表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/22

ジム 2

 知香乃に指示した通り、ベンチプレスのところでは男性が一人、それほど重くなさそうなバーベルの下で仰向けになるところだった。二十キロあるバーに、五キロの丸いプレートが左右に一つずつ。カラーと呼ばれる、プレートを押さえるストッパーが片方二・五キロなので、計三十五キロの重量だ。

「はーい」とのんきに答えた知香乃自身も、男性の姿に気づいてそちらへと身体を向ける。


 バーベルやダンベルで行うベンチプレスやスクワットといったエクササイズは、軌道が一定のトレーニングマシンと違って文字通り自由に、フリーモーションでトレーニングすることができるため、フリーウェイト・エクササイズと呼ばれる。熟練者になると、これらを百キロ超えの重量で行うこともめずらしくないので、大抵のジムは専用の「フリーウェイトエリア」が、マシンのエリアと分けられている。レボリューション湘南もジムの奥側、レッスンスタジオの手前に五メートル×十メートル程度の広さで、ささやかながらフリーウェイトエリアを確保してあった。


「あれ? あちらのかた、新しい会員さんですね。フォームとか大丈夫かな」


 つぶやきながら、知香乃はさり気なく歩を進めていく。ベンチプレスのアドバイスや補助が必要な様子なら、すぐに声をかけられる距離だ。このあたりはバイトとはいえ、さすがに慣れている。太一も「じゃ、マシンから行ってきます」と、消毒用のアルコールを片手にふたたびカウンターを離れていった。

 二人を見送りつつ、花村はさっきの虎牙林龍子についてまた考えてしまった。


 たしかに、美人は美人だけど……。


 龍子の年齢は自分と同じくらいだろう。シャープな顎のラインに、すっと通った鼻筋。少しだけ吊り上がり気味の目は、長い睫毛も合わさって凛々しい印象を受ける。宝塚歌劇団の女優だと言われても、知らない人なら信じてしまうかもしれない。


 でもなんで、いつもツインテールなんだろう?


 勇ましい名前と凛々しげなルックスとは裏腹に、ジムやスタジオを訪れる際の龍子は、必ず少女のようなツインテール姿なのである。もとが美人なので、じゅうぶん似合ってはいるが、社会人の女性としてはめずらしい髪型だ。


 ていうか、何やってる人なのかな。


 入会以来、彼女は熱心にクラブへ通ってくれている。けれども、来る時間も曜日もまちまちなのだった。今日のように日中からふらりと現れる日もあれば、普通のOLっぽく、夜六時を過ぎてから急ぎがちにやってくる日もある。かと思えば平日の午前中に、三階のカフェでコーヒーを飲みながら、タブレット端末を覗き込んでいることもあった。

 スズケイによれば、入会書類の職業欄には「会社員」としか書かれていないが、身分証明書として運転免許証のコピーもきちんと出してくれたそうだし、入会金の支払いや月々の会費を引き落とす口座に関しても、もちろんなんの問題もないという。


 本当に、女優さんかモデルさんだったりして。


 所属事務所と社員契約をしていれば、芸能人でもたしかに「会社員」だし、そもそも書類上はいくらでも嘘を書ける。さすがにクラブ会員一人ずつに対して、職場への在籍確認をすることなどはできないからだ。


 なんにせよ、もうちょっと話してみたいかな。


 不純な動機ではなく、虎牙林龍子という会員への純粋な興味として、花村はそう思うのだった。

 と、フリーウェイトエリアから声が聞こえてきた。


「すみません、補助をお願いできますか?」


 ベンチプレスをしようとしていた、さっきの男性だ。知香乃と同様に、花村も初めて見る顔だった。三十代後半だろうか。特別がっしりしているわけでもなく、色白の顔に眼鏡をかけている。

 スタンバイしていた知香乃が、笑顔で近寄る。


「はい。何回ぐらい行われますか?」

「ええっと、六レップ目ぐらいで潰れると思うんで、十まではお願いしていいですか?」

「かしこまりました」


 二人のやり取りを聞いて、花村は少しだけ安心した。

 筋トレでみずからを追い込み、それ以上できなくなってから補助してもらうのは、補助者はもちろんだが、エクササイズを行う側にも経験が要求される。最初から補助してもらってはトレーニングにならないし、いざ上げられなくなってからも(「潰れる」と表現する)、完全に補助者任せにせず、呼吸を合わせて重りを持ち上げる必要があるからだ。

 特にベンチプレスは、実施者の頭側から覆いかぶさる体勢で補助するため、補助者の腕力だけでバーベルを引き上げることは難しい。だから彼のように「何回目で潰れるかも」と事前に申告してくれると、こちらとしても準備しやすいのである。また、回数のことを「レップ」と言っていたことからも、トレーニング経験者であることがわかった。


 見た目は普通だけど、ってパターンか。


 軽く眉を上げた花村は、すみませんと内心で謝っておいた。

 ジムで働いていると、こうした見かけによらない利用者に遭遇することも、めずらしくない。常連の小柄なおばあさんが、「昔、平泳ぎでアジア大会に出たんだけどね」などとさらっと言い出してびっくりさせられたり、フィールドアスレチックのような障害物を乗り越えるテレビ番組を見ていたら、いつものんびりとバイクを漕いでいるだけのおじさんが、《消防士》という肩書きとともに最終ステージまで勝ち残っていて、思わずのけぞってしまったこともある。


 この手の施設に通うからと言って、みんながみんな本格的にトレーニングする人ばかりではないのだ。年齢相応の運動をマイペースで続ける人もいれば、普段から身体を動かしているので、逆にリラクゼーションや気分転換の場所として利用する人もいる。ロビーやカフェでお喋りを楽しむ主婦たちのように、社交場として大切にしてくれる会員さんだって多い。

 フィットネスクラブというところは、かくも様々な人々が集う場所なのである。

 ともあれ、千香乃が眼鏡の男性を補助しようとしたとき。


「ちょっと待って!」


 階段の方から大きな声がした。

 ウェアを着替えた龍子だった。ロングスパッツに短パン、Tシャツというスタイルはさっきと同じだが、今度は全身がブルー系のコーディネートで、これまたよく似合っている。

 花村だけでなくジムにいる他の会員たちも、何事かといった表情でそちらを振り向いた。だが龍子は多くの視線など気にもしない様子で、知香乃に声をかけながらフリーウェイトエリアへと歩いていく。


「石上さん、ですよね?」


 呼びかけながらカウンターの前を通った彼女と、花村は一瞬だけ目が合った。が。


 えっ!?


 驚いたことに、彼女の目はいつも以上に吊り上がって、しかも自分を非難するような視線が発せられていた。


「石上さん」


 あ然とする花村を無視し、もう一度きりっとした声を発した龍子が、知香乃の脇に立つ。


「え? は、はい」


 急に動きを止められ、しかもなぜか名前まで呼ばれた知香乃は、目を白黒させるばかりだ。彼女の下では眼鏡の男性が、バーベルに手をかけたままやはり固まっている。

 龍子の目が男性を捉えた。

 吊り上がったまま、睨むように。花村を見たときと同じように。

 レーザー光線ばりの視線で男性を数秒間釘づけにしてから、ようやく龍子は知香乃に向き直った。


「ベンチプレスの補助をされるんでしたら、()()()()()()()()()()()()()()()()


 言葉を聞いて真っ先に目を見開いたのは、ベンチに寝ている男性だった。少し遅れて花村と知香乃本人も、「あっ!」と声を上げる。

 気まずそうな表情で視線を逸らす男性を、あらためて見下ろし龍子は言葉を重ねた。


「シャツの裾を出したままだと、補助をして前屈みになった際に、お腹や下着を覗かれてしまいますから」


 ジムに入ってくるなり、彼女が慌てて声をかけたのはこのためだったのだ。言われてみればたしかに、花村も太一も、そして知香乃も、ユニフォームのポロシャツをハーフパンツの上に出すスタイルで着ている。これでは龍子の言う通り、ベンチプレスの補助をした際に、腹部の側から素肌が見られてしまうだろう。

 しまった、と花村は唇を噛んだ。

 まるで気づかなかったのもそうだし、最初からベンチプレスの補助には男同士、太一を向かわせれば良かったのだ。男性会員の見た目が華奢な感じだったしバーベルも軽いものだったので、フリーウェイトエリアにより近い位置で話していた知香乃を、何も考えず行かせてしまった。


「普通はこういうの、現場のリーダーがきちんと考えて指示してくれるんですけどね」


 龍子が今度は、はっきりと花村を振り返った。「何やってんのよ、あんた!」と言わんばかりに、目尻がさっき以上の角度できゅっと上がっている。


「すみません……」


 カウンターから出た花村は、つぶやいて頭を下げることしかできなかった。悔しいが完全に自分のミスだ。今日は北が休みなので、ジムを取り仕切るリーダーは自分である。ましてや、まがりなりにもプロの資格を保持する身なのに。


 ……スタッフへのセクハラ行為を、見抜けなかった。


 眼鏡の男性は、決してそんなつもりはなかったと言い張るかもしれない。だが、補助の頼み方一つとってもトレーニング慣れしていることは明らかだし、本当はもう少し重いバーベルを扱えるのではないか。近くにいたのが太一や花村自身だったら、きっと声をかけなかったはずで、確信犯である可能性は限りなく高い。

 悪意を指摘されてますます白くなる男性に、龍子が冷たい声を投げつける。


「すみません、トレーニングのお邪魔をしてしまって。でもこれで、ここの女性トレーナーさんは今後、必ずシャツをインして補助してくださると思います。最近は近所で盗撮の被害も増えているそうですし、なんにせよ変な疑いを持たれないで良かったですね。もっともそんな痴漢まがいの現場を見つけたら、即通報させてもらいますけど」

「…………」

「そうだ、よろしかったら私が補助しましょうか? 一応ベンチプレスの経験もありますから。けど手が滑ってあなたの顔面にバーベルを落としちゃったら、ごめんなさいね」

「け、結構です」


 白さを通り越して真っ青になった男性は、恥ずかしそうに目を伏せると、いそいそとベンチから立ち上がってジムを出ていった。このまま退会するか、少なくともジムに現れることは二度とないだろう。

 数秒後、事情を察した他の会員たちから大きな拍手が湧いた。


「凄いじゃない、あなた!」

「かっこいいわねえ!」

「正義の味方ね! (ともえ)()(ぜん)みたい!」


 口々の喝采も龍子に浴びせるのは、常連のおばさん会員三人組である。ずっと体型は変わらないものの、いつも楽しそうにクラブを利用してくれるグループだ。


「あ、いえ、たまたま目についたんで……」


 巴御前が正義の味方かどうかはさておき、おばさんトリオが遠慮なく寄ってきて肩や腕をばしばし叩いたりするので、さすがの龍子も顔を赤くしてリアクションに困っている。しかも助けられた知香乃本人まで、「ありがとうございました!」と感激した表情で見つめてくるので、


「そんな、あの、ご無事で良かったです!」


 と両手を振った彼女は、あたふたとその場を逃げ出した。

 様子を見ていた花村も、礼を述べようとしたものの、開きかけた口が途中で止まってしまう。

 自分とすれ違う瞬間、ふたたび龍子が険しい視線を投げてきたからだった。




「ごめん太一、ちょっとカウンターお願い!」


 太一に声をかけた花村は、急いで龍子のあとを追った。

 階段を覗くと、一階に下りる踊り場の陰へと、ツインテールの頭がすでに消えかかっている。


「虎牙林さん」

 聞こえたはずなのに、龍子は足を止めない。だが花村は諦めずに追いかけて、もう一度、さらに大きな声で呼びかけた。


「すみません、虎牙林さん!」


 階段を下り終え、ロッカールームの方へ曲がろうとしていた龍子は、そこでようやく振り返ってくれた。


「なんですか」


 なんとか追いついた花村は、向かい合い、あらためて頭を下げた。


「先ほどは、ありがとうございました。うちの女性スタッフを守っていただいて」

「…………」

「仰っていた通り、本来は僕が気づくべきでした。申し訳ありません」


 ゆっくり顔を上げると、思わぬ言葉が返ってきた。


「普通以下ですね」

「え?」

「ここのジムです。普通以下だと思います」

「ええっと……」


 困惑しつつも、花村は必死に言葉の意味を考える。つまり、現場のリーダーがこんなミスをしている時点でジムのレベルは普通以下だ、ということだろうか。

 小さく息を吐いた龍子は、わかってるの? といった調子で一気にまくしたて始めた。


「そもそも、スタッフ全員がちゃんとしたプロのトレーナーなら、さっきみたいなことは起こらなかったんじゃありませんか? 仮に花村さんが何も考えずにベンチプレスの補助を指示したとしても、石上さん自身が男性同士じゃなくていいんですかとか、ひとこと言うはずです。実際ジムにはもう一人の男性、ええっと三竹さんでしたっけ、彼がいたでしょう?」


 きりりと角度のついた目が、頭半分ほど下から見上げてくる。自分の身長が一七三センチなので、龍子の身長は一六〇センチちょうどくらいだろうか。


 ていうか、俺の名前も覚えててくれたんだ。


 けれども今は、そんな感想はどうでもいい。彼女は間違いなく怒っている。

 かろうじて、「はい」と答えるしかない花村の目を見据えたまま、龍子の糾弾は続いてゆく。


「私たち不特定多数の人間が使うトレーニングジムなのに、プロのトレーナーがいない。いたとしても一人だけ。それもスタッフへのセクハラを防げないような、頼りないサブチーフ。こんな状態、ジムとして普通じゃありませんよね」

 言われた花村は、だが何も反論できない。悔しいが、龍子の指摘は紛れもない正論だった。けど――。


 そんなこと、俺に言われたって……。


 日本中のフィットネスクラブがこうなのだ。ジムだけではない。プールもフロントも、ほぼ素人のアルバイトばかり。人の身体を預る場所なのに、ほんの数日間の研修を受けたに過ぎない人間が、「トレーナー」だの「インストラクター」だのと名乗って、運動指導をしてしまっている現実。


「すみません、仰る通りです。そしてそれが、フィットネスクラブの現実です」


 花村はもう一度、さらに深く頭を下げるしかなかった。情けなさやもどかしさが、胸の内でいつも以上に膨れ上がる。

 クラブを運営する会社やオーナーの意識が変わらない限り、この現状は変わらない。変えようがない。専門スタッフの重要性を理解して設備にかけるのと同じくらい、いや、むしろ設備費以上に人件費を確保してくれなければ、龍子が語るように「ジムにプロのトレーナーがいる」という普通の環境すら実現できないのが、今のフィットネス業界なのだ。


「正直、俺だって悔しいです。情けないです。大学出たての俺が一番経験のあるトレーナーで、たった三ヶ月でサブチーフにされちゃうなんて。うちも含めて今のフィットネス業界そのものが、滅茶苦茶もどかしいです。本当に申し訳ありません。俺にはそれしか言えません」


 一人称が「俺」になっていることにも気づかず、花村の口から率直な言葉が漏れた。同時に頭の片隅で、ああ、これでこの人は退会しちゃうんだろうな、と覚悟と反省の念が湧き上がる。

 が、頭上から返ってきたのは予想に反して、どこか慌てたような声だった。


「あ……ご、ごめんなさい。花村さんに言っても、どうしようもないことですよね。その、私もフィットネスクラブが好きだから、つい」

「え?」


 顔を上げると、龍子の表情がジムでおばさんたちに囲まれたときの、あの恥ずかしげなものに戻っている。もちろん目の角度も元通りだし、心なしか耳も赤い。

 さらに彼女は、こちらの心を読んだかのように早口で告げてきた。


「あの、これで退会しようとかは考えてないですから! ほんと、ごめんなさい!」


 言いながら、ツインテールを揺らして逆に頭まで下げてくれる。そうして身を翻した龍子は、今度こそ本当に女子ロッカーへと逃げ込んでしまった。


「……とりあえずオッケー、なのか?」


 呆気にとられるしかない花村だったが、数秒遅れで安堵の情が湧き上がってきた。

 龍子は、たしかに言ってくれたのだ。

 私もフィットネスクラブが好きだから、と。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ