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16.伯爵令嬢が刺繍したハンカチ

 フェリシアは犬に追いかけられ転んだ後、オルフェが「膝を怪我してる。痛いか?どこか打っていないか?」と声をかけてくれ、頷いた所まで覚えていたがその直後に気を失った。


 目覚めると伯爵家の一室にいた。

 伯爵一家がいた居間よりも小さい来客者の待機室のようだった。


「ここは?」

 ソファに寝かされていた。


「大丈夫?」

 最初に目に入ったのは心配そうな青い瞳の少年だった。伯爵家の一人息子オズワルドだ。先ほど自分とオルフェを泥棒扱いしていたが、今は本当に心配しているようで少し印象が変わった。近くで見ると、オルフェとは全くタイプが違うが、なかなか美しい少年だった。


 起き上がろうとすると体は少し傷んだが大丈夫なようだ。でも膝がじんじんと痛かった。

 ゆっくりソファに手をつき起き上がってみると膝に包帯が巻かれていた。


「かわいそうに。驚いたでしょう?足に怪我をしているのよ」

 そう言ったのはモンタギュー伯爵夫人だ。オズワルドと面差しがよく似ている。

「今日はこちらに泊まっていきなさい。子爵家には使いを送るわ」


 フェリシアは黙って頷き、頭はまだぼんやりしていたが、オルフェは?と目で探す。


 フェリシアに伯爵夫人は優しく微笑んで言った。

「大丈夫なら少し体をきれいにしましょう。そしてゆっくり今日はお休みなさいね」

 優しい人だ。5歳の時に亡くなり、うっすらしか覚えていない母もこんな人だっただろうか?


「座れる?無理しないで」

 オズワルドと若いメイドが背中を支え、ゆっくりソファに座らせてくれた。


 綺麗で温かな部屋。上品で洗練された美しい衣装の人々。

 頭はまだはっきりしないが、もう一つの自分のいるべき貴族の世界は美しく心地よかった。


「体をきれいにしてお衣裳をお取替えしようと思いますが大丈夫でしょうか?」

 メイドに言われ頷いた。


 デッドロック館にいたなら転んだくらいでこんなに丁寧な扱いは受けない。

 歩こうと思えば歩けるだろうに、わざわざ男の召使がそっと抱き上げてくれようとした時、窓辺にこの部屋には異質な雰囲気の女性に気付いた。


 最初は幽霊かと思った。灰色の地味なドレスの女性だった。

 目をこすって見直すと、確か先ほどピアノを弾いていた伯爵令嬢の近くにいた若い女性だ。おそらく家庭教師だろう。


 この部屋にいる他の全員が自分を取り囲みように立ったり座ったりしていたが、彼女だけは部屋の隅に離れて立ち、窓辺でカーテンの隙間から外を見ていた。


 その女性がゆっくりとこちらを見た。珍しい、猫のような金色の瞳がフェリシアを捉える。

 近くにいるオズワルドや伯爵夫人、メイドたちの声が近くで聞こえていたはずなのに、それが消え、その女の声だけがはっきりと聞こえた。


「彼、帰っちゃいますよ」


 彼?


 フェリシアは下男の手を振り払った。

 誰かが何かを言っていたがもう聞こえず、怪我の痛みも忘れて窓辺に駆け寄り、その女の横から外を見た。


 もう辺りはすっかり暗くなっていた。


 外の窓辺から50メートル程離れた所にオルフェとこの屋敷の令嬢がいた。

 大きな木が遮っていたせいか、本来向こうからは明かりが灯ったこちらが丸見えのはずなのに、2人ははフェリシアに気付かなかった。

 フェリシアは呆然とした。オルフェはいつも傍にいて、自分を見守ってくれていた。彼の方を見れば常に目が合った。近くにいるのに自分を見ないオルフェは初めてだった


 オルフェは優しく笑っていた。フェリシアが怪我をして連れていかれたのに、令嬢をまっすぐ見つめ、何の不安もないように。


 フェリシアはそれ以上見ていられず、後ろを振り返ると走り出した。


「え?」

 その場にいた全員が、おそらくあの女性は抜かして、驚いたように駆け寄るが振り払った。


「フェリシア嬢、待って!危ない!」

 オズワルドの声がした。


「ごめんなさい。私は帰ります」


 オルフェオルフェ…

 それだけしか考えられずフェリシアは走り出しドアを開けた。


 …なぜ?


 なぜ?


 あたしはなぜこんなに変わってしまったの?


 戻りたい…


 戻りたい。

 あの丘に。荒野に。荒野の向こうのあたしの家に。

 なぜあたしはあたしの世界から追放されてしまったの?

 なぜあたしはあたしの半身から引き離されてしまったの?


 ナンシー、窓を開けてちょうだい!

 あの暗闇に飛び込めば、あたしはもう一度元のあたしに戻れるの。


 ――何なの?頭に響いてくる言葉は?

 自分の声であって自分の声ではない。


 フェリシアは外へ続くドアを開いた。



 オルフェは飛びついてきたフェリシアの両頬を手で包むと顔を上げさせた。

「フェリス、怪我は?怪我は大丈夫なのか?」


「大丈夫!擦りむいただけよ。でも歩けなかった途中でおぶってくれるんでしょ」

「まあな」


 フェリシアは涙でぼんやりしていた目を拭った。泥だらけのオルフェの顔が見えた。

 オルフェ…オルフェだ。あたしのオルフェだ。


 そして顔を見合わせてようやく二人は笑った。


 よかった。よかった…

 先ほど頭に響いて来たわけの分からない声はオルフェを見た瞬間から消えていた。


「あの…もう遅いわ。家の馬車を出すわ」


 後ろから声がした。

 フェリシアが振り返ると、伯爵令嬢メアリーだった。


「こんにちは。フェリシアさん。話すのは初めてよね?メアリー・ラフェエル・モンタギューです。怪我は大丈夫かしら?」


 色が白く金色の髪、青い瞳、バラ色のドレスを着た少女は人形のように綺麗だった。

 フェリシアは泥だらけの自分が恥ずかしくなった。


「はじめまして。フェリシア・ローズ・マンスフィールドです。こんな格好でごめんなさい。お部屋を覗いてごめんなさい。驚いたでしょう?」


 メアリー嬢は静かに首を振った。


「伯爵家のみなさんにも親切にしていただいたのにごめんなさい。歩いて家に帰ります。こちらのオルフェと一緒だから大丈夫です」

 メアリーの目を見ながら隣にいるオルフェの手をぎゅっと握った。


「よかったらご家族に言ってください。オルフェは家の召使じゃないんです。私の家族なんです。それからお家を覗いたのは私が無理に連れてきたからでオルフェは全然悪くないんです。ごめんなさい」


「フェリス、それは違う」

 そう言ったオルフェをフェリシアは止めた。


「分かっています。こちらこそ家のものがひどいことをしてごめんなさい」

 メアリー嬢も言った。


 メアリーの後ろからドアが開いた。

 モンタギュー伯爵夫妻、オズワルド、その他の召使たちが現れた。


 メアリー嬢が使用人たちに向かって言った。

「フェリシアさんたちはお帰りになるそうだから馬車のご用意をしてあげて。このまま帰すわけにはいかないわ。ね?」


 フェリシアは頷いた。


 メアリー嬢は続けてにこやかにフェリシアに言った。

「よかったら私とお友だちになってくれたら嬉しいわ」


 メアリー嬢はいい子のようだった。

 馬車の用意をしてもらっている間、フェリシアとオルフェはそれぞれ体をきれいにして着替えさせられた。


 フェリシアは傷の部分は痛くないよう優しく拭かれ、髪も軽く洗って梳かされ、メアリー嬢の服だろう。人形のように綺麗な青いドレスを着せてもらった。


 馬車の前に来た。オルフェはまだ来ていないようだった。

 彼なら傷をものともせずしっかり体を洗っているのだろう。


 フェリシアは伯爵夫妻とオズワルドに改めて謝罪した。そして先ほどメアリーに言ったように、きちんとオルフェについて話した。

 きれいになったフェリシアにメアリーが手首にレースの美しいハンカチを撒いてくれた。赤いバラの花が刺繍されている。


「私が刺繍したの。お友だちになった印にもらってね。あなたのミドルネームがローズだからバラのお花よ」


 フェリシアはうっとりとハンカチを眺めた。

 なんてすてきなんだろう。なんて甘く美しい世界なんだろう。女の子の友だちなんて初めてだ。それがこんな綺麗な子なんて。


 その時若いメイドたち数人のきゃあっとざわめく声が聞こえた。

 2人のメイドに連れられてオルフェが来た。


 その場にいた人々は息を呑んだ。

 オルフェと長く過ごしてきたフェリシアでさえも、驚きに目を見開いた。


 まるで王子が現れたかのようだった。


 彼はメアリーの計らいでオズワルドの古着を着てきた。メアリーは衣装まで指定しなかったが、メイドたちが選んだのは青いベルベットにレースのア白い襟のついたきらびやかな服で、オズワルドは自分には派手過ぎると嫌い一度しか着なかったが、オルフェの華やかな美貌をより引き立てた。

 真っ黒に汚れて浮浪児のようだった少年が洗ったら、魔法のように煌めく王子になり、メイドたちはすっかり色めき立った。


 オズワルドは苦々しい顔で見たが、その他の人びとは、絶世の美少年に感嘆の表情になった。先ほどオルフェを捕まえた庭師の老サイラスでさえ首を振って言った。

「こりゃあ噂通りあの子が子爵の子だったら母親はさぞかしいい女じゃろうて」


「遅くなり申し訳ありません。たいへんご迷惑をおかけしました」

 オルフェは多くの目から注目されながらも照れることなく、丁寧に優雅に伯爵一家にお辞儀した。


 メアリー嬢、いやラエルはすぐに気付いた。

 オルフェは怪我をした腕に、入浴後新しく包帯を巻いてもらっていた。そしてその上にはもう1枚、コマドリとブルーベルが美しく刺繍されたハンカチを巻いていた。


 ラエルと並んでいたフェリシアもまたそのハンカチに気付いた。そしてそっと自分の膝に巻かれた赤いバラの刺繍のハンカチと見比べた。

 そしてこれを巻いてくれた少女の可憐な笑顔を思い出した。


「私が刺繍したの。お友だちになった印にもらってね」


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