36.翡翠とエメラルド
「かわいいラエル」
父に久しぶりにラエルと呼ばれた。
スーザンと話した2日後のことだった。今朝も私の世話をしてくれたのはスーザンではなくヘザーだった。昨日も今日もスーザンを見ていない。
ベッドでの朝食後、父が来た。
部屋にはミス・ダウニングとヘザーがいたが、2人にはしばらく出ていってもらい、父と私だけになると父は私が小さな頃のように優しく頭を撫で言った。
「スーザンはここを出ていくそうだよ」
私はしばらく何も言えず俯いた。
「驚かないのか?」
「なんとなく…スーザンの態度がおかしかったから」
スーザンは父にはあの事故のことは何も言っていないと言った。父がどこまで察しているかは分からないが、私からは何も言うつもりはなかった。
「でも出ていくのは今すぐではないのでしょう?引き継ぎもあるでしょうし、シュザンヌの時は3ヶ月前に教えてくださったわよね?」
父は優しく微笑むと言った。
「5日後だよ」
信じられなかった。スーザンは17歳で死ぬメアリーを看取り、息子のレイモンドの乳母となるのだ。ここで退場するはずがなかった。
私は堪えきれずに泣き出した。
父は再び私の頭を撫でてくれ言った。
「スーザンはドルトンのメアリー・オクタヴィアの所に行くんだ」
え?
思いがけない言葉に、私は驚いて父を見た。
「オクタヴィア伯母さまの所に?」
「オクタヴィアの家の侍女が辞めたばかりでね。優秀な侍女を探していて、スーザンも以前からドルトンで働きたいと言っていたから推薦したんだ」
そう言いながらハンカチで私の涙を拭ってくれた。
「かわいいラエル。スーザンは家が嫌で辞めるんじゃないんだよ」
「本当に?」
「もちろんだよ。5日後にオクタヴィアとドルトンに行ってしまうけれど、手紙も書けるよ」
父は私を抱きしめ優しく言った。
父のような優しい、相手を思うだけの愛し方もあるのだと初めて知った。私がアデルだった頃見た数少ない恋愛、兄セドリック、姉セーラ、それからアンドレ、おそらく私自身もみんな勝手だった。相手やその周囲のことも考えず、自分の愛だけを主張した。
* * * * * * *
私の怪我もあり、開かれる予定だった父の誕生日パーティは中止になった。
集まった親族たちも祖母の墓参を済ませたので帰ることになった。
メアリー・オクタヴィア伯母とスーザンは3日後だが、ダニエルたちホーソン子爵一家は明日だった。
今日も私のお見舞いにオルフェとフェリシアが来てくれた。
「愛してる。ラエル」
オルフェの顔を見た瞬間に夢で聞いた言葉を思い出してしまい、目を逸らした。あの言葉は彼ではなくルイ・オルフェだ。しかも本当に夢かもしれないのに。
私はフェリシアに話しかけた。
「フェリシア、遅くなってしまったけれどお兄さまの奥さまが亡くなったことを聞いたわ。お気の毒に」
フェリシアは深い溜息をついた。
「あたし、奥さんとは一度も会ったことがないのよ。実感がわかないわ。近いうちにヒューが子どもと一緒にデッドロック館に戻ってくるそうなの。奥さんが亡くなったショックでお酒に溺れていて、赤ちゃんもほったらかしで、心配したご友人から連絡があったのよ。だから仕方なく面倒を見ることになったの。どうなることやら」
「赤ちゃんは男の子?女の子?」
「女の子だって」
そしてちょっと怒ったように言った。
「それでね、その子、なんとファーストネームはあたしと同じフェリシアだって。亡くなったお母さまの名前もフェリシアだから」
「私のファーストネームもお祖母さまの名前を取ってメアリーだし、上の伯母さまもメアリーよ。でも同じ名前が一緒にいると混乱しそうね」
「もうミドルネームのリネットって呼んでるわ」
ああ、やっぱり『デッドロック館』の後半のヒロイン、フェリシア・リネットだ。生まれるのが少し早いけど。
その時、ドアがノックされ、ダニエルが入ってきた。
「こんにちは」
そしてフェリシアとオルフェに言った。
「明日帰ることになったんだ」
「寂しくなるわね。また1年くらい会えないのかしら?」
私は言った。
ダニエルはパブリックスクールに通っていて、休暇も友人の家に行ったり、逆に招待することもあった。
「それは残念ですね」
いつも無表情で交流に消極的なオルフェが珍しくにこやかに言った。
「うん。でもラエルの誕生日の頃、また来るよ」
「え!?」
私たち4人全員が思わず言った。
「今回は訪問を早く切り上げてしまったし、せっかく君たちと仲良くなれたし、次はヘクトルと2人で来るよ」
「大雪になるわよ」
「悪くないね。みんなで雪合戦でもしようか」
13歳の誕生日は賑やかになりそうだ。
「ところで伯母さまのお加減はいいの?」
「なんとか大丈夫。まあ病気じゃないし」
とダニエルは笑った後に、小さい溜息をついた。
エリザベス伯母は伯爵邸に着いた翌日から体調を崩していた。
医者を呼ぶと、ダニエルとヘクトルにもう1人きょうだいができることが分かった。
18歳で結婚した伯母はまだ36歳だ。
高慢な貴婦人の伯母は少女のように顔を赤らめると、ダニエルとヘクトルの時と同様に夫に一番に知らせたいと、医者と医者を呼んだ伯爵家の使用人たちに口止めした。
昨日夫であるジェイド・ホーソン子爵から伯母に宛てたバラの花束と喜びの手紙が届いたので、伯爵家でも発表になった。
ダニエルはフェリシアとオルフェにも新しいきょうだいについて話すと少し困ったように言った。
「弟か妹が生まれたら僕と18歳違いだよ。僕が生まれた時、父は18だったんだよ」
「あなたもご結婚したら?お相手はいないの?」
フェリシアが言った。
「ラエル、いつにする?4年後くらいかな?」
ダニエルはフェリシアではなく私の方に言ってきた。
美しい緑の瞳が悪戯っぽく笑っていた。
ダニエルの言う、私とダニエルの結婚は私が7歳くらいからの冗談だった。
ところが今回のメンバーで笑う人はいなかった。まさか本気にしているのかしら?私はまだ12歳なのに。
私だけが笑って言った。
「その前にロマンチックなプロポーズをしてちょうだい。1回もしてないわよ。ところであなたは弟がいいの?それとも妹?」
「妹かなあ?ラエルみたいにかわいい女の子」
いつからこんなプレイボーイっぽくなったのか。美形でフェミニストの彼の父親に似たのかもしれない。
ダニエルの明るい笑顔を見ながら、心の中で彼には絶対言えない言葉を呟いた。
ねえダニエル、多分もうあなたには妹がいるのよ。
ヘクトルと同じ年の。
体調を崩したエリザベス伯母のために、医者を呼び彼女を看病したのはスーザンだった。
私たちよりも先に伯母の妊娠について知った。
私は父より素晴らしい大人の男性を知らないが、美貌だけはエリザベス伯母の夫であるジェイド伯父を好む人もいるだろうと思う。
太陽神アポロンの再来などと言われるような華やかな美貌で、特に宝石のように美しい緑の瞳が印象的だった。伯父の母は彼が生まれた時、その瞳の美しさに、多くの貴族のように父親や祖父の名を取らず、宝石の翡翠と名付けた
私の心の中など知らないダニエルは私の部屋を見回して言った。
「ところで…これ何?」
机や棚の上にたくさんの小瓶が置いてあった。
「フェリシアとオルフェがお見舞いにって持ってきてくれたのよ」
小瓶は3日前に3つオルフェが持ってきてくれたが、私がとても気に入ったので、昨日フェリシアと一緒にたくさん持ってきてくれたのだ。
ダニエルは祖母の墓参に行っていたので知らなかった。
「ふうん。オルフェとフェリシアがね」
ちらりとオルフェを見た後、私が言った2人の名前の順番を逆にして言った。どう見てもオルフェ単独の贈り物だった。
ダニエルは再び小瓶を見回すと言った。
「愛だなあ。探すのたいへんだっただろう?」
その時またドアがノックされた。
「お嬢さま、入ってよろしいでしょうか?」
ミス・ゴドウィンだ。
「どうぞ」
私が言うとミス・ゴドウィンが入ってきた。
「こんにちは。パーディタ」
ダニエルはミス・ゴドウィンをそう呼ぶことに決めたようだ。
「もう少し長くいたかったな」
* * * * * * *
首都ドルトンにある、孤児や片親の少女が学ぶスラップストン慈善学園では、2人の7、8歳の幼い少女が肩を寄せ合うように一冊の古ぼけた本を読んでいた。
お揃いの茶色い服に長いエプロン、髪は二人ともこれ以上ないくらいきつく上にひっつめられていた。2人とも育ち盛りだと言うのにとても痩せていた。
その時、片方の少女が年長の少女から声をかけられた。
「エミー、園長先生が呼んでいるわ」
エミーと呼ばれた少女は顔をあげた。
貧しい服装をしていたが、緑の瞳のとても美しい少女だった。
「エマ、すぐに戻ってくるわね」
エミーは年長の少女と共に園長室の方に向かった。
戻ってくると、先ほどとは打って変わった上等の青い服を着て、髪もひっつめ髪からおさげになっていた。顔は興奮で赤くなっていた。
「どうしたの?」
エマは聞いた。
「お母さんが私を引き取りに来るんですって!この町に住む伯爵令嬢の元で働くことになって一緒に住もうって」
「ああ、エミー、あなたはここから行ってしまうのね」
エマは泣きそうになった。
エミーはこの学園の中で、エマのまだ短いながら幸せでない人生で、最初にできた大切な親友だった。
「お母さんはあなたがこんな学校にいるって知らなかったのよね」
エミーの母はエミーを自分の姉に預け、田舎の他の伯爵家で働いているそうで、エミーの母は娘の生活費として十分すぎる金額を送っていたが、伯母の農家が干ばつでうまくゆかなくなりエミーに使われるはずだったお金も無断で借金の返済にあてられてしまった。
娘に良い学校で教育を受けさせたいという母の願いも勝手に変えられて慈善学校に送られてしまった。
「エマ・グリーン、ここから出たら、この学校がどんなにひどいかお母さんに伝えるわ。絶対にあなたを救うわ」
「いいのよ、エミー。そうだ、あなたは本当はもっとすてきな名前だったわよね」
「ええ。エメラルドよ。宝石の名前。お母さんがつけてくれたの」
2人の少女は抱き合った。
「大好きなエメラルド、救いに来なくたっていいわ。あなたが幸せならいいの。でも手紙をちょうだいね。きっとよ。親友はずっとあなただけだわ」
エメラルドは頷いた。
エマ・グリーンは知らなかった。知るはずもなかった。
自分が世界名作文学、セーラ・グレイ作『エマ・グリーン』の主人公であることに。
そして親友エミーことエメラルド・ジョーンズがこのまま学園にいたら3ヶ月後に学園に蔓延したチフスで命を落とすはずだったことも。
登場があまりに前なので忘れられそうですが、セール・グレイはラエルの前世アデルのお姉さんです。
後ほど加筆修正します。