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12.植物図譜

 その夜夢を見た。アデルの子どもの頃の夢だ。


「ねえ、こっち来てよ」

 私は2つ年上の姉のセーラの手を引っ張って荒野を歩いていた。

「いいものを見せてあげるから」


 セーラが12歳くらいだからおそらく私は10歳くらいだろう。

 セーラは困ったように周囲を見回しながら私に引っ張られている。セーラと1つ上の兄のセドリックは共に近眼だった。セドリックはメガネをかけたが、近眼がもっとひどいセーラはなぜかメガネをかけることを嫌った。今だって周囲がろくに見ていないのではないかと思う。


「ここよ」

 私はセーラの手を放し、少し離れた。

「ほら、ずっと遠くまで見えるでしょう?」


 セーラは私が離れたので困って、一歩前に出たが「きゃっ!」と叫んだ。少し先に地面がないことに気付いたのだ。


「アデル!アデル!」

 私を探して手が泳いだ。


「崖よ。へんに動くと落ちちゃうわよ」

 私は笑った。嘘だ。実はそんなに高い所ではなかった。子どもの私の肩くらいの高さだ。落ちたって草が受けとめてくれる。それに本当に落ちそうになったら手を引っ張るつもりだった。


「セーラ、私の詩を出版したのね。ひどいわ」

 この時はこんなことは言っていない。夢だから記憶がごちゃごちゃだ。


「あの詩は人に見せるものではなかった。私だけのものだったのに」


 その時、私の横を一つの影が通り過ぎた。

「セーラ、こっちに来て。大丈夫、そんなに高い所じゃないから」


 その影はセーラを後ろから抱きとめて下がらせた。

「もう大丈夫」

 そして安心させるように言った。

「深呼吸して」


 セーラは大きく深呼吸し、座り込んだ。ひどく震えていた。

「ありがとう…」

 力なく言った。


 セーラを救った黒髪の少年が私を振り返った。

「アデル、こんなことをしちゃいけない。セーラは本当に怖がってるんだ」


 やりすぎた。私も分かっていた。でも両手にぎゅっと拳を作って叫んだ。

「セーラは私のとても大事なものを取ったのよ!」


「それにセーラは荒野が嫌い。いつも歩いていたらここが崖じゃないって気付いたわ」

 私はそう言うと2人の横を通り過ぎ、セーラが怖がった小さな崖を思いっきりジャンプして飛び降りた。

 ほら、草が受けとめてくれた。全然痛くない。

 そして草原を1人駆けだした。


 走って走ってお気に入りの岩陰に隠れ、座って膝に顔を埋めた。

 岩の横を強い風が通り過ぎていく。


 しばらくすると荒野を走ってくる足音が聞こえた。

「アデル!アデル!アデル!」


 やはり私を追いかけてきた。

 姉をいじめるような性格の悪い子で、高い所から飛び降りるようなお転婆で、彼とは違って少しもきれいではない私のことを。


 私は少しだけ顔をあげ、周囲を見た。


 あれ?いつの間にか荒野には深い霧がかかっていた。


 霧の中を一つの影が近付いてきた。

「大丈夫?」

 澄んだ少年の声が聞こえた。



*  *  *  *  *  *  *



 荒野でルイ・オルフェとフェリシアを見てから1週間ほど過ぎた11月の初め、ミス・ゴドウィンが1冊の本を持ってきてくれた。


 表紙に花の絵が描かれている。かなり読まれた植物図譜だった。


「お嬢さまにプレゼントですよ」


 私に手渡すとミス・ゴドウィンはふふふと笑った。

「誰からだと思います?」


 心臓が高鳴った。

「ルイ・オルフェからですよ」


 ミス・ゴドウィンがまた荒野に一人で散歩に出た時にルイ・オルフェに声をかけられ、この本を手渡されたそうだ。

「ルイ・オルフェが!『デッドロック館』のルイ・オルフェが、こんにちは、ミス・ゴドウィンって!私の名前を覚えてくれたんですよ」

 彼女は彼女で大興奮だった。


 渡された本を開くと見開きにこう書いてあった。


「レディ・メアリー・ラファエルへ


 すてきな本をありがとうございました。

 また会いたいです。


 ルイ・オルフェ」


 ぱらぱらと捲ると花や植物の絵が描かれている。多くのページにはそれの横に同じ植物が小さく模写されている。かなり上手だった。


 荒野に咲いているヒースやエニシダ、釣鐘草などは模写以外にオリジナルの絵も描いてあった。

 コマドリやヒバリの鳥の絵もあった。荒野で見かける鳥たちだ。


 この頃のルイ・オルフェが本を持っていたなんて知らなかった。彼を実の子どもたち以上にかわいがったマンスフィールド子爵からもらったのだろうか?これくらい読み込まれているなら、きっととても大切にしていた本だ。


 そして本の最後の白紙ページに見覚えのある地図があった。

 海の中に島があって「私の島 ガールダイン」とある。

 私がオルフェにあげた『千一夜物語』の余白に描いた地図の模写だ。


 鍵の形のガールダインの横に少し大きな島があった。小箱のような形だ。

 島にはこう書いてあった。


「僕の島エルダノ」


 胸がいっぱいになって本を抱きしめる。


 貰っていいのかしら?

 私は助けてもらったお礼のつもりで本を送ったのに、その分は返せていなかった。


「よかったですね〜」

 ミス・ゴドウィンが興味深げに本を抱きしめた私を見ていた。


「中を見たの?」

「見てませんよ」

 彼女は顔の前で否定するように右手を振った。

 あやしい。まあ本を預けた時点で見られても仕方はないとは思ったけど。

 

「それにしてもお嬢さまもルイ・オルフェも難しそうな本を読んでいますね。この時代って子ども向けの本がないんですね」


「童話があるわ」

「ああ、そうですね。アンデルセン童話はお読みになりましたか?『雪の女王』とか」

「知らない。シャルル・ペローやグリムの童話なら読んだけど」


 ミス・ゴドウィンは少し考え込み、ぶつぶつ言い出した。

「アデル・グレイが亡くなったのは1848年で30歳だから、子どもの頃は1820年代?デンマーク出身のアンデルセンが活躍したのは1830〜40年代だけど英語版は出たのはいつだろう?ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』は確か1860年代だからまだないんだ」


「あなたが来た未来には子ども向けの本がたくさんあるの?」

「ありますよ。たくさん」


 そして言った。

「先生が『不思議の国のアリス』や『若草物語』をご存じないのは仕方がないですね。先生の死後に出た本ですから。素敵な物語ですよ。本好きな先生なら気に入ると思います。今度お話ししますね」


 いつの間にかミス・ゴドウィンは、また私への呼称がお嬢さまから先生に戻っている。

「そうだ。私が『デッドロック館』に出会ったのも、児童文学の名作『ノッポの国の王さまへ』なんですよ」


 ミス・ゴドウィンが語った児童文学の名作『ノッポの国の王さまへ』は、私の死から60年後に出版された作品で、孤児院出身で、ある富裕な紳士の援助で高校から大学まで行けることになった女の子が主人公の物語だった。

 作家志望で本の虫である主人公エリーが夢中になっている本が『デッドロック館』で、彼女の自分を支援してくれる紳士に宛てた手紙に大好きな『デッドロック館』の感想を書き綴った。


「ノッポの国の王さま、わたしが今一番夢中になっている本について書きますね。それは『デッドロック館』です。ああ、わたし、こんな小説は初めて読みました。興奮が止まりません。アデル・グレイという作家は、あの若さで、しかもベックフォースという小さな村からほとんど外に出たことがなくて、男の人を知らなかったのに、どうしたらルイ・オルフェみたいな男の人を想像できたのでしょう?」


 それは間違いなく私の『デッドロック館』への称賛の言葉だった。

 実はミス・ゴドウィンの私の小説が世界中で読まれているというのは信じ切れていなかった。

 けれど、私が書いた小説を読み、感激してくれた人がミス・ゴドウィン以外にも本当にいたのだ。


 前世の『デッドロック館』の酷評を思い出す。

「ルイ・オルフェのような残忍な悪魔のような男をなぜ想像できたのだろう?」


「エリーにとって、ルイ・オルフェは本の世界での初恋の人ではないかと思うんですよ。もしかしたら作者の女流作家ユナ・ブラウンにとっても」


 そしてミス・ゴドウィンはエリーの言葉をなぞるようにもう一度言った。

「どうしたらルイ・オルフェみたいな男性を想像できたのでしょう?」


「私への質問?」

「やっぱりファンとしてぜひお聞きしたいんです。ルイ・オルフェのモデルになった人っているんですか?」


「いないわ。強いて言うならルイ・オルフェは私よ」


「なんだかフェリシアのセリフみたいですね。オルフェは私なのって」

 ミス・ゴドウィンが嬉しそうに言った。


「フェリシアも私よ」


「分かります。お嬢さまとお話しをしていると『デッドロック館』のフェリシアと重なりますもの」


「でも…」そう言ってミス・ゴドウィンは首をかしげた。


「この世界が『デッドロック館』だとして、なぜアデル・グレイ大先生は、よりによってメアリー・モンタギューに転生したんですかね?主人公のルイ・オルフェでもヒロインのフェリシアでもなく」


「なぜって?私にも分からない…」

「もしかして、このままだとすごくまずくありませんか?」


 確かにまずい。原作通りなら私と兄のオズワルドは、ルイ・オルフェとフェリシアに人生を台無しにされる。

 だからこの1年、時々教会で会うフェリシアにも一度として声をかけなかったのだ。

 けれどルイ・オルフェと一切接触しないというのは崩れてしまった。


「この後の展開は分かっているし、私がルイ・オルフェに恋をして、結婚しなければいいのよ」

「まあ、そうでしょうね」


 私はルイ・オルフェがくれた植物図譜に目を落とした。

「それに、あの子が…私を嫌って、ひどいことをすると思う?」


「しないと思いますよ…。多分」


 ミス・ゴドウィンもまた私が持っている本を見つめた。

「本をお互いにプレゼントしたり、お譲さまはもうルイ・オルフェとお友だちじゃないですか。嫌うよりむしろ…私にはお2人の間に何か運命的なものを感じてしまったんですけど。でも、ルイ・オルフェの運命の恋人フェリシアもいるし、どうなるんでしょうね?」


 そうか。ルイ・オルフェがこの世界で最初の友だちになるかもしれないんだ。

 アデルにとってあの少年がそうだったように。


 姉妹で小説を出した時、執筆中にお互いの小説を読んだ。

 メグは『デッドロック館』を読んで気付いたようだった。彼とは私と一緒に遊んだことがあったから。

 けれどセーラは気付かなかったようだ。


 崖事件の後で家に帰ってから私はセーラに謝った。

 セーラは私を許し「あの男の子はあなたのお友だちなの?お礼がしたいわ」と言った。

 縫物をしていたアナ伯母がちらっとこちらを見たので言った。

「友だちじゃないわ。教会に来るから顔見知り程度よ」

 

 セーラがアナ伯母に私がしたことを言いつけなくてほっとした。

 そしてセーラが彼に会ったのはあの時だけだろう。すぐに寄宿学校に戻ったから。


 それ以前も、近眼のセーラを引っ張って、いきなり牛に触らせたことがあった。

 その時は家の近くで、セーラが大きな悲鳴をあげたので、アナ伯母に見つかり、私はとても怒られ、罰として夕食が抜かれた。


 岩の影に隠れた私を探し出した彼にその話をしたら、「初犯じゃないんだ」と彼は楽しそうに笑った。

 そして「でも本当に怖がっている人にはやらない方がいいよ」と優しく言った。


「アデルにだって怖いものがあるだろう?」

「ないわ」

 私は強がった。


「僕は僕の大好きな荒野や動物が誰かに恐れられ嫌われてほしくないな。アデルは?」


 それから彼と何を話しただろう?もう遠い記憶だ。

 顔を覚えていたかったから、彼を描いた絵をずっと残していた。

 けれど死を予感した時に最初に燃やした。それでよかったと思う。

 セーラは結局崖から落ちそうになった自分を救ったのが美貌の王子だと最後まで知ることはなかった。


 ミス・ゴドウィンには悪いけれど、彼を永久に失った時に、2度と誰かに話すつもりはなかった。


 私の最初の友だち、唯一の友だち。

 R.C. ロバート・チャーチ。


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