8話 雪嶺の戦い 2
その頃フェルデールは、突然鳴り響き出した乾いたさざめきに慄きながらも、シャオムからの指示に従い脇目も振らず山路を進んでいた。
ようやく倒木を回り込んだところで、目当ての岩山を視認する。雪のせいでわかり難いが意外と近い。これより先の道は段々と勾配が強くなっていくようだ。
あの商人は本当に来てくれるのだろうか。手紙を何度往復させたところで、会ったのはただの一度きり。不安は募る。もし仮にいなかったとしても、この国を抜け出さない限り安息はない。故にフェルデールは行かねばならない。
ところで、雪にはひとつ利点がある。
それは音を吸収することが可能だということだ。だからこそ気付くのが遅れたのだ。だからこそ倒木が仕事をしたのだ。フェルデールが追い付いて来た監督官に気付くより早く、監督官の剣撃が逃亡者の命に届くよりも尚早く、気配を消し倒木の中に身を隠していたシャオムが、監督官の背中に向けて先ほどと同じ短剣を放つことが可能だったのは。
轟く閃光と衝撃にフェルデールは前のめりになって転んでしまう。監督官は、やはりその程度では倒れない。大司教特製の防御魔法はどうやら伊達ではないらしい。しかし、せっかくの隙を無為にするほど商人は鈍くなかった。続け様に放った第2波の短剣を陽動に、背後に張り付くようにして近づいていたシャオムは、手持ちの短剣を敵の後頭部目掛けて全力で叩き込む。監督官も防御力が高いことを全面に活かし、敢えて回避せずにそれを耐え切り、同時に逆手に持ち直した剣で、振り向きざまに剣撃を放つ。咄嗟にこれを避けたシャオムは横に転げ受け身を取った。その背面には未だ事態を把握し切れていないフェルデールがいる。
「硬いねー! さすが教団お抱えだ?」
「……どこの組織の者だ」
「僕? ただの通りすがりだよ?」
「使い捨てのガキのために命を張ることはない。金ならくれてやろう。去ね」
「そうは問屋が卸さないんだなぁ? 残念だけど交渉は決裂だね。せっかく投資するって決めたんだ。なら、貫くまでさ」
「ならば2人仲良く死ね」
「おっと? 一体何が目的なのかは知らないけれど、わざわざ子供1人に執行官を動かしてまで止めを刺しにくるってよっぽどだよね? 冥土の土産に是非聞いておきたいなー?」
「尊き御言を下賤の賊に聞かせる謂れはない」
それもそうかと笑うシャオムに監督官の殺気が重くのしかかって来る。フェルデールは、2人の会話を噛み締めながら、邪魔だけはすまいと体勢を立て直す。そして、目の前で背中を見せている東国式のシンプルな戦闘衣装に身を包んだシャオムと己自身に対し微弱ながらも防御魔法を付与していた。
剣と短剣。まともに斬り合えば圧倒的にシャオム側が不利だった。ここまで用意周到に罠を張り巡らせてきたのはそのためだ。元来、戦うことを生業にしている戦士と、金儲けが主体の商人では力も体力も段違いである。
その上、生半可な魔法剣ではまるで効果がない。せめてあの防御装甲を破れればまた違うのだろうが。背中には守るべき命もある。監督官は勝利を確信したのか、ジリジリと間合いを詰めて来ている。
では、次なる一手は――
「ほぅ? 乱心したか?」
シャオムは全身に仕込んでおいたありったけの短剣を監督官の“周辺”目掛けて闇雲に投げつける。それは魔法効果ひとつ発生しない。雪と倒木と監督官を縫うようにして、まばらに刺さり込んでいくだけだった。さながらそよ風のような攻撃に監督官は笑いを堪え切れていない。
「何一つ当たらないが?」
そう。当たらないし、当てていないのだ。
「では、そろそろ終わらせて貰おう」
大きく踏み出した一歩と共に、監督官は己の剣の動きに違和感を感じた。その一瞬の隙を狙ってシャオムが懐目掛けて飛び込んでくる。すかさず一撃に伏してやろうと剣を振り下ろそうとするも、やはり重い。圧倒的に重い。何か見えない力に引っ張られているようだ。攻撃を一旦諦め、再度間合いを取り合う2人。ジリジリと動くシャオムに合わせつつ、監督官は使い慣れた得物の手応えを再調整してみるが、やはりその手応えはいつもとまるで違っていた。これでは想定通りの太刀筋はおろか、速度も出せず威力も半減してしまう。
それもそのはず、先刻、新人2人を見事に屠った不可視の罠――鍛え抜かれた“鋼製の糸”こそが、シャオム本来の得物であるからだ。監督官が見えない力を振り解こうともがけばもがくほど、糸はしっかりと巻き付いていく寸法だった。ちょこまかと周りを旋回するシャオムは、倒木の重さを利用しつつ、この糸を操っていた。まんまとシャオムの罠に乗せられてしまった監督官の剣は、絡み付いた糸により雁字搦めになっていたのだ。
「小細工ばかりでつまらぬわ! 鍛え抜いた筋肉に勝るものなどない!」
痺れを切らした監督官は力任せに思い切り剣を振りかぶる。
この瞬間を待ち侘びていたシャオムは、振り下ろされるタイミングを見計らい、その両の手に握り込んでいた鋼糸の端をそれぞれ一息に手放してやる。すると、急速に解放されてしまった抑止の力が行き場を失い、強い反動となって監督官のほうへと返るのだ。溜めに溜められた大きな反動を堪え切れず、体勢が崩れ、思わず剣が宙に浮きかけたその一瞬、シャオムは敵の急所目掛けて容赦なく蹴り技を放つ。追撃は来たとしても拳だけ。ならば更に追い討ちとばかりに、靴底に仕込んであった魔法石を容赦なく追加でお見舞いする。渾身の雷撃が監督官の急所から全身に広がり、丸焦げとまではいかないものの防御魔法越しの攻撃としてはまずまずの成果を得ることが出来た。これで当分目覚めることはない。
ひと息ついたところでシャオムはどっと汗が吹き出してくるのを感じた。終わりよければ全てよし……には違いないが、それはそれこれはこれ。寄る年波には勝てないね、とぼやきつつ地べたで硬直したままのフェルデールに駆け寄った。
「そっちは無事かい? 怪我はない? いやぁ……びっくりしたよね。結構な大物が来ちゃって焦ったよー! あ、焦りついでで悪いんだけど、とっととずらかろう。さすがにこれ以上は無理だ。逃げるが勝ち」
コクコクと頷くだけのフェルデールに手を貸して立たせてやると、シャオムにとっては未知の領域の魔法である神官の力が伝わってくる。あ、これが回復魔法ってやつか、と合点した後、待機させてある馬車へと早々に引き上げた2人は、こうして神聖光国を無事に脱出したのだった。
次の幕間で敵の紹介を挟んだ後、物語のメイン舞台となる国へと移動します。感想や応援を頂けましたら、大変励みになりますので、何卒よろしくお願いします。