遺書と後輩
高富圭吾が会社のデスクに遺書を忍ばせるようになってから、かれこれ二週間が経つ。
きっかけはひとつの万年筆だった。ふらりと立ち寄ったデパートで、店員の口車に乗せられるままに買ったものである。
結構な値打ちものだったので折角なら特別な時に使おうと決めていたのだが、趣味なし・彼女なし・社畜の三拍子が揃った高富にそんな機会が訪れるわけもなく、こっそりとデスクの片隅に仕舞われていた。
「高富さん、この万年筆かっこいいっすね」
横崎にそう言われるまで、高富はそこに万年筆を入れていることすら忘れていたほどである。
横崎太一は、つい最近退職した女性社員の後任で入ってきた新人だ。仕事はできるが物持ちの悪い男で、ペンやら付箋やらを何処かに置き忘れては高富の所に借りにくる。懐かれているのではなく、単に席を外すことが少ないから一声掛けやすいというだけだろう。
ともあれ、おかげで万年筆の存在を思い出した高富は、改めてその値段に相応しい使い道という奴を考えてみた。
そこで思いついたのが遺書である。
誰もいないオフィスで、一人終電の間際まで残業。どうしてもやるせない気持ちになったとき、高富は息抜きに会社への恨み辛みを吐き出すことにした。かと言って本当に死にたいわけではなく、不満を正当に主張できる手段が遺書しか見つからなかっただけである。
ある時は毎日、またある時は三日おき、ある時は一週間おき。
万年筆で着々と刻まれていった遺書はついに先日完成の形を見せ、高富は少なからず謎の感動を覚えてしまった。小学生時代の読書感想分ですら投げだした過去がある自分が、これほど文章を書くのに熱中できるなんて思っていなかったのだ。それを思うと捨てるのも勿体ない気がしたし、何より読み返すと少しだけ腹の虫が収まった。
以来、遺書は誰かに見つけられることがないように、丁重にデスクの奥に封印されていたのである。
ただ、遺書を書くことになった経緯を考えれば、高富はもっと別の場所にそれを隠しておくべきだったのだ。
* * *
「高富さんって、死にたいって思うことありますか?」
突然に投げられた横崎の爆弾発言に、高富は盛大に栄養ドリンクを吹き出してしまった。
「この間、ハサミ借りようとしたときに見ちゃったんです。机の引き出しの中に、高富さんの遺書が入ってるの」
続けられた言葉で、高富はそれが単なる後輩のお悩み相談ではないことと、言い逃れの機会を失ってしまったことを悟る。
時刻は十時を回っており、オフィスにはもう高富と横崎しか残っていない。いつも定時で帰る横崎が残業している時点で疑問に思うべきだった。最初から横崎はそれを確認したくて、他の社員がいなくなるのを待っていたのだろう。
「確かに先輩っていっつも残業してるイメージありますけど、そこまで思い悩んでたなんて知らなくて。一回部長に相談してみようかとも思ったんすけど、余計に事態が悪化したら困るし」
「オッケー、ナイス判断だ横崎」
誰かに、特に部長に相談なんてされた暁には、怒り狂って余計な仕事を増やされる未来が目に見えている。高富は一つため息をついた。
「横崎、頼むからこのことは忘れて、誰にも黙っててくれ。後で飯おごってやるから」
「え、でも」
「別に本当に死にたいワケじゃないから。不謹慎かもしれねぇけど、お守りみたいなもんで、さ」
高富の言葉が淀む。明らかに、俯いた横崎が纏う空気が違うものになったのがわかったからだ。
「……横崎?」
「よかったぁ」
横崎は顔を上げて、ぱっと満面の笑みを浮かべる。先輩が自殺を思い留まったことの安堵――とは、また違った意味の表情に見えた。
「これで安心して『提案』ができます」
「提案?」
「はい。その遺書、思うに会社への不満がずらーっと書かれていることとお見受けします」
「……中身読んだのか?」
「いえ、そこはさすがにプライバシーに関わるんで。っていうか、それは高富さんが一番よくわかってるでしょ。俺がじっくり遺書に目を通せるほど、高富さんが自分のデスク離れたことあります?」
「ないな」
断言できるのが悲しいところではあるが、絶対にない。
横崎は「でしょ?」と満足そうに頷いて、
「遺書を残す人って、大体どっちかなんですよ。便箋一枚どころか数行で簡潔に終わらせちゃう人か、自分の不満を洗いざらい吐き出してめちゃくちゃ長くなる人か。死ぬ気がないのに遺書を書く人は珍しいですけど、捨てないで取ってあるってことは、会社に一矢報いたいって気持ちがあるんですよね」
「だから?」
苛立ちを抑えきれず、高富は横崎を睨んだ。そんなことができたら、端から人目に隠れて遺書なんか書くわけがない。
ついつい話に乗ってしまったけれど、終電まで残り二時間を切っている。要領を得ない戯言にいつまでも構っているような余裕はないのだ。
「俺が言いたいのはですね。折角なんでその遺書、有効活用しませんか? ってことです」
「は?」
斜め上からの提案に、高富は虚を衝かれる。その隙を見逃さず、横崎はすっと高富に何かを差し出した。
「これ、俺の本当の名刺です」
株式会社エリーニュス、復讐代行課、横崎太一。
……復讐代行課?
怪訝そうな表情の高富に、横崎は「以後お見知りおきを」と恭しく一礼してみせた。
代行と聞いて一般的に思い浮かべるのは、運転ができなくなった場合に使う「運転代行」だろう。
その他にも、パートナーがいない客の恋人ごっこに時間制で付き合う「彼氏代行」や「彼女代行」だったり、会社へ代わりに辞表を叩きつけてくる「退職代行」だったり。挙げればキリがないほど、代行の種類は多様化を増している。株式会社エリーニュスというのは、希望に併せて色々な代行サービスを提供できる、というのをウリにしている会社だそうだ。
「俺はさっきの名刺の通り、恨みを持っている奴に復讐する『復讐代行課』ってのに所属してるわけです。つっても俺、こないだ異動でこっち来たばっかなんすけど」
これが初仕事なんです、と横崎ははにかむ。突拍子もない話ではあるが、不思議と納得できる部分もあった。仕事の覚えが良く、先輩の雑用を進んで引き受け、上司の「コミュニケーション」を軽く受け流す。なんでもそつなくこなす横崎の幅広さは、きっと代行の仕事をこなすうちに身に付いたものなのだろう。
「初仕事ってことは、この会社に誰か復讐の対象がいるってことか?」
「んー、っていうより、この会社全体が今回のターゲットなんすよね。高富さん、清水里美さんって覚えてます?」
「ああ」
高富は頷いた。覚えているも何も、横崎の前任だった女性社員というのがその清水里美である。
いつも自信がなさそうにおどおどしていて、断らないのをいいことに仕事を押し付けられるのが常だったように思う。高富は残業仲間として、勝手に親近感を抱いていたのだが。
「清水さんの依頼は複数あって。今の会社を辞めたい、ってのが一つで、これは退職代行課がもう対応しました。んで、自分を使い潰した会社に復讐がしたい、ってのがもう一つ」
「それが今、お前がやってる依頼ってわけか」
「はい。でもやり方を迷ってたら時間ばっかり経っちゃって。そこで高富さんの遺書を見つけて、俺と利害が一致してるって思って……ひらめいちゃったんですよ」
「嫌な予感しかしないが言ってみろ」
「高富さん、自殺してもらえませんか!」
「……」
予想通りというか何というか。確かに社員が遺書を残して死んだとなれば会社も大打撃を受けるだろうが、そんな度胸があるなら以下略、である。
呆れた視線を向けられているのに気がついたのか、横崎は一つ咳払いをした。
「まあ最後まで聞いてください。何も本当に死んでもらおうとは思ってないっす」
横崎は懐をごそごそとまさぐり、黄色がかった小瓶を取り出した。
「それは?」
「睡眠薬です。復讐代行課って、配属されてからまず睡眠薬の知識を叩き込まれるんすよ」
服用の上限をどれほど超えたら命の危険があるのか。ぎりぎりこちらに戻ってこられるラインはどのくらいか。副作用がどのくらい影響してくるのか――復讐代行課の人間というのは、体質は勿論、飲む人間の体調や体格までを考慮して、適量をマイクログラム単位で見分けられるらしい。
「ここの実態を告発する準備は着々と進んでるんですけど、爆発力が足りないんです。でも社員の自殺未遂が発覚した後の告発であれば、真偽はともかく、マスコミはこぞってそれを取り上げるようになる」
高富の心がぐらりと揺れ動いた。あの遺書が日の目を見るのを、高富は確かに強く望んでいたのだ。誰にももみ消されることなく、この会社の実態が白日の元に晒されるのを。
「それに」
横崎は高富の目をまっすぐに見た。
「清水さん、言ってたんです。きっと――高富さんなら協力してくれるはずだって」
高富は不意に、清水の今にも泣き出しそうな瞳を思い出した。
清水と目がきちんと合ったのは、後にも先にも残業途中に廊下で出くわしたその一回きりだ。俯いて走り去った背中を、高富は呼び止めることができなかった。彼女が辞表を提出したのは、その翌日のことだったと聞いている。
仲間意識を持っていたのはもしかしたら高富だけではなくて、あの時彼女は自分に助けを求めようとしていたのかもしれない。高富がそれを読み取れなかっただけで。
一度膨らんだ考えを頭から振り払うのは、もう到底無理そうだった。
「わかった」
高富が頷くと、横崎は一瞬目を丸くしてから「ありがとうございます!」と頭を下げた。
いそいそと準備を始める姿が、尻尾を振りながらボールを追いかける実家の犬と重なる。
高富は、久しぶりに心から笑ったような気がした。
* * *
「はい」
こんな時間だというのに、電話は三コールもしないうちに繋がった。自分で掛けておいて何だが、社畜っぷりで言えばウチの上司も相当ひどいなと横崎はこっそり苦笑する。
「あ、課長ですか? 案件F-64-3の件ですけど、今終わったのでご報告です」
横崎はちらりと、眠るように死んでいる高富を見遣った。
「さっき脈がないのは確認しました。第一発見者の手配と、引き続き告発の準備お願いします」
「わかった。これで三件とも依頼完了の目処が立ったな」
「はい」
高富にはあえて話さなかったが、清水里美から受けていた代行の依頼は全部で三つあった。
今の会社を辞めたい。自分を使い潰した会社に復讐がしたい。
そして最後の一つは――学生時代、自分をいじめていた高富圭吾に復讐がしたい。
高富さんが悪いんですよ、と、横崎は心の中で呟く。
この代行計画は、横崎が遺書を発見したのを清水に報告した数日後、彼女が持ち込んできた筋書きを全面的に採用している。
高富の言う「死にたい」がファッション的な意味合いであることも、その場の雰囲気や口車に乗せられやすいことも、清水は全部見抜いていた。その精神分析たるや、プロである復讐代行課の課長が褒め言葉を口にするほどである。
けれど、それほど綿密な計画を立てておきながら、彼女はこうも言ったのだ。
『もし、万一ですけど。わたしの名前を聞いたとき、高富が少しでもわたしのことを覚えていて、反省している素振りを見せたなら――そのときは、三つ目の依頼は、キャンセルさせてください』
依頼のヒアリングも担当していた横崎は、彼女の決意に素直に感心した。結局は、それも無駄に終わってしまった訳だけれど。
あとは手筈通り。「先輩に自殺願望があることを知りながらそれを止められなかった責任」を感じて、この会社をすっぱり辞めるために退職代行を頼むだけである。いくつか会話を交わし、横崎は電話を切った。
「おっと、危ない危ない」
デスクに置かれたままの名刺を、そっと自分の名刺入れに戻す。
「それじゃあ、お先に失礼しまーす」
高富に頭を下げてから、横崎は上機嫌で二度と来ない職場を後にした。
(終)
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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作者:杣江