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75.モーリス・シンクレア

 風で階段にある窓がばたんという音がしたので、アデルは顔を上げ、そちらを見た。

 人の気配を感じたのは気のせいだろうか?以前アナ伯母にそこからロバートといる所を見られたことを思い出した。

 しばらく見ていたが誰の気配もなく、単に風のようだった。


 アデルの視線をシンクレア副牧師が追った。

「どなたかいましたか?」

 アデルは首を振った。

「いいえ。多分風だわ」

 そう言いながらもアデルは声を小さくした。

「それでも誰かが聞いていたらどうするの?あなたの評判を落とすわよ。私なんかに」


「私の評判など…」

 シンクレア副牧師は優しく笑った。冷たく強い風の吹く荒野と共にあったアデルの世界にはない、温かな光のような笑顔だ。

「でもあなたは私なんかになどとは言ってはいけません。あなたはご自分を過小評価しすぎですよ」


 アデルは溜息をついた。

「3度目よ。もういいでしょう?」

 シンクレアからのプロポーズは今回が初めでではなかった。

 彼ならもっと条件の良い結婚相手がいくらでもいるだろうに。

 もっと美しくて、もっと素直で心がきれいな女性、彼の将来の出世を助けるような持参金のある女性。それがよりによって美しくもなく、素直でもない、ひねくれた、持参金のない自分なんて…。


「4回目ですよ」

「4回目?」

「副牧師に着任してからすぐに…」


「ああ。あれは冗談かと…」

 アデルは思い出した。父に牧師館周辺を案内するように言われ、村の主要な場所を案内した。

 終えるとシンクレアはアデルにお礼を言った。独身である彼は村長の家に下宿することになっていたので、その家の前で別れようとすると、反対に送っていくと言われた。

 その必要はないと断ったのに、女性を一人で帰すわけにはいかないと爽やかに返された。この村には似つかわしくない紳士だった。


「美しい土地ですね」

 帰り道、並んで歩きながら、遠く辺りを見渡すとシンクレアは言った。薄い水色の瞳がアデルを見つめた。

「寂しい場所だわ」

 適当に相槌を打てばいいのに、愛想悪く言ってしまった。その寂しい場所をアデルは全身全霊愛していたのに。


 ふと別な声を思い出した。

「きれいな土地だね。ここに来られて嬉しいよ」


 今は疎遠になったロバート・チャーチ。

「本当に?」

「うん」

「嬉しいわ」

 その時は素直に言った。

 この世でもっとも美しい少年がそう言ってくれた。初めて強く惹かれた人間がそう言ってくれたことに、胸がいっぱいになった。


 ロバートとの交際を禁じられ、無理矢理寄宿学校に入れられ、ひどいホームシックで病気になり家に戻った。

 ただ同じ年頃の少女たちとの生活し、学ぶだけのこともできないのに、ベックフォースの家から離れ、貧しい少年と駆け落ちなどとても自分にできそうもないということだけは分かった。



「そうかもしれません。でも、とても好きになりました」

 その言葉にアデルは我に返った。シンクレアが自分を見つめていた。


「灰色だわ」

 アデルはそう言った。

「え?」

「あなたの瞳よ」

 アデルはシンクレアの目を見つめながら言った。

「水色だと思ってたんだけど、光の加減で灰色にもなるのね。この空と同じ灰色」


「そうですね。僕の目は水色でもあり灰色でもあるようです。でもどちらかと言うと灰色であることが多いようです」


 天気の悪いことの方が多い、この土地と同じだとアデルは思ったが言わなかった。


「この土地と同じですね」

 アデルの心を読んだように、シンクレアが言った。


 それからは黙って歩いた。

 愛想の良い人なのに自分だけが話すことなく、アデルにも無理に話させようとはしなかった。けれど人見知りのアデルにしては珍しく、ポツリポツリと通った場所や草花、いくつかの木の樹齢、生き物たちについて話した。


「もう着いたわ」

 牧師館の前でアデルはシンクレアに言った。


「おやすみなさい」

 アデルがそう言って家に入ろうとすると「あの、アデルさん」とシンクレアが呼び止めた。


「何かしら?」

 アデルは振り返った。


「まだ牧師館に部屋の空きはあるのでしょうか?」

 シンクレアはまっすぐにアデルの目を見つめて言った。

「あるとは思うけれど…」

 シンクレアは赴任する際、最初は牧師館の方に住む予定だった。けれど蔵書が多いということで、より広い村長の家に下宿することとなった。そして村長の家から牧師館まで、通うにはそう遠い距離ではなかった。雨の日に道は悪くなったけれど。


「もしかして家に住みたくなったの?」

「ええ…」

 初めて彼の声がぎこちなくなった。


「蔵書が多いと聞いたけど狭いわよ」

「ええ…」


「それと村長さんの所に比べて家の食事はおいしくないわよ」

 村長の家は広く、住み込みの使用人が数人いて専用の料理人もいた。


「あなたも料理を作られるのですよね」

 シンクレアは少し微笑んだ。

 道すがら彼がいろいろ質問してくるので、料理することも少し話していた。姉のセーラや妹のメグのように外で仕事をしないのだから、食事くらいはメイドのアリーと一緒に作っていた。


「パンを焼くのと、あとは時々よ」


「パンを?すてきだ」

「はあ?」

 意味が分からなかった。


「すみません。こういうことは本当に慣れていないので」

 副牧師という仕事だろうか?それとも辺鄙な村での下宿生活だろうか?

 人の良いきれいな顔が困惑していた。


 シンクレアは牧師館の周囲を見回した。教会と墓地しか見どころなどない。


「すてきな所ですね」


 アデルは黙って彼を見つめた。心の中で少し何かが変化したが、まだ用心していた。


「この場所で生活して、毎日この風景を見て、いつかここで死んでいけたらすてきだろうなと思います」


「あなたは…」

 違う。自分と同じような心を持った人はそういない。どう言っていいか分からなくて、ついよけいなことを聞いた。

「奥さまはいらっしゃらないの?」


 シンクレアは一瞬不思議そうな顔をした後、首を振り、笑って言った。

「いません。なぜですか?」


「なんとなく。きれいで優しい奥さまか婚約者がいらっしゃる気がしたの。失礼なことを言ったわ」

 そうだ。父から独身だと聞いていた。

 でもいないのなら、そのうち村の人々が縁談を次々に持ってきそうだ。若い美男で、知性もあり、優しい人だ。


「あなたはいらっしゃるのですか?」

 シンクレアが穏やかな声で聞いた。

「いないわ」


 ほとんど家を出ず、学校には行かず父から教育を受けたアデルは、家族とメイドのアリー、それにロバートと幼い時はその兄のフレッドのチャーチ兄弟以外、親しくなったことがなかった。


 辺りは暗くなり始めていた。もう別れた方がいいだろう。

「それじゃあまた…」明日といいかけた時だった。


「良かった」

 シンクレアが上品な微笑みを浮かべながら、アデルを見つめた。


「突然ですが、私と結婚していただけないでしょうか?」

「はあ???」


「ちょっと、冗談でしょう?」

 不愛想であまり表情の変わらないアデルも慌ててしまった。

「やっぱり早すぎましたか?」

 澄んだ水色の瞳は全く邪気がなかった。


 あの時は冗談だと勝手に決めつけて、そのまま家に入った。

 そうだ。あの時も入れれば4回だった。


 灰色の空が晴れ

 澄んだ水のような空の色

 私は荒野にピンンクの野ばらを見つけ

 心ときめく


 メグが我ながら平凡な詩ねと笑って言った。

 5人のグレイきょうだいの中で下のアデルとメグは特に仲が良く、妹のアデルはお互いに自分の書いたものを見せていた。

 メグの詩には、いつか灰色と水色がよく出てくるようになった。空の色、水の色、自分の心。灰色は負ではなく荒野の色でもあり、メグはどちらの色も愛していた。


 メグは何も言わなかったが、シンクレアに密かな恋心を抱いているのにアデルは気付いた。

 シンクレアは牧師館にすぐに住みたいようなことを言っていたがそれは2年の後に実現した。兄のセドリックが精神を病み始めたこととアデルが体調を崩し、牧師館の手助けをしたいというのが主な理由だった。


 だがアデルは知っていた。

 シンクレアのこの村で一番の友人であったロバート・チャーチが亡くなったからだと。

 ロバートはアデルとの交際がアナ伯母に咎められて以来、グレイ家には近付かなかった。シンクレアはロバートと自由に会い、話すために、村長の家に滞在し続けた。


 あのシンクレアの最初のプロポーズから2日後、早朝の荒野を犬のグレイヴィーと散歩していると、途中でシンクレアに会った。

 双眼鏡とノートを持ったシンンクレアは、鳥を観察しに来たのだと言う。


「まだこの土地は不慣れなので、よろしければご一緒していいでしょうか?」


 シンクレアとはこの2日間、教会や父を訪ねに来たグレイ家で顔を合わせていたが、プロポーズのことについては何も言わなかったので、やはり冗談だったとアデルの中で落ち着いていた。


 シンクレアが今の季節にはどんな植物があるのかと尋ねてきた。「もうすぐヒースが…」と答えているうちに、先を歩いていたグレイヴィーが立ち止まっているのに気付いた。


 グレイヴィーは少し離れた木々の方を見つめていた。

 アデルは予感がした。


 荒野を歩く時、時々気配や視線を感じていた。だが、あえてそちらの方を見ようとはしなかった。姿もちらっと見たことがあった。変わらず彼は美しかった。


 同じように、荒野を、自然を愛していたから、彼もまた散策しているのだろう。それとも自分に会いたいと少しはまだ思ってくれているのだろうか?


 だが、今日はシンクレアが一緒だった。

 姿は見えなかったが、グレイヴィーは彼に懐いていた。そちらに走っていきかねない。


 アデルは愛犬に言った。

「グレイヴィー、行くわよ」


「あれ?」

 その時、シンクレアが言った。


 アデルがシンクレアを見ると、彼は双眼鏡を目にあてていた。そしてよりによって木立の方を見ていた。


「木の上にエルフがいる」


 そう言われてアデルが木の上の方を見ると、木の枝に座っているロバートを見つけた。

 また鳥の巣でも見つけたのだろう。

 彼はもう少年ではなくすっかり青年になっていた。服装は貧しかったが、やや髪がのびた彼は、確かにエルフのように美しかった。


 ロバートはこちらの視線に気づき眉をしかめた。彼の方は先にアデルに気付いていたようだった。その前はどんな表情をしていたかは分からないが、今はアデルの方を見つめる眼差しに、憎しみ、もしくは怒りを感じた。


 双眼鏡をおろしたシンクレアはロバートに向かって手を振った。

「こんにちは!」


 アデルを睨んでいたロバートはシンクレアに視線を向けた。不審そうな表情だ。アデルとの交際を止められて以来、ロバートは教会に来なくなっていたから、新任の副牧師のことなど知らなかった。


 シンクレアはロバートの方に近づいていった。

「はじめまして。数日前に副牧師としてベックフォースに来ましたモーリス・シンクレアです」


とても久しぶりの更新です。

何度か書き直したり…でもようやく書けました。

もう年末、来年は完結できますように。

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