プール 1
「幸太朗、腰ばっかり意識しない!」
鶴川良樹は、プールサイドから大きな声を張り上げた。
夏休みも三分の一ほどが過ぎた、八月の初旬。
直射日光こそ入らないものの、反対側のプールサイドが面したガラス窓の向こう側は、強烈な陽射しに輝いている。天気予報によれば、外の最高気温は三十二度。もちろんそこまでではないが、ジムやカフェと比べて室温がやや高めの一階プールでは、『レボリューション湘南スイミングスクール』の少年少女たちが、今日も熱心に練習中だ。
六コースあるうちの四コースを使って、小学五、六年生の男女が計十二名、水飛沫を上げながら泳いでいく。
「OK、佳奈はそんな感じ! あとは力まないで! カリンは水を上手に掴もう!」
すべてのコースに目を配りながら、鶴川は熱心に声をかけ続ける。
「大貴、ハイエルボー! 竜平はストリームライン!」
知らない人には意外に思われるが、スイマーは泳いでいる最中も、コーチの声をしっかりと聞き取れる。今も名前を呼ばれた子どもたちは、言われたポイントを修正したり、できないまでも努力している様子がすぐに現れた。
我がことのように嬉しそうな顔で頷いた鶴川は、一瞬だけストップウォッチに目を落とすと、首から提げたホイッスルを吹いて練習終了を告げた。
「じゃあ、今日はここまで! コースを戻そう!」
指示を聞いた子どもたちが、よく訓練されたイルカよろしく、各コースの端に散らばっり始める。コースロープをスクール用ではなく通常の位置に戻し、合わせてフィットネス会員向けの、《初心者コース》《25mずつのコース》《50m往復コース》と書かれた看板も、それぞれのコース前に立てるためだ。
スイミングスクールを持つ多くのフィットネスクラブ同様、レボリューション湘南もレッスンのある午後から夕方にかけての時間は、六コースあるプールの半分以上をスクール優先にしてもらう。当然ながらその間は、クラブの一般会員は残りのコースでしか泳ぐことができない。もちろん入会時に了承を得てはいるが、スクール生の側もこうして準備や後片づけを、自分たちの手で素早く終わらせる習慣が身についているのだった。
「オリンピック選手だって、自分で道具の準備や片づけをしているよ。みんなだけのプールじゃないんだから、常に感謝の気持ちを忘れないように!」
鶴川以下のコーチたちも常々そう言い聞かせているので、スクール生と一般会員たちの関係はむしろ良好である。クラブ会費にはファミリー割引制度もあるので、息子や娘がスクール生で親が一般会員、という家族も多いし、そうでなくとも小さな子どもたちが健気にプールの状態を整えながら、「こんにちは!」「ありがとうございました!」と元気に挨拶する姿はとても微笑ましい。高齢者の会員には、孫がスクール生というわけでもないのに、彼らが出場する大会をわざわざ応援しにきてくれる人もいるほどだ。
五分とかからず、コースを二レーンずつの三コースに戻したスクール生たちは、スイムキャップとゴーグルを外して素早く鶴川の前に集合した。まるで高校生の部活動、それも強豪校ばりの規律正しさだが、変な緊張感などはなく笑顔で会話を交わしたりもしている。
「よし、終わろう」
鶴川がぽんと手を叩くと、話し声がぴたりと止んだ。
「お疲れ様。今日は最初に、プールサイドで筋トレっぽいこともしてもらったけど、最後までよく頑張れていました。全員がこの夏休みで凄く進歩していると、僕も感じます。もうすぐ昇級テストもあるので、引き続き頑張りましょう」
「はい!」
「じゃあ、幸太朗」
名前を呼ばれた、最前列左端に立つ男の子が号令をかける。
「気をつけ! 礼!」
「ありがとうございました!」
「ありがとうございました」
小さなアスリートたちに頭を下げ返した鶴川は、「各自、ストレッチも忘れずにね」と、笑顔でプールサイドの一角を手で示した。そこにはウレタン性の大きなストレッチマットが数枚、立てかけてある。
「幸太朗、今日も背中押してもらっていい?」
いち早くマットのところへ行った女の子が、濡れた髪を揺らして後ろを振り返った。ナチュラルな感じのミディアムヘアと、くりっとした目が可愛らしい、小鹿や小狐を思わせる子だ。
「あ、うん」
「ありがと。あたしも幸太朗の股、開いてあげる」
女の子は、知らない人が聞いたらどきりとするような台詞を続けた。相手は先ほど号令をかけた男の子で、太い眉と綺麗な顎のラインが印象的な、こちらもなかなかハンサムなルックスをしている。
「俺はいいってば」
「だーめ。しっかりストレッチしとかないと、得意のブレストに影響しちゃうよ。バッタの練習に集中するためにも、クールダウンはちゃんとしなきゃ」
「はいはい」
男の子が尻に敷かれているようなこの二人は、スクールの六年生、三浦佳奈と小野寺幸太朗である。ちなみに「ブレスト」とはブレストストローク、つまり平泳ぎのことで「バッタ」はバタフライを指す。あとは背泳ぎを「バック」とも呼ぶが、自由形の「クロール」同様の、四つの泳法に対する水泳選手ならではの略称だ。
「じゃ、じゃあ押すよ」
「うん。思いっきりやっちゃっていいからね」
マットの上に座り込んだ佳奈の背中に、幸太朗がそっと手を伸ばす。鶴川にはなんだか腰が引けているように見えるが、気のせいではないだろう。
幼馴染みの佳奈と孝太朗は、三年生のときに揃ってスクールに入会し、もう三年以上一緒に泳いでいる。もちろん小学校も同じで、活発な佳奈が朴訥な孝太朗を引っ張るという構図は、学校でも変わらないらしい。まだ小学生ということに加えて、そんな力関係もあってか、今のところ特別な間柄にはなっていないようだ。
孝太朗も、もうちょっと頑張ればいいのに。
苦笑とともに鶴川が見つめる先では、その幸太朗が相変わらず遠慮気味に、佳奈の背中を押している。幼馴染みとはいえ思春期に差しかかろうかという年代だし、こればかりは仕方ないのだろう。
けれども佳奈は、それが不満なようだった。
「もっと強く押してってば。前は背中に乗っかってくれたじゃん」
大きく脚を広げたまま、あっけらかんと要求している。
「いや、でも俺も背が伸びたから……」
よくわからない言い訳をした孝太朗が、こっそり「やれやれ」といった感じの表情になるのを見て、鶴川はますます笑ってしまった。本当に微笑ましい。
なんか、ハナちゃんみたいだなあ。
関係性はまるで違うが、同じように奥手というか、真面目ゆえに女性に対して積極的になれない同僚を思い出しつつ、プールの方に目を向ける。
《50m往復コース》という看板が縦方向のプールサイドに立てられたコースで、オレンジ色のスイムキャップが、イルカの背びれのようにすいすいと進むのが見えた。一目で競泳用とわかるハーフスパッツ型の青い水着が、美しいクロールとスレンダーな肢体に映えている。
「あれ、虎牙林さんですよね。ほんと上手いなあ。マスターズ大会とか出ればいいのに」
塩素濃度を測るために近寄ってきたアルバイトの三竹太一が、感心した様子で言う。レボリューション湘南のアルバイトは、約二時間ごとにプールとジムを交代で監視するようになっており、太一や石上知香乃といったアルバイトスタッフにとっては、スイムチーフの鶴川もまた上司になる。
「子どもの頃、水泳習ってたんだって。ハナちゃん情報だけど」
「へえ。……ってハナさん、そういう話はしてるんですね。一応、頑張ってるのかな」
バイトにまで妙な心配をされる花村に、鶴川は内心で同情してしまう。といっても、目の前を綺麗なフォームで泳ぐ美人会員、虎牙林龍子とお似合いだと考えて、カフェ『ヴィアン・ヴニュー』のマスターである新井場らと一緒に、彼をけしかけているのは自分も同じだが。
実際のところ、おたがいどう思ってるのかな。
あらためて勝手な心配をしたところで、龍子の立てる水飛沫が少し大きくなった。
「おっ」
鶴川が眉を上げたのと、いつの間にか入れ替わって幸太朗の背後に回っていた佳奈が「わあ!」と声を上げたのは、ほぼ同時だった。
「超綺麗! ほら幸太朗、バッタはああいうフォームとリズムだよ!」
「う、うん」
龍子がクロールから、これまた見事なフォームのバタフライに泳ぎ方を変えたのだ。両足を揃えたドルフィンキックとともに滑らかに進んでいく様は、本当にイルカやシャチといった水棲哺乳類みたいに見える。
美しいバタフライを指差して、盛んに佳奈は幸太朗に話し続ける。
「あ、ほら! やっぱり、あんまり腰は動かさないんだよ!」
「うん」
「リズムのなかで、自然にお尻が上がる感じだね」
「うん」
「腕もそんなに振り回してないよ、ほら」
「はい」
返事がなぜか敬語になってきたところで、リアクションの薄さに佳奈もようやく気づいたらしい。
「ちょっと孝太朗、聞いてる!? 折角いいお手本の人がいるんだよ?」
だが幸太朗の声は、居心地が悪そうなトーンのままだった。
「……あの、佳奈ちゃん」
「何よ?」
「ええっと、もうストレッチはいいから」
なんとも微妙な声で続けられたのは、彼の苦手種目であるバタフライとは、まるで関係ない台詞である。それもそのはずで、足の裏を合わせて座る幸太朗は、背後から佳奈にぴったりと密着されているのだった。自身のリクエストと同じように、彼女は思い切り体重を預ける形で、幸太朗のストレッチ補助をしていたのだ。
「あ、そっか。ごめんごめん、ずっと乗っかっちゃってたね。痛かった?」
「いや、全然痛くはないけど……」
ようやく解放されたものの、相変わらずリアクションに困った様子で、幸太朗がもごもごと答える。心なしか耳も赤い。佳奈の方はその理由がまるでわからないようで、むしろ不思議そうな顔をしている。
「佳奈。幸太朗と仲良しなのはいいけど、たまには――」
見かねたというよりも、幸太朗が可哀想になってきた鶴川が、笑って呼びかけたとき。
もう一人のスクール生が、二人に近づいていった。
「そうです、幸太朗。たまには私ともペアになって、色々教えてください」
ショートヘアがよく似合う、長身の女の子だ。褐色の髪と白い肌。高い鼻梁に尖った顎。しかもよく見ると瞳は淡いブルーで、誰もが「美少女」と認めるであろう容姿をしている。
美少女の声に、佳奈が振り返った。
「あ、カリン! そっか、カリンは幸太朗とクラスメイトだもんね」
「はい」
「駄目じゃん、幸太朗。ちゃんとカリンのサポートしてあげなきゃ」
「…………」
誰のせいで身動きが取れなくなっているんだ、と言いたげな顔で幸太朗が憮然としてみせると、青い目の美少女は彼の隣に座り込んで、そっと顔を覗き込んだ。
「孝太朗は、私が嫌いですか?」
「え? いや、そういうわけじゃないよ!」
慌てる幸太朗をフォローするように、佳奈も口を挟む。
「むしろカリンと、いっぱい話したいはずだよ。英語が喋れるようになりたいって、いつも言ってるもん」
「本当ですか!? もっと早く言ってくれればいいのに! じゃあスイムを教わる代わりに、英語を教えてあげます。Give and take ですね!」
美少女は漫画のキャラクターよろしく、胸の前で手を合わせて無邪気に喜んだ。
彼女の名前は志田カリン。見た目からもわかるように、オーストラリアと日本のハーフで、この春から佳奈や幸太朗の通う小学校に転校してきた同級生である。ただ、それまでも日本で何年か暮らしていたそうで、多少敬語になりすぎる癖はあるものの、言葉はまったく問題ない。学校にもすぐ溶け込み、レボリューション湘南スイミングスクールへも、自身の希望で先月から通っている。
「教えるのはいいけど、バッタだけは俺もまだ中級だから……」
濃い眉をハの字にして、幸太朗が申し訳なさそうな顔でカリンに答える。
スクールでは各自の泳力に合わせて初級、中級、上級とレベル分けがされており、数ヶ月に一度、昇級テストを行ってそれぞれの進捗具合を確認する。もちろん上級になったからといって終わりではなく、スクール生たちのなかではむしろ「上級が当たり前」という感覚で、そこからあらためてタイムを縮めることにチャレンジしたり、大会で活躍することを目標としていくのである。佳奈はすでにクロール、平泳ぎ、バタフライ、背泳ぎの四種目ともに上級。幸太朗も三種目は上級だが、苦手のバタフライだけは、いまだに中級で足踏みしているのだった。そして、入会したばかりのカリンはまだすべてが初級で、次の昇級テストが初めてのそれとなる。
「ていうかカリン、かなり泳げるじゃん」
幸太朗が指摘する通り、レベルこそ初級なものの、カリンは四つの泳法ともそつなくこなすことができる。本人いわく、「オーストラリアの血が入ってるからですね」とのことだが、当然ながらまるで理由になっていない。美しいルックスの一方で、やや天然なところもある女の子なのだ。
「でも今度が初めてのテストなので、やっぱり心配です。それに鶴川先生からよく言われる、水を掴む、っていうのがどうもわからなくて」
「ああ、あれはたしかに。ちょっと感覚的な話だよね」
「そう? フワッと掴んでギュっとかいて、スッと戻すってことでしょ?」
頷く幸太朗の後ろでは、佳奈が天才肌のアスリートめいた台詞を口にしている。幼馴染みの二人は、性格だけでなくスイミングに対する向き合い方も正反対だ。コーチの教えを忠実に守って、一歩一歩向上してゆく幸太朗に対し、佳奈は「なんか最初からできちゃいました」などとけろりと言うことも多い。ただし、学校の勉強はさすがにそうもいかず、努力型の幸太朗に、よく宿題の答えを尋ねたりしているらしい。
「あ! じゃあ、バッタだけ私がカリンに教えてあげる! それでもいい?」
「ありがとうございます! じゃあ残りの、フリーとブレストとバックを、幸太朗にお願いしますね」
「え? 三つ全部?」
「テスト対策ですから。あとはストレッチも教えてください。私も佳奈みたいに、幸太朗とペアでやってみたいです。そうすれば、押し合っている間に、英語でお話しもできるでしょう?」
「え……」
カリンにまで密着されることを想像したのだろう。真面目な幸太朗は思わず目を伏せてしまっているが、まったく気づかない佳奈が、はしゃいだ声を上げた。
「いいね! せっかくだから、幸太朗を押すときは私たち二人でやってあげる。私も英語、覚えたいもん」
「い、いいってば! ストレッチぐらい自分でやるから!」
ふたたび赤くなった幸太朗は、あたふたと両手を振るしかない。
こりゃ、ハナちゃん以上かもしれないなあ。
まさに「両手に花」の状態にもかかわらず、なんとも奥手な教え子を、鶴川は引き続き笑いながら見守った。