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5.19世紀英国 ある女性作家の死

 1848年12月19日、私は死んだ。


 強い風の音で目が覚めた。

 空は暗く、嵐になりそうな強い風の吹きつける朝だった。


 起きた時からのどがゼーゼーと鳴るばかりで声が出なかった。

 一度かかった医者には結核と診断されていた。


 持てる力を振り絞り服を着て、暖炉の前で、櫛で髪をとかしていたら、手から櫛がぽとりと火の中に滑り落ちた。

 見る間に櫛は炎の中に吸い込まれる。

 でももう拾う気力がなくて、倒れるようにアームチェアに座り背にもたれかかると、炎の中の櫛をただ眺めていた。


「まあ!たいへん!」

 女中のハンナが櫛を炎の中から拾い上げてくれた。

 私はお礼どころか彼女の方を見る力ももうなかった。


 椅子から動けないでいる私の様子にハンナは危機感を抱いたらしい。


「セーラさん!メグさん!」

 姉と妹を呼びに行く声が聞こえた。



 私はアデル・グレイ。

 一応は作家で詩人…なんだろうか?

 姉と妹と私の3人で自費出版した詩集は出版から1年経っても2冊しか売れず、私が書いたたった一つの小説『デッドロック館』もあまり売れなかった上、新聞で酷評された。


 私はイングランド北部のヨークシャー地方にある村ベックフォースのグレイ牧師の5の子どもたちの中の4番目の子だ。姉2人、兄1人、妹1人。

 子どもといってももう30歳だけれど。


 母は末子のメグを生むと1年後に癌で亡くなった。私は3歳だったから母の記憶はなかった。

 1番上の姉は幼い頃に亡くなり、3ヶ月ほど前に兄のセドリックを亡くした。

 5人いたきょうだいは、今は3つ上の姉セーラ、私アデル、2つ下の妹メグの3人になった。


 亡くなった兄セドリックは私より2つ上で、きょうだいでただ一人の男子だった。そして子どもたちの中で容姿に恵まれていたのは、セドリックと末子のメグだけだった。

 当然のようにセドリックはきょうだいで一番愛された。

 セドリックは絵画や文学の才能にも恵まれていたけれど、才能の限界とどの職業にも長続きせず、奔放な恋愛をし、次第に酒と薬に溺れ、さんざん家族を悩ませた挙句、肺結核で亡くなった。


 兄の最期を看取ったセーラは寝込んでしまった。

 そして私は兄の葬儀の頃から咳が出始め、風邪だと思っていたがひどくなる一方だった。兄の病に感染したのかもしれなかった。


 私のひどい咳に、兄の死を悲しむ暇もなくなり、家族は心配し始めた。


「お願い、アデル。お医者さんの診断を受けて」

 セーラが心配して、しつこく私に付きまとった。


 けれど私は医師による治療をひたすら拒んだ。それで治るなんて思えなかった。意地もあってベッドで寝込むかわりに、必死で変わらない日常、家事や散歩、読書などを続けた。



「アデル!大丈夫なの?」

 セーラが居間に入ってきて私に駆け寄ってきた。


 私は目を開けた。


 メグも入ってくるのが見えた。

 そして私を見て息を呑み、セーラを見た。

「セーラ…」


「アデル、少し休めば大丈夫よ」

 セーラは私を安心させようと声をかけたけれど、その声が震えている。

 口に手をあて嗚咽を必死で抑えているメグの方が素直だ。


 きっと私はひどい顔色をしている。

 そうか。もうすぐこのぼろぼろの牢獄から抜け出せる。

 こんなところに閉じ込められているのはもううんざりだわ。


 よかった。思い出の品を全部処分していて。

 死の予感とそれでも今日はその日ではないと思う日が続いた。

 けれど3日前、書いた詩や物語、絵画、子どもの頃妹のメグ2人で作った手作りの本など、私の大切だった世界を部屋の暖炉でみんな燃やした。


 私が唯一書いた小説『デッドロック館』の原稿も燃やした。

 第一稿、二稿、清書したもの、全て。


 燃やす前にある1枚が目についた。


  フェリシア、行かないでくれ。

  行くならまず俺の気を狂わせてくれ!

  君のいないこの奈落に俺を置き去りにするのか?

  君は言ったじゃないか。俺はもう一人の君だと。

  俺は自分の魂なしでは生きられない!


 激しく咳きこみながらこの1枚も燃やした。



「アデル!アデル!」

 私を必死に呼ぶ声に目を開けた。

 涙をいっぱいに目にためたセーラの顔が目の前にあった。


 セーラは私の手に何かが握らせた。

 私は目を少し動かしそれを見た。


 それは枯れかけた一枝のヒースの花だった。

 私が詩や小説に幾度となく書いた、私が一番好きな花。


 私が暖炉の前で意識をなくしていた間に、セーラが外に出て私のために見つけてきたそうだ。


 会話が途切れると、荒野を吹き荒れる雨風の音が聞こえる。

 こんなひどい天気の中、セーラは私が少しでも元気になるよう見つけてきてくれたのだ。


 真冬の凍った大地に花などない。どんなに探したのだろう…


 けれどもう私にそれを受け取る力もなかった。


 ヒースが手から落ちた。


 私の横に愛犬ウルフの温かい気配がする。

 最後にこの子も連れてきてくれたのね。


 涙が沸いた。


 落ちたヒースを眺める。

 そして目を閉じた。


 一面のヒースの花畑。

 手をつないだ幼い少年少女が走っていくのが見えた。


 途中で少年が振り返った。

 アデル、アデル、アデル…


 ゆっくり目を開けた。

 ヒースの花畑はなく、顔を覆ったセーラが見えた。


「オルフェ」

 私は小さく言った。


 あの少年を追わなくては。

 立ち上がろうとして私は倒れた。


「アデル!」

 メグの叫ぶ声が聞こえた。


 そして私は暗闇に沈んでいった。




 ある声が聞こえてきた。

 誰だろう?


 知らない女性の声だ。

 なまりのない、上流階級の女性の話し方だった。



 この世界を作り出した神様…

 もしいらっしゃるのなら…


 どうか…

 私の望みを…


 私の願いを…


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