1.嵐のはじまり
ザザザザザザザッ!バンバンバンッ!
激しい風の音と、その風が窓に打ち付ける震動で目が覚めた。
真っ暗な室内に小さなランプの光、夜なのだろう。
ザーッ!ザザザザザザッ!ヒューッヒューッ!
しっかり窓は閉め、カーテンをしているのに、外の激しい風で灯りは揺れていた。
体がひどく重かった。腕一つ上げられないなんて。
でも体の一部分だけが軽くなっていることが分かっていた。
お腹だ。
そうだ。私は解放されたんだ。長く…長く苦しんだ末に。
子どもの泣き声と共に、しばらくして男の子だと聞かされた。
痛みは引いたけれど…息が苦しく、苦しいままいつの間にか重い眠りについた。
息がつらい。
出産したら、楽になるはずではないの?
まさか‥
私は死ぬのだろうか?
そんなひどいことがあるはずはない。
私は17歳だった。
出産後に元気になったら、赤ちゃんと2人で遠くへ行って幸せに暮らすのだ。
冷酷で、私のことを少しも愛していないと分かった夫ルイ・オルフェ・マンスフィールド子爵から遠く離れて。
私はメアリー・ラファエル・マンスフィールド子爵夫人。
モンタギュー伯爵オズワルドのただ一人の妹。
昨年、兄と敵対するルイ・オルフェ・マンスフィールド子爵に激しい恋をし、兄の反対を押し切って結婚した。
兄の話ではルイはどこの誰とも分からない孤児で、小さな子どもの頃にアーネスト・マンスフィールド子爵に引き取られ、彼の実子と同じように育てられたた。けれど子爵はルイが13歳の時に病死する。そして長男のヒューが後を継ぐと、ルイを嫌っていたヒューは、彼を下男に落とした。
1年半の後ルイは子爵家を出奔し軍人となったが、彼が家を出た直後に先代の子爵の弁護士により、前子爵が生前にルイを正式に息子にしていたことが分かった。
ルイの行方は出奔してから3年後に行方が分かり、連れ戻され、昨年ヒューの急死によりマンスフィールド子爵となった。
私と彼が出会った時にはまだヒューが存命だったので、子爵家次男のマンスフィールド少尉だった。
身元不明?元下男?前子爵の私生児かもしれない?兄は私に散々ルイについて言ったが私はどうでもよかった。
私は一目で彼に魂を奪われてしまったからだ。
人生で、絵画や彫刻も含め、彼ほど美しい人を見たことがなかった。
兄は彼に夢中な私を首都ドルトンに住む伯母の元へと追いやろうとした。
私はこれまで両親はもちろん兄にも逆らったことがなかった。
泣く泣く彼を諦めようとしたが、そんな私に彼は優しく囁いた。
「あなたは私を愛しているのでしょう?行ってしまったらもう2度と会えないでしょう。どうか私と結婚してください」
思えば彼は私に愛しているから結婚してほしいとは言わなかった。「あなたは私を愛しているのでしょう?」「あなたは望んでいるのでしょう?」と私を尊重しているように思えたけれど、思えば偽りの愛さえ言いたくなかったのだろう。
私は生まれて初めて兄に逆らい、彼を選んだ。
それなのに、結局私が今いるのは実家であるモンタギュー伯爵家だ。
3か月前にマンスフィールド子爵家から逃げ出し、やっとの思いで実家に戻ってきた私に、最初兄はとても冷たかった。
「申し訳ございません。お嬢さま」
部屋に通されることなく、いきなり執事のスティーヴンスから兄から私をこの家には入れてはならないと言われたと告げられた。
そしてスティーヴンスに兄が書いたという紙片を渡された。口も聞きたくないのだ。
それには私が自分で招いたことなのだから、夫に頭を下げてマンスフィールド子爵家に戻るか、勝手にどこへでも行けと。
あんまりだ…。
悔しくて涙が出てきた。
これがただ1人血の繋がった私の兄なのだ。
両親が、特に私を溺愛した父がもし生きていたらどう思うだろう?
私は父と祖母からかなりの財産を受け継いでいたから、本来なら何不自由なく暮らせるはずだった。子どもと2人でも。
けれど18歳になるまでは財産を相続できなかった。
ルイは私にお金など渡してくれなかったから私は今無一文だ。
着の身着のままここに来たのだ。
どうしたら?私はどうしたらいいのだろう?
そうだ。ドルトンの伯母がまだいる。
父の姉で私と同じ名のメアリー伯母が。
でも旅費は?
今目の前にいるのは執事のスティーブンスしかいなかった。
子どもの頃から私を世話してくれたメイドのスーザンはどこにいるのだろう?
彼女なら旅費を貸してくれるかもしれなかった。
でも伯母にも門前払いをされたら?
疲れ果ててもう一歩も動けなかった。
頭がくらくらして、その場に倒れた。
けれどそれが幸いした。
私は屋敷の奥の部屋に運び込まれ、医師の診断を受け、妊娠5ヶ月であること、精神的にも身体的にもかなりひどい状態で、暫くは安静にするように言われた。
そして、伯爵家で私の突然扱いが変わり、この館に戻って良いことになった。
最初は兄が身重の私を心配してくれたのだと思った。
でも違った。
義姉のフェリシアによると、兄は確かに考え直したそうだ。
兄夫婦はフェリシアが昨年流産し、もう子どもは望めないと診断されていた。
私の夫ルイを嫌いぬいた兄だったが、私が生む子ども養子にし、男児ならなら次の伯爵にしようと。女児ならやはり兄夫婦の養子にするが、その後で私とルイを離婚させ、私を従兄のホーソン子爵と再婚させようと。兄と私に男児が生まれなかったら、爵位はホーソン子爵家に移るからだった。
とんでもないことだ。私は生まれてくる子どもを既に愛していて、誰にも渡すつもりはなかった。それに、突然私を押し付けられる従兄のダニエル・ホーソン子爵だっていい迷惑だろう。
けれどようやく私に会いに来た兄は冷たく言った。
「それでいいだろう?望み通りあの男と離婚できるのだから」
私は再び絶望した。
でも、子どもを生むまではこの屋敷以外にいる所はなかった。
一旦承諾するふりをし、養子の件は引き延ばしにして、私が18歳になったら子どもと伯爵家を出ようと思った。
屋敷の奥の部屋から、私は以前のいた自分の部屋に戻った。
部屋からは門も見えた。
ルイは私を探しには来なかった。私のことなどやはりどうでもいいのだろう。
そしてようやく子どもは生まれた。
苦しくて、体が思うように動かない。
まさか…まさか…
私はこのまま死ぬのだろうか?
ザーッ!ザザザザザザッ!
ヒューッ!ヒュルヒュルヒュルーッ!
強い風の音がよけいに不安を掻き立てた。
息子は?
まだ顔も見ていない私の息子はどうなるの?
「メアリー?」
その時、一人の女性の声が響いた。
この部屋に私は一人きりではなかったようだ。
「メアリー、目が覚めたの?」
ベッドに横たわる私の上に影が差し、一つの顔が近付いた。
気の強そうな印象的な黒い瞳と力強い眉、濃い黒い髪の美しい女。
私の義姉、兄オズワルドの妻のフェリシア・モンタギュー伯爵夫人だった。
アーネスト・マンスフィールド子爵の一人娘。ヒューとルイの妹、フェリシア。
彼女こそ、私を不幸にした最大の原因だった。
昨年の春、3年ぶりに、妹となったフェリシアに会うため、伯爵家を訪問したルイ・オルフェ・マンスフィールド少尉に私は恋をした。