8.フェリシアとの遭遇
私の家庭教師となったカーミラ・ゴドウィン先生はゴドウィン準男爵家の長女だった。17歳で社交界デビューや結婚ではなく伯爵家の家庭教師をするのだから、ゴドウィン家はあまり裕福ではないのだろう。
私は彼女から文学、ルマーニュ語、歴史、ピアノ、一連の淑女のための教育を受けることになった。
この屋敷では家庭教師を使用人扱いしない。
アデルだった時、姉妹のセーラとメグはそれぞれ二つの家庭で家庭教師を務めた。
彼女たちは勤め先で、本来の子どもたちの教育以外に、繕い物等使用人がするような仕事をさせられた上、子どもたちも問題児ばかりだった。
2人は子どもたちに体罰はできない性分で、子どもたちも家庭教師をばかにしていて、仕事はつらかったそうだ。
それに比べると私もオズワルドもかなり扱いやすいと思う。
最初の挨拶の時、ミス・ゴドウィンに抱いたぞっとする気持ちは私がおかしいのかと思ったが、彼女が伯爵家に来た夜、子ども部屋の隣である彼女の部屋の前を通り過ぎた時、挨拶の時に母に見せた品のいい笑いとは違うくくくっと不気味な笑い声がして、途切れ途切れに何か声が聞こえた。
「ついに来たよ。モンタギュー伯爵家!お嫁さん、超美人じゃん!」
お嫁さん?誰のことだろう?
少なくとも奇妙な笑い声に庶民的な言葉使いは、教養ある準男爵令嬢とは思えなかった。
シュザンヌやスーザンがいたら驚いて顔を見合わせる所だが、その時は1人だったので、廊下の子ども部屋の前にかかった少年の肖像画に小さな声で語りかけた。
「へんな人よね」
私が話しかけた肖像画は父の弟、ラファエル叔父だ。私が生まれる前に亡くなっている。
父とは8歳も年が離れている、父のきょうだいの末っ子だった。生まれつき体が弱くて、この肖像画が描かれた12歳で亡くなった。私が生まれるちょうど1年前のことだった。
メアリー・ラファエルのミドルネームはこの叔父からもらった。
ラファエルは天使の名前だから男女どちらにつけてもよかった。けれど誰も私をラファエルの方で呼ばなかったが、父だけは時々「私の天使ラエル」と呼んでくれた。私はそう呼ばれるのが好きだった。ラエルは前世の名前、アデルと響きが似ていたから。
ラファエル叔父のことは『デッドロック館』には出てこない。作者の私も知らないモンタギュー家のエピソードだ。
そもそもメアリーの家庭教師ミス・ゴドウィン自体『デッドロック館』には登場しなかった。
しばらくしてシュザンヌが来て、いつものようにルマーニュ語の歌を歌ってくれた。
「眠りよ 眠り おいで おいで おいで
眠りよ 眠り 赤ちゃんのもとへ おいで おいで」
その歌を聞きながらミス・ゴドウィンが何者であるか想像してみた。
1.幽霊
2.吸血鬼
3.スパイ(伯爵家に何か悪意を抱く者の手先)
4.多重人格者(先程の不気味な笑い声と言葉)
5.悪霊に取り付かれている(4と同じ理由)
6.私と兄を悪い子どもにして伯爵家を崩壊させる
7.魔女
8.単なる詐欺師。紹介状は偽造した
9.本当のミス・ゴドウィンとすり替わっている偽物
ミス・ゴドウィンのおかげでいくつか物語ができそうだ。幼い兄妹に家庭教師が様々な悪いことを吹き込み、悪魔のような子どもにして伯爵家を崩壊させる物語などは書いてみたかった。
そんなことを考えてうとうとし始めた頃、シュザンヌの歌がいつもの子守歌でないことに気付いた。
「眠るの そうしたら忘れられるわ
眠るの 今までの思い出を全部
眠るの 愛も 悲しみも あなたも」
この歌もルマーニュ語だったが、前世のアデルは一時期教師を目指していたこともあって、私はルマーニュ語がほぼ理解できた。
子守歌でなくても歌声は優しく眠りを誘う。
欠伸をしながら小さな声で言った。
「シュザンヌ、それ、子守歌じゃないわ」
シュザンヌは私の額にキスをした。
「かわいいお嬢さま。内緒ですよ。恋の歌なんです。恋人との別れを歌った」
シュザンヌの性格なのか、ルマーニュ人がそういう傾向なのか、シュザンヌは私の額や頬などにしょっちゅうキスをした。スーザンや両親もそこまでしないので、私は現時点で一番シュザンヌにキスされていた。
正式な教師であるミス・ゴドウィンが来て、乳母で子守でもあるシュザンヌの役目は終わる。もうすぐお別れだった。
ルマーニュ語の歌はいつの間にか終わっていた。
ひゅるひゅると荒野に吹く風の音が聞こえる。
風の音は前世と同じだった。
夢を見た。
「ラエル」
「ラエル」
風の音の向こうで誰かが私を呼んでいる。少年の声だ。
最初は前世の夢でアデルと呼ばれているかと思ったがラエルだった。
父以外呼ばない名前で私を呼んでいるのは誰だろう?優しい声だった。
目が覚めると涙が流れた。
そして私が転生してから一番驚く出来事があった。
日曜日、教会で『デッドロック館』の女主人公、フェリシアを見かけたのだ。
教会には貴族用の特別席があり、モンタギュー伯爵家はもちろん、フェリシアのマンスフィールド子爵家も特別席だったが、両家の席は離れていた。
特別席にいる黒髪の少女を見かけた時、一目でフェリシアだと分かった。
黒髪で意志の強そうなはっきりとした顔立ち、愛らしさと強情さを併せ持つ美少女だった。
メアリーより半年ほど先に生れているから10歳だろう。
彼女は兄である17歳のヒューと一緒だった。ルイ・オルフェを苛め抜くあのヒューだ。フェリシアと似ていて一応は美少年だった。
マンスフィールド家の席に来ているのはこの2人だけで、ルイ・オルフェはもちろんフェリシアの父アーネスト・マンスフィールド子爵もいなかった。
『デッドロック館』で重要な役割を果たすマンスフィールド子爵家のメイド、ナンシーは別の席にいるのだろうか。
それにしても私が創作した人物、フェリシアとヒューが本当にいるとは!
嬉しくて、不謹慎にも牧師様のお話しそっちのけで、こっそり2人を見ていた。
2人とも私が想像した以上に美しかった。
まだ見ぬルイ・オルフェはどんな姿をしているのだろう?
フェリシアが私の視線に気付いたのかこちらの方をちらっと見たので、慌てて目線を教会のステンドグラスに向けた。
教会には天井までの美しいステンドグラスが貼られていて、その中の1枚は大きな翼を持った天使が幼い少年の手を引いている。
私が1番好きなステンドグラスだ。
天使はラファエル。私もラファエル叔父もこの天使から名前を貰った。
ステンドグラスをしばらく眺めた後、机の上で開いていた聖書に目を落とし、『デッドロック館』で書いたマンスフィールド子爵家について考える。
ルイ・オルフェとマンスフィールド子爵が教会に来ていないのは理由があった。
フェリシアとヒューの母、やはりフェリシアという名のマンスフィールド子爵夫人は5年前に亡くなっていた。
夫人が亡くなって1年後にルイ・オルフェが引き取られた。小さな村ではたちまちルイ・オルフェが子爵の私生児ではないかと噂がたち、勇気ある(空気の読めない?)主席牧師は子爵にそのことについて問いただした。子爵は怒り、それからはほとんど教会には来なくなった。
ただし子爵は牧師の指摘に「愚かなことを!」と言っただけで、噂について完全否定はしなかった。
ルイ・オルフェは一度村に来たものの、同じ年ごろの子どもたちに私生児と呼ばれ、そう呼んだ子どもたちを無言で殴り返したが、それからは、教会はもちろん村にも寄り付かなくなった。
彼の世界はデッドロック館とその周辺の荒野だけになった。
ルイ・オルフェがデッドロック館に来たのは4年前だった。
フェリシアが6歳、ヒューが13歳の時だった。
マンスフィールド子爵が1ヶ月の領地視察を突然1週間に切り上げ戻った時に、途中で出会ったという孤児の少年を連れ帰ったのだ。
激しい嵐の晩だった。デッドロック館は嵐の為、厳重に戸締りをしていたので、子爵の突然の帰宅に、館は慌ただしくなった。
嵐のため早めに眠らされたフェリシアもヒューも寝間着姿だった。ずぶ濡れの父のマントの下から、手品のように現れた小さな少年は、フェリシアより少し大きいくらい。顔も手も彼に合わない大きな旅行用の服もひどく汚れて、真っ黒になっていた。
少年は母親を亡くしたばかりで、彼にはもう帰る所などないのに途中で家に帰ろうと嵐の中、子爵の隙を見て逃げたらしい。泥だらけなのは逃げる途中で何度か転んだからだった。危ない所だったと子爵は少年と手をつなぎ、安心させるように頭を撫でた。
「汚いな。放っておけばよかったのに」と最初から少年を気に入らなかったヒューが言った。父とは既に折り合いが悪く、記憶の中で頭など撫でられたこともなかった。
一方フェリシアは眠っていた所を起こされ機嫌が悪かったが、突然現れた子どもを興味深げに見ていた。
ヒューが少年を睨みつけると、生意気なことに少年も睨み返してきて、突然声を発し始めた。
可愛らしく澄んだ高い声で、幼いフェリシアが聞いたこともない言葉を早口で父の子爵に語りかけている。美しい声の小鳥が囀っているようだった。
怒りに満ちた目で、何を言っているかは分からなかったが、首を横に振りながら何度か繰り返す「ノン!ノン!」だけは「嫌だ」と言っているのだろう。
「ルマーニュ人か」
そう呟く兄を初めてフェリシアは尊敬の目で見た。
「お兄さま、あの子の言葉、分かるの?」
「ちょっとはな」
そう言いながら勉強嫌いのヒューは、本当はほとんど分からなかった。
「クソガキ、ここにいたくないなら出ていけよ」
父に聞こえないようにヒューは小さな声で言った。
「お兄さま、それ、ルマーニュ語であの子に言ってよ」
ヒューはその言葉を敢えて無視した。
フェリシアもヒューも、父がルマーニュ語がこんなに堪能だとは知らなかった。子爵はルマーニュ語でなんとか少年を説得できたらしく、少年は黙ると、子爵のマントにしがみつき、大きな目で兄妹を睨みつけた。
「名前はルイ・オルフェだよ。きょうだいと思って仲良くしなさい」
子爵は子どもたちに少年をそう紹介した。名前もルマーニュ風で、おしゃれだ。
ヒューはそっぱを向き、フェリシアの方は早速少年に向かって右手を差し出した。
「こんにちは!」
戸惑ったルイ・オルフェは子爵を見上げ、出てきた所に戻るようにマントの中に隠れた。けれどすぐにマントからそっと目だけを出した。好奇心旺盛なリスのようだとフェリシアは思った。ルイ・オルフェは何も言わず、フェリシアをじっと見つめた。
それがルイ・オルフェとフェリシアの出会いだった。
翌日、入浴させられ、伸びた黒髪を切られ、ヒューの子どもの頃の服を着せられたルイ・オルフェは、とても美しい子どもだと分かり、伯爵令息であるヒュー以上に貴公子、いやそれ以上の王子のようになった。
フェリシアとはすぐに仲良くなり、彼女によってエインズワース語も覚えていった。
子爵も含めたデッドロック館の者はルイ・オルフェをファーストネームのルイと呼んだが、フェリシアだけは彼のミドルネームが気に入ってオルフェと呼んだ。
フェリシアと友だちになれたらなあ…
聖書に目を落としながら私は思った。
伯爵家で私と年が一番近い兄のオズワルドさえ、寄宿学校へ行ってしまった。
伯爵家の子どもは私1人となった。
スーザンとシュザンヌ、それに新しく来たミス・ゴドウィンもいたが寂しかった。アデルの時は友だちこそいなかったが、家には同じ本好きのきょうだいが3人もいて、特に妹のメグとはずっと一緒にいて仲がよかった。
両親に頼んだら、フェリシアに紹介してもらえるだろう。
けれどフェリシアと友だちになったら、彼女は兄のオズワルドとも親しくなるかもしれない。
さすがにすぐには結婚話などないだろうが、できれば兄とフェリシアに関わってほしくなかった。ルイ・オルフェは、フェリシアとオズワルドの交際に激しく嫉妬し、2人が結婚するとマンスフィールド子爵家とモンタギュー伯爵家への復讐を考え、両家は崩壊するから。
ふと視線を感じた。
顔を上げてその視線の方を見ると、フェリシアだった。
私の方を見ている?と思ったら、目が合わなかったので違うようだった。
彼女は不思議そうにしている。
何を見ているのだろうと思ったら、私に付き添って来たミス・ゴドウィンのようだった。
ミス・ゴドウィンを見上げると、彼女は私とフェリシアの視線も構わず、フェリシアをじっと見ていた。