35.幽霊の正体
私は看護師のミス・ダウニングの苦い水薬を飲んだ後、翌日の昼過ぎまで眠った。
目覚める少し前にぼんやりとした夢を見た。
私はベートーヴェンの月光ソナタを弾いていた。第一楽章の終わり、後ろから誰かが私の髪に優しく触れ、そして首に、肩にキスをした。
ピアノにベートーヴェンのソナタ…。アンドレだろうか?
そのキスに私は甘い気持ちでいっぱいになり幸せだった。
「愛してる。ラエル」
そう聞こえたけれど、ラエルではなくアデルかもしれない。
けれど私はアンドレに心を揺さぶられはしたが、こんなにも純粋に甘い気持ちにはなったことがなかった。
だが私が目を覚まして一番に考えたのは、この夢ではなく、最初の眠りに落ちながら見た、メアリーとフェリシアの夢だった。
夢の中でメアリーがフェリシアから与えられた飲物が気になってならなかった。よく眠れると言っていたけれど、飲んだ後にひどく体が重くなったのは何だったのだろう?
ハーブティーではなかった。そもそも体に良いハーブティーだったとしても、不眠に効くカモミールは早産を引き起こすとして妊婦にはよくなかった。
メアリーは身重で伯爵邸に戻った後、体調を崩し、レイモンドが生まれるまでフェリシアが献身的に看護をした。善意で眠れる薬をメアリーに飲ませたのかもしれない。
けれどそれは妊婦と胎児に良いものだったのだろうか?
不安が押し寄せる。
メアリーは妊娠7ヶ月の早産だった。
メアリーは出産後に亡くなり、レイモンドは生まれつき体が弱かった。
すべては想像だ。
お茶を飲んだのはあの一度だけだったのかもしれない。
そしてもう一つ気になるのはその後のフェリシアとメアリーの会話だった。
「オルフェは背中にひどい傷があったわ…。胸には火傷が。あなたのお兄様がつけたのよ。なぜ2人で逃げなかったの?無理なら彼だけでも逃がして、あとで迎えに来てもらえばよかったのに…」
「オルフェ?あんたもそう呼ぶの?」
メアリーがルイ・オルフェをオルフェと呼んでいた?
作者である私の知らなかったことがこんなにあるものだろうか?
ベッドから動けないと、夢のことばかり考えてしまう。
その時、ドアをノックする音がした。
「お嬢さま、入ってよろしいでしょうか?」
スーザンの声だ。
「ええ、入って」
今日は1日彼女を見ていなかったのでほっとした。
スーザンが入ってきた。
「お加減はいかがですか?」
「大丈夫よ。ミス・ダウニングが眠くなる薬を飲ませるものだから、いっぱい眠っちゃった」
私が怪我をしてからはお医者さまや看護師のミス・ダウニング、その他複数のメイドが私の看護をしてくれて、スーザンと2人になるのは久しぶりだった。
スーザンは黙って俯いた。彼女に私は言う。
「もう大丈夫だから。気にしないで。私が誤って落ちただけ」
スーザンは静かに首を振った。
「いいえ。お嬢さま。私が悪いのです。お嬢さまは…」
そして顔をあげて私をじっと見つめた。
「私を庇ってくださったのですね」
「違う。私が悪いの。勝手に落ちたのよ」
「でも手を振り払われた…。驚かれたのでしょう?すみません。本当にすみません」
あの晩私が見た幽霊。それはスーザンだった。
スーザンはあの時間、2人一部屋の使用人の寝室で眠っているはずだった。相部屋だったシンシアが退職して今は1人だったが。
それなのに2階の廊下を歩いてきた。
父の部屋から出て。
幽霊を見る気持ちだった。大好きな2人が?
「お父さまと?」
スーザンは頷きかけて、すぐに首を横に振った。
「信じていただけないかもしれませんがあの日だけです。本当に」
父と母は私が物心ついた頃は既に寝室を別にしていた。愛も信頼もあったけれど、子どもは2人で充分らしかった。
私の自慢の美しい父は私を溺愛した。子ども部屋によく来てはお話を聞かせてくれ、一緒に遊んでもくれた。もちろん私のことは愛していただろう。けれどスーザンにも会いにきていたのかもしれない。父はいつも楽しそうだった。
「一度だけ?でももっと前に…。私が小さかった頃…」
「お嬢さまのお小さい頃?」
そう。なぜスーザンを幽霊と思ったのか。
ずっと昔にあの階段で見たことを思い出したのだ。
それは4、5歳の頃の記憶。私がメアリー・ラファエルに憑依する前の。完全にメアリーの記憶だ。
その頃はスーザンが一緒に寝てくれることが多く、その日の朝もそうだった。早朝、おねしょをしてしたことに気付いて目が覚め、泣きそうになって横を見るとスーザンがいなくて、やはり一緒に寝ていた人形を抱きかかえ探しに行った。
階段の一番上に座り込んで泣いているスーザンがいた。そして彼女に誰かが声をかけたのが見えた。
スーザンは驚き、立ち上がった勢いで階段からすべりそうになったのを、その人が抱き留めた。スーザンが慌てて謝ろうと口を開きかけた所を、その人物は彼女の頬を両手で包むとキスをした。
メアリーは人形を落とした。2人はメアリーを見た。
スーザンと父だった。
「メアリーお嬢さま…」
「スーザン、わたし、おねしょしちゃったの…」
メアリーは泣きながら言った。
スーザンが駆け寄ってきた。
スーザンに抱きしめられたので視界から父の姿は消え、会話することなくいついなくなったかは分からなかった。
そしてメアリーの記憶と自分が覚えている限り、それ以降、父のそんな行動は見なかった。
だから忘れていた。
「階段でのことでしょうか?」
私は頷いた。スーザンも覚えているのだ。
「覚えてらっしゃったのですね。ご記憶に残らないようにと願っていたのですが。本当に申し訳ございません」
スーザンは涙を浮かべた。
「信じていただけないかもしれませんがあの時も…。本当にあの時だけだったのです。私には…」
スーザンは少し躊躇したが言った。
「私には少女の頃からお付き合いしている方が他にいました。同じ方に2度失恋したのです。そしてどちらも相談に乗ってくださり、慰めてくださったのは旦那様でした」
「スーザン、こっちに来て」
スーザンは私のベッドのすぐ横に跪いた。私は両手を差し伸ばしスーザンの両手を握った。
「昔のことなんてずっと忘れていたわ。今思い出したばかりよ。スーザンのこともお父さまのことも嫌いになんてなったりしないわ」
そう言いながら私も泣いてしまった。
「だから行かないで。お願い」
分かっている。スーザンは伯爵家を出ていくつもりだ。
スーザンの目が揺れた。
彼女は迷っているようだった。しばらくして静かに言った。
「お嬢さま。私には子どもがいるんです」
「え、子ども?」
さすがに驚いた。
「え〜と、その長い間の恋人だったという方の?」
スーザンは頷いた。
「お嬢さまが階段の私のことをご覧になった時、子どもができたことで悩んでいたのです。結婚できない方でしたから」
階段で泣きじゃくっていたスーザン、そういうことだったのか。
「あの後で旦那様が休暇をくださって私が無事に出産できるようにしてくださったのです。しかも戻ってきてほしいと。子どもを連れてきてもいいとも仰いましたが、未婚でしたのでお屋敷に戻るために姉に預けました」
そういえば私が小さかった頃、スーザンは数か月ほどご家族の看病ということで伯爵家を離れたことがあった。その頃はシュザンヌがいたからまだ寂しさも紛れたけれど。
「旦那さまは私を軽蔑してもおかしくないのに…。それなのに」
父はそんなにスーザンが好きなのだろうか?
「その方はお子さんのこと、知っているの?」
「言えませんでした」
なぜだろう?とにかく既婚者でスーザンにこんな思いをさせるなんて最低な男だ。
「お子さんは男の子?女の子?幾つなのかしら?」
「8歳の女の子です」
「スーザンの娘さんならきっとすごくきれいな子でしょうね」
スーザンはようやく少し微笑んでくれた。
「8歳なら今家にいるヘクトルと同い年ね。会いたいわ」
私は何気なく言った言葉がスーザンにどんな衝撃をもたらしたかまったく分かっていなかった。
「スーザン?」
スーザンは目を見開き青ざめた。
「お子さんを、スーザンの子どもとしてではなく、姪御さんとか親族としてここに呼んで暮らせないかしら?私はスーザンにいてほしいし、幸せになってほしい…」
そう言いながら私はスーザンがひどく動揺しているのに気付いた。
「スーザン?」
その時、ちょうど部屋をノックする音が聞こえた。
「お嬢さま、お目覚めですか?」
看護師のミス・ダウニングだ。
私はスーザンに小声で言った。
「また後でお話ししましょう。でもお願いだからずっとここにいて」
そしてミス・ダウニングに「ええ、どうぞ」と言った。
翌朝、中心になって私を世話してくれるメイドはスーザンではなくヘザーだった。
午後になってもスーザンは来る気配はなく、ヘザーに手伝ってもらって松葉杖を使ってピアノの所に行き、久しぶりに弾き始めた。
昨日見た夢を思い出して、ベートーヴェンの月光ソナタを弾いた。
ドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」と言ってスーザンを期待したけれど入ってきたのはヘザーだった。
「お嬢さま。マンスフィールド家からルイ・オルフェ様がお見舞いにいらっしゃいました」
「オルフェが?フェリシアも一緒?」
「いいえ。お一人でいらっしゃいました」
オルフェが一人で私に会いに来たのは多分初めてだった。
「ベッドに戻られますか?」
ヘザーが言った。
「ううん。このままピアノを弾いているわ」
しばらくしてドアが開き、オルフェが入ってきた。
「こんにちは。ラエル」
オルフェは大きな肩掛けカバンを掛けている。
「君のピアノを聴くのは久しぶりな気がする。とてもきれいな曲だね。ラエル」
そう言いながら私の後ろに来て、楽譜を覗き込んだ。
「なんていう曲かな?」
ピアノを弾いている私の手が一瞬止まった。
「ラエル?」
「ベートーヴェンの月光ソナタよ。気に入った?」
私はそう言いながら夢を思い出していた。
「愛してる。ラエル」
あの声はオルフェだった。いや、『デッドロック館』のルイ・オルフェだ。
ルイ・オルフェはメアリーをラエルと呼んでいたのだ。
しかも愛してると。
ラエルとオルフェ、ルイ・オルフェとメアリーもまたそう呼びあっていたのだ。
* * * * * * *
居間でメアリーが月光ソナタを弾いた後、ルイ・オルフェとメアリーは寝室でたっぷり愛しあった。
その後まだ日が高かったのでルイ・オルフェは畑で土作りをしているホレスと臨時で雇い入れた農夫たちの様子を見に行った。
ブリッジミアの土地は固く痩せていて、作物を育てるのに適していなかった。
よく耕し、牛ふんたい肥や腐葉土、石灰等を混ぜ、少しでも柔らかい土を作った。それはかつてルイ・オルフェが下男をしていた頃はそれも彼の仕事の一つだった。
最初は領主としてホレスの話を聞きながら土の状態を見ていたが、土の状態を知るために彼らに混ざって土を耕した。
泥だらけになって汗をかいたので、臭くなっただろうなと、川へ行って、シャツを脱ぐと飛び込んだ。
体の火照りが治まって気持ちがよかったが、背中が少しひりひりした。
ルイ・オルフェは「やっぱり痛いな」と笑った。
「ごめんなさい。ごめんなさい。痛いでしょう?」と謝ったメアリーを思い出した。
愛し合った後で、ルイ・オルフェの背を見て、メアリーは小さな悲鳴を上げた。
最中に彼の背中を思いっきり引っ掻いて傷を作ってしまったのだ。ルイ・オルフェにとって愛する人につけられた傷などむしろ嬉しいくらいなのに。
鏡を見て笑った。
「ヒューにつけられた傷より赤くなってるな」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
メアリーは両手で顔を覆った。
そしてその後に傷痕に塗り薬を塗ってくれた。
他に胸にも彼女がつけたキスの痕が残っていた。こちらもヒューがつけた火傷の痕よりも鮮やかだった。
いつから彼女に惹かれたのだろう?
自覚し始めたのはメアリーが火傷痕にキスをした時だった。
いやもっと前だ。
セレーナベリの農家の子羊を優しい笑顔で撫でている姿を見た時だろうか。
違う。さらに前だ。
フェリシアと伯爵邸に忍び込んだ日、ピアノを弾いている彼女を目にした時、なんてきれいなんだろうと思った。その後で泥棒のロマの子どものようと言われて激しく憎んだのは、今思えば好意を持ったからこそだった。
彼女が小綺麗な紳士を望むなら紳士になろう。王子を望むなら王子になろう。
先日村に行った時、ホレスがいい店だと褒めていた理髪店を見つけた。ルイ・オルフェは髪など無頓着で、昔はナンシー、軍隊にいた時は自分で、今はロイド夫人が切ってくれていた。
専門の理髪店で切ったらメアリーは気に入ってくれるのかなと入って見ると、既に他の客の髪を切っていた理髪店の女主人が飛んできた。こんな美青年の客は初めてだった。既にいた客は露骨に不満そうだったが、弟子の少年に任せた。
「どんな髪型にしましょう?」
とにこやかに微笑む女理髪師を見て、なぜホレスが絶賛したかルイ・オルフェは分かった。胸も尻も大きいひじょうな美人だった。
少し困ったものの「任せるよ」と言った。
大丈夫かと心配したが、彼女の腕は確かで、美青年をもっと美青年にとはりきったこともあってとてもきれいに切ってくれた。切る時に滑らかな腕や大きな胸があたったが、特に官能的なことは何も感じなかった。
改めてこんなにも求めるのはメアリーだけだと気付いた。古い傷も復讐さえ忘れるほど。
彼女を求める気持ちと体力がありあまって、力仕事で消耗させないと、1日中でも抱いてしまいそうだった。
フェリシアは毎日毎日、自分の部屋の窓からデッドロック館の方を眺めていた。
メアリーが当て付けがましく夫のオズワルドに宛てた手紙を持ってきた使者のデイジーには自分が流産して苦しんでいると伝えた。オルフェだって聞いたはずだ。
オルフェは心配して会いに来てくれるだろう。妊娠したことにきっと嫉妬しただろうから誤解を解かなければ。
ナンシーにデッドロック館を見に行かせたがどうやら夫婦仲はあまりうまくいっていないようだ。メアリーは手紙に幸せに暮らしていると書いていたが、見栄を張っただけらしい。オルフェもメアリーもお互い深く後悔しているだろう。いい気味だ。
デッドロック館の方から誰かがやってくる。黒髪の男性のようだ。
一瞬期待したが兄のヒューだった。
オルフェはヒューに酒代など渡さないから妹の自分に借りに来たのかもしれない。まあ貸してやって、さりげなくオルフェのことを聞こうと思った。