プロローグ
親愛なるノッポの国の王さまへ
わたしが今一番夢中になっている本について書きます。それは『デッドロック館』です。
王さまはお読みになったことがありますか?
ああ、わたし、こんな小説は初めて読みました。衝撃で頭がいっぱいです。
アデル・グレイという女性作家は、あの若さで、イギリスの北の小さな村の自分の家からほとんど外に出たことがなくて、男の人を知らなかったのに、どうしたらルイ・オルフェみたいな男性を想像できたのでしょう?
美しくて、ミステリアスで、残酷で、情熱的で、意地悪で、ただ1人の女性しか愛せない男の人を。
土曜日から日曜日にかけて3回繰り返し読み、日曜日は1日ヒロインのフェリシアになって、ベランダに立ち、ブリッジミアの荒野にいる気分で「オルフェはあたし以上にあたしなの。今のあたしよりずっと。あたしの魂とオルフェの魂は同じものなの」とつぶやいていたら、同室のロッティに大いに笑われました。
でも想像力が限界で、わたしが待ち望むルイ・オルフェがどんな男の人か分からないのです。
追伸:
想像力が少し戻ってきました。
わたしのルイ・オルフェはノッポの国の王さまのように背が高いと思います。
チビの国のエリー・フェリシアより
* * * * * * *
12月の午後2時頃、今にも雨が降り出しそうな曇り空、風がびゅううびゅうととても強かった。
モンタギュー伯爵家の子ども部屋、9歳の私は勉強の合間に家庭教師のミス・ゴドウィンから彼女が知っている物語を聞いていた。
ミス・ゴドウィンは17歳。若い教師で、先生というよりお姉さんという感じだった。
ミス・ゴドウィンが語ってくれたのは、子どもの頃に読んだという少女名作『ノッポの国の王さまへ』で、捨て子で孤児院育ちの少女が主人公の物語だった。
主人公のエリー・アーロンは匿名の紳士の援助で名門の女子高校に進学できることになった。
エリーは自分を援助してくれた紳士に、感謝を込めて彼の秘書を通じて手紙を送った。良家の子女が通う全寮制の学園で友人たちには孤児院育ちのことは言えなかったが、名前もしらない紳士のことは、親族の優しいおじさんと想像して、本当のことが書けた。
手紙を書いたことのないエリーは、普通の女の子とは違う、少し変わった手紙を書いた。
背の低いエリーは、孤児院にいた頃、自分は貧しいチビの国の王女だと想像していた。そして今度は手紙を送る紳士をお金持ちのノッポの国に住む王さまと想像して、さすがに自分を王女とは書かなかったけれど「チビの国のエリー」から「ノッポの国の王さま」へと、返事は来なかったが、3年間の高校生活でたくさんの手紙を書き送ったのだ。
エリーは本の好きな女の子で、王さまへの手紙に読んだ本の感想をいろいろ書いた。
ミス・ゴドウィンは言った。
「私も本が大好きだったのでエリーに感情移入してしまって。エリーが読んだ本がおもしろそうで、本屋さんや図書館や探して読んだんですよ」
「わたしも本が大好き。エリーはどんな本を読んでいたの?」
「『不思議の国のアリス』『若草物語』『宝島』…」
「どれも知らないわ」
本好きなのに、ミス・ゴドウィンが挙げた本は一つも知らなかった。
❝この世界❞でも。❝もう一つの世界❞でも。
「『ハムレット』」
ようやく知っている作品があった。シェイクスピアだ。
「『エマ・グリーン』そして『デッドロック館』」
「え?」
心臓が早くなった。
『エマ・グリーン』は❝前世の姉❞セーラが書いた小説だった。
そして『デッドロック館』は…。
「そうなんですよ!アデル・グレイ大先生の『デッドロック館』なんです!特にエリーが大好きな本なんです!」
ミス・ゴドウィンの口調が急に変わった。
私は溜息をついた。
「その名前、言わないでよ」
私はメアリー・ラファエル・モンタギュー。
現在9歳だったが、前世…というかこの世界に来る前の記憶があった。
前世の名前はアデル・グレイ。
イングランド北部にある小さな村ベックフォースの牧師の娘だった。
牧師には3人の娘がいて私は2番目。全員読書好きで、自分でも詩や文章を書いた。
姉の積極的な働きかけで、妹も巻き込み、3人でそれぞれ小説を書き、一度だけ本を出した。
本の題は『デッドロック館』。
『デッドロック館』は、私の生まれ育ったベックフォースをイメージした架空の土地ブリッジミアにある名家、マンスフィールド子爵家とモンタギュー伯爵家を巡る、愛と復讐の物語だった。
たいして売れず、わずかな書評では酷評された。
小説の出版から1年半の後、私は肺を病み死んだ。
死んだはずだった!
ところが目覚めると8歳の少女になっていた。
それがこのメアリー・ラファエル・モンタギューだった。
彼女は私が書いた小説『デッドロック館』の登場人物で、モンタギュー伯爵家の1人娘だった。
最初は驚いたが、メアリーとしての記憶も持ち合わせていたので、次第にアデル・グレイだった頃のことが夢のように思えてきた。
その1年後に登場したのが、新しい家庭教師、カーミラ・ゴドウィン先生だった。
ミス・ゴドウィンは実は前世、アデル・グレイが死んだ1848年から163年後の2011年の日本からこの世界に来た転生者だった。
「え!も、もしかして…もしかしてお嬢さまはアデル・グレイなんですか?えっ!ええええええっっ!」
❝ある出来事❞があり、私が作家、アデル・グレイだと知るとミス・ゴドウィンは興奮した。
「私、アデル・グレイの大ファンなんです!『デッドロック館』はもちろんお書きになった詩も読んでます!大学の卒業論文もアデル・グレイと『デッドロック館』なんです!」
彼女は驚くことに私の小説『デッドロック館』の愛読者だったのだ。
「『デッドロック館』はあまり売れなかったはずだけど読んでくれたの?」
「ええっ!全然売れてないですって?どの図書館にも置いてあるし、たくさんの本屋さんにも置いてあります。世界中のね」
なんということだろう?
私、アデル・グレイは空想好きだったのに、一度として想像もしなかった。
私の死後、私のたった1冊の本は徐々に認められ、世界中で読まれるなんて。
そして今目の前にいるミス・ゴドウィン、前世の名前は葛城花音は、メアリー・モンタギューの家庭教師としてこの館に住み、時々私の知らない未来の本の話をしてくれる。
「先生が『不思議の国のアリス』や『若草物語』をご存じないのは仕方がないですね。先生の死後に出た本ですから。素敵な物語ですよ。今度お話ししますね。その前にうろ覚えですが、『ノッポの国の王さまへ』のエリーがノッポの国の王さまに送った手紙の『デッドロック館』を読んだ感想の所です」
「そんなの言わなくてもいいわよ」と言いながらも、私の表情は聞きたくて仕方がなかったのだろう。
ミス・ゴドウィンはゆっくりと語った。
「ノッポの国の王さま、わたしが今一番夢中になっている本について書きますね。それは『デッドロック館』です。ああ、わたし、こんな小説は初めて読みました。興奮が止まりません。アデル・グレイという作家は、あの若さで、しかもベックフォースという小さな村からほとんど外に出たことがなくて、男の人を知らなかったのに、どうしたらルイ・オルフェみたいな男の人を想像できたのでしょう?」
それは間違いなく称賛の言葉だった。
私が書いた小説を読み、感激してくれた人がミス・ゴドウィン以外にも本当にいたのだ。
同時に前世の『デッドロック館』の酷評を思い出す。
「ルイ・オルフェのような残忍な悪魔のような男をなぜ想像できたのだろう?」
「エリーにとって、ルイ・オルフェは本の世界での初恋の人ではないかと思うんですよ。もしかしたら作者の女流作家ユナ・ブラウンにとっても」
ミス・ゴドウィンはエリーの言葉をなぞるようにもう一度言った。
「どうしたらルイ・オルフェみたいな男性を想像できたのでしょう?」
「私への質問?」
「ファンとしてぜひお聞きしたいんです。ルイ・オルフェのモデルになった人っているんですか?」
一つの面影が私の頭の中を通り過ぎた。
「いないわ。強いて言うならルイ・オルフェは私よ」
「なんだかフェリシアのセリフみたいですね。オルフェは私なのって」
マンスフィールド子爵令嬢、フェリシアは『デッドロック館』のヒロインだった。
私は言った。
「フェリシアも私よ」
「分かります。お嬢さまとお話しをしていると『デッドロック館』のフェリシアと重なりますもの」
「でも…」そう言ってミス・ゴドウィンは首をかしげた。
「この世界が『デッドロック館』だとして、なぜアデル・グレイ大先生は、よりによってメアリー・モンタギューに転生したんですかね?主人公のルイ・オルフェでもヒロインのフェリシアでもなく」
「なぜって?私にも分からない…」
「もしかして、このままだとすごくまずくありませんか?」
確かにすごくまずかった。
伯爵令嬢メアリー・モンタギューは『デッドロック館』では需要人物の1人ではあるが、主人公でもヒロインでもなかった。
メアリーは、ヒロイン、フェリシアと結婚し、ルイ・オルフェから恨みを買うオズワルド・モンタギュー伯爵のたった一人の妹だった。
ルイ・オルフェは自分を見捨てオズワルドと結婚したフェリシアと、フェリシアを奪ったオズワルドへの復讐として、オズワルドの妹メアリーを誘惑し、駆け落ちをするが、元々愛情はなかったので、結婚後は冷たく、メアリーは失意のうちに男の子を生むと死んでしまう。17歳という若さで。
メアリーがルイ・オルフェに出会い、恋するのは16歳だった。
私はまだ9歳だった。
それに私はこの物語の作者だ。
「この後の展開は分かっているし、私がルイ・オルフェに恋をしなければいいのよ」
「まあ、そうでしょうね」
ただ困ったことに既に物語の内容は変わり始めていた。
私はミス・ゴドウィンに聞いた。
「それに、あの子が…私にそんなひどいことをすると思う?」
この世界で1週間前に、私はルイ・オルフェに会った。
それは『デッドロック館』にはない出来事だった。
「大丈夫?」
霧の出た荒野の中を迷子になっていた私に手を差し伸べてくれた少年。
黒い澄んだ瞳。
確かまだ11歳なのに信じられないほど美しい少年だった。
「あの子が私を嫌ってそんなひどいことをするのかしら?」
「しないと思いますよ…。多分」
ミス・ゴドウィンが転生者だと知った❝ある出来事❞は、ルイ・オルフェも大いに関係していた。
「嫌うよりむしろ…私にはお2人の間に何か運命的なものを感じてしまったんですけど。でもフェリシアもいるんですよね?」
いくつかイメージというか、元になっている作品や人物が存在します。
『デッドロック館』→エミリー・ブロンテ作『嵐が丘』
『ノッポの国の王さまへ』→ジーン・ウェブスター作『あしながおじさん』
『エマ・グリーン』→シャーロット・ブロンテ作『ジェーン・エア』
そして作家アデル・グレイのモデルはエミリー・ブロンテです。