3話 行商人
神聖光国に住むほとんどの人間は、この国の陰を知らない。恩寵の庇護の元、魔物に怯える必要すらない彼らは、心の底から光神を信じ、純朴で温厚な性質を持っていた。
管理される側である彼らは、戦闘の矢面に立たされることさえない。一般市民を侵略者や盗賊たちの被害から守るのは、主に騎士団や憲兵の仕事とされていたが、その構成メンバーの下層にいくほど孤児院出身者であることは、見て見ぬふりをされがちだった。
教団によって運営されている各地の孤児院は、それぞれの適正に見合った職業訓練施設も兼ねており、どんなに努力したところで行き着く先は、使い捨ての駒となる運命だったのだ。
光国の平和は命によって贖われている。
その事実を知る由もない旅の行商人は、今日も今日とて武器の売り込みをかけていた。
「この国でそいつは売れんじゃろのう」
酒場のオーナーである気のいい老人が、カウンター越しに対応している。グラスを磨く手は止まらないが、暇つぶしが終わる頃には閑古鳥も鳴き止むだろう。
広々としたオーク材のテーブルに、片手剣やら短剣やらを並べていた商人は肩を落としている。
「これなんて帝国では大人気なんですけどねぇ? 適正のない魔法であっても、軽々と使いこなせる魔法剣! ただし使用回数に制限有り!」
魔法剣と呼ばれた何の変哲もない武器をちらりと一瞥した老人は、売り物よりもむしろ、それを扱う人間の方に興味を抱いた。
「あんた……東国の人に見えるんじゃが、わしの勘違いかの」
「ええ、そうですよ! ここらじゃ珍しいでしょう? いつもならとっくに帝国港にいる頃なんですがねぇ」
行商人は黒髪黒眼を隠していない。
神聖光国に対し度重なる侵略行為を働くのは、決まって帝国であると相場は決まっているのだが、彼が住まう東国は帝国港からしか渡航出来ないはずだった。
「そんななりで関所が通すもんかね?」
「僕もそれを心配していたんですが、全くもって杞憂でしたよ。だってほら、武器の半分は買い取って貰えましたからね!」
ニコニコと笑う男の旅装束はボロボロだった。髪は後ろで軽く結えてあるようで、降ろせば腰まで届きかねない長さだろう。小柄に見えるのは、老人が平均的光国人の体躯と比較しているせいかもしれない。
「なんにせよ、ここいらにはイノシシくらいしかおらんぞ。あんたら余所者にゃわからんだろうが、魔物の存在さえ信じ難いのが普通なんじゃ」
「そうなんですよねぇ。実演ひとつ出来ないとは盲点でした」
情けない顔でしょげている男を見、さすがに考え過ぎたかと老人が頷いていると、常連の猟師たちが店へと入ってきた。さぁ稼ぎ時だな、と気合いを入れ直した店主は意識を切り替え、以後その男の事を思い出すことはなかった。
やがて猟師たちと酒を酌み交わし、肩を組んで歌い合う男は、ただのひとつも武器を売ることなく店から去っていった。その背には、入店時と変わらぬ量の武器が軽々と背負われていたのだが、その総重量に注意を払えるような素面はいなかった。
「人と魔物、果たしてどちらが怖いんだろうねぇ」
降りしきる雪の中、宿場へと帰ると見せかけた行商人は、往来に人の目がないことを確認すると、そそくさと山の奥へと入り込んでいく。
山路を事もなげに踏破していくその様は、まるで猿の如き敏捷さだ。
針葉樹林がひしめく一帯を越えると、今度は切り立った岩山の眼前へと出る。男は岩の窪みの中にその身を隠すと、ようやく人心地がついたようで、ダラリと身体を弛緩させた。
「いやぁーなかなか勘の鋭い店主でしたね。侮れません」
男は元来よく笑い、よく喋る質だった。
見様見真似で覚えた間諜ごっこは、まだまだ板につかないようで、齢40も近いというのに何やってんだか……と自省しはじめる始末である。
しかし、情報こそが勝機の鍵であると信じる男は準備を怠るようなことはしない。
一休みを終えた彼は、木々の合間に張り巡らせた“罠”の調整に入るべく再び森の中へと消えていった。
さて、この男の名前はシャオム・アールハート。
正真正銘、本物の商人である。
東国由来の血は引くものの、本拠地は東国でもなければ帝国でもなかった。彼が生まれ育ち、いずれ帰るであろう場所は、光国と帝国の中間地点にある都市国家バリュノアという場所である。
シャオムが今、極寒の雪山という不慣れな土地で、無理を押してまで奔走しているのには理由があった。
事の起りは、ひと月ほど前のことである。
たまたま訪れていた行商で、たまたま手に入れた秘密集会への招待状。光国のお偉方を一目拝める機会に恵まれたとあらば参加しないわけにはいかない。
およそ興味本位の好奇心だけで乗り込んだ、とあるオークションパーティは、都市部から大きく隔てられた別荘地帯で催されていた。
シャオムはそこでおぞましい世界の片鱗を、まざまざと見せつけられることとなる。よもや神の恩寵を賜りし光国の権力者共が、人を人とも思わぬ“商い”に手を染めていようとは想像だにしていなかったのだ。
そして彼は、売られゆく花々の最後の一輪である少年フェルデールに出逢ったのである。