幕間 陰の庭園
神聖光国グランド・サンクタムにある庭園は、大司教ジェルディオーネにとってお気に入りの場所だった。
ここは愛する夫が最初に降臨した“聖地”であると同時に、彼女を伴侶として選んでくれた大切な場所でもあったからだ。
雪深い光国でも巡礼者たちが暖かく過ごせるようにと、火の魔法石を贅沢に使用したこの庭園は、広く憩いの場としても解放されることが多かった。
大司教が日常的に利用するのは、内苑に当たる部分だったが、外苑部には巡礼施設や聖堂に加え、宿泊施設までもが整えられており、世界各地から集まってくる信者たちを日々歓迎していた。
運が良ければ、お出ましになられるという大司教様を一目見ようと、祝典祝賀に合わせて解放される内苑公開日には、信者たちが大挙して押し寄せてくるのだという。
ジェルディオーネはそんな彼らを慈しみ、時には一人ひとりと丁寧に会話さえ交わしてくれる女神のような御方であると、もっぱらの評判であった。
そんな彼女は今、それらの施設の地下に造られた大司教専用の神殿の中に居た。
地下神殿の中は常夜の世界が保たれており、一度でも足を踏み入れたならば、まるで深い森の中に迷い込んだかのような錯覚に陥ることだろう。
神殿内に広がる一面のスミレ畑は月明かりを浴びずとも青白く発光し、厳かに歩みを進めるジェルディオーネを優しく歓迎していた。
光神が愛したスミレは決して枯れることがないのだという。
この伝説を体現するかのように、地下神殿の中央には、ぽっかりと浮かぶ真っ赤なスミレの祭壇があった。
そこに横たわっている銀髪の少年に声を掛ける。
「ご機嫌ようヴェリウス。体調に変わりはありませんか? 実は、お前に謝らねばならぬことがあるのです」
「はい、母上様」
スミレより尚青白く儚げな少年は、母であるジェルディオーネと同じ法衣をまとえる身分にあったが、今はただ質素なローブ姿のままだった。
彼は細腕で己の腹を撫でつつ、母親の言葉をじっと待っている。
「お前が気に入ったという坊やのことなんだけれど、どうやら捕獲どころか回収にも失敗してしまったようなの」
「お気遣いありがとうございます。ですが、母上様がお気になさることはありません。どうか、このまま捨て置いてやって下さい」
「あらまぁ……さすがあの方との愛の結晶であるヴェリウスは違うわね。きっとお前なら神の器になれると母は信じていますよ」
目を伏せ恥じらって見せる美少年を愛でつつ、ジェルディオーネは続ける。
「たくさん食べて、たくさん遊んで、たくさん産んで頂戴ね。逃げ出したあの子たちは、失敗作ばかりなんですもの腹立たしいったら……。そういえば、そうだわ。お前の姉もそうだったわね?」
「母上様、姉上のことはもう……」
「思い出したわ。フェルデールにもあの子と同じ魔核を使ったのよ……お前がお気に入りだと言って駄々を捏ねるから特別に。図らずも逃げ出した2人が同じ魔核だなんて、そんな偶然あるかしら? いいえ、きっと何かあるに違いないわ」
ヴェリウスの手を取り抱き締める母の目は、どこか遠いところを見ていた。不安気に見つめる息子のことなど気にも留めない。
「あれから千年も経つというのに、あのトカゲ……わたくしのことが嫌いで嫌いで仕方がないようね。きっとあいつの仕業だわ。ミュレイス……本当に憎たらしい子。でも、わたくしの大切なものは何ひとつ奪わせやしない」
お前もそう思うでしょう?
と視線を交わらせてくる母の目を見た少年は、体を強張らせ、ただでさえ白い肌をより一層青褪めさせている。
「お前も楽しみにしていたはずですよ。あの2人が一体どんな魔物に進化するのか……ええ、きっと今からでも遅くはないわ。ねぇ、ヴェリウス。お前もフェルデールに会いたいわよね? だって1人じゃ不安だものね? それともやっぱり姉さんに会いたい? いつか必ず会わせてあげるわね」
約束よ? と微笑む大司教は踵を返す。
ヴェリウスは彼女を引き止めようと腕を伸ばすが、足枷が重過ぎて身動きが取れない。鎖は真っ赤な祭壇と繋がれている。
「何はともあれフェルデールを拾ってこなくちゃ。きっとあの魔核には秘密があるわ。だってとっくに狂っていてもおかしくないんですもの! どちらにせよ、わたくしの恩寵を使ってくれさえすれば……ふふふ、どうなるやら楽しみだわ」
「待って下さい、母上様、もうあやつのことはよいのです!」
「心配しないで。あの子が光魔法を使う限り、絶対に見失ったりしないから。でも、仮に……五体満足じゃなくなってしまっても、愚かな母を許して頂戴ね」
「嫌です母上様、お願いですから!」
「あら? やっぱり人の形じゃないとイヤ? だからミュレイスを勧めたのね? だったら、お前がなんとかするといいわ。腕や足の1本や2本、容易く再生出来ましょう?」
大司教ジェルディオーネは嘲りの表情を隠しもしない。罰を与えるのなら間接的に加えるに限る、という自論に基く行動なのだろう。
少女のような無邪気さと残酷さとを併せ持つ彼女は、足取り軽く地下神殿を後にしたのだった。