60.ジュ・トゥ・ヴー
アーク・リージス滞在2日目は嵐になった。
だが嵐にも強い風の音にもブリッジミアで慣れた私たちにとっては変わらない日常で、ミス・ゴドウィンはびゅーびゅーと鳴る風の音に会わせて歌を歌っていた。
知っている曲だ。エリック・サティという未来の作曲家が作曲した「ジュ・トゥ・ヴー (あなたが欲しい) 」だ。ゆったりとしたワルツ風の軽やかで華やかな曲。ミス・ゴドウィンは未来の曲なので内緒ですよと言っていたが、今日は堂々と歌詞付きで歌っている。
あなたの苦しみが私には分かるわ
愛しい人
だからあなたの願いを受け入れてあげる
私をあなたの恋人にして
分別なんて忘れて
悲しみも忘れて
2人が幸せに過ごす大切な時間を持ちたいわ
あなたが欲しい
こちらではルマーニュ語にあたるフランス語の歌詞、スーザンはルマーニュ語が分からないから美しいメロディを微笑みながら楽しんでいるけど、なかなか情熱的な歌詞で貴婦人が口にしていいのかと思った。
後悔なんてしないわ
願うのはたった一つだけ
あなたの傍で、すぐ傍にいて
一生を過ごすの
私の心はあなたの心に重なり
あなたの唇が私のものに
あなたの身体が私のものに
私の身体のすべてがあなたのものでありますように
「ミス・ゴドウィン!」
ついに私は言った。
「ちょっと…」
私はミス・ゴドウィンの耳元に小声で訳を言った。
「貴婦人があまり大きな声で歌うものではないと思うの」
するとミス・ゴドウィンは「わあっ!すみません!あまり意味を考えないで歌ってました!」と赤面して言った。
「そうそうジュ・トゥ・ヴーの歌詞って男性版と女性版があるんですよ。今私が歌ったのは女性版です」
「そうなの」
「歌うのをやめましょうか?」
その時また強い風の吹きつける音がした。
「いいえ。明るい歌は気持ちが紛れるわ」
そう言いながら今の私はアデルではなく、すっかり伯爵令嬢メアリーだと思う。アデルなら気にしないだろうから。
いや、情熱的なフランス語はアンドレを思い出す。帰国後も何度か彼は私に手紙を送ってきた。
ミス・ゴドウィンは今度は歌詞をつけずに「るるる〜る〜るる〜る」と歌いだした。
そしてメロディを覚えたらしいスーザンも小声で一緒に歌いだした。
私は2人の歌声を聞きながら、机の抽斗から持ってきたスケッチブックを取り出した。捲ると2枚のオルフェを描いた絵が出てきた。真剣な表情でこちらを見ているもの、笑顔のもの。
上手くはないけれど似てはいると思う。
オルフェは母ディアーヌ似だという。確かに父であるマンスフィールド子爵には似ていない。この絵をもしルーアン公爵に見せることができたなら、オルフェが自分の孫だと分かるだろうか?
心配なのは、ディアーヌは幼い頃に養女に出されて、ルマーニュの政権交代で父娘はそれぞれ別の国に亡命し、生き別れてしまったことだ。親子の絆は薄い。孫のことなど彼は興味はないかもしれない。
明日は晴れるだろうか?
雨も風も止む気配はなかった。私たちがブリッジミアの嵐を連れてきたようだった。
晴れたら昨日公爵を見かけた浜辺の方へ行こう。
魚竜の化石の見つかった崖の方にも行きたいけれど、嵐の後では危険なのだろうか?
それから…
それから突堤にも行こう。
もう一度あの少年に会えるかもしれない。
私は助けてくれた彼に改めてお礼を言いたかった。結局お互いに名乗らないまま別れてしまった。
互いに目を見開いたままキスした一瞬の後、彼は顔を赤らめ、慌てて私から顔を逸らした。
「ごめん!たいへん失礼なことをした」
少年はいい仕立ての灰色の冬のコートを着ていた。言葉使い、仕草からも明らかに良家の出身だった。だから別の世界の貧しい農民であったロバートであるはずがない。
でも似ていた。長い睫毛、大きな黒い瞳、高い鼻、細い顎。逸らした横顔までも。
遠い思い出の中で忘れてしまった声まで似ている気がした。
「ううん。気にしないで」
私は言った。そういう私は気にしているけれど。
事故とはいえオルフェとの約束を破ってしまった。
幸いもう高い波は来ないようだった。
「もう大丈夫かしら?」
「そうだね」
彼はゆっくり立ち上がり、座ったままの私に手を差し伸べた。
「立てる?」
「ええ、ありがとう」
私は彼の手に掴まり、ゆっくり立ち上がった。
彼は自分のコートを脱ぎ、私にかけてくれようとして、はっと気付いた。
「ごめん。ずぶ濡れだ」
「私をかばったせいで」
「そんなことないよ。歩ける?」
彼は仕方なく濡れたコートを着直すと、再び私の手を取った。
「霧が出ているから手をつなごう」
「ええ。傾いている方に行かなければいいのよね」
突堤の上の道は海の方に傾いている。
「うん。でも海側だけでなく、片側の塀になっている方も危ないよ。以前、勇気を見せようとそこから飛び降りた令嬢がいて大怪我をしたから」
「え?そうなの?」
私はアデルであった時、ベックフォースの小さな崖を平気で飛び降りていた。けれど、草の生えた大地と石畳では降りた感触はまったく違うだろう。
その時、霧の向こうから「お嬢さま!メアリーお嬢さま!どこにいらっしゃいますか?!」と、スーザンの声がした。
「私の侍女だわ」
少年に言うと、注意深く右の方を見ていた少年が言った。
「ここが階段だ。ゆっくり降りて」
私は霧の向こうに叫んだ。
「スーザン!スーザン!ここよ!突堤の上にいるの。今、降りていくわ」
そして「ありがとう」と言ってつないでいた少年の手を放すと、階段を降りて行った。
少し道を行くとスーザンが駆け寄ってきた。
私はスーザンに抱きついた。
「お嬢さま、よかった!霧が出てきてどんなに心配したことか」
「私は大丈夫よ。でも突堤で霧が出てきたので少し怖かったわ。あの子が助けてくれたの」
「あの子?」
スーザンが不思議そうに言うので振り返ると、防波堤の階段の方にも、石畳の道にも少年どころか全く人の姿はなかった。
ふとロバートの魂が私を救いに来てくれたのではと思った。
翌日も雨は止まなかった。
私が泊っているホテルはこの街で一番高級だそうなので、友達になれるような同じ年ごろの子どもが泊まっていないか、ホテルの人に聞いてみたが誰もいないと首を振った。
地元の良家の子息なのだろうか?
たとえばアリスが言っていたルーアン公爵が滞在している領主のバタシー家とか。
天候が悪いせいかその夕方、また熱を出してしまった。本当に弱くて嫌になる。
ベッドに寝た私にスーザンが優しく言った。
「お嬢さま、明日はお天気になるそうですよ。そして明後日には旦那様が来られます。どうかお元気になってください」
私は頷いた。
父が来る翌日、4日後は私の誕生日だ。
ブリッジミア以外で初めて迎える私の誕生日。
翌日はスーザンが言った通り、穏やかに晴れた。
熱が下がったばかりだからもう少しゆっくりされたらとスーザンに心配されたが、私はルーアン公爵に早く会いたくて浜辺に行くことにした。
けれど朝食の後に行った浜辺には公爵の姿はなかった。
がっかりした所に、ワンワン!という犬の声と共に、アリスと犬のライトニングが現れた。
アリスは先日と同じように、大きなバッグとハンマーを持っている。化石を取りに来たのだろう。
「おはようございます」
アリスはにこやかに言った。
「おはようございます。今日は化石を取りに?」
私が言うと、アリスは頷いた。
「嵐の後は化石がよく見つかるんですよ」
「私も見つけたいわ」
「そうですね…」
アリスは私たちの姿を上から下まで見た。
「靴はブーツとか歩きやすく、足を傷つけにくく、濡れにくいものがいいでしょう。よろしければ後ほど靴屋をご案内しますわ。服装も汚れてもいいものがいいと思います」
そして彼女は笑顔で言った。
「化石は逃げませんよ。今日崖や石の多い所に行ってお嬢さまが見つけやすい所を探しておきますね」
今日も無理か。私は少し残念だったが、昨夜は熱も出たので我慢することにした。
海はきらきらと輝いていた。私は前世も今世も泳いだことがなかった。
前世でアナ伯母は牧師の娘だからと、川でさえ泳ぐことは禁止した。
美しい海を見ていると今は冬だから無理だけれど、一度海で泳いでみたいと思った。
カモメが数羽、空を飛びながら鳴いている。
私は小さく歌いながら、浜辺で足だけでワルツを踊ってみた。
歌は昨日ミス・ゴドウィンが歌っていた「ジュ・トゥ・ヴー」を鼻歌で。ワルツ調べなので踊りやすい。
* * * * * * *
カーミラはラエルが「ジュ・トゥ・ヴー」を歌いながら、踊っているのをみて絵になるわと思った。
そして男性版の「ジュ・トゥ・ヴー」の歌詞がラエルに似合うことに気付いた。
カーミラは歌いだした。
金色の天使 僕を酔わせる果実 魅惑的な瞳
君を僕にくれ。君が欲しい
恋人になってくれ
僕のつらい気持ちをいやすために
来ておくれ、ああ、女神よ
僕は僕たち2人が幸せになれる
かけがえのない瞬間を求めている
君が欲しい
「すてきな歌だね」
歌うカーミラの後ろから声がした。
「そうでしょう?」
そう言ってカーミラはその声が誰であるか気付いた。
「え?」
驚いて振り返った。
「オルフェさん…」
ラエルもまた振り返った。
「オルフェ!オルフェなの?」
オルフェは笑いながら手を振った。オルフェは旅の服装だった。
「来ちゃったよ!君の誕生日にどうしても会いたくて!」
「え?誕生日って明後日よ」
ラエルは自分でこんな時になんて間抜けたことを言うんだろうと思った。
「1日でも早く会いたかったんだ」
オルフェは浜辺を走ってラエルの元に駆けよると、彼女を抱え上げた。
「今の曲はワルツ?踊ってみようか?」
そして2人は浜辺で踊り出した。
カーミラは2人の動きに合わせて「ジュ・トゥ・ヴー」を歌詞をつけずに「るるる〜る〜るる〜る」と歌いだした。
そう言えばこの男性版「ジュ・トゥ・ヴー」、ルイ・オルフェにも合ってるかもと思いながら。
* * * * * * *
その美しい髪は
後光として君を包む
その豊かなブロンドは
女神の金色
僕の心は君の心に重なり
君の唇が僕のものに
君の身体が僕のものに
僕の身体のすべてが君のものであるように
メアリーがデッドロック館からモンタギュー伯爵邸に戻ってから2ヶ月が過ぎた。
スーザンが戻ってきたことで精神的に少し安定してきたが、なぜかフェリシアがメアリーにつきっきりのため、スーザンと2人きりであまり話せなかった。
一方でメアリーとフェリシアはお互いに嫌い合っているはずなのに、いつの間にか不思議と友情のようなものが生まれていた。
メアリーがフェリシアのイニシャルとバラの花を刺繍したハンカチをプレゼントするとフェリシアはとても喜んだ。
けれどこの2、3日ほどの間、フェリシアはいつものようにメアリーに1日中付き添うことはなかった。この館の女主人でもあるし、病人にずっと付き添っているのも飽きるだろう。
メアリーは見えないようナイトドレスの中に入れ、かけていたペンダントを取り出した。スーザンがルイ・オルフェから預かったという、アンモナイトの化石のペンダントだ。もしもメアリーに会うことがあったら、お守りだと渡してほしいと言われたそうだった。
彼はアーク・リージスに行った。私を探しに。彼に子どもの頃にアーク・リージスに行ったことを話したのは一度だけだった。なぜ私がそこに行ったと思ったのだろう?しかも健康だったなら私は行くはずだった。
考えているうちに、屋敷内がざわついていることに気付いた。
メアリーは呼び鈴を鳴らそうかと思ったが、思いついてガウンを羽織ると、部屋を出て階段の方に行き、玄関ホールを見下ろした。
大量のバラの花が屋内に持ち込まれようとしていた。執事のスティーヴンスが何か困ったように配達人たちと話していた。数人集まったメイドたちも困惑しているようだった。
何の花だろう?今日は何かあっただろうかとメアリーは思ってはっとした。
今日は自分の誕生日だ。
フェリシアがこの何日間かそわそわしていたのもきっとそのせいだろう。
「スティーヴンス、どうしたの?」
メアリーは階段を降りて行った。
「ああ、こちらがマンスフィールド子爵夫人でしょうか?」
配達人が言った。
「お誕生日プレゼントです」
「まあ!」
フェリシアだろうか。それとも兄からだろうか。とても嬉しかった。
「持ってきてよろしいでしょうか?」
メアリーは頷いた。
「ええ。嬉しいわ」
けれど扉の向こうから、さらに3人の配達人が入って大量のピンクのバラが持ち込まれたのはさすがに驚いた。
「真冬なのにこんなにたくさんのバラを?」
最後にバラを運んだ配達人がメアリーにカードを渡した。
「愛する妻ラエル、お誕生日おめでとう!
一緒に過ごせないのがさびしくてならない。
今は一月ほどセレーナベリに行っている。
デッドロック館の方にプレゼントがあるから
ぜひ受け取ってほしい。
ルイ・オルフェ・マンスフィールド」
そう、きみの瞳の中に見える
神聖な約束
君の愛する心は
もう僕の愛撫を怖がらないで
僕たちは永遠に抱き合い
同じ炎の中で焼きつくされ
愛の夢の中で
魂を交換し合おう
「奥さま!やっぱりいらっしゃった!」
花の配達人の後ろから元気な少女の声がした。
「デイジー!」
デッドロック館の12歳のメイド、デイジーがいた。
メアリーは慌てた。
ルイ・オルフェは妻が出て行ったことについて使用人たちにどう言っているかは分からないが、自分はここにいないことになっている。
ルイ・オルフェが不在だとしても、執事のジャクスンに報告すれば、どんなことになるだろう?
「お誕生日おめでとうございます!デッドロック館にプレゼントを用意してるんです。旦那さまと秘書さんは領地にお出かけでいません。裏口から入れば執事さんにも会わなくてすみます。旦那さまには奥さまに会ったことは絶対に言いません。だからぜひデッドロック館にいらしてください!」
「どういうこと?ルイに命令されたんじゃないの?それなのに彼には報告しないの?」
「旦那さまは奥さまにもし会えたら伝えてくれって。でも奥さまが望まないのなら、自分にも誰にも報告しなくていいと仰ってました。あたしは絶対に言いません!」
デイジーは両手に拳を作って力説した。
兄夫婦は出かけていた。
メアリーの心は揺れた。
そう、あなたの瞳の中に見える
神聖な約束
あなたの愛する心が
私の愛撫を求めてくるから
私たちは永遠に抱き合い
同じ炎の中で焼きつくされ
愛の夢の中で
魂を交換し合いましょう
シャンソンの「Je te veux」を自己流に訳していたら更新が遅くなってしまいました。
「ジュ・トゥ・ヴー」については23話「初めてのキス」でもちらっと出てきます。