15.原作との相違
伯爵家の人びとの目が窓に一斉に注がれた。
ピアノを弾いていたラエルも立ち上がり、目を大きくして真っすぐにオルフェを見つめていた。
オズワルドが「不審者がいる!早く捕まえるんだ!」と騒ぎだした。
それを聞きつけ、走ってくる音がしてき数人の使用人たちも入ってきた。
「逃げるんだ!」
オルフェはフェリシアの手を引くと駆けだした。
後ろから複数の犬のワンワンいう声が聞こえてきた。
対応が早い。不審者を捕まえるために犬を放したんだ。
途中でフェリシアが転んだ。
フェリシアは叫んだ。
「オルフェ、逃げて!早く逃げて!」
オルフェはフェリシアを助け起こそうとしたが、犬の声がすぐ近くに近付いてきた。間に合わない。フェリシアを守ろうと、彼女を隠すように抱きしめた。
「だめ!」
「だめ!」
二つの少女の声が重なった。
声のひとつはフェリシアだった。
「だめ!オルフェ、逃げて!お願いだから逃げてよ!」
必死に手で自分を抱きしめたオルフェを押したが、オルフェは放そうとしなかった。
もう一つの声は少し離れた屋敷の方から。ラエルだった。
「だめ!マルス!マーキュリー!やめて!パラディンお願い!止めて!」
20秒、30秒ほど経っただろうか?
オルフェの耳にすぐ近くで犬の吠える声が聞こえた。
オルフェは目を瞑ったままフェリシアを抱きしめていたが、予想した犬にとびかかられることもなく、何も起こらなかった。
そっと目を開けると小さな犬のお尻が見えた。その犬がわんわんと吠えている。
オルフェはフェリシアを抱きしめたまま、やや体を起こした。
パラディンというラエルの小さな犬が2匹のブルドッグをわんわんと激しく威嚇していた。
一匹のブルドッグが首から少し血を流していた。パラディンが噛みついたのだろう。後で知ったがパラディンの犬種チワワは、体は小さくても勇敢な猟犬だった。
「フェリス、大丈夫か?」
抱きしめていたフェリシアの安全を確かめる。
フェリシアの顔は涙で濡れていたが頷いた。
転んだ時に膝を擦りむいたらしく血が出ていたが他に目立った怪我はなかった。
「膝を怪我してる。痛いか?どこか打っていないか?」
「ううん」とフェリシアは首を振った。だが犬に襲われそうになったのがよほど怖かったのかひどく顔色が悪かった。
その時、2人の男の召使たちの声が近付いてきた。老人と体の大きい若者、伯爵家の庭師のサイラスと下男のチャーリーだ。
この2人が犬を放したらしい。
「マルス、コソ泥は捕まえたか?」
老サイラスはそう言いながら、屋敷に忍び込んだ泥棒2人がまだ子どものこと。泥棒に噛みつき捕まえるはずだった2匹の犬が、伯爵令嬢の小犬に吠えられているのに驚いたようだった。
「こりゃあどういうことだ?」
サイラスとチャーリーは顔を見合わせた。
「おや、泥だらけだが女の子の方は教会で見たことがあるぞ。マンスフィールド子爵令嬢じゃないか」
チャーリーが言った。
「それと身元の分からない捨て子の小僧だな」
チャーリーはそう言うと屈みこみ、オルフェからフェリシアを引き離そうとした。
「こんな子どもを引き取るから、令嬢が悪い遊びに誘われて、こんな時間にここに来たんじゃないか?」
「やめろ!」
オルフェはチャーリーの手を振り払おうとしたが、子どもと大人では力が敵わず、無理矢理腕を掴まれ、羽交い絞めにされると、老人の方がフェリシアと引き離した。
「フェリス!フェリス!」
オルフェは叫んだ。おとなしいと思ったら、フェリシアは気を失ったのかぐったりとしていた。
「フェリス!どうしたんだ!大丈夫なのか!離せよ!」
騒ぎを聞きつけた他の使用人たちも集まってきた。
先に来た2人の男たちから、泥棒ではなく子ども2人で、少女の方はマンスフィールド子爵令嬢のようだと聞くと、みな心配そうな顔になった。
「貴族の令嬢を怪我させるなんてまずいんじゃないか?」
「そもそもなんでこんな時間に令嬢がこんな場所にいるんだ?」
チャーリーより更に屈強そうな男がフェリシアを抱き上げた。
「気を失われているようだ。まずは怪我の手当てだな。これは執事のスティーブンスに報告しないと」
そしてフェリシアを屋敷の方に連れて行く。何人かはついていった。
「フェリス!フェリス!」
オルフェはもがいて無理矢理下男の腕から抜け出そうとするがうまくいかなかった。
「やめて!その子は私のお友だちよ!」
ラエルが屋敷の方から走って現れた。
「チャーリー、放してあげて」
オルフェを捕まえていたチャーリーに声をかけた。
チャーリーが手を離すと、オルフェはフェリシアが連れていかれた屋敷の方に向かって走り出した。
「フェリス!」
伯爵邸の入口の大きなドアは開かれている。止めようとした男たちを振り切り、話し声のする部屋の方に走った。おそらくフェリシアはそこにいる。
走ってきたオルフェに、その部屋の前に立っていた下男が慌ててドアを締め、オルフェを突き飛ばした。
素早く立ち上がったオルフェはドアを叩いた。
「フェリス!フェリス!フェリス!」
「叩き出せ!」
他の下男たちもやってきて、オルフェは先ほどのチャーリーも含めた数人の男たちにドアから引き離され、外の扉の方へと連れていかれる。力のない自分が悔しかった。
「やめて!放してあげて!」
外からラエルが現れた。
「お嬢さま、でも…」
オルフェの腕を掴んでいる男が困ったように言う。でも掴んでいる手は少し緩んだ。
「オルフェ、そこでちょっと待っていてね。私がフェリシアさんを見てくるから」
ラエルはそう言うと、ドアの前に立っていた下男に頷くと、中に入っていった。
オルフェは少し落ち着き、抵抗をやめドアを見つめた。
「動くんじゃないぞ」と掴んでいた下男に言われて頷くと、解放された。
暫くしてラエルが出てきた。
「フェリシアさんは大丈夫よ。膝を擦りむいた以外、怪我はないって。意識も戻ったわ。でも今日は家に泊まっていきなさいって、お父さまが仰ってるの」
とオルフェに向かって優しく言った。
「よかった。ありがとう。いや、ありがとうございます。レディ」
オルフェはほっとし、使用人たちもいるのでお礼を言い直し、ラエルにおじぎした。
ラエルも頷くと、オルフェを上から下まで眺めた。
オルフェは恥ずかしくなった。顔も服も、沼地で既に汚れていたのに加え、地面に転がったり突き飛ばされたので、すっかりぼろぼろになっていた。
「腕、あなたも怪我をしているわ」
「ああ…」
気付かなかった。自分も左腕から血が出ていた。
「ちょっと待っててね。手当をするから」
そして若いメイドを連れてくると、2人でオルフェを拭いてくれ、傷を消毒し、ラエル自ら薬を塗り包帯をしてくれた。
その上、綺麗なハンカチを取り出して包帯を巻いた腕の手首の所に巻いてくれた。青い花ブルーベルとオレンジ色のコマドリがとても綺麗に刺繍されていた。
「コマドリだ…」
オルフェはようやく笑った。
「コマドリに見える?よかった」
ハンカチを結び終わったラエルも顔をあげ笑った。
「コマドリの声を聞くとね、元気になるの」
「手当上手なんだね。お嬢さまはそんなことしないって思ってた」
「ああ…」
ラエルは少し言葉につまった。
「以前兄が怪我をした時に手当を習ったの…。あとパラディンも」
その兄はオズワルドではなく、前世のアデルの兄セドリックだったが。
「へえ…あいつ、いや君の兄上も外で遊んだり運動したりするんだ」
「残念だけど兄はあまり外で遊びも運動もしないわね。剣術を習ってくれたら素敵なんだけど嫌いみたい」
「剣術?」
「騎士みたいでしょう?」
剣術ね…今まで習う機会がなかったけどおもしろそうだ。
「そうだ。君とパラディンにお礼を言わないと。犬たちを止めてくれたんだよね」
「間に合ってよかったわ…」
そう言いながらどこか複雑そうだった。
「小説ではもっと先の出来事のはずなのに…」
「え?」
「ううん。ごめんね。今日は一人でデッドロック館に帰ってね。子爵家でも心配すると思うから。フェリシアさんは明日以降にこちらから送って行くわ」
原作では1年以上先の事件だったが、フェリシアは犬に噛まれて怪我をし、療養のため1ヶ月伯爵家に滞在することになる。野性的だった少女は伯爵家滞在ですっかりレディとなる。そしてフェリシアは伯爵家の一人息子オズワルドと親しくなっていき、変わらず野性的で、フェリシアだけが愛情の全てであったオルフェとすれ違っていくようになる。
オルフェはラエルと共に外へと出た。
外へ出るとオルフェはフェリシアがいる部屋の閉じられたカーテンを見た。改めて様々なことが悔しくなった。
「僕はこれから先もずっと追い出されるんだろうな」
子爵家の単なる居候だ。しかも出自の分からない。
「そんなことない!私のお友だちでしょ」
ラエルは言った。
「そうだ。ピアノを弾く前に歴史の授業を受けてたの。ルマーニュの王様の名前は代々ルイなのよ。あなたと同じ。もしかしたらあなたも王様の血を引いているかもしれないわね」
「ふうん…。僕の名前、ルイの方はそんなに好きじゃなかったけど今好きになったよ」
オルフェは館に戻った後子爵家の図書室を訪れ、ルマーニュ最後のルイ王と、その王妃の名前がラエルのファーストネームと同じマリー(メアリー)だと知る。
「本当にありがとう」
ラエルと別れがたかった。
最低な1日だったけれど、ラエルの優しさだけはとても嬉しかった。
「君のピアノ聞いたよ。すごくよかった。上手なんだね。僕とフェリスが邪魔して悪かったけど、もっと聞いてたかった。なんて曲なの?」
「ショパンが作曲した夜想曲という曲。あなたも会ったことのある家庭教師のミス・ゴドウィンが見つけてきてくれたの。いろんな音楽に詳しいのよ。夜想曲は夜の情緒をイメージした曲なんですって。すてきな曲だけど私の今の手は小さくてなかなかうまく弾けないの」
「今の手?」
「ううん。早く大人の大きな手になってすてきに弾けたらって」
「できるなら全部聞きたいな」
「次に会ったらきっとね」
「うん」
「じゃあまた」
笑顔で別れようとした時、バタバタと走ってくる音がして正面玄関のドアが突然開いた。
驚いて2人がそちらを見ると、小さな人影が飛び出してきてオルフェの首に抱きついた。
「オルフェ!オルフェ!どうして?どうしてあたしを追いてっちゃうの?」
フェリシアだった。
泣きながら言うと、更にぎゅっとオルフェにしがみついた。
「帰る!あたし帰る!オルフェと一緒に帰る!」
今回のヒーローとヒロインが部屋を覗いて泥棒と間違えられて犬に襲われるシーンは『嵐が丘』オマージュです。