32.呼び名
ダニエルがヘクトルの手を引き連れて戻ってきた。
「あれ?彼女は?」
ダニエルは部屋を見回した。
「ミス・ゴドウィン?お母さまに呼ばれて行ったわ」
「ふうん」
ダニエルに連れられてきたヘクトルは、伯爵家に来た初日の傲慢さは少しもなく、ひどく怯え、俯いていた。
「ヘクトル」
ダニエルが弟を促した。
ヘクトルはようやく顔を上げ、ラエルを見た。
「僕、見たんだ。メイドたちがメアリーがたいへんだって叫ぶ前に、開かずの間のドアが閉まるのを」
「ありがとう。ヘクトル」
ダニエルが言い、オルフェとフェリシアはラエルを見た。
いったいどういうことだろう?幽霊ですって?
ラエルは思いがけない展開に戸惑っていた。あの夜、自分が階段で見かけた❝幽霊❞があの後に開かずの間に入ったということだろうか?そんなはずはなかった。あれは本当の幽霊ではなく人間だったのだから。
「ラエル、幽霊か人間かは分からないけれど、その誰かが呼び鈴を鳴らしたんだよ。そして君を助けてくれた」
そう言ったのはダニエルだった。
ラエル?
オルフェが眉をしかめ、フェリシアとラエル自身が怪訝そうな顔をした。少し前までダニエルはメアリーと呼んでいたはずだ。
「ラエル?誰?」
ヘクトルが聞いた。
「メアリーのことだよ。ミドルネームがラファエルだから。こちらの2人もそう呼んでいたしメアリー・オクタヴィア伯母さまもいるから、メアリーよりいいなと思って。響きがかわいいし。いいよね、ラエル?」
ダニエルって『デッドロック館』も含めてこんな軽い性格だったかしら?ラエルは呆然としながらも言った。
「も、もちろんよ。よければヘクトルもそう呼んでね」
とヘクトルに微笑んでみせた。
「うん。ラエル!」
その場が和んだ。オルフェ以外は。
なんだよ?このナンパ男は。従兄だからってラエルに馴れ馴れしすぎだろ? 心の中で憤りながらもオルフェは感情を無表情で隠し、先ほどから考えていたことを言った。
「ラエル、その開かずの間のことなんだけど…」
自分があの人影を見たのは、ラエルが転落する前の晩だった。
「その…僕も見たんだ。ラエルが怪我をした日の前の晩、遠くからなんだけど」
「前の晩?」
ラエルが驚いて聞き返した。案の定、フェリシアもひどく驚いている。
オルフェもできるならラエルと2人の時に話したかったが、怪我をしてからはラエルの傍にはスーザンの他にもう1人メイド、それに看護師の女性もついていて、見舞う時間も限られていた。
「え〜と、あの晩僕も夜の散歩をしていて、伯爵家の近くを通りかかったら見えたんだ。バルコニーから外を見ていた人影を。男か女かも分からなかったけれど」
夜の散歩など自分でもあやしい設定だったが、幸いそのことは誰も言及しなかった。
「それ、大人だったか子どもだったかは分かる?」
ダニエルが聞いた。
「分からない。でも小さな子どもではなかったと思う」
「亡くなったラファエル叔父上の幽霊なら12歳の子どもなんだけどな」
「僕が見たのも小さい子どもではなかった気がする」
ヘクトルも言った。
その時、カーミラが戻ってきた。
「みなさま、楽しいお話をしていたんですか?」
「うん。こちらのオルフェ君がラエルを恋い慕って、夜、伯爵家の周りを彷徨っていた話をしていた」
ダニエルが真顔で言った。
「な!ちがっ!」
本当は違わないだけに、無表情だったオルフェが初めて慌てた。何なんだ。こいつは!
「まあ!それはそれは」
確かに楽しいお話しだわ。
何か言いそうなカーミラをオルフェは必死に目で止めた。
「散歩だよ!散歩!それに世にも怖い幽霊の話だよ。ラエルが転落した前の晩、僕が夜の散歩をしていて、伯爵家の前を通りかかったら、開かずの間のバルコニーに人影を見たんだ」
「ええっ?本当ですか?」
自分が怖い目に合わなければ幽霊の話は楽しかった。
だが突然ラエルが話を変えた。
「ミス・ゴドウィン、お母さまのお話しって何だったの?」
オルフェはラエルのどこか元気がなさそうなことに気付いた。普段ならダニエルの発言に赤くなりそうなのに何も言わなかった。怪我が痛むのだろうか?
「奥さまが私にまた伯爵家のみなさまと食事を一緒にしましょうと仰ってくださいました。でも、私としてはよろしければお嬢さまがよくなられるまでこちらで頂きたいのですが」
「ぜひ!ミス・ゴドウィン」
ラエルは少し微笑んだ。
「ミス・カーミラ」
ダニエルが初めてカーミラに声をかけた。
「え?」
「確かそうご紹介いただきましたが。先日は母がたいへん失礼なことを言って申し訳ありませんでした」
「いえいえ、とんでもありません」
突然『デッドロック館』の語り手に声をかけられてカーミラは戸惑うばかりだ。前世では中学校から大学まで女子校でイケメンどころか男子そのものに免疫がない。
「僕とヘクトルもメアリーをミドルネームの愛称のラエルと呼ぶことにしたのですが」
「はい?」
家庭教師の私にわざわざ断らなくても。
「あなたのミドルネームは何でしょうか?」
「はい!?」
何を言うのだろうか?人懐こいというよりナンパ男だ。こんな兄の性格になれているらしいヘクトル以外は呆然とした。
「ないのかな?」
「いえ!いえ!パーディタです。カーミラ・パーディタ・ゴドウィン」
パーディタ、ラエルも3年近く一緒にいて初めてカーミラのミドルネームを知った。
「パーディタ!シェイクスピアの『冬物語』の王女ですか!きれいなお名前ですね」
ダニエルは嬉しそうに言った。
シェイクスピアのロマンス劇『冬物語』で、パーディタは物語の後半のヒロインだ。パーディタはシシリア王の娘ながら母ハーマイオニー王妃が不義の疑いをかけられたせいで捨てられ、羊飼いに育てられる。収穫祭りの日に、パーディタが羊飼いの家で集まった客たちに、水仙、桜草、スミレ、カーネーションなど様々な花々を手渡しながらそれぞれの花について語る「パーディタの花づくし」のセリフが圧巻だった。
前世の花音という名前と「パーディタの花づくし」の詩句は花でつながっていて、カーミラはこのミドルネームが気に入っていた。
その時、部屋をノックする音がして、ベテランそうな看護士のミス・ダウニングと若いメイドのヘザーが入ってきた。
「お話し中に申し訳ありません。もうそろそろお嬢さまをお休みさせないといけません。お顔色が優れませんわ。痛み止めをお飲みにならないと」
「ごめん、ラエル。また来るね」
ダニエルが言い、皆立ち上がったり、出ていく準備をした。
「ありがとう。今日は嬉しかったわ。みんなまたぜひ来てね」
ラエルは微笑んだ。
オルフェは最後に出ていき、ドアが閉まる前に振り返った。
手を振っていたラエルはもうこちらを見ていなくて、ひどく寂しそうに見え「ヘザー、スーザンは?」とメイドのヘザーに聞いていた。
そうだ。今日はいつもラエルについているスーザンを見ていなかった。
「オルフェ、どうしたの?」
フェリシアに声をかけられたので、立ち止まりかけたオルフェは慌てて彼女の後を追った。
「お嬢さま、少し苦いと思いますが、更によく聞く痛み止めですわ。お飲みください。よく眠れますよ。ご気分が悪くなったら呼んでくださいね」
ラエルはミス・ダウニングに渡されたお茶のような水薬を飲んだ。
前世のアデルは薬嫌いで拒否し続けたが、伯爵家の子どもである今は我慢しなくてはならない。
ラエルはふと飲む時に何か既視感を感じた。
何だろう?薬嫌いのアデルの記憶ではないはずだ。
本当に苦い…。確かに眠くなってきた。
「飲んで。よく眠れるから。眠るまで、そうね。今日も私たちの小さい頃の話をするわ」
ぼんやりと誰かが見える気がする。
フェリシア?
「ああ、ここからもデッドロック館の灯りが見えるわ。嵐なのに見えるの。私の子ども部屋はあそこね。小さな時はお天気のいい夜は窓から抜け出してオルフェと一緒に星を見たわ。流れ星も見たことがあるのよ」
ああ、やっぱりフェリシアだ。でも夢ね。
「今夜のような嵐の夜や怖い夢を見た時はオルフェの部屋に飛んで行って一緒に眠ったわ」
嵐の夜?今は夕方だわ…。やっぱり夢なんだわ。
フェリシアが大人びている気がする。
また『デッドロック館』のメアリーになった夢かしら?
ああ、眠い。
フェリシアがまた何か言っている。なんだか口調がきつくなっていた。
「あたしとオルフェが手をつないで眠ったベッドに、オルフェはあんたを引っ張り込んだの?ヒューが笑って言ってた。毎晩あいつらが盛り上がってうるさいって」
何を言ってるの?
私たちは夫婦で、寝室を一緒にしていただけだ。
あのいやらしいヒューはドアに耳でもくっつけて聞いていたのだろうか?
そもそもフェリシアは思い違いをしている。
彼はデッドロック館に戻ってからは、寝室も含め父親の前子爵の部屋を使っていた。ヒューは子爵としての仕事も責務も完全に放り投げていたから、弟が代理を務めてもなんの問題もなかった。
「そんなに苦しいのならなぜあなたは彼を見捨てたの?なぜ彼を救おうとしなかったの?」
掠れた声。これは私の声だろうか?
「オルフェは背中にひどい傷があったわ…。胸には火傷が。あなたのお兄様がつけたのよ。なぜ2人で逃げなかったの?無理なら彼だけでも逃がして、あとで迎えに来てもらえばよかったのに…」
声は小さく掠れている。彼女に聞こえたかどうか…。
「オルフェ?あんたもそう呼ぶの?」
彼女は泣いていた。聞こえたようだ。
ああ、ぼんやりする。
そうだわ。フェリシアにつられて呼んでしまったけれど、そう呼んでいいのは2人の時だけだったわね。
彼は…いつもいつもフェリシアに一番気を遣っていた…。
「あんたなんて…あんたなんて…。なんにも分からないくせに…。なんにも…」
「メアリー、眠ったの?」
忌々しい小さな声さえ聞こえなくなった。
フェリシアはベッドの傍まで行って確かめた。
眠ったみたい。よかった。
どうせ起きたら今話したことなんてまたみんな忘れる。
一昨日も、昨日も、こんな嵐の今日でさえ、オルフェはメアリーはいるかと伯爵邸にやってきた。今日なんて嵐だからと、とても心配していた。もちろんいないと下男たちに追い出させた。この3日間、オズワルドは領地へ行って伯爵邸にはいなかったけれど、下男たちにはオズワルドの指示だと言わせた。
かわいそうなオズワルド。でも偉い伯爵なんだもの。なんでもオズワルドのせいにすればいいの。メアリーにだって。簡単に兄妹仲って壊せるものなのね。
フェリシアは雨が叩きつける窓を見た。
何も見えない。
デッドロック館の灯りに見えたのは、おそらくこちらのランプの灯りだった。
ランプをメアリーの寝顔に近付けた。
眩しいはずなのに目覚めない。本当によく眠っているのね。
メアリーはただ眠っていればいい。
ピアノなんか弾かれたらオルフェにいるって分かってしまうもの。
今度はもっと薬の量を増やさないと。
それとも別な薬の方がいいの?
スーザンと楽しそうに赤ちゃんの話をされるのも嫌。
オルフェとフェリシアはラエルの部屋を出た後、デッドロック館に戻る馬車の中でフェリシアがオルフェに話しかけた。
「夜の散歩なんて嘘でしょう?」
「やっぱりばれたか…」
オルフェは溜息をついた。
「フェリスは誤魔化せないな」
「夕食に来なかったのはそういうことだったのね。ラエルやミス・ゴドウィンも誤魔化されてないと思うわよ」
「オズワルドにもう伯爵邸に来るなって言われて、ラエルにも誤解されてるだろうと気になって何となく行ったら、例の幽霊もどきを見かけたんだ。言っておくけどラエルとは会ってないよ」
その代りミス・ゴドウィンと会ったことは黙っていた。
誤解ね…。あたしたちがキスしたことは誤解なんだ。そしてその誤解を解きたくて1日も待てなかったんだ。いろいろ言いたかったが敢えて話題を変えた。
「ラエルはダニエルとミス・ゴドウィンがお似合いだと思っているようね」
そう言いながらオルフェのことをちらっと見た。オルフェは窓の外を見ていた。
「あなたもそう望んでいるんでしょう?」
「見てるとあの2人、相性がいいと思うよ」
オルフェはフェリシアを見ず、窓の外を見ながら言った。
「本気で考えると子爵家の長男と家庭教師では難しいと思うわ。ダニエルのお母さまが反対するだろうし。ヒューのお嫁さんだって家庭教師よ。そのせいで家は今滅茶苦茶になってる」
オルフェは溜息をついた。
「ミス・ゴドウィンは準男爵家出身だそうだよ。完全に無理ではないと思う。それからヒューのことは、奥さんが家庭教師というより、ヒューがお父さまに黙って大学をやめて結婚したり、多額の借金をしたからだろう?」
「オルフェ」
フェリシアはラエルのことで時々、自分が嫉妬深い人間になる気がして嫌だった。
「あたしはラエルが大好きなの。ラエルがもし結婚することになったら大泣きすると思うわ。相手の人がすてきな人で、たとえばあのダニエルのようだとしてもね。でもきっと泣きながらも、幸せになってねって祝福して、結婚式には一番の親友としてブライズメイドを務めると思うの」
オルフェはようやくフェリシアの方を向いた。悲しそうだった。
いつも無表情のオルフェはフェリシアにだけは隠すことなく素直な表情を見せた。
「でもあなたとだけは祝福できない」
フェリシアはオルフェをまっすぐに見つめて言った。
分かってる。あなたは今はラエルが一番好きなの。
オルフェと初めて一緒に教会に行った日、オルフェがラエルと会釈し合ったのを見た時からその予感はあった。
でもね、あなたの運命の相手はあたしなの。初めてあなたに会った時から分かっていたし、あなたもいつか分かるわ。
お父さまが反対してもよ。夢のように亡霊になって邪魔をしたとしてもあたしは絶対に負けない。
馬車がデッドロック館に着いた。
ナンシーが走って2人を出迎えた。
彼女の表情からすると何かがあったらしい。
「たいへんです。ヒューさまの奥さまがお亡くなりになったそうです。赤ちゃんをお生みになられてからお加減が悪かったらしくて昨日とうとう…。近いうちにヒュー様は赤ちゃんとご一緒にデッドロック館に戻ってこられるそうですよ」
フェリシアがだんだんホラーに…
後ほどまた加筆修正するかと思います