトソースを手元に引き寄せたので、ふたたびパスタが注文されたようだ。


「たしかに、神出鬼没の虎牙林さんと言えども、伝説の成就は難しいだろうねえ。まあ、本当に狙ってるんだとすればの話だけど」

「ふーん。どっちにせよ、それも含めてもっと話してみたいな」


 鶴川の言葉に、ツインテールと涼しげな目元をもう一度思い浮かべた花村は、自然と本音をつぶやいていた。

 二人の同僚が、おっ! という顔をする。


「なんだ、やっぱりお気に入りじゃん」

「花村君を嫌う人はいないはずだし、まめに声かけてみたらいいんじゃない? なんだったら俺も援護射撃するからさ」


 カウンターの外と内から立て続けに言われた花村は、「いや、単純に会員さんとのコミュニケーションですって!」と、ごまかすようにアイスコーヒーのグラスを手にしたのだった。




 動機はともあれ新井場も言ってくれた通り、こまめに声をかけてみようと気持ちを新たにした花村だが、次の日、意外にも龍子の方から話しかけられた。

 時刻は午後二時四十五分。このあたりの時間はアイドリングタイム、つまり空いている時間帯だ。

 彼女はいつものように傾斜をつけたトレッドミルでランニングし終えたところ、花村はと言えば、今日はチーフの北がいるのでカウンター内ではなく、まさにトレッドミルの近くを巡回中のタイミングだった。


「すみません、花村さん」


 上気した顔で、ボトルを手にした龍子が真っ直ぐ歩み寄ってくる。


「え? は、はい! なんでございますでしょうか!」


 ちょうど彼女のことを考えていたので、驚きのあまり妙な返事をしてしまった。だがそれがおかしかったのか、龍子は角度のついた目尻を下げて、いつもより大きく笑ってくれた。


「ごめんなさい。なんか、びっくりさせちゃいました?」

「あ、いえ。ちょうど僕も、虎牙林さんにお声がけしようと思ってたので」

「あら、どんなご用ですか?」


 笑顔のまま龍子が首を傾ける。ツインテールがふわりと揺れて、なんだか耳をパタパタさせる猫のような感じだ。


 そういえば、たしかに猫っぽい人かも。


 どうでもいい考えが一瞬だけ頭をよぎったが、花村はすぐに、自分も笑みを浮かべることに成功した。ようやく普通の会話ができそうな気がする。


「特別な用ってわけじゃないんです。入会して間もないのに、うちのクラブを存分にご利用くださってますし、なんていうか昔からの会員さんみたく、すっかり馴染んでいらっしゃるなあと思って」

「ありがとうございます」

「いえ、こちらこそ。運動慣れしてらっしゃいますし、フィットネスクラブの会員になられたのは初めてじゃないですよね」


 けれども龍子は、いたずらっぽく笑うと意外な答えを返してきた。


「いいえ。こちらが初めてですよ」

「え!?」

「ちゃんと会員になったのは初めてなんです。別のクラブさんで何度か、ビジター利用したことはありますけど」

「そうだったんですか」


 花村は、目を丸くするしかなかった。

 ビジター利用というのは、会員ではない人間が文字通りビジター=外部からの客として利用できるシステムのことだが、利用料金は会員に比べて大幅に高くなる。どこのクラブも、営業時間内ならいつでも利用できる「レギュラー会員」などと呼ばれる区分の会費は、月々一万円前後というのが相場だ。それに対してビジター料金は、一回あたり三千円くらいする。レギュラー会費に換算すれば、多くても月に三回程度しか、クラブに来られない計算になってしまうのだ。


 驚く花村を見て、龍子はすぐにつけ加えた。


「あ、でも学生のときから、キャンパスにあるジムやプールはよく使ってました。トレーニングマシンとかも、たしかに初めてではないです」

「ああ、それで」


 なるほど、と花村は納得した。なんにせよ運動が好きで、こうした施設に慣れている人というのは間違いなかったのだ。

 頷いた花村は、彼女から声をかけてくれたことを思い出した。


「そうだ、何かご用があったんですよね」


 笑顔のまま問いかけると、龍子はほんの少しだけ何かをためらうような表情になった。きりっとした印象が強い人なので、ちょっとめずらしい。


「ええ。あの、差し出がましいと言うか、変なお願いで申し訳ないんですけど――」


 困った口調で彼女が告げてきたのは、意外な頼みごとだった。

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