13.ラエルとオルフェ
植物図譜は後でじっくり読むことにして、授業が再開された。
隣国ルマーニュの歴史だった。
私が『デッドロック館』で創造したルマーニュ国は、言語も歴史もフランスと似ていた。わざわざルマーニュという国を創造したのは、歴史の一部を弄るからだった。
教科書として使っているルマーニュの歴史の本には革命で処刑された国王ルイ21世とその王妃マリー・ブランシュの肖像画が載っている。モデルとなっているのは、実在したフランス国王のルイ16世と王妃マリー・アントワネットだ。
国王ルイ…ルイ・オルフェ。王妃マリー。
マリーはエインズワース語にするとメアリーだ。ルイ21世夫婦が並んだ肖像画を少し長く見つめた。
ミス・ゴドウィンはそれを目ざとく見つけたらしく言った。
「このまま『デッドロック館』のストーリー通りならルイ・オルフェとメアリーお嬢さまは結婚するんですよね」
そう。自分を見捨てたフェリシアへの当てつけと、フェリシアを奪ったオズワルドへの復讐、それからメアリーの財産目当てでね。
「でもどうせ結婚するなら仲良しの方がいいじゃないですか」
教科書を閉じた。
ルマーニュ国王ルイ21世夫妻は、フランンス国王ルイ16世夫妻と同じように、革命で処刑された。不幸な結婚だった。
『デッドロック館』のメアリーは不幸な結婚をし、子どもを生み、17歳になったばかりで死んでしまう。
不幸な結婚でストレスが溜まって体が弱っていたのか、出産に耐えられない体だったのか。
父の上の姉、私と同じ名のメアリー・オクタヴィア伯母は独身だった。首都ドルトンで知的なサロンを開いたりして優雅に人生を楽しんでいる。彼女のように独身のままなら、私も幸福に長生きをすることができるかもしれない。
「結婚なんてしないわよ。多分。誰とも」
* * * * * * *
眠る前にルイ・オルフェから貰った植物図譜を見ている。
もう何度見ただろう。
所々に絵の模写や実際にその植物を見て描いた絵、感想も書かれている。
私がアデルだった頃、グレイ家にも植物図譜があって、私やきょうだい達も模写した。みんな絵を描くのが好きで、一番上手だったのは一時期画家を目指したセドリックだったけれど、ルイ・オルフェの方がセドリックより更に上手かった。
植物図譜の空きスペースは所々日記のようにもなっている。
「7月20日、デッドロック館を出ると、荒れ野は一面ヒースのピンク色になっていた。フェリスと1日中駆け回った」
出てくるのは決まってフェリス(フェリシア)だ。
ヒース、エニシダ、コケモモが群生している所など植物を一緒に見たのもフェリス、小鳥の巣やリスを一緒に見たのもフェリス、晴れた日も雨の日も、虹を一緒に見たのもみんなフェリスが一緒だった。
ミス・ゴドウィンの言葉をふと思い出した。
「でもどうせ結婚するなら仲良しの方がいいじゃないですか」
でもね、ミス・ゴドウィン、一番の仲良しになることはないわ。
私が設定したとはいえこんなに仲良しなら、ルイ・オルフェはフェリシアに私と彼が出会った霧の日のことは話したのだろうか?
私から本を貰ったこと、彼が私に本をあげたことも。
* * * * * * *
ミス・ゴドウィンの授業以外にも私が学ぶことがあった。
まず刺繍だ。
母に刺繍を教わっている。
今縫っているのは伯爵家の紋章の鷹だ。
刺繍は手先が器用なスーザンからも教わっているけれど、伯爵家伝統のデザインは母から教わっている。母から娘へ代々伝えるのだそうだ。
娘に教える母は幸せそうだった。
もし私が『デッドロック館』通りに17歳で死んでしまったら、この母から娘への伝統も途絶えてしまうのだろうか。
長生きしていたら息子の嫁に伝えたかもしれないが。
モンタギューの血を引く私と兄以外の子どもは父方の2人のいとこだが、どちらも男子だった。
「とてもよく出来ているわ」
母から褒められるのは嬉しい。3歳で母を失ったアデルにはなかった母と娘の時間だった。
私の刺繍の腕前は、前世の30年間縫物もたくさんしていたから10歳の貴族の少女にしてはできる方だろう。
そうだ。
ルイ・オルフェにハンカチをプレゼントしよう。
部屋でこっそり彼のイニシャルを刺繍してみた。ルイ・オルフェの「LO」。
小説『デッドロック館』で、ルイ・オルフェは子爵家を出て3年間、軍隊に入っていた。その時は母親の姓でルイ・ダリューと名乗り、子爵家の養子になってからはルイ・マンスフィールドになった。
そうなるとイニシャルは「LD」か「LM」?でもこの時点では彼に姓はなかった。
イニシャルの下に、交差するヒースの花の枝も刺繍してみた。男の子に渡すハンカチとしてはロマンチックすぎる気もするがいいだろうか?彼が一番好きな花だった。
ルイ・オルフェといつ会えるのかは分からないけれど、いつでも渡せるように荒野に行く時は持っていこう。
また彼がフェリシアと一緒にいたら、声をかけられるかは分からないけれど。そもそも前世でも今世でも人が苦手な私に直接彼に声をかけて渡す勇気があるのだろうか?
意外にも簡単にその機会は来た。
やはりミス・ゴドウィンの授業とは別に乗馬を習うようになった。
仲良く並んで馬を走らせていたルイ・オルフェとフェリシアが羨ましかったので、この授業は嬉しく、あっという間に上達した。
父がプレゼントしてくれた子馬に乗り、初めて荒野の岩山まで一人で馬を走らせていたら歩くルイ・オルフェの姿を見つけた。
「あ…」
心臓が高鳴り、何度も練習した挨拶さえ出ず、小さく会釈して通り過ぎようとした時、ルイ・オルフェの方が声をかけてきた。
「こんにちは。レディ・メアリー」
「こ、こんにちは」
私も彼の名前を言うべきだろうけど、気恥ずかしくて言えなかった。
俯いてやっとのことで言えたのは「あのね、私にレディなんてつけなくていいわ」だった。
せっかく声をかけてくれたのに感じが悪いだろうか?
彼は少し戸惑ったように私をまっすぐに見つめる。
「でも伯爵令嬢をお呼びする時にはレディをつけるって先生が言ってたよ。いや、言っていましたよ」
私は馬から降りて彼の前に立った。
向き合うとルイ・オルフェは私より頭一つ背が高かった。
カールした黒髪、澄んだ黒い瞳、通った鼻筋、長い睫毛、細く長い手足も含め、改めてすべてが美しい。
緊張からか胸の動悸が激しい。
「私の伯母さまの1人もメアリーという名前でやっぱりレディ・メアリーって呼ばれているの。だからレディ・メアリーは私じゃなくて伯母さまの気がするわ」
「じゃあ伯爵家ではなんて呼ばれてるの?レディ・ラファエル?」
自分でも驚いたことに、案外普通にルイ・オルフェと会話ができている。
「レディ・ラファエルって一度も呼ばれたことないけど素敵ね。もっと大人になったらそう呼ばれたいけど、まだ早い気がするわ」
「ラファエルってすてきな名前…ですよね」
「私に敬語はつかわなくていいのよ。大抵の人は私をファーストネームのメアリーと呼ぶけれど本当はラファエルの方が気に入っているの」
「じゃあラファエル」
悪くはないけれど、もっと好きな呼び名があった。
「もしよければ…あなたが私の友だちになってくれるのならラエルと。父が時々そう呼んでくれるから」
「ラエル」
どくんと心臓が打った。心地よい響きだった。
「ラエル、ラエル、ラエル」
澄んだ声が歌うように私の名を呼んだ。
何度も呼ばなくても…
「ありがとう。ルイ・オルフェ」
「あなたのオルフェという名前もとてもすてきだわ。ギリシャ神話の竪琴の名手よね」
「うん」
「もしよければオルフェって呼んでもいいかしら?」
彼をオルフェと呼ぶのはフェリシアしかいないので、どうかと思ったけれど言ってみた。
「いいよ」
彼は笑顔で頷いた。
『デッドロック館』でルイ・オルフェは「メアリー」と冷たい声で呼んでいた。メアリーもフェリシア以外の人が皆呼んでいたように「ルイ」と。
「そうだ。この間すてきな本を貰ったからこのハンカチをあなたに渡そうと思っていたの」
私は急いで持ってきた、刺繍入りのハンカチを差し出した。恥ずかしいので目を逸らしながら。
オルフェはハンカチを受け取ってくれた。
「LOって僕のイニシャル?ヒース…一番好きな花なんだ。もしかして君が刺繍をしてくれたの?」
「そう。まだあまり上手ではないんだけど」
実はかなり気合を入れた会心の作だった。
でも、こんなに喜んでくれるなんて思わなかった。そして初夏に荒野を彩るヒースが彼にとってもやはり一番好きな花だと知って嬉しかった。
アデルの頃から一番好きな花で、何度も詩に書いた。
「こういうの、貰ったのは初めてだ」
嬉しいけれど照れくさくなって話題を逸らした。
「植物図譜に書いてあった絵、とても上手だったわ。とても大切な本じゃないの?私が本当にもらってもいいの?」
「汚い本て言わないんだね」
「え?」
「いっぱい書き込みしていたから。あとでそういう本を渡してよかったのかなって思った」
「少しもそんなこと思わなかったわ。この世に1冊しかない本だわ。私が渡した本にも書き込みがあったでしょう?」
「すごくおもしろかった。シンドバッド!お父さまの図書室で他の千一夜物語も読んだよ。どれもおもしろいね」
勘違いをしていた。この頃のオルフェは子爵家の子どもの一員だったから、自由に本も読めたのだ。そしてオルフェがマンスフィールド子爵のことをフェリシアと同じようにお父さまと呼んでいることを知った。
「そうだ。岩山には来たことがあるの?」
「初めてよ」
「案内してあげるよ」
乗ってきた小馬を近くの木につなぐと私はオルフェに手を取られて岩山の一番上まで行った。
どこまでも荒野が広がっていた。
「わあ!すてきね!遠くまで荒野が続いてる」
「気に入ってくれた?」
「ええ。荒野もこの岩山も大好きだわ」
夢のようだった。
俯瞰すると、やはりこの荒野は私のもう一つの大好きな故郷と似ていた。
戻って来た気がした。
「そうだ。秘密の場所を教えてあげるよ」
岩山の岩と岩の間に隠れるように、とても小さな洞穴があった。普段は他の岩をかぶせて隠しているそうだが、その岩をどかしてくれた。
洞穴には虫眼鏡やいくつかの小瓶にいろんな植物が入ってた。
「すてきだわ。アリババの盗賊が宝物を隠している場所みたい!」
「開けゴマ!の呪文で開くんだよね」
「そうなの!」
「君もよかったらこの場所を使ってもいいよ。雨でもここは濡れにくいんだ。まだフェリスも知らないんだよ」
顔を見合わせて笑った。
今はそれがとても自然にできた。
明日にはまた緊張するようになってできなくなってしまうかもしれないけれど。
帰る時は私の馬にオルフェが乗って前に私を乗せてくれ、屋敷の近くまで送ってくれた。
彼はとても馬に乗るのが上手で、こんなに早く走る馬に乗ったのは前世も今世も合わせて初めてだった。
荒野は赤く夕陽に染まり、その中を走っていくのはすばらしかった。
屋敷に近付いてきた時、心配して見に来たらしいミス・ゴドウィンと会った。
「まあ!お嬢さま!」
そしてミス・ゴドウィンは不気味な笑いを浮かべ、またもぞもぞと意味不明なひとり言を言いだした。
「一昔前の青春ラブストーリーみたいね。ヤンキーがお嬢さまをバイクに乗せて夕陽の中を飛ばしたりして。ふふふ」
オルフェとこんなに話せたことは夢のようだった。
また会おうねとは言ったけれどそれはいつになるだろうか。
* * * * * * *
しばらくは何もないと思っていた。
けれど日曜日に奇跡が起こった。
教会がざわついたので、人々の視線が向いている方を見た。
マンスフィールド子爵家の特別席に数年ぶりに子爵が現れたのだ。
子爵の後ろから仏頂面をしたヒュー、その後ろからフェリシアが続いた。
そしてフェリシアの後ろからオルフェが現れたのだった。