25.『デッドロック館』の語り手
エインズワース王国北部ブリッジミア、荒々しくも美しい自然に囲まれた土地。2月のこの地ほど寂しく隔絶された地はないだろう。
私はダニエル・ホーソン子爵。ブリッジミアよりやや南にあるフェントンの領主だ。
母の出身であるモンタギュー伯爵家がこのブリッジミアにあったが、少年の頃に流行り病で母を含む家族の全てを失ってからは、我が領地フェントンからも離れ、首都ドルトンや外国で過ごすようになり、約20年振りにこのブリッジミアを訪れた。
従弟のオズワルド・モンタギュー伯爵の訃報を受け取ったからだった。私は突然思いついた旅で地中海にある南のマルタ島にいたので従弟の訃報を受け取ったのは既に彼の葬儀から1週間ほど過ぎてからだった。
モンタギュー伯爵家の爵位と領地財産を受け継ぐのはオズワルドの甥でまだ少年のレイモンドだったが、彼は体がひどく弱く、もし子どもを残すことなく亡くなれば伯爵家は私が継ぐことになる。伯爵家の執事と顧問弁護士の両方から、私にぜひ一度ブリッジミアの伯爵家へ来てほしいとの連絡を貰った。
アデル・グレイ著 『デッドロック館』より
「なぜモンタギュー伯爵の墓が墓地のこんな隅になるのだ?」
亡きオズワルド・モンタギュー伯爵の従兄、ダニエル・バートラム・ホーソン子爵は憤慨した。
「しかもこんな質素な墓標。これでは一般の村人と変わらないではないか?」
雪の積もった墓地。
旅に出ていたことと、雪のせいでダニエルはオズワルドの葬儀には間に合わず、それどころか葬儀から10日が過ぎてブリッジミアへと到着した。
取りあえずモンタギュー伯爵邸に荷物を置き、墓参に来た。
「伯爵のご遺言で先に亡くなられた夫人の隣に葬られるようにと」
貴族の墓参に、特別に案内をしてくれた牧師が言った。
「そもそも夫人もなんでこんな隅に簡素な墓を…」
罪深い方なのですよ…。
本来ならこの墓地に葬られる資格のない…。
罪深い…?
牧師、副牧師、見習の少年、その誰が言ったのか。
それとも聞き違いだったのか。
「夫人もご遺言でこのような墓を望まれたのです。亡くなられる前には流産されたり、お兄さまを亡くされたり、お気の毒な方でした」
確か14年前に亡くなったモンタギュー伯爵夫人フェリシアは近隣に住むマンスフィールド子爵家の令嬢だった。
オズワルドの後を継いだ新しいモンタギュー伯爵、14歳のレイモンドの父、ルイ・オルフェ・マンスフィールド子爵の妹。つまり新モンタギュー伯爵の叔母だ。
フェリシアが亡くなってからオズワルドは倒れ足が不自由になり、松葉杖と車椅子に頼る生活となった。再婚はせず、亡くなった妹メアリーの一人息子レイモンドを将来の伯爵にするため、伯爵邸で教育を受けさせた。オズワルドはレイモンドを養子にすることを希望したが、ルイ・オルフェは承諾せず、レイモンドは伯爵邸と父の住むデッドロック館とを行ったり来たりした。
モンタギュー伯爵レイモンド・マンスフィールド。
14歳だといったが12歳ほどにしか見えない、痩せた顔色の悪い少年だった。ただ一流の職人が作った人形か彫刻かと見間違うかのような美貌の少年だったが。
それにしてもレイモンドは、母のメアリーはもちろん、青い瞳以外、顔立ちも髪の色も、モンタギュー家の血を全く感じさせなかった。
父親似か…。
せっかく来たのだからレイモンドの父、マンスフィールド子爵とも話すべきだと思った。
亡きオズワルドは甥のレイモンドの後見人に自分、ダニエルと指名したが、父親がいる以上難しいだろう。だが20年近く付き合いのない親族の自分を後見人に指名するくらいだから、父親はろくでもない男なのかもしれない。
翌日ダニエルはルイ・オルフェ・マンスフィールド子爵の住むデッドロック館を訪問した。
間もなく吹雪になりそうなので早めに帰らなければならない。
「まずいな…」
丘にあるデッドロック館は風の強いこの土地の中でももっとも風の吹きつける丘の上にあった。既に吹雪の前触れのような雪がはらはらと舞い始めてきた。思ったよりも早く天候が崩れた。
久しぶりに戻ってきたこの地をゆっくり見たかったので、1人でモンタギュー伯爵家とマンスフィールド子爵家の間にあるボイル村まで来た。
その後に子爵家まで案内をしてくれた村人は館の門の前まで来るとそのままそそくさと戻ってしまった。長居したくないらしい。
きちんと使者を送ってこの時間の約束はしたはずだが誰も迎えに出てこない。
門を揺さぶり、声をかけたがやはり誰も出てこなかった。このままでは凍えてしまうので仕方なく門を飛び越え、直接屋敷へ行こうとした。するとすぐにワンワンと複数の犬の鳴き声がして、数匹の猟犬たちが自分の方に向かってきた。
慌ててもう一度門を元来た方に飛び越えようとすると、犬たちは後ろからコートに噛みついてきてすごい力で引っ張ってくる。
必死に引き離そうとしたがついに後ろの地面に倒れてしまった。
もう駄目だと思った瞬間、ピューっと口笛がして犬たちはダニエルから離れて行った。
1人の背の高い男が庭園の方から現れた。
真っ黒な仕立てのいいコート、服装からして身分のある者だ。
堂々たる佇まいは猛犬たちを引き連れた冥府の王という印象だった。黒い髪、黒い瞳、凄まじいほどの美貌は少年伯爵レイモンドとよく似ていたのですぐに分かった。
「マンスフィールド子爵…」
ダニエルは慌てて立ち上がり、握手の手を差し伸べた。
「お約束をいたしましたニエル・ホーソンです。あなたのご夫人の従兄になります」
ルイ・オルフェはその手を握らず、口の端に笑みを受かベた。
「モンタギュー伯爵家の者がデッドロック館で私の犬たちに襲われるとは、とても面白いものを見たな。まあ入るがいい」
* * * * * * *
「ダニエル・ホーソンとその家族が高慢で性格悪いなんてねぇ」
カーミラ・ゴドウィンは自室でサンドイッチを食べながら溜息をついた。
夕方にモンタギュー伯爵の姉2人、メアリー・オクタヴィア・モンタギューとホーソン子爵夫人エリザベス・ラヴィーニアと2人の息子、17歳のダニエル・バートラム、8歳のヘクトル・アルバートが到着した。
ダニエル・ホーソンはアデル・グレイの小説『デッドロック館』の2人の語り手の1人であり、物語の冒頭から登場し、もう一人の語り手であるメイドのナンシーからデッドロック館とマンスフィールド伯爵邸の出来事を聞き、ラストもまた彼が締めていいた。
伯爵家の食事にはラエルの希望もありカーミラも伯爵家の家族と共に食事の席についていたので、夕食の席でダニエルに会えるのを楽しみにしていた。
昨年は弟の方がひどい風邪をひいてホーソン家の訪問はなかったので、初めて顔を合わせる。
立場上、席に着く前に、カーミラだけがラエルの家庭教師として親族たちに簡単に紹介された。カーミラへ親族たちの紹介はない。
ところがダニエルの母エリザベスが「使用人と同じ席で食事するなんて」と嫌味を言い始めた。
「伯母さま、ミス・ゴドウィンは使用人ではなく私の先生よ」
ラエルがすぐにそう言いったが、エリザベスは「ねえ、お前たちはどう思うの?」と息子たちにまで聞いてきた。
ダニエルは返事をせずぷいっと横を向いた。
私にも母親にも失礼よねとカーミラは思った。
せっかくすごいイケメンなのに。
ダニエルは17歳。若い頃のレオナルド・ディカプリオのごとく美しい金色の長い前髪を掻き上げると、叔父であるモンタギュー伯爵の少年の頃の肖像によく似た繊細で彫りの深い顔立ちがあり、瞳の色だけはモンタギュー伯爵家の青ではなく緑だった。
初めて見た時、年下だけどかっこいいなあと少しときめいてしまっただけによけいに気に入らなかった。
「家では考えられませんね。お母さま」
弟のヘクトルがまた子どものくせにやけに偉そうで、ニヤニヤしながら母親に言った。
こちらも金髪碧眼でとびきりの美少年だが、8歳にして先が思いやられる傲慢な子どもだった。ハリー・ポッターシリーズのドラコ・マルフォイとか、児童文学や漫画の主人公の性格の悪いライバルのようだと思った。
「家の方針に批判ですか?エリザベス・ラヴィーニア?」
モンタギュー伯爵は姉の態度に不快な様子で、夫と義姉に挟まれる形の伯爵夫人も困った様子だ。
仕方なくカーミラは「今日は気分が悪いようです」と部屋に下がらせてもらった。
ラエルがすまなそうにカーミラを見た。
部屋に戻るとしばらくしてサンドイッチやスープ、紅茶が届いた。ラエルの気遣いだ。
ラエルは先ほど見た時、とても元気がない様子だったが大丈夫だろうか?
理由は分かっている。
あの性格の悪いドラコ、いやヘクトルは、伯爵邸に到着して早々、ラエルを脅かそうと背中に何かを入れようとして、パラディンに吠えられて小犬を蹴り飛ばしたのだ。勇敢な聖騎士パラディンは腹部を負傷し、現在ラエルの部屋に寝かされている。
まだ伯爵一族は食事中なので、ラエルの様子は後で見に行こうと思った。
カーミラが花音だった頃、気分が落ち込んだ時はいつもイヤホンをして音楽を聴いていたけれど、この世界には音楽を再生するものが一切なかった。
それでも今は気分転換になる音楽が欲しかった。
仕方なく自分でピアノを弾こうと思った。
* * * * * * *
デッドロック館を訪れたダニエルだが、屋敷に入るとすぐに少し先も見えなくなるほどのひどい吹雪となった。あのまま門の外にいたら、それこそ凍え死んだ所だった。
通された子爵家の居間はかなり年季が入っていたが、やはりかなり年代物だが重厚で良い家具を使っていた。暖炉もまた細かい彫刻が施され、かつてはかなりの家柄だったことが偲ばれた。今でもこのブリッジミアでは名家だろう。
本来ならこの墓地に葬られる資格のない…。
空耳かもしれないが墓地で聞いた言葉を思い出した。
名家の子爵令嬢で伯爵夫人になった女性が、田舎の墓地にさえ葬られる資格さえないということはないだろう。
「メアリーに似ているな…」
「え?」
部屋をこっそり見まわしていたダニエルはルイ・オルフェからかけられた言葉にはっとした。
「失礼しました。良いお部屋なので見とれていました。200年前のブロワ王朝の時代のものでしょうか?」
ルイ・オルフェは答えず無表情で黙ってダニエルを見ていた。
伯爵邸で仕入れた情報では彼はマンスフィールド子爵家の養子だと聞いていた。子爵家やこの屋敷の歴史は知らないのかもしれない。
「メアリーとは彼女の父と私の母が姉弟だったので、亡くなったオズワルド以上に似ていると昔から言われていました」
ダニエルはルイ・オルフェから、手で示され、ようやく大きなソファに座った。
「オズワルドから多分君のことを聞いたことがある。いやフェリシアからだった」
フェリシアはオズワルドの夫人だが、ルイ・オルフェの妹でもある。
ダニエルは笑顔で言った。
「そうですか?私はオズワルドとフェリシア夫人がご結婚された時は海外にいて、結婚式にも出席できず、フェリシア夫人には残念ながら遂にお会いできませんでした。もし式に出席していたらその時に子爵ともお会いできたかもしれませんね」
無表情だったルイ・オルフェの瞳が揺れた気がした。
精一杯愛想よくしたつもりだったが冷たい空気が流れ、ルイ・オルフェは言った。
「フェリシアが言っていた。オズワルドがメアリーを私と別れさせて従兄のホーソン子爵と再婚させようとしていると」
「え?」
初耳だった。
ということはルイ・オルフェとオズワルドは仲が悪かったのか。メアリーはデッドロック館を出て伯爵邸で出産したそうだから夫婦仲もうまくいっていなかったのかもしれない。
「ふん。兄妹のようにそっくりな気持の悪い夫婦になっただろうな」
先ほどから、いや初めて会った時から敵意を感じているが気のせいではないようだ。だが気持の悪いという言い方は自分にもメアリーにも失礼だろう。
「ははは。でもメアリーは私の顔のことは気に入っていましたよ。彼女は大の父親っ子でしてね。小さな頃は大きくなったらお父さまと結婚すると言っていました。お子さんにも父君の名前を取られていますしね。私はメアリーにも似ていますが、むしろ叔父に似ているんですよ」
とデッドロック館の門の前で転倒した時に乱れていた前髪を整えると、伯爵家の大階段の上に飾られている先代の伯爵の肖像のポーズを取ってみた。
ルイ・オルフェは腕を組み無表情でダニエルを見つめて言った。
「オズボーン朝時代だ」
「え?」
「この部屋と家具はブロワ王朝に滅ぼされたオズボーン朝時代、270年前のものだ。父が自慢していたよ」
70年も時代を間違っていたか…。オズワルドは恥ずかしくなった。
しかし会話が噛み合っていないな。だが一応子爵は自分の話は聞いているらしい。
「ところであなたは私になんの話をしにきたのだ?」
ルイ・オルフェから威圧感を感じた。確か事前に伯爵邸で聞いた話で年齢は自分より3つ下の32、3歳と聞いていたが老成している気がする。
「亡くなったモンタギュー伯爵が息子さんの後見人に私を指名されました」
「レイモンドに後見人など必要ない。父親の私がいるからな」
有無を言わせない態度で、本題は秒で終わってしまった。
「ですが!」
「話はそれだけかな?ではお引き取り願おうか」
ルイ・オルフェは立ち上がった。
その時びゅーっびゅーっと激しい吹雪の音が聞こえてきた。
窓が激しく揺れていた。
まさかこの天候の中を帰れと?
「申し訳ありません。マンスフィールド子爵。この天候では私はとても伯爵邸に戻ることはできません。ご迷惑だと思いますが、今夜一晩、私をこのお屋敷に泊めていただけないでしょうか?」
ルイ・オルフェは冷たく言った。
「この館には来客用の寝室などない」
こんな立派な屋敷なのに?
「来客用でなくても良いのです。空いているお部屋があれば」
「生憎空いている部屋もなくてね」
外から見てもかなり大きい屋敷だ。ないはずがないだろう?
「それではどなたか伯爵邸まで私を送ってくれる者などこちらにいらっしゃらないでしょうか?」
「はっ!この吹雪の中を?誰が行くものかね」
その吹雪の中にあんたが私を追い出そうとしてるんだろう!
必死に怒りを抑えた。本当に追い出されるのはごめんだ。子爵である自分に対してありえない行為だが、この男はしかねない。
貴族の誇りも捨て言った。
「寝るのはこちらのソファでも良いのです。改めて一晩泊めていただけないでしょうか?」
「残念だが見知らぬ他人が家の家具を使うのは迷惑だ。もうこの話は終わりだ」
そう言うと、ルイ・オルフェは居間を出ていってしまった。
呆然とした。いったいこの吹雪の中をどうしろと?
それにしても初対面の自分が何をしたというのだろう?あまりに意地悪過ぎるだろう。
ああ、門を乗り越え不法侵入をしたか。それともメアリーと再婚する話の方か。
その時、ノックの音がした。
「遅くなりました。お茶をお持ちいたしました」
あまり若い声ではないがメイドのようだ。
「入ってくれ」
主人のルイ・オルフェではないが言った。
お茶のカートを運びながら老女中が入ってきた。
「ご主人様は?」
「もう出ていったよ。だが君に頼みたいことがある」
今は藁にでも縋る気持ちだ。
「ひどい吹雪なのにご主人は私に帰れと言うんだ。この館に私が泊る部屋は本当にないのだろうか?」
「まあ!お気の毒に」
美貌で愛想の良いダニエルは使用人から王族まで女性の受けは良かった。
同情した老女中ジルは少し考え、言った。
「内緒にしていただけますなら、一晩だけ古いお部屋にご案内しますわ」
『デッドロック館』最初の部分の大まかな流れは『嵐が丘』オマージュです。