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74.セーラ・グレイの悲しみ

 イングランド北部、ベックフォースのグレイ家。

 長男セドリック・ダグラスと三女アデルの死から3年、末娘で四女メグの死から2年が経っていた。

 母ポリーと母と同名の長女ポリーは既に亡く、今グレイ家に残っているのは父セドリックと次女セーラのみだった。他にはメイドのハンナ、アデルの飼い犬ウルフ、そしてメグの犬シルフがいた。ウルフとシルフは老犬で、ウルフはこのところ暖炉の前で寝てばかりで死が近付いていることが分かっていた。シルフの方はまだ元気なはずだったが、ウルフに合わせて寝ていることが多かった。


 セーラは思う。

 妹たちの思い出がすこしずつ消えていく。

 そしていつもアデルの傍にいて、彼女の葬列にもついてきたウルフもまた、グレイ家から消えていこうとしている。


 今日もまたベックフォースの風は強く、雨も混ざっている。11月の肌寒い朝だった。

 セーラはアデルが死んだ冬の日、必死で荒野を彼女の好きだったヒースの花を探し回ったことを思い出した。


 記憶ほど曖昧なものはない。ずっと長い年月一緒に過ごしていたのに、妹たちの声がどうだったか思い出せなくなってきていた。

 彼女たちは最後の日々、共によく咳きこんでいて声は掠れていた。健康な時、どんな声をしていただろう?


 セーラは居間の扉を開けた。メイドのハンナが火を起こしてくれていたので温かい。

 この暖炉の前の椅子でアデルは死んだ。

 アデルの傍には心配そうに彼女に寄り添っていた愛犬のウルフがいた。


 セーラは暖炉の前で寝ているウルフの姿を探した。

 ところがそこに老犬の姿はなかった。


「ウルフ?」

 セーラはあたりを見回した。


 どこだろう?最近はずっとここにいたのに。

「ウルフ!ウルフ!」

 大きな声で呼ぶと小さな気配がした。


「ウルフ?」

 呼びかけると部屋の隅の暗闇からグレイ家のもう1匹の飼い犬、シルフが現れた。雑種の大型犬のウルフとは違い、シルフはもう一人の妹メグが家庭教師をしていた裕福な家からプレゼントされた美しいスパニエル犬だった。


「シルフ、ウルフは?」

 シルフはゆっくりセーラに近付き尻尾を振った。

「あなたもウルフを探しているの?」

 シルフは小さくワンと言った。そうらしい。


 雨風が強まってきた。こんな天気に死につつある老犬は外に行ったのだろうか?

 家の中を探していなかったら、本格的な嵐になる前に外へ探しに行った方がいいだろう。ウルフはアデルの生前一緒に荒野を長く歩き回った頃とは違う。外へ行ったら、そのまま帰ってこない可能性もあった。セーラはアデルの最後の形見であるウルフを看取りたかった。


 セーラはふともしかしたらと思った。ウルフはアデルの死後、半年近く毎日もアデルの寝室に行き、彼女の姿を求めた。

 シルフをその場に残し部屋を出ると、階段を上り、久しぶりにアデルの寝室へと向かった。亡き2人の妹の部屋はそのままになっていた。そしてアデルの寝室の前にウルフの姿はなかった。


 セーラは扉を開け、暗い部屋のベッドを見た。かつてウルフはそのベッドに汚れた足で登ってアデルにひどく殴られ、そのあとで彼女から手厚い手当てを受けた。それ以降、ウルフはベッドに登らなかった。

 そしてそこにウルフの姿はなかった。しかし、持ってきたランプを掲げ、視力の弱い目を凝らすと、ベッドの横の机の下に、すっかり痩せた大型犬が横たわっているのを見つけた。


 犬は微動だにしなかった。まさか…と思いつつ呼んだ。

「ウルフ、ウルフ、ウルフ」


 耳が少し動いた。

 良かった。生きている。


「びっくりしたわ。ここにずっといたの?」

 そう言いながら、犬に近付き、屈んだ。


 ウルフはゆっくり少しだけ顔をあげた。


「大丈夫?」

 そう言うと、眠りの邪魔をされた犬はよろよろと立ち上がり、セーラを見ず、ゆっくりとうっすら光のあるドアの向こうへと歩いて行った。


 死が自分の横を通り過ぎていった。

 そして自分だけが取り残される。

 セーラは思った。


 セーラは先ほどのウルフのようによろよろと立ち上がると、振り返りドアへと向かった。

 その時、外から強い風が窓の閉まった鎧戸にあたり、バタバタと大きな音がして、セーラは振り返った。

 持っていたランプの焔が揺れた。

 そして先ほどまでウルフが横たわっていたベッド横の机の下に1枚の紙が落ちていることに気付いた。


「何かしら?」

 この部屋はアデルが死んだ時にきちんと掃除をしていた。

 けれどもしかしたら?アデルが残した詩を書きつけたものかもしれない。アデルは気まぐれに紙の切れ端に綴っていることがあった。彼女は死の前に様々な紙を燃やしていたが、気付かずに残したものかもしれなかった。


 セーラは急ぎ紙を拾うと、犬が一部噛み千切った後があった。

 そしてアデルの字ではなかった。手紙かしら?

 

 セーラの心臓がとくんと打った。

 英語ではない。フランス語だった。

 そして知っている字だった。


 紙に顔を近付け、弱い視力でランプの灯で必死に読んだ。


「君はなぜ返事をくれない?生きながらもとっくに死んでいる者などに手紙を送る必要などはないと?狂っている者にかける言葉すらないと?」


 どういうこと?

 彼だった。自分が何度も手紙を送り、あれほど待ち望みながら返事の来なかったアンドレ・デュトワ教授からの手紙だった。

 彼は手紙を返してくれていたのだ。それなのになぜ?


 アデルは既婚者である彼への恋を歓迎してなかった。だから手紙を隠したのだろうか?


「君が残していった間違いだらけのフランス語のエッセーを繰り返し読み返している。その時交わした会話も。君が残した唯一のものだから。だが君の声すら忘れてしまいそうだ」


 セーラの目から涙が溢れた。

 自分が望んだ、夢にまで見た言葉だった。

 だが、ウルフが噛み千切ったせいで手紙はその後は、断片しか読めなかった。


「君を愛…」

 それ以上読まなくても分かる。

 ああ、あとわずかに単語が読める…。


「…君が弾くアパショナ…」


 どういうこと?意味が分からない。

 揺れるランプの灯りではもうそれ以上読めなかった。


 セーラは立ち上がると廊下に出た。

 そこも暗かった。

「アパショナ…?」

 呟きながら階段を降り、途中の窓から見える墓地を見下ろした。

 この窓からは見えないが、アデルの墓もそこにあった。


 ガガーン!大きな音がし、すぐにピカッと稲光が見えた。

 雷鳴は一瞬ピアノの鍵盤を叩きつけた音に聞こえた。


「アパショナータ(熱情)!」

 つい叫んでしまった。


 なぜ気付いてしまったのだろう?

 アデルが好きでよく弾いていたベートーヴェンのソナタだ。


 なぜ?なぜ?

 そう、自分宛ての手紙がアデルに部屋にあるはずがなかった。


「君を愛…」

 彼は直接アデルに言ったのだろうか?

 そしてアデルの返事は?


「君はなぜ返事をくれない?」

 それがアデルの答えなのだろう。


 セーラは窓から墓地に降り注ぐ激しい雨をぼんやり見ていた。

 そしてある、すっと忘れていた記憶を思い出した。

 ずっと昔の、この窓の向こうから聞こえてきた会話を。


 留学より前のことだった。

 あの日は珍しく晴れていて、空は雲一つなく澄みきっていた。風の音も聞こえず、だから声が聞こえた。


「もう一度言います。私に同情など結構です」

 アデルの声だった。


 アデルは誰かと話していた。

 その頃、アデルはひどく体調を崩していた。

 アナ伯母から手紙でそのことを聞き、セーラは家庭教師をやめ、家に戻っていた。


 会話の相手の溜息が聞こえた。若い男性だった。


「あなたは勘違いをしています。僕はあなたに同情などしていません。あなたの悲しみが少しでも癒えればとは思っていますが」

「そういうのを同情と言うのです」


 セーラはアデルの会話の相手が誰かすぐに分かった。

 副牧師のモーリス・シンクレアだ。

 明るく優しい好青年で、しかも美しい顔立ちをしていた。

 セーラは彼をとても気に入っていた。いや、セーラだけでなく家族の誰もが、父もアナ伯母も、すっかり陰気になった弟のセドリックさえ、彼とはよく話していた。そして牧師一家だけでなく、ベックフォースの人々の多くが副牧師に好意を持っていた。


 シンクレアは困ったように笑った。

「あなたの言葉も気持ちも全て尊重したいのですが、僕についてだけは否定させてください」


 セーラは立ち去るべきだと思ったが、自分が動いたら2人が気付くと思い、その場に留まった。いや、聞きたかったのだ。


 シンクレアはセーラに気付くことなく続けて言った。

「愛しています。アデル。心から」


 暫くの沈黙の後、アデルは言った。

「できないわ。結婚なんて」


 結婚?シンクレア副牧師がアデルに?

 セーラは驚いた。

 グレイ牧師一家で唯一、シンクレアと親しくしていなかったのがアデルだった。


 副牧師は小さく溜息をついたが、その後の声は朗らかに感じた。

「分かりました。でも想いは変わりません」


 今度はアデルの方が溜息をついた。

「もしかしてセドリックのことも私のためなの?」


 セーラとアデルの間の男兄弟セドリックは少年の頃は優等生で、文学や絵画に才能を見せていたが、成人してからはどの仕事も長続きせず、彼が望む芸術方面でも行き詰まり、この頃は仕事もせず毎日居酒屋通いをしていたセドリックを心配したアデルは居酒屋に酔いつぶれた彼を何度も迎えにいていた。

 ところがシンクレア副牧師が彼と話すようになり、一時的に家族の元に戻ってきた。そうだ。この頃、セドリックに新たな家庭教師の口も見つかり、お祝いをしたばかりだった。兄の再起に、元気のなかったアデルも笑顔を取り戻し始めていた。


「セドリックが好きだからですよ」

 そうは言いながら否定はしなかった。

 セーラは見たことがあった。居酒屋にセドリックを迎えに行ったアデルと一緒に、泥酔した彼の肩を担いでいる姿を。


「でももしまたセドリックが酒場に通うようになったら、あなたが迎えにいくのではなく、僕に言ってください。彼の友人である僕が行きますから」


「どうしてそこまでしてくれるの?ロバートのことだって」

「彼とは親友でしたよ」


 セーラは2人の会話のロバートが誰かは分からなかった。けれど、シンクレアが本気でアデルを愛していることは分かった。


 2人の会話の途中から風の音が聞こえ始めた。次第に強くなる。

 そしてセーラがいる窓から屋内に吹き込み、窓が大きくバタンと言った。

 彼らはこちらを見るだろう。セーラは慌てて窓の下に屈んだ。


「窓を閉めなくては…」

 アデルの声が聞こえた。


 セーラはそっと窓辺から離れ、階段を上り自分の部屋へと戻った。

 動揺していた。

 そして思った。なぜアデルなのだろう?と。

 もしシンクレアが自分に結婚を申し込んだのなら自分は承諾していた。少しだけ罪悪感を持ちながら。


 罪悪感…。

 もう一人の妹メグがシンクレアに淡い恋をしていた。メグは何も言わなかったけれど、そっと彼を見つめていることを気付いていた。


 そして妹2人はとても仲が良かった。



 なぜアデルなのだろう?

 激しい風あと雨が吹き付ける窓の下に座り込んだ。


 なぜアデルでなければならなかったのだろう?

 デュトワ教授もシンクレア副牧師も。


 セーラはアデルの前でデュトワ教授への恋心を隠さなかった。

 恋愛に無関心なアデルだったが、仲の良い妹メグの恋心は気付いていたかもしれない。


 でも本当に恋愛に無関心だったら、ルイ・オルフェやフェリシアの激しい恋は描けなかっただろう。

 それにアデルが書いた「R.C.」という詩。対になった詩の少女は少年を愛していた。



 その翌日の朝、アデルのかわいがっていた犬のウルフが暖炉の前で死んでいるのが見つかった。

 アデルが死んだ日、座っていた椅子の横で。


かなり久しぶりに登場、ラエルの前世アデル・グレイの姉セーラに、彼女が生涯恋したアンドレ・デュトワ教授がアデルを愛していたことが明らかになってしまいました。アンドレは48話「アパショナータ(熱情)」等に出ています(あとで彼が他に何話に登場していたか確認します。自分で書いて忘れています)

そして55話「旅立ちを前にして」に登場したアデルにプロポーズした謎の人物はモーリス・シンクレア副牧師でした。

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