世界で一番きみが好き
カーテンを開いて仰いだ午前五時の町並みは、生まれたてみたいな紫色の服を着ていた。
ささやかな目覚まし時計の歌を止めて、伸びを一つ。伸ばした指の先から後ろ向きな気分が吹き飛んで、水の染みた身体を少し軽くする。待ちに待った朝がきた。この日のために貯金箱の中身をいっぱいにして、好きな曲をたくさん見つけて、こっそり買った服をクローゼットの奥に押し込んでおいたんだ。
身体を起こして立ち上がって、傷んだ髪にくしを通す。
指につまんだ香水で、ざらついた肌を優しくなぞる。
しわの取れないパジャマとはおさらばだ。
姿見の前には身支度のすんだ私が光っている。お気に入りの髪型、お気に入りのコーディネート、お気に入りのカバン。いとしいものでがっちり固められた華奢な身体を、久しぶりに好きだと思えた。
廊下に出て、耳をそばだててみる。母親の部屋からは寝息が立っている。駆け出したいのをこらえながら忍び足で玄関まで行って、書き置きくらい残そうかと思い立ってメモ用紙にシャーペンを走らせた。これさえあれば失踪を疑われることもなくなる。今日一日、私は私の好きな私でいられる。
さあ、行こうか。
世界で一番好きなきみ。
吹き寄せた春風に背中を押されて、朝焼けのきらめく町に躍り出た。
私のことを知る誰の目にも止まらない、どこか遠くへ行きたかった。快速を名乗る電車に飛び乗ると、電車は咲い合う春風をぐんぐん追い越して、潮の香る大きな街で私を下ろしてくれた。背の高いビルを見上げて首を痛めながら、慣れない痛みに心地よささえ覚えて、誰の目もなければスキップでも踏みたい心地だった。
軽く毛先を巻いた長めの黒髪。だぼっと柔らかなカーキ色のカットソーに、ふわっと裾の広がった紺色のロングフレアスカート。通りかかりのショーウィンドウに私の好きな私が映って、一枚、一枚、ビルを通り過ぎるたびに嬉しくなる。知らなかったなぁ。私ってこんなに可愛くなれたんだ。モデルみたいにその場で一回転したら、ひるがえったスカートが花びらよろしく膨らんで、あたたかな日差しのもとに春の匂いをかき立てた。
おしゃれなコーヒーショップを見つけて、ふらりと迷い込んだ。陽の当たる道端のテラスに腰を下ろして、ぽかぽか日光浴をたしなみながらフラペチーノを啜るのが長年の憧れだった。天気は突き抜けるような快晴、朝一番のテラス席はほとんど無人。あんまりうきうきしていたものだから、握りしめたプラスチックのカップ越しにフラペチーノをちょっぴり温めてしまった。それでもやっぱり、美味しかった。
今日一日限り、私はこの世界のヒロイン。
どこで何をしたって許される。
私は気の向くまま、私の望むように生きていいんだ。
まぶしげに目を細めてはにかみながら、カフェの窓に映る私。どうか今日一日そのまま、その笑顔のままでいて。きみは笑っている方が可愛いよ。世界で一番きみが好きな私が言うんだから間違いないよ。汗ばんだプラスチックカップを握る両手に、そっと祈るように愛を込めた。
昨日までは曇り模様が続いていたのに、都会の空はどこまでも晴れ渡っていた。道ゆく人たちの面持ちは穏やかだった。怖い顔をした先生も、意地悪な目をした友達も、頬をひきつらせた母親も、およそこの街の陽気には似つかわしくない。けれども精一杯のお洒落で身を固めた私になら、この街を闊歩する権利がある。誰に文句を言われたって構うもんか。身の丈以上の自信を身に着けた今の私は、どこへだって行けるくらい強くて、無敵で、嫌な顔をされたってへっちゃらだ。
はちきれそうな財布を抱えて街を歩き回った。カラオケ店の看板を見つけて、誘われるままに受付へ立った。聴き手は私と採点機械だけ。友達の知らない曲を我慢しなくたっていいし、友達の知ってる曲を無理に歌わなくたっていい。喉が疲れるまで一人で歌って、はしゃいで、飽きたところで店を出た。ほどよく余韻が続いていたので、鼻唄を歌いながら木洩れ日の下を歩いた。翠色の手のひらを無数に広げた道端の街路樹たちは、ご機嫌な私の鼻唄にも賑やかに拍手を送ってくれた。
次はどこへ行こうかな。
映画館もいいな。美術館の特別展にも惹かれるな。それともファストフードで少し早めのお昼にありつこうかな。やりたいことがなくなったら公園にでも行って、芝生に寝転んでのんびりしよう。まろやかな草いきれの香りに浸って、虫の歌でも聴いていよう。
ふわふわ膨らんだ妄想が優しい感情に変わって、私の頬を持ち上げさせる。誰にともなく「へへっ」と笑ってみたら、また少し、自分を好きになれた気がした。世界中のあらゆる人を、分け隔てなく愛せるような気がした。
そうとも。
世界で一番、きみが好き。
世界中の人はその次に好き。
それでいいんだ。だって自分の味方は、いつだって自分自身にしか務まらないんだから。
軽く毛先を巻いた長めの黒髪は、首元につけた傷を隠すため。
だぼっと柔らかなカーキ色のカットソーは、華奢で弱々しい身体つきを誤魔化すため。
ふわっと裾の広がった紺色のロングフレアスカートは、身体中に散らばる不格好なアザを見せないため。
吹き込んだ花びらみたいに迷い込んだショッピングモールの一角で、とびきりお気に入りの膝丈スカートを見つけた。可愛いな。可愛いけど、この子は私には着られないや。すねに貼った無様な絆創膏がむき出しになって、せっかくの可愛いデザインを台無しにしてしまうから。つんと鼻をついた悲観を笑顔で塗り潰して、スカートを元の場所へ戻した。
振り向きざま、知らない女の子とすれ違った。知らない制服を着た彼女は、私の諦めたスカートに手を伸ばそうとしていた。ほんのりと頬を染めるナチュラルメイクが似合う、垢抜けた雰囲気の女の子に、私は一瞬ばかり気を取られた。あの子だったら似合うかもしれないな──なんて自然と考えてから、急に悲しくなって、早足でファッションのフロアを逃げ出した。窓に映る私は可愛い服装のまま変わっていないのに、傾き始めた陽が額に翳を差していて、朝方ほどには可愛く見えなかった。
大丈夫だよ。心配しないで。
たとえ可愛くなくても、臆病でも、情けなくても、世界で一番きみが好き。
とびきりお気に入りの服が着られなくても、普通のお気に入りのコーデを羽織った私は変わらず完璧だ。
居所をなくしてさまよいかけた視線が、道の彼方に美味しそうなドーナツのお店を見つけた。困ったときは甘いお菓子で自分を甘やかしちゃえ。勇んで歩き始めた私の足取りは、相変わらずショッピングモールから逃げ出した時の早足のままだった。
高いところへ登れば地球の丸さを理解できるって地学の授業で習った気がする。けれども、私が街一番の高さのビルに上って展望フロアを訪れた時には、すでに東の地平線は夕闇に紛れて、空との境目が分からなくなってしまっていた。
帰るべき町は夕闇のどこかに沈んでいた。もっとも地理感のない私には、いくら景色を見ても場所が分からなかった。たとえここから向こうを伺えたって、向こうからこの街を拝むことは叶わないし、この街を心の支えにすることだって叶わない。フラペチーノとドーナツ、美味しかったな。カラオケも楽しかったな。あとは何をやったっけ。眼下の夜景に目を凝らして私のたどった経路を探りつつ、舌先に残った寂しさをそっと飲み込んでみる。酸っぱい苦味が胸の奥へしんと響いた。
茜色の夕陽が西へ沈もうとしている。
今日という一日が終われば、私は無敵でいられなくなる。
明日になればまた、適当にまとめたポニーテールの髪を振って、くたびれた制服を着て、飽きるほど踏みしめた通学路を歩くんだな。そうして先生に叱られて、友達に無視されて、お母さんは私を叩くかな。
汗の染みた手のひらを私はガラスに押し当てた。香水の匂いはすっかり消え失せて、窓ガラスの向こうには笑顔の消えた私が立ち尽くしていた。透けて見える夜景の方が遥かに惹かれる色をしていた。思いっきり両手で頬をはたいて、笑え、と自分に命じた。
笑ってよ。
明日のことなんて忘れちゃっていいんだよ。
このままどこかへ逃げちゃおうよ。先生にも友達にも家族にも知られない、きみがいつでも笑っていられる場所へ行こう。世界一可愛くて、世界一好きなきみのままでいられる場所に行こう。きみを温かく歓迎してくれる町が、コミュニティが、世界が、きっとどこかにあるはずだよ。たとえそんなものがどこにも存在しなくたって、私がきみを見捨てない。きみと私は一心同体なんだから。
大好きなきみは永遠にわたしだけのもの。
他の誰かの手に渡って汚されるくらいなら、いっそ綺麗なうちに壊してしまったって──。
ずきん、と肩のアザが疼いた。誰かが私を引き留めようとしている気がして、私は寒気に身体をよじった。それから一息ついて、バカだな、って苦笑した。ガラス窓におおわれた展望台で何を妄想してるんだか。どうせ一時間後には電車に乗って、元来た町へのこのこ帰ってゆくのに。そうして明日になれば、際限のない苦しい日々が何事もなく再開するんだ。味方のいない学校や家の中で、誰かに傷めつけられるのを必死で我慢する日々が。
私は現実から逃げるすべを持たない。今日だって、わずかなお小遣いを懸命に貯め続けて、それでようやく交通費を捻出した。特別な日だからこそ買い食いや買い物を許してあげただけであって、普段の私は買い食いも買い物も絶対にやらない。ネットオークションで安く競り落としたコーデで精一杯のお洒落を決め込んで、貯金箱に貯まった無数の小銭を掴んで、逃げるように町を出てきた。今日という大事な一日のあいだ、私が私を好きでいるためには、そうするより他になかったから。
世界で一番きみが好き。
そう言い張っていられる時間は、もうほとんど残っていない。
その事実を受け入れるのが嫌で、怖くて、私は窓ガラスにしがみついた。またたくビル街の景色を食い入るように見つめては、その一角に私の姿を想像した。唇を噛み、カバンを抱きしめ、暗い顔で街路灯の下にたたずむ孤独な私は、賑やかな街角の隅で惨めなほどに浮いていた。
家へ帰り着く頃には次の日付が迫っていた。窓明かりさえ乏しくなった最寄駅からの道のりを、とぼとぼと私は歩き続けた。つい半日前、誰よりも可愛かったはずの私の影は、街路灯の白々しい光の中で背中を丸めている。私が私の好きな私でいられる時間は、日没とともに終わりを告げてしまった。
とうとう誰にも勘付かれなかったな。
あえてそうなるように行動したんだから当然だ。
自分の味方は自分自身にしか務まらない。私を愛するのも、大事にするのも、すべて私ひとりでいい。そうでしょ、私。そのつもりで黙って家を出て、外出中だってスマートフォンを一度も見なかったんでしょ──。明かりのついていない我が家を見上げながら深呼吸をした私は、ポケットから冷たい鍵を取り出した。
家の中は静まり返っていた。
母親は一足先に寝たみたいだ。
お酒を飲めば私に暴力を振るうし、飲まなければ「疲れた」といって家事を何もしないで寝てしまう。どうして私は十七年前、もっとましな人を選んで産まれてこなかったんだろうと思う。もっとも十七年前の私がそれを聞いたら「だったらきみはもっとましな友達を選んでよ」なんて言われちゃうかもしれない。今も昔も私には人を見る目がない。自分自身のことさえ、満足に認めてあげられない子に育ってしまった。
家事は後回しでいいや。さっさと着替えて、シャワーだけ浴びて、絆創膏を貼り替えて寝てしまおう。
投げやりな気持ちで電気をつけた私は、ふと、食卓の上に見慣れないものが置いてあることに気づいた。
八分の一にカットされた一ピースのショートケーキ。それと、一枚のメモ用紙。まるで何かの当てつけみたいに、今朝がたに私が残していった書き置きの下に数行の文章が殴り書きされていた。
【誕生日おめでとう
いつもごめんね
こんなものしか用意してあげられなかった
直接言いたかったけど、書き置きで許して】
とっくに寝ていると分かっていたのに、部屋の中を見回して姿を探してしまった。もちろん母親は影も形もなかった。洗い物の済んだ流しは綺麗に磨かれていて、散らかっていたはずの食卓の上もいつの間にか整頓されていた。
にわかに信じられないあまり、私はいつもの癖でスマートフォンに意識を逃がした。しまったと思った時には、画面に浮かんだ【誕生日おめでとう】の文字を目が捉えていた。よそのクラスにいる幼馴染の子からのメッセージだった。誰ひとり目も合わせてくれない通学先の高校で、たったひとり私とわずかな会話をしてくれる子。メッセージが送られていたのは十時間以上も前、私がフラペチーノを飲んで自己陶酔に浸っている間のことだった。
動揺に耐え切れず、スマートフォンの電源を落とした。真っ暗になった画面には私の顔が映っていた。世界で一番可愛くて、世界で一番好きだった私の顔が、見る間に端から崩れていった。泣きながら私はショートケーキを食べた。空腹ではなかったけれど、何がなんでも胃に突っ込んで溶かしてしまわなければ気が済まなかった。つくづく私は人を見る目がないなと嘆きつつ、塩味のついたケーキにかぶりついた。
ずるいよ。
こんな時だけ味方みたいな顔して、思い出したように祝ってみたりして。
これじゃ私が悪者みたいじゃない……。
コチ、と些細な音を立てて秒針が日付をまたいだ。笑顔で始まった私の誕生日は、泣き顔のまま終わりを告げた。よれよれの顔はお世辞にも「好き」なんて言えるものではなかったのに、小さな胸には不格好な幸せと少しの不満が渦を巻いてあふれ返っていて、そんな自分を受け止めるだけで私はいっぱいいっぱいだった。
世界で一番きみが好き。
紛い物の呪文を唱えることも、いつしかなくなっていた。
一年が終わると、また別の一年が始まる。
次の一年が、友の笑い、家族の愛、そして
あなたの夢見る人生で満たされますように。
Another year comes to a close,
and another begins.
May the coming year be one that will be filled
with laughter of friends, love of family,
and the life that you dream of.
──Catherine Pulsifer
(作者の)誕生日らしい作品を書きたいと思い、勢いだけで書き上げた短編ですが、最後まで読んでいただいてありがとうございました。
投稿日の今日(4月18日)誕生日を迎えられたすべての人に、この物語と「誕生日おめでとう」の言葉を捧げたいと思います。
2021.04.18
蒼原悠