14.ピアノを弾く少女
オルフェはモンタギュー伯爵令嬢メアリー・ラファエル、今は彼の友人のラエルと一緒に岩山に行った翌日、4年ぶりに教会を訪れた。
と言ってもこっそり外から中をのぞいてみただけだったが。
デッドロック館のメイドのナンシーが話してくれた天使ラファエルのステンドグラスを見て見たかったのだ。
ナンシーはオルフェより6つ年上で、マンスフィールド子爵家の長男ヒューの乳きょうだいでもあった。ナンシーの母がヒューの乳母で、ヒューとナンシーは小さな子どもの頃は一緒に育ち仲が良く、成長と共に性格が歪んだヒューもナンシーとその母にだけは態度が良かった。
そんなこともあり、オルフェがデッドロック館に引き取られた時、ヒュー寄りだったナンシーはオルフェに反発を抱き、最初の方こそこっそり意地悪をしていたが、今ではフェリシアの次に仲が良かった。
ナンシーは教会に行かないオルフェの将来を心配して、いつか行くようにと時々教会のことを話してくれた。自分を引き取ったマンスフィールド子爵が行かないので自分も行くつもりはなかったが、ラエルと出会って、ナンシーが話してくれた教会にあるという、とても美しい天使ラフェルのステンドグラスが見たくなった。
ちょうど人がいなかったので教会を一周したが、外から見るステンドグラスは縦長の窓が黒っぽく見えるだけだった。
本当にこの窓のどれかに天使がいるんだろうか?
こっそり忍び込めないかと思ったが、教会の間取りやスケージュールなど知らないし、あまりうろうろすると村人や子どもたちに見つかってまた私生児だの捨て子だの言われかねないので一旦は戻ることにした。
だが振り返ると、ちょうどこちらに向かって歩いてくる黒い僧服姿の若い男がいた。
背が高く赤毛でそばかすいっぱいの顔、田舎の若者らしいもっさりとした雰囲気の素朴な青年。ナンシーが以前話してくれたビリー副牧師だろう。
油断をして隠れる機会も失ってしまった。
「君はもしかしてマンスフィールド子爵家の?」
まずいな。何か盗みに入るとでも思われただろうか。しかも正体もばれているらしい。
「教会に何か用かい?」
背の高い副牧師はオルフェの目の高さまで腰を落とし、目を合わせ優しい声で聞いてきた。そばかすいっぱいの顔はにこにこと笑顔で人が好そうだった。
オルフェは知らなかったが、ビリー副牧師は明るく気さくで村人たちに人気が高く、特に子どもたちには兄のように慕われていた。
一方オルフェは自分が4年前の目つきの悪いやせ細った孤児から、目を見張るような美少年に成長したことをまったく自覚していなかった。服装も良家の子息なので、今のオルフェなら、他の村人や子ども達もひどい言葉は浴びせなかっただろう。
少し考えて、できるだけ感じよく本当のことを言うのが一番いいと思った。
そこでできるだけ感じの良い笑顔を作って言った。
「デッドロック館のルイ・オルフェです。すみません。覗いたりして。天使のステンドグラスを見たかったんです」
「天使?」
「メイドのナンシーが言ってたんです。この教会にはとてもきれいな天使ラファエルのステンドグラスがあると」
「そうか。それなら見においでよ」
副牧師は笑顔でついてくるよう手招きした。
「え?いいんですか?」
いとも簡単に教会に入るができたのは驚いた。
「ご苦労さま」と副牧師が声をかけた番人も教会の庭を清掃していた老人も、副牧師に会釈しただけで、オルフェが入ってきたことになんの拒否反応も見せなかった。
初めて見るステンドグラスは深い青を基調としていて、教会の中は青に包まれていた。まだ見たことはなかったけれど、海の中にいるのはこんなだろうかと思った。
天使は青の中で白と金で描かれ、大きな翼は頭の光輪を囲み、右手に金の杖を持ち、左手は幼い少年の手を引いていた。中性的な美しい顔に、髪はやや長めでラエルと同じ金の髪だった。
オルフェの感嘆の気持ちは素直に表情に現れた。
「この天使について知っている?」
副牧師が聞いてきた。
「子爵が教会に行かない代わりに、日曜日にいつも僕に聖書を読んでくださって、教えてくれました。天使と手をつないでいる男の子、トビアスですよね?父トビトの代わりに、天使ラファエルの導きでメディアまで使いに行った」
副牧師は頷いた。
感じのいい子じゃないかと彼は思った。噂はいろいろ聞いていた。たとえこの子が子爵の私生児だろうと、異教徒との混血児だろうとこの子自身には何の罪もない。
村の子どもたちが来たばかりのこの子をからかったと後で聞き、子どもたちを諭し、そんなことは2度としないと子どもたちも反省していたが、オルフェはもう村へは来なかった。
「子爵に君が教会に来られるように話してみようか?」
「え?」
驚いてオルフェは副牧師を見る。
「あそこが子爵家の席だよ」
子爵家の特別席を指し示した。
見回すと他にも特別席があった。
「あそこは?」
その席を指しながら聞いた。
「モンタギュー伯爵家の席だね」
オルフェはかすかに反応した。そして少し間を置いて言った。
「ぜひ教会に来られるようにお願いします。僕ももっと神様について学びたいです」
にっこりと笑ったオルフェは、天使のように美しく清らかに見えた。
こうもうまくいくとは…。
翌日牧師と副牧師がデッドロック館を訪れ、マンスフィールド子爵に会い、牧師は子爵に改めて謝罪し、ビリー副牧師がオルフェを頭が良く礼儀正しい少年だと褒めた。
子爵は謝罪を受け入れ、オルフェはもちろんのこと、子爵まで一緒に教会に通うこととなった。
オルフェはとても嬉しかった。
毎週美しいステンドグラスを見られるし、フェリシアが出かけるのをさびしく見送ることなく、あの子とも会える。
そして教会に行く日、髪もとかしつけ、きちんとしたスーツを着たオルフェはそっとラエルから貰ったハンカチをポケットに入れた。
「とても立派よ」
準備を手伝ってくれたメイドのナンシーは褒めてくれ、一緒に行けるとフェリシアはとても喜び、手をつないで出かけた。
教会を入っていくと、ラエルはすぐ見つかった。
父の伯爵や兄と思われる少年、家庭教師も一緒で、ラエルの方もオルフェにすぐに気付き、びっくりした目でオルフェを見つめた。
ラエルを霧の荒野で初めて見た時、彼女はくすんだピンクのドレスを着ていてヒースの花の妖精のようだと思ったが、今日は茶色のドレスで同色のリボンをつけている。人形のようにかわいらしかった。
笑いかけると、彼女は頷き少し赤くなった。
来て本当によかった。
教会の中なのに口笛を吹きたい気分だった。
オルフェは気付かなかったが、フェリシアはそんなオルフェをずっと見ていた。
一緒に教会に行けるのを楽しみにしていたのに。
一緒に讃美歌の練習をしたのに。
今日はいろいろ教えてあげようと思ったのに…。
他の子に笑いかけるなんて、とても感じが悪いわ。
あたしがこんなに気分を悪くしているのにオルフェはなんで気付かないのよ!
伯爵家の女の子も初対面のくせにオルフェに頷いて、頷き返したオルフェが嬉しそうなのも気に入らなかった。
オルフェはずっと自分の、自分だけのものだったのに。
何なのよ?
教会に行った日曜日以降、しばらくフェリシアは機嫌が悪かった。
教会であの後フェリシアは「あの子と知り合いなの?」とオルフェの袖を引っ張って小声で聞いたら、ちょうど牧師様が来てしまい、オルフェの返事は聞けなかった。
教会でのオルフェはおとなしく感じがよかったから牧師に副牧師等教会関係者たち、村人たちの評判も良かった。男女問わず何人かの人たちはその美貌に魅了され、ある女性は「あんなきれいな子見たことがないわね」と言っていた。
これまでオルフェはフェリシアと一緒に勉強をしていたが、それとは別に副牧師からも勉強を教わることになった。
オルフェはあたしが見つけたのに。
あたしだけの友だちなのに。
オルフェがとてもきれいなことは気付いていた。でもあえて自分に無関心な本人には言わなかった。
彼の関心はいつも自分と自分たちが大好きな荒野ににあって、フェリシアはそれにとても満足していた。
嫉妬深い兄のヒューもオルフェの評判が良いのが気に入らないらしく、フェリシア同様日曜日からずっと機嫌が悪くて、水曜日の今日、朝食の席でちょっとしたことからフェリシアと言い合いになった。
いつもならフェリシアの味方をしてヒューをからかったり、おもしろいものを見る表情で2人のやりとりを眺めるオルフェが無関心そうなのも気に入らなかった。だから余計に激しく言い返した。
父から二人とも叱られ、フェリシアはますます機嫌が悪くなった。
気分を変えたくて我慢できず、「沼地へ行きましょう!」とオルフェを誘い2人で走って出かけた。
沼地は2日間続いた雨でぬかっていて、その中を泥だらけになって2人は走り回った。久しぶりに楽しかった。
「オルフェ、きれいな顔が台無しね!それじゃ誰も相手にしてくれないわよ」
「それはフェリスもだろう?」
2人は大声で笑い合った。
なんて楽しいんだろう。
こんな時がずっと続けばいいのに。
顔や腕を洗ってデッドロック館に帰ろうと思ったが、フェリシアは悪戯心が沸いた。
「ねえ、モンタギュー伯爵家に行ってみない?」
オルフェはびくっとした。
「これから?こんなに汚れてるしもう暗くなるよ」
「いいじゃない!野生児のあたしたちがお上品な兄妹を見に行くのよ。笑ってやりましょう」
「こんな格好じゃ、浮浪児だと思われるよ」
そう言いながらもデッドロック館の王女フェリシアの言うことには逆らえなかった。
「大丈夫。窓から見るだけよ」
お転婆なフェリシアはモンタギュー伯爵邸の、子どもなら侵入できる塀の小さな穴を知っていた。
侵入は成功したものの屋敷は大きく、どこに子どもたちがいるかなんて分からなかった。
正直に言えばオルフェは早く戻りたかった。
いつもならこういう悪戯は彼の方から率先してやるのに、ひどく子どもじみた馬鹿げたことに感じた。
あたりはもうすっかり暗くなっていた。
「戻ろうか」
オルフェは言った。
「そうね…」
勢いでやってきたもののフェリシアもだんだん不安になってきた。
もし見つかったらどうなるのだろう?
こんな泥だらけではとても子爵家の子どもには見えなかったし、無断侵入だ。子爵家の子どもであると分かった方が恥ずかしい。見つかって父に言いつけられたりしたら…。
その時どこからかピアノの音色が聞こえてきた。
どこだろう?オルフェは見まわした。
とてもきれいな優しい曲だった。
オルフェは音楽のことは分からないけれど今まで聴いた音楽の中で一番美しいと思った。
「行ってみましょう」
フェリシアも興味を持ったらしく、オルフェの手を引いた。
ピアノが聴こえるのは1階の大きな部屋の窓からのようだった。
厚いカーテンがかかっていたが、光が漏れていた。
2人はそっと近づき、窓にかかったカーテンの隙間から中をのぞいた。
燭台の明るい光が溢れた豪華な部屋だった。
ソファーに座った伯爵夫妻、アームチェアには教会で見かけたラエルの兄の少年がいた。
そしてオルフェにラエルからの本を渡してくれた女家庭教師が見えた。
家庭教師の近くには大きなピアノがあって蓋が立てかけてある。
ピアノの足元には、ラエルが連れていたパラディンという名の小さな犬がいた。
そして…
オルフェはこんなきれいなものを見たことがなかった。
金髪を肩までたらした少女がピアノを弾いていた。
ろうそくの光が明るく彼女を照らしている。
ラエルだった。
美しい音楽は彼女が弾いているのだ。
オルフェはただ黙って彼女を見て、美しい音楽を聴いていた。
自分とはあまりに遠い世界だった。。
しばらく自分の袖を引っ張るフェリシアの存在を忘れていた。気付かず振り払ったかもしれない。
あともう少しだけ…もう少しだけここにいたかった。
「オルフェオルフェ」
フェリシアは小さい声で呼んだのに気付かない。
オルフェ、意気地なしの兄妹を二人で笑いに来たんじゃないの?
すっかり気分を害したフェリシアはもっと強くオルフェの袖を引くと、体勢を崩して窓にかたんと触れてしまった。
音楽に集中していた伯爵家の人びとはほとんど気付かなかったが、ただ1人窓に目をやったオズワルドとフェリシアの目が合ってしまった。
「父上!誰か窓の外にいますよ!」
オズワルドの声が響いた。
ピアノの音が止まった。
室内にいた人々が一斉に窓を見た。