「腐葉」帖 (二)
(四十)
雨交じりの風に、使われていない白く錆をふいた網戸がカタカタと揺れた。
質素な仏壇の中央には家族三人が一緒に笑顔で写っている遺影が飾られている。
「あの真ん中の子がお孫さんの風太君でしたっけ」
司馬はおだやかな口調で老婆に声をかけた。老婆は軽く頷きながら盆の上に載せた白い色をした湯飲み茶碗をおずおずと差し出した。
「ええ、腕白なところもありましたが、優しい孫でしたよ。今でも時々……」
司馬と卓をはさんで腰を下ろしている老婆はハンカチを取り出し、目をぬぐった。
窓の外側の庭は小さいながらもサルビアやマリーゴールドといった色とりどりの花が細い柿の木を囲むようにきれいに植えられていた。
司馬は老婆が少し落ち着くまで黙ってその花々を見ている。
「せっかくお出でいただいたのですが、もう、あの時のことで話すことはありませんよ。私も忘れようとしているのですが、それでもなかなかできませんよね」
老婆が鼻を軽くすすり、そばのティッシュの箱を脇に引き寄せた。
「そうですよね、私もそう思います」
老婆は落ち着いたのか、また弱々しくゆっくりと話を続けた。
「亡くなっているとはわかっていても、心のどこかでもしかしたら生きているんじゃないかと今でも思っているんですよ。つい最近もね、あの子の夢を見ましたよ」
「ほう、どのような夢ですか」
司馬は老婆の入れたお茶をすすりながら耳を傾けた。
「あの子が隣の家に住んでいる小さな女の子と仲良く遊んでいる夢です」
窓から見える隣の家はうっそうとした雑木で覆われている。
外壁につたう電線が途中で垂れ下がり、屋根瓦の間に伸びたカヤの葉と動きをあわせるように風に揺れていた。
溜まった雨粒がカヤの葉の先から落ちた。
「確か、隣はずっと空き家だったはずですよね」
「もちろんですよ、前に住んでいた人が亡くなってからずっとあのままです。女の子なんて一度もいたことがありませんし、夢というのは、不思議に感じることもなくて、なぜか普通のことのようにいつも思ってしまいますよね」
司馬は当然そのようなことは既に事実として知っていた。家主の複雑な権利関係で売るに売れない家だということから、その三代にわたる家族構成、関係者の住居や、年齢等、たいした苦労もせずに署から得ている情報である。
「私もたいした用事があって来た訳じゃないんですよ。しばらく足を運んでいなかったので、線香の一つでもあげていきたいと思いまして」
「それは、たいへんありがとうございます。この子達も喜ぶと思いますよ」
立ち上がった司馬は、仏壇の前に歩み、一本だけ線香をとると自分の持っているライターで火を付けた。いつも香を絶やさないのであろう、殺人のあった現場でいつも嗅いでいる臭いが司馬の鼻の奥をくすぐった。
鉦を小さく叩き、両手を静かに合わせた後、司馬は老婆に軽く礼をしてその場を辞しようとした。
「もうお帰りになるのですか」
「ええ、今日の務めはもう十分です……あっ、そうそう、聞き忘れていたことがありました。『小次郎』という名前のお方が親戚など雪代さんのお知り合いにいますか。または、前にこの辺りで住んでいたとかご存じないでしょうか」
「いいえ、そのような方は知りません。尋ね人か何かですか。ただ、どこかで聞いたことがあるような気もしなくはないのですが……」
「いやいや、私の昔の知り合いにこの近所に住んでいた奴がいましてね、それでは邪魔をしました」
司馬は玄関まで見送りに出た老婆に別れの短い挨拶をし、表通りへと出た。胸ポケットから煙草の箱を取り出したが、一本も入っていなかったので、そのまま潰し、ズボンの右ポケットに入れ替えた。
雨はもう小降りになっていた。北国出身の司馬にとって傘を差す習慣はない。足早に雪代風太の祖母宅から地下鉄の延線工事現場を通り、次の目的地の病院へと急いだ。
昨夜も隣町で犯人が逃走中の傷害事件が起きたばかりである。公式に発表をしていないが警察は、精神を蝕む奇病にかかった者の犯行であるとほぼ断定していた。一月前のあの神社での一件以来、犯罪件数は急激に増加している。憂鬱な季節のせいだけだとは思えなかった。
神社での死体無き謎の殺人事件の正式な被害者は吉村だけであろう。彼は精神疾患の疑いがあると診断され、職場復帰プログラムにかけられるかどうかの瀬戸際となっている。司馬は上層部の硬い頭よりまともな吉村の復帰を一番心待ちにしているが、その思いを誰にも話すことはない。
(四十一)
前方の跨線橋の横に五階建ての白壁の大きな建造物がある。正面玄関にはガラスの回転扉があったが、司馬は少し離れた入り口のガラス扉を手で押して入った。
受付嬢は司馬の来訪の予定を事前に聞いていたらしく、すぐに別の職員を呼び出した。司馬は待たされることなく医師と約束していた時間よりも早く応接室に通された。
十二畳はあるだろうか。部屋の中は広く、右側の壁には木彫りの大きな額に入れた印象派の絵が飾られていた。本革製のソファーが据えられた中央の応接セットは司馬とは違う世界の人間達の社交の場だということを誇示していた。
司馬は深々と腰の沈むソファーが嫌いである。椅子は灰色の事務椅子だと決めている。女性職員に促されるのを遠慮し、ほんの一時の間、奥の三階の窓から街の風景を眺めていた。
あの日、吉村のいた現場は大量の血液が散乱していた。血液特有の錆びた匂い。
(あれは間違いなく血だった。少なくとも俺が行った時は……)
事件の一時間後、成分はその場ですぐに分析された。
「司馬さん……この液体は血液ではありません……」
鑑識のその後の詳細な検査でも血液反応は無かった。成分を分析した結果、それは大量の『樹液』であった。
(小次郎……風太……ムラが聞き間違えるとは思えん)
十二両編成の列車が通過したが、防音が良いためであろう、リズミカルに線路を車輪が叩く音がかすかに聞こえてくるだけであった。
「待たせたな。午前の診療が思ったよりも長引いてすまなかった」
入り口のドアから入ってきた白衣を着た初老の男は司馬に遠慮する素振りも見せず、司馬を手招きしソファーに座った。
「よぉ、忙しいところすまなかったな」
司馬と医師の男とは昔からの顔なじみであった。とは言ってもつきあいはじめたきっかけは死体検案書の内容についてのやりとりといった仕事の関係からである。
「何か温かい物でも持ってきてくれ。酒を飲むのには時間がまだ早いのが残念だ」
初老の医師は職員にそう言って、肩のこりをほぐすように首をゆっくりと回した。
「そう言えば柳田は元気か、最後にゴルフに行ってからもう半年以上になる。そろそろお前もかんねんしてやってみないか。気持ちいいぞ。趣味は多い方が良い」
「無くなったゴルフボールを探すので、一日が暮れそうでな」
職員が部屋から出払ったのを見計らうと、医師はあらかじめ用意していた書類を司馬に隠すように手渡した。
「司馬、詳しくはそれを読め。俺たちが『擬樹皮下組織症候群』と呼んでいる症状で死亡した患者のカルテ、その他一式の写しだ。お前の考えているとおり、例の患者らは既存の病死ではなく異状死に違いない。しかし、まだ原因のウィルスも含め、国立感染症研究所などの医療施設、大学の研究所が血眼になって探っても何も見つからない。俺ははじめの頃、バンクロフト糸条虫のようなリンパ系に寄生する虫だと単純に予想したが、大間違いだ。はっきりしているのは突然、発症し、発狂、凶暴化し、自死する。しかし、脳炎などの物ではない。ワクチンどころか、発症したら睡眠導入剤を使って眠らせておくことが唯一の確実な医療行為だ」
「お前さんのような変人医師でもお手上げか」
そう言って司馬は頬をゆるめた。
「ああ、変人でも愛人でもいい。しかし……一番の問題は、それを究明してやろうという強い意志が俺の中に少なくなったことかもな。最近、頭の回転が鈍くなってきた」
「柳田の馬鹿と同じようなことをお前も言うようになったか。誰だって、その見えないものは余計に前を見えなくさせちまう。違うことは若い者は見えないままがむしゃらに突っ込むことができるっていうことだけだ」
「否定はできないな」
「もう一つ関係のない質問をしていいか?人間の血の匂いと樹木の匂いは似ているものか?」
「中学生並の質問だぞ。血液の匂いは主にポルフィリン誘導体の……いや面倒くさいか、簡単に言えば赤血球のヘモグロビンに含まれている鉄分だ。まぁ、時間がたてばより錆びた匂いに感じる時もある。その置かれた状況にもよるが。樹液については、タンパク質や無機物の鉄分などは若干ながら混じっているとは思うが、ほとんどはアルコールか酸だろう、たとえば酢酸とかな。なかには、『シキミ』のような劇物扱いの血なまぐさい実をつける物もあるが、それは血の匂いどころか香木だ。樹液なんて、クワガタかカブトムシでも飼う気なのか?」
「趣味は数が多い方が良い、さっきそう言ったのはお前だろ」
二人の笑いが途絶えたとき、女性職員が飲み物を持って部屋の中に入ってきた。応接室の中に香ばしいコーヒーの香りが広がっていく。
「どうだ、インスタントじゃないぞ」
「池波、俺はお前と違って、昔から味なんてものに興味ない。自分の腹がふくれるかどうかだけが問題だ」
池波はにこやかな表情のまま女性職員を下がらせた後、表情を変え声を低めて言った。
「話を戻すか。患者の数は俺の予想だと、来月には二倍近くに増える。公にはできないが、似たような初期症状の患者が今日だけでも五人は来院していると外来から報告が入っている。すぐに指定病院へ搬送したよ」
「大人?子供?」
「二十代の男性が四名、四十代の男性が一名」
「患者の共通点は?」
「まるで、検討がつかない……最初の患者はお前が知っているように樹木医、ただそれだけだ。はっきりとしているのは。さっきも話したろう、お前の言うとおりお手上げ状態、降参だ」
「検討つける余地も無しか」
司馬のポケットの携帯が鳴った。
「すまん」
警察署からの緊急連絡であった。
「何?本当か?」
電話の内容は地下鉄構内で行方不明になっていた子供達が識神の社境内にて全員発見保護されたというあまりにも信じられないものであった。
(四十二)
第一次大戦中に雲の中に二百六十六名が消えたガリポリ半島の『ロイヤルノーフォーク連隊』失踪事件。フィクションをノンフィクションだと思い込ませ多くの人々を騙してきた『ハンギングロック事件』。岩手の伝承『寒戸の婆』眉唾物も含め、いくつもの自分の調べてきた多くの目撃者がいる失踪情報以上の事が現実に、司馬の目の前で展開されている。
通報を受けて司馬が飛び込んだ医療施設は待合室から廊下、階段に至るまで既に多くの人々でごった返しとなっていた。
どこからか漏れたのかマスコミ関係者も徐々に集まってきており、警察関係者はその対応に苦慮していた。発見の報告を受け安心のあまり泣き崩れる家族やその関係者、医療器具を載せた移動テーブルを押す看護師の間を縫って、子供達が保護されている部屋まで行き着くのに司馬は途方もない時間がかかっているような気がした。
ようやく厳重な警護がされている六階西病棟へ向かう入り口までたどりつくことができた。
司馬はすぐに警察手帳を見せ、早足で廊下を歩いた。途中、看護師に呼び止められ、手袋やマスク、白衣の着用、靴底の消毒をするよう促された。
「あっ、司馬刑事、こちらです」
規制された廊下の一番手前で警護している同じ捜査課の男が、司馬の姿を見て手を挙げた。
「子供達は?」
「行方不明となっていた全員、本人であることが確認されました」
「さっきの署からの電話では意識のない者もいたらしいが」
「もう、全員意識は取り戻しております……が……」
刑事は司馬に答える前にゆっくり一呼吸置いた。
「何だ」
「全員、例の病気の兆候が見られるということです」
「狂い病か……」
この階の西病棟全てに二十名近くの小学生が収容されている。司馬は捜査官に先立って歩く速さをゆるめた。奥から子供達の奇声や笑い声、泣き声が聞こえていたが、司馬が近付くとその声は急におさまった。
(どうした?)
「あっ、馬鹿、夢でも見ていたんじゃねえかの人だよ」
「司馬さん、本当なんっすよ、くくく……」
「動くな警察だって言ってたね」
「あっ、わかった。あの人だね、僕たちの部屋を見に来た人だろ?」
「怪我したお兄さんも来るのかな」
「しっ、黙っていないとおじじ様に怒られる」
「そうだね……でもおかしいね」
ベッドに横になったままの患者服の子供達は廊下に立つ司馬の姿を見てけらけらと声を笑った。
「いいよ、困ったらおじじ様に首切ってもらえばいいじゃん」
(ムラ……お前の言っていたことは間違いじゃねぇ、この子供達はあの場所にいたんだ……いや、まさかそんな馬鹿げたことが……)
行き詰まった事件への心霊的な思考の流れは、人生のほとんどを警察官として職務に従じてきた司馬にとって一番忌み嫌っているものである。すぐに頭を数回軽く振って一瞬思い浮かんだ想像を打ち消し、わざと子供達の声が聞こえないふりをした。
「司馬さん、現在出ている子供達の結果です」
薬物反応の全ての箇所がマイナスとなった検査結果書を、司馬は見るまでもないといった表情で捜査員にすぐに手渡した。
「この後の病院の対応は?」
「心理学や催眠療法の権威による調査が夕方から入る予定でしたが、あの……例のちょっと待って下さい。あっ……『擬樹皮下組織症候群』の感染のおそれがあるため延期が決定しています。今後の日程についての検討もされていますがね」
蛍光灯の寂しい光に照らされている廊下には病室から漏れる家族の再会できた喜びと泣き声が途切れることなく続いていた。
「家族に感染の対策を施しているのか」
「今、できる範囲では。しかし、それぞれ本人との面会は誓約書をとった上で行っています」
「こういう時でも自己責任か」
「こういう時だからこそですよ、司馬さん」
捜査官は苦笑いの含んだ返答をしながら検査結果書を手持ちの青いバインダーに丁寧に綴じた。
報道各社のヘリが病院の上空を飛んでいる音が泣き声と混ざるのを聞いて、司馬は少し不快な気分になった。
「吉村の調子はどうですか?司馬さんならもう聞いているんじゃないかと」
「結果がでるまで自宅待機なんて、俺なら無理だ」
「ははっ、そうですね」
司馬の答えを聞いた捜査員は、さっきとは違う爽やかな笑顔を見せた。その笑顔を見て薄笑いを浮かべているこけしの顔が司馬の脳裏によぎった。
「おい、子供達の数は十九名だな」
「ええ、識小学校の児童十九名で間違いありません」
司馬は、内ポケットから自分の手帳を取り出し、ページを忙しなく開いた。そこには自分の筆跡で「破損コケシ十九」と濃く殴り書きされていた。
(四十三)
「はっ!」
電池切れした時計の針が午前六時を指したまま止まっている。飛び起きた吉村は額に滲んだ寝汗をそのままに、昼の熱気を帯びた光が差し込む窓を見た。
(寝坊の癖も治らないってか……)
記憶の中では、あの鋭い歯をした子供達の姿、小次郎と少年が呼ぶ長髪の男の殺戮行為が鮮明に残っている。
入院時、聴取を行った上司の一人は、吉村の話を真っ向から否定した。
「あの場所では、遺体はおろか、血痕さえ見つからなかったのだよ」
「まさか、だって犯人はガイシャの首さえ切断していたんですよ」
「確かに首が切れていたのはあった……でも、それは奉納されているこけしだよ、警察の方では器物破損の容疑で調べている」
上司の隣にいた同僚も吉村の話に哀れみの色を浮かべた。
「お前の頭の打撲傷は間違いない……転倒して頭を打ったんだよ。そこの神社の神主も騒がしい音は聞いていないとのことだ」
吉村は、過去のやりとりを頭の中で打ち消し、布団から起き上がると着替えを始めた。家の中にいるとその出来事ばかりを考えてしまう自分がいた。
「司馬さんに迷惑かけてんな……」
携帯の着信履歴には、最近の司馬からのものはなかった。
アパートの外階段を下りていくと、小雨がぱらつきはじめたが、吉村は傘も待たずにそのまま歩き始めた。彼は病院を退院してからほぼ毎日のように足を運んでいる場所がある。『識神の社』である。
境内に事件の痕跡はもう何も残って無く、散歩をする老人の姿も今はない。朽ちかけた識神桜が小雨で葉をぬらぬらと濡らしているだけであった。
「夢の訳ないだろ……糞っ!」
雨脚はさらにひどくなる。
「あれ、若い方の刑事さんじゃないですか、お勤めたいへんご苦労様です」
使われていない社務所の軒下を借りる吉村に遠くから声をかけたのは、この神社の神主である。
「ああ、神主さん、恥ずかしいところを見られました」
「そのような所もなんですから、どうぞ家の方でお休み下さい」
「いえ、捜査なんてもんじゃなくて、今日は……じゃなくて今日も非番なもんで」
「ははは、気にしないでもいいですよ、悲惨な事件と、ご神木があのようなお姿に変わられてからは、この神社もずっと非番のようなものです」
客間に通された吉村は、少し落ち着きなく部屋の調度品に目を移した。特に珍しい物はなく、立派な書の額が飾られていた。
「先日も刑事さんが見えられましてね、あの一緒におられた、ええっと司馬刑事さんですか」
そう言いながら向かい合って座る初老の神主は、妻の持ってきた麦茶を勧めた。
「司馬さん、来てたんですか」
「ええ、この神社に伝わる小太郎話や、あの摂社のこけしについて色々と聞かれていきましたよ」
「小太郎?よかったら私にも聞かせていただけませんか」
吉村は、机に手をつき身を乗り出した。神主は吉村の真剣に聞こうとする眼差しを見て、一呼吸置いてからゆっくりと話し出した。
「今は溯る千年前、平安の時においてもご神木として識神桜は遙か京の都においてもその名が知られておりました。しかし、東夷が住む当地は野党の類が血の争いに明け暮れ、なおかつ、その骸を喰らいに夜な夜な魑魅魍魎が跋扈していたそうでございます。美しきものには災い、ケガレが常に伴うものと心配された時の帝は、陰陽師の一族を都から遠く離れたこの地まで遣われたそうです。そして、現世の平安を願い、あの『ひごとの社』にご神宝の『イツノオハバリ』とお札をおさめにまいられたと聞いています。それからは魑魅魍魎の出ることはなくなったということです」
「その陰陽師の一族というのが……」
「はい、安倍小太郎君と妹君と言われております。と申しましても、小太郎君は旅の途中で怨霊による病のためにみまかわれ、妹君がその責をはたされたそうです。ただ、これはあくまでも言い伝えでして、……史実としてはその後もこの地は東の要衝の地でありました。そのために江戸の時代に入るまで物騒な忌地であったことが真実です。人々は都度平穏を願い、象徴としてご神木を守り、この一帯の丘を『識神の社』として大切に奉ってこられた歴史があります。もとはこの神社の敷地も広く、坂下の国道、あの地下鉄の工事をしているところも全て境内だったのですよ」
「そんなに広かったんですか!」
「戊申の役の頃までですから、明治ですね」
神主が笑った。
「それと、イツノ……何でしたっけ……ご神宝の所在は、どこに、どこにあるのでしょうか」
どこかで耳にした言葉を確認しようとする吉村の緊張した顔に、神主は大きく笑って答えた。
「そのような古事記に記されているような宝など、この社にある筈がありません、もし、そのようなご神宝がありましたら、国宝になっていると思いますよ」
「そうですよね……」
吉村は軽く肩を落とした。
窓の外では雀やセキレイといった鳥の鳴き声がにぎやかに聞こえてくる。
「人の姿が減り、喜ぶのは野の鳥たちですな、今日も弱ったご神木についた悪い虫をついばみに訪れてくれる。参詣される方々の数に反して、日に日にその数が増えましてな。まるで、最後の最後まで識神のお桜様を守ってくれているようで、もったいないことです」
神主の目がほんの少し潤んだように吉村は見えた。
(四十四)
地下鉄の事件が起きてからちょうど五十日目を迎えている。
事件の容疑者と思われる数名の内偵調査の結果がまとまった。
司馬とその同僚は広い本庁会議室の一番後ろの方に隙間もなく詰めて座らされている。キャリア出身の若い上司が、画像や出自の記録を憮然とした面持ちの彼らに早口で説明していた。
「容疑者である実行役のCは、主犯Aの指示により構内で低濃度のシクロヘキサンを大量に……」
どうしても犯人を仕立て上げたい組織の無理な理由付けであった。動物によって付けられた傷については、グループの用意した器具を使用した可能性があるというくだりは、司馬が聞いていてもため息の出るような稚拙な内容であった。
「こんな理由じゃ、冤罪がこの世から無くなることは永遠にないな」
「司馬さん、声大きいですよ」
司馬が漏らした言葉に、横に座っていた同僚刑事は慌て、すぐに彼の腕を小突いた。
「チンピラゲリラに罪おっかぶせるための状況証拠積み上げなんて、馬鹿げているだろ」
一連の説明が終わった後、質問をとる時間も設けず、それぞれの所轄の今後の動きと展開が指示されていった。心のどこかで自身が予想していたように、司馬は吉村の一件もあり捜査の前線からはずされていた。このような時ほど些細なミスは後の捜査に響く、その見せしめでもあった。
会議室から出た司馬は、ガラス窓の外にひろがる街並みを見ながら、自分の追う犯人像を脳裏に確かめた。おじじ様という呼び名をもつ教祖、実行犯は小次郎と呼ばれる運動能力に長けた髪の長い青年、凶器は日本刀と動物の骨を鋭利に加工した物。その犯行行為を手伝う共犯者は雪代風太の名をかたる少年と兄妹と思われる少女、それに付随する信者、環境破壊問題、もしくは何らかの識神の社に関する狂信的な信仰心を理由とした組織的犯罪。
(聖地を荒らされたことが起因……俺の考えもキャリアの奴らから見たら馬鹿げた内容か……)
ただ、数人の子供達が病室で口にした内容だけは忘れてはいない。唯一、目撃者と思われる冷ややかな目をする保護された子供達とそれに伴う忍び笑い。
「ねぇ、刑事のおじさん、いいこと教えてあげるね、僕たちを神社で切ったのは、小次郎だよ」
「小次郎に切られた時、痛くて死んじゃうかと思った。それでね……」
「しっ、それ以上話したらだめ、まだ、あの日が来るまでね」
「そうだね、血の一杯出る楽しい日、また、おじじ様と会える」
「あの日と言うのはいつだ?また、小次郎という奴は人を切るのか?」
「内緒…………それとねぇ、ひごとの社じゃないよ、ヒ、ガ、ゴ、ト。」
「ヒガゴト?」
「そうだよ、間違えたらおじじ様に、おじさんも首切られちゃうよ」
(ヒガゴト……道理に合わない悪い事……)
『識神桜』の周辺で拾い集めた裏付けるものが何もないお粗末な調書。そこに糸口を見いだそうとすがりつく老刑事。そのようなことを考えながら司馬は一人力なく苦笑いを浮かべた。
(四十五)
「ああっ、おしい!」
その日、吉村は大型ショッピングモールのゲームセンターで小さな猫のぬいぐるみを吊るクレーンゲームに興じていた。
クレーンからすり落ちたぬいぐるみは、落下口のすぐ手前で頭を逆さにした斜めの不安定な状態で引っかかったままでいる。ポケットの財布から小銭を取り出そうとしたが、数枚の五円玉と十円玉しか残っていなかった。彼にとって別に欲しい物ではないのだが、終わりを見るまで我慢できない性格が災いし、使い古しの薄い財布がさらに薄くなっていた。
うなだれていた吉村ではあったが、硝子に映る幼子を連れた若い父親、少年や少女の人影には敏感に反応していた。
「違う……」
自分の目は狂っていないと吉村は自身に暗示のように何度も言い聞かせている。
神社で異形の子供達と光る刀剣を持ち殺戮を行う青年とその仲間の少年と少女。それに対し何も出来なかった自分の姿を思い出すのは、煎餅布団を頭からかぶりたくなるほど恥ずかしく強烈な記憶であった。
「場所を変えてみるか……」
一息ため息をついて吉村が立ち去ろうとした時、野球帽を目深にかぶった少年が後ろから声をかけた。硝子には光の反射で揺らぐ姿が映っている。
「おじさん、ここでやめちゃうの?」
「ああ、続きならやっていいよ。おごってやりたいが、帰りの電車賃くらいしか残っていないんだ。それと、おじさんじゃない、お兄さんといえば、少しは考えてもやったかもな」
「えっ、あの神社では最後まで僕たちを止めてくれたのに?」
「!」
少年の言葉は吉村の体に強烈な稲妻を走らせた。少年は鬼ごっこで急に鬼に見つけられた幼児のように、一言だけ言うと勢いよくその場から逃げ出した。
「待て!」
ゲームセンターからテナントを越えた階段まで背中を向けて走る少年を吉村は全力で追った。静かなクラシック音楽のBGMが鳴る中、すれ違う買い物客らは何事が起きたかと驚き、どうするまでもなく走っていく二人を目で追いかけた。声を上げて子供を追いかけていく青年を目撃した女性店員は、すぐに近くの受話器を取り上げ、緊急連絡を警備室に知らせる番号のプッシュボタンを押した。
「待ちなさい!」
西日がスモッグの中に溶け落ち、忍び寄る闇が白いショッピングモールの壁を橙色から薄紫色に変色させた。建物から出た少年は人混みの中をすり抜けて走っていく。街路樹の銀杏の葉が吹き抜けていく風に応えるようにざわめきたった。行き交う通行人にぶつかり謝りながら少年を追う吉村は、あの夜と同じ時間の中にいるような気がした。
歩行者信号が赤から青になり、さらに人の流れは速くなる。二人の影は車のエンジン、店舗からの客寄せの声が乱れる中心街の雑踏の中に消えていった。
(四十六)
本庁から自分の署に戻ってきた司馬は、上司への報告をそこそこにすませ、次に犯行が決行されそうな日時をカレンダーとメモを突き合わせ調べた。
地下鉄事件の当日にあった出来事、花見に来町した観光客同士の交通事故が二件、識神の社裏の公園で置き引き、窃盗各一件、花見客の急性アルコール中毒による救急搬送が三件そして、子供の集団行方不明。十日後以降から奇病患者による傷害事件が急激に増加。二十日後、社にて吉村刑事が犯行に遭遇、三十日後に行方不明の子供達が同社にて発見される。
書き込まれたメモの量が規則的に増えている箇所がある。
「十日ごとか……」
しかし、四十日後には目立った事件がおきていない。
「共通性の無い規則性」
司馬は、自分の席を立ち上がり階下の資料室に走った。分厚い百科事典をめくりながらある箇所に書かれた日時に自分の指先を止めた。
「忌日……これは神道の忌日か?十日祭、二十日祭、三十日祭……」
一年祭にあたる前年の同日、樹木医が発症。五十日後、妻と一人息子を自宅にて殺害。
司馬の身体からさっと汗が引き、動悸が身体のうちから司馬の心を叩く。
「五十日祭……地下鉄事件から五十日……今日じゃないか!」
司馬は事典を棚に戻すのも忘れ、資料室を飛び出し、白髪頭をかきむしりながら階段を駆け上がっていった。
(四十七)
風が全く吹いていないのにもかかわらず、まだ青い桜の葉が、一枚、二枚と天から舞い落ちる。
「ねえ、川辺さん、みっちゃんたちが来週から来るって」
「えっ本当?」
児童玄関の下駄箱の周囲には同級生がかたまり、入院している子らが来週から学校に登校してくるというニュースにはしゃいでいた。委員会活動の仕事を終えたばかりのなずなは、階段から下りてくるや、その少女達のにぎやかな輪に引き込まれた。
「おじじ様のおかげだよね」
「うん、私もおじじ様にお祈りしたんだ」
「川辺さんも、お祈りした?」
「私、早口言葉苦手だから……」
『おじじ様』という言葉は、なずなは今朝になり、はじめて友達の口から耳にした。
もうその日の午後には不思議な言葉を全員の子供達が知っていた。このような不安に満ちた状況では噂話の伝わるスピードはよりはやくなる。『おじじ様お守りください』という言葉を十秒間に十回つっかえないで言えば魔が避けられると信じられ、皆、早口でその意味不明の言葉を口にしていた。なずなは、異常なまでに一つの言葉に執着する子供達の姿になぜかなじめず、心のどこかでその行為を拒絶していた。
「それなら、川辺さんは私たちの友達じゃないんだよね……」
「えっ?」
「ほら、言ってごらんよ。じゃないと私たちがおじじ様に呪われる」
「だって……」
「もしかしておじじ様が嫌いなの?待ってね、今、おじじ様に聞いてみる」
その言葉に驚くなずな以外の子供達の会話が急におそろしく早くなっていく。ネズミのようにしゃべり続ける子供達は段々と興奮しはじめ顔色が紅潮していった。
「ああ、おじじ様が怒っているよ、どうしよう?」
一人の同級生がおろおろしながら半狂乱になって泣き出した。他の同級生は一斉に足を踏みならし、わめき騒ぎ立てた。
「だめなら殺しちゃおうか?おじじ様なら許してくれるよ」
「もうすぐ、おじさん達が来るよ、聞いてみようよ」
(あの時みたいだ!)
この場からすぐに逃げなければと思ったなずなは、外靴も履かず上靴のままポーチの中を走り、玄関の扉を大きく開けた。
下校チャイムがうら寂しく鳴っている。
腕章を付けた下校パトロールの町内会役員がいつもと違うやけに重い足取りで玄関前にぞろぞろと集まってきているのが見えた。
普段にこにことした明るい表情のはげ上がった頭をした老人が、別人のように表情を変え、こぶしが入るほどの大きな口を開けて叫んだ。
「うわっはっはぁ!ここにぃいたのぉかぁ、惹かれずぅの子供はぁ」
遠くの景色から塗りつぶしていく闇は、ついに逢魔が時に怨みの産声を上げた。
街の灯りが突然全て消えた。
神社境内の闇の中に風太の父の姿を借りた者の顔が浮かぶ。
「時は来たり!我らの行いを妨げる全ての者を黄泉へおくるべし。多くの悲しき贄と共に。それが我にできる汝らの御霊の祭よ。再び汚れた輩の血を我が祭壇に浄霊の祈りと備えん、すればヒガゴトの呻く苦しみは永久にとりのぞかれん」
長い毛に包まれた猿のような生き物が、奇声と共に摂社『ひ(が)ごとの社』の小さな扉から大量に湧きだし闇の中に消えていった。
入院中のそれまでベッドの上で静かに寝ていた子供達が、点滴管を引きはがし、全員ベッドの上で跳ね出した。
「わぁい、おじじ様のお祭りだぁ!」
「はじまった、はじまったね!」
子供達の家族は異様な行動に出た彼らをおさえるようにして、ベッドに押しつけた。
「邪魔をしていい奴は贄だよ」
点滴の針のついた先を父親の目に突き立てた。血がベッドのシーツを濡らした。他の子供達も興奮しながら大人を押しのけて廊下に飛び出していった。
「首を切るのには刃が必要だよ!」
病院の非常ベルが鳴り、子供達の入院している病棟内が地獄絵図そのものの世界となった。
(四十八)
吉村の前に大きな木造の橋が見えてくる。その頃には吉村とすれ違う人の数が極端に少なくなってきた。少年の華奢な背中が橋の欄干の間に見え隠れした。
「待て!待ってくれ!」
全力で走る吉村は息を切らしながらもしぼりだすように声をあげた。
日が暮れ落ち、辺りにひんやりとした夜霧が漂っていった。
車の音も消え、ビルの建ち並ぶ街並みから、葦が密生する河川敷の風景に変わっていった。アスファルトの路面が、踏みしめた跡さえもない草の生い茂る一本道となっていく。店の看板は石でできた野仏となり、歩きながら携帯で話している人は朽ちた卒塔婆へとその姿を変化させた。
橋を渡りきった所に、古めかしい着物姿の青年が腕を組み思案するような姿勢で立っていた。
まぎれもない神社で目にした小次郎の姿であった。霧の一端が小次郎の足下を絹の布をかぶせたように重なっていく。
「お前は……小次郎」
彼の後ろには追いかけてきた少年がなかば隠れるようにして、吉村の驚く姿を見ている。
「いかにも……このような場所にお呼び立てして至極申し訳なく思う。ただあまりにも時間が無かったことおわかりくだされ」
「お前を銃刀法違反で逮捕する」
今度はあの時のようにあわてまいと、吉村はゆっくりと鼻で深呼吸をしたが、肝心の警察手帳が無いことに気が付いた。
(俺は何て間抜けなんだ)
「おじさん……じゃなくてお兄さんだよね、ごめんなさい。でももう時間がないんです、小次郎さんの話を聞いてほしいんです」
野球帽をとった少年は風太であった。吉村は殺人事件の被害者の顔写真と同じ顔をした子供が普通に自分に話しかけていることに驚いた。
「雪代……風太……なぜ、君がここにいる」
「風太の念と共振し、不安定な現世と幽界の裂け目に足を踏み入れしお主も奇なさだめを持つ者よ。荒ぶる神が目覚める時、それぞれ命ある人は何かのさだめを天より与えられる。我を生み出した主の言葉はまぎれもない真実であった」
小次郎の目が吉村の心の奥を射るように光った。
「今宵、桜の血の宴より五十日祭にあたる忌日。力をため、怒りに満ちた邪鬼が遣い魔を連れ暴れることになろう。お主にはこの木札を惹かれずの子に渡し、『識神の桜』西側の瘤へ供えるまで守っていただきたい。この札は『ヒガゴトの社』の地にわが主がおさめていたもの。それまで、我らが邪鬼の動きを止めよう。惹かれずは、時まもなく社に出でることになろう。多くの血を見ることになろうとも、やり遂げていただきたい。お主の清浄なるその力を見込んでのこと」
なずなの顔や名前が吉村の脳に直接飛び込んできた。
「川辺なずな?えっ惹かれず?何言ってんだ、行くのは神社じゃねぇ、お前達にはすぐ署へ同行してもらう!」
「お兄さん、あの世との結界がもう破れてきているんだ、また、人がいっぱい死んじゃうよ!」
「お前達が殺したんじゃないのか!」
吉村の目は怒りに満ちていたが、小次郎は口元に笑みを浮かべた。
「ふふっ、お主の心の目で直接確かめることよ。まいるぞ天空、奴らの宴が始まった」
「うん、僕にも感じるよ。奴ら曳かれずのあの子も狙っている」
小次郎の周囲に深い霧が流れ、佇む姿は音もなく消えていった。
「お兄さん、僕らと一緒に戦ってほしいんだ、僕らが引きつけている間に」
「雪代風太……何があったんだ。話してくれ!」
「僕もわからないんだ。でも、お兄さんの人を助けようという強い思いが、この常世とのはざまをのぞけたんだと思います。それじゃあ、あの……頼みます。大好きなおばあちゃんが僕のように死んで欲しくないから……」
「おい、待て!」
吉村の声が誰もいなくなった霧の中に響いた。気が付くと、大通りの歩道の真ん中で人々の通行の妨げをしているように一人立っている。
どこにもあの木橋は見えなかったが、街と人々の様子はどこか違っていた。
(夢……)
しかし、その思いはすぐに否定せざるをえなかった。彼の汗ばんだ手の中に蛇のような墨文字の書かれた古い木札が一枚握りしめられたままであった。慌ただしくすれ違う人々は、吉村の姿を全く気にもせず暗闇の中を不安な表情をたたえたまま行き過ぎていた。
(停電!)
車のライトさえつかない、文字通り暗黒の世界に現世は変貌していた。
(四十九)
なずなはどうしてこうなったのか、わからない。
短時間の間に全ての人間の表情と行動が変わっていた。
自分を追う人や子供の追跡を逃れ今マンションの屋上に向かう非常階段の踊り場で震えながら息を潜めている。白い靴下は足の裏から出た血と泥で真っ黒になり、くるぶしがあたる所を除いて元の色を残していない。
赤子のひりつくような泣き声と狂乱する人々の悲鳴が暗闇の中で絶え間なく響いている。なずなの姿を見た人々は幽鬼のようなふらふらとした足取りでなずなの後を追ってきていた。
(家までどうやって帰ろう……いやだよ、お母さん……)
非常階段から廊下内に通じるドアが突然開き、中年の男性が姿を現した。
なずなの身体は疲労の為か自分の思うように動かなくなり、目からぼろぼろと涙を流すだけであった。
「何だ迷子か?ここは危ないから中に入りなさい。こんな夜遅くまで」
なずなはほっとして、中年の男の差し出した手をすがるように掴んだ。ごつごつとした指は彼女の小さな手のひらを潰すかと思うほど力を入れて掴み返した。男は目を光らせて太い声を出して笑った。
「曳かれずぅの子供はぁ、俺が捕まえたどぉ!俺がこいつの心臓をおじじ様に捧げるどぉぉぉぉ!」
男に吊り下げられ、なずなは小さな悲鳴さえもあげることができなくなっていた。
狂喜する男の視界に何かが飛び込んだ。
男の両目とのど笛に灰色の風切り羽根が音を立てて突き立った。予測できなかった急激な痛みに男は大声を上げてなずなを振り捨て、深く食い込んだ羽根をとろうと両手で自分の顔から血が出るまでぼろぼろとかきむしった。
「いでぇ、いでぇよぉ!」
男の頬から垂らした血が、ぽつぽつとコンクリートの床に赤黒い花弁の花をいく輪も咲かせた。
踊り場の隅へ座り込んだなずなの冷たくなった手に、柔らかい羽毛のようなあたたかい感触が伝わった。
(なずな、助けにきたよ)
巫女服姿のいかるが横に立ち、本当に弱い力ではあったが、しっかりとなずなの手を握っていた。
「いかるちゃん……いかるちゃんなの?」
「うん、ここはもうばれちゃったから、すぐに逃げるよ」
よろめきながら、なずなは何とか立ち上がることができたが、膝頭がまだがくがくと震えている。
「待でぇ、行ぐなぁ、お前の心臓よごせぇ!」
男は目から血をあふれさせながら、辺り構わず自分の腕を振り回し、なずなの身体を捕らえようと暴れ出した。ごつっと鈍い音がした後、壁にぶつかった腕の色は内部出血で見る間に黒くなり、次第に肌が破れ、血の花がひたひたと床に大きく広がっていった。いかるは怯えるなずなの手を無理矢理ひっぱり、階段を駆け下りて行った。
「お母さん、もう帰りたい、帰りたいよぉ」
なずなは手を引かれながら、涙混じりの声を力なくたてた。
「なずな、しっかりして、なずながしっかりしてくれないと……」
男の叫び声はまだ上の踊り場から小さくこだましていた。最後の一段を下り、公団住宅の高い建物の壁に沿うよう、いかるは慎重に足を進めた。
「はっ?」
前方から人が集団で来る気配を感じたいかるは、駐車している車の下に隠れるよう、気が萎えたままのなずなに急いで促した。引きずるようにして歩く足音が霧と闇の中に段々と満ちていった。
二人が隠れてすぐに闇の奥から、うめき声を上げた白目の者達が姿を見せ、二人のすぐ横を通り過ぎていった。ほとんどの者が裸足で、何かに誘われるまま屋外へ飛び出してきたかのようになずなは感じた。
「あの樹の遣い魔にのりうつられると、人は皆ああなってしまうの」
「あの樹?」
なずなは、いかるになだめられ、ようやく息を落ち着かせてきた。
「『識神桜』、神社の樹だよ。なずなはね、『惹かれず』といって、妖気に操られない清らかな陽の力を持っているの。それはみんながみんな持っている訳じゃなくて、天に選ばれた人だけが持っているものなんだよ」
「惹かれず?」
「陰の者達は陽を喰らうことによって、その陰を増す。だから陽のなずなは狙われているんだ。そして、陽はその力において陰の力を喰らうものでもあるの」
「私、そんな力なんて持ってない」
なずなは地に伏していた顔を軽く上げて、いかるの言葉を大きく否定した。
「ううん、持っている。だから、夢の境目で私や風太といっぱい楽しいお話ができたの」
「夢……?」
「うん、なずなの言葉で言うと夢。でも、今はその境目が破けちゃったから、小次郎や風太と治しに行くんだ。できれば、なずなも一緒にね」
「風太君?どういうこと」
「なずなの『惹かれず』の力と、義なる力で樹精の怨を切り離す。私や風太には絶対できないことなの……夢の者は勝手に現世のことを変えてはいけないしきたりだから。変えることができるのは現世にいる人だけ」
確かになずなは、幼い頃から不思議な出来事が身の回りにあったような気がした。特に北上の祖父母の家に泊まりに行った折は、そのような出来事が数多くあったように記憶している。
木の上の緑色の肌の小人、赤い顔をした清流の中を泳ぐ小猿、森の奥から聞こえる樹木の倒れる音と呼び声、クジャクのような羽を持った崖の上の山鳥と大男、山頂に浮かぶ美しい天女、空を駆ける白馬、どれも自分にだけ見えたり聞こえたりしていた。
「ほぉんと、夢さばっか見てるような童だなぁ、亡くなった母とそっくりだぁ」
両親にそれらのことを言っても「嘘でしょ」の一言で笑われるばかりであったが、祖父の話によると曾祖母にも、そのような癖があったらしい。
しかし、自分はそんなに気味悪く思ったり、嫌な気分はしなかった。むしろ、親が転勤族で親しい友達がいない一人っ子の自分にとっては、優しい何かがいつも見守ってくれているように感じていた。
「私と行ってくれる?『ヒガゴトの社』まで」
「怖い……」
「そうだよね……怖いよね……」
いかるの言葉の語尾が弱々しくなっていくのが、不安ななずなにもわかった。
それでも、すぐに「うん」と返事が出来ない自分の本心には逆らうことが出来なかった。
「痛っ」
風太に刺された時の傷の痛みにいかるは思わず声を上げた。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ、人の姿になっていると、前の傷でもすっごく痛いんだ。だから、本当の人のなずながすごく苦しくて怖いってわかるんだ。でも、なずながそばにいると、どんどん痛みがなくなっていくような気がする」
「人の姿?」
「うん、私の与えられた姿……あっ!」
タイヤの影から遣い魔の繊毛が揺れるのが見えた。いかるが羽根を投げ小さな身体の頭部を貫くと、「ぎゃっ」と一声上げてその遣い魔は枯葉と変化して散った。
「さっきの人にのっかっていた奴だ……あぁあ、ここも見つかっちゃった。でも、私はなずなが大好きだから、絶対に一人にさせないよ」
「今のは……」
「遣い魔『腐葉鬼』……凶仔が墜ち、怨みの闇に染まりしモノ。そこまで墜ちてしまったら、私たちにも浄することができないの。早く!小次郎が結界を描いてくれている所まで行こう」
車の下からようやく這い出した二人は連れだち、闇の中を息をころして進んでいく。
なずなの心はまだ大きな柱時計のふりこのように揺れていた。
(五十)
非常電源が全て落ちた警察署内は混乱していた。
本庁にかける電話が全て使えなくなっていると、職員が部屋の向こうで大声を上げている中、捜査課の男達が血相を変えて、捜査室に飛び込んできた。
「市民が、市民が暴動を起こしています!」
書類を整理していた司馬はすぐに手を止め、眉間にしわをぎゅっと寄せ、息を切らしている捜査官の方を睨んだ。
「おじじ様よ、おじじ様の怒りに触れた者はその報いを受けなくてはならない」
それまでじっと窓際に座っていた女性警官はそう言って立ち上がり、自分の机に乗っている物全てを床にたたき落とした。
「どうした!」
ヒステリックな声を上げ、暴れ出した彼女を周りの職員が一斉に取り押さえた。
「ワッパ(手錠)、ワッパかけろ!」
「しっかりしろ、何やっているんだ!」
女性警官は、とりおさえた捜査官の腕を噛もうと歯をむき出している。彼女の吐き出した唾が取り押さえている捜査官の目に入った。
(西暦千九百十五年、霧の中に連隊が消えた……そして二度と帰って来ることはなかった……昭和十八年、キスカ島を脱出する大勢の兵士の耳に、全員玉砕した霧の中のアッツ島から万歳と叫ぶ声が聞こえてきた……黄昏時に人が消え、数十年経ち霧と共に迷い人が姿を現す)
司馬の頭の中に、自分のメモ書きの一部がよぎっていく。
(霧と闇の中にその世界は存在する……)
「おじじ様だぁ!おじじ様は贄を捧げればお許し下さる!」
今まで女性をとりおさえていた捜査官の一人が、おもむろに立ち上がり、窓の方に向かって机の上の物に足をつまずかせながら走った。ノートパソコンがケーブルやペン立てと一緒に大きな音を立てて床の上に散乱した。
「おじじ様!ここには人を殺める道具がいっぱいあります!どうぞお使い下さい!」
彼は下ろされていたブラインドを上げ、窓を大きく開けると、雄叫びのような声でそう吠えた。
「応援!応援!」
硝子の割られる音が各所でおき、廊下には警官達の切羽詰まった声が交錯する。階下のエントランスに狂気に踊らされた市民が集団で押し寄せてきた為であった。
(犯人が向こうからこの階まで来やがるのか)
狂った捜査官の声に応えるように、冷たくどこまでも白い霧が喧噪に満ちた室内に急速になだれ込んでくるのを司馬は黙って、しかし目だけは狼のように光らせて見つめていた。
(五十一)
通じない携帯電話を胸ポケットに入れ、吉村は霧に覆われた何も見えない空を仰ぎ見た。
(こんな夜があるものなのか?)
闇と霧が深くなればなる程、街は月夜の晩のように、近くに存在している全ての物をぼんやりと表出させた。歩道のすぐ右側にはコンビニエンスストアの看板が建物の壁によりかかったままかろうじて立っているのが目に入った。中に避難した市民が息を潜めて隠れているようであったが、吉村の位置からは電気が消えているため確かめようがなかった。
(異界との裂け目……)
悲鳴を上げ逃げてくる集団の後ろに、ゆらゆらと歩き威嚇の叫び声を繰り返す人の群れが流れる霧の中に見えた。はじめは、彼らに抵抗していた男らも、その群れの中に断末魔の声と共に飲み込まれていった。その声は神社で聞こえていた奇妙な子供が切られた時にあげる嬌声にとても似ていた。
「畜生……」
悔しさに震えるこぶしを強く握ったが、一人ではこの状況を打開することは出来ないと吉村は思った。自分の進むべきこれからの道はまだ見えていない。小次郎と雪代風太の言葉が彼の心に重くのしかかったまま、ただ時間だけが過ぎようとしていた。
(てめぇの頭で考えろ)
司馬の呆れた声の幻聴が吉村の耳の奥にこだました。
カラスの騒ぐ声と羽音が闇と霧の激浪の中に聞こえる。
市街地から住宅地へとぬける道の途中にある、いつもは買い物客で賑わう商店街が草や笹に覆われ藪と化していた。茂みの至る所で正気を失った女性や男性の嘆きの声が、霧の中にじわじわと広がり、店や住宅の奥に隠れている人々はさらに緊張の糸を張り詰めた。
(五十二)
「道がふさがれている」
なずなは、見慣れているいつもの場所が、まるで変わってしまっていることに驚いた。緑の葉をたたえた街路樹は細い枯れた立木となり、饅頭塚の頭が地面の土を盛り上げた。
「あいつが現世を、怨みつのった過去へ全て戻そうとしているんだ」
いかるが左右の気配を確かめながら小声で応えた。
「腐葉の鬼じじ……小次郎は今そう呼んでいるけど、本当は世を司る七神の一柱」
(かごめ、かごめ……)
霧に乗って子供達のかすれた歌声が聞こえてきた。
歌詞の通り、二人を輪の中へ追い込むように、四囲の笹藪の葉が揺れ出した。
「囲まれちゃったかな……でも、なずな、心配しないでね」
なずなをかばうようにして立ついかるは、袖の中からつややかな羽根を取り出し、両手の五指の間に挟んだ。
「いたよ、やっぱりここにいた」
「本当だ……」
返り血がべっとりと付いた患者服を着た子供達が笹藪の間から上半身を覗かせた。
黄色くなった歯をむき出して皆笑っている。
「ねぇ、私たちと遊ぼうよ」
「その小さい子も一緒にさぁ」
おどけて笹藪から全身を現した子供達は皆、まだ病院に入院しているはずの同級生であった。
「!」
なずなは、目を丸くしたまま黙っている。
「凶仔だった子達だね……」
なずなの驚きを目にしたいかるは自らの投羽根を使って、彼らの生身の身体を傷つけることに少し躊躇した。が、そこに大きな隙が生まれた。
「きゃっ!」
遣い魔を頭の後ろに乗せた子供達の動きは速かった。後ろからなずなに抱きつくと、もう一人の子供が手に持った注射器の注射針を彼女のこめかみに突き立てようと高く腕を振り上げた。
「ぎゃっ!」
つむじ風が巻き起こり注射器を手にした子供は、周囲を取り囲んでいた他の子供達と共に藪の中に飛ばされた。
「川辺に近付くな……せっかく拾った命がまた無くなっちゃうよ……」
小次郎と同じ古衣装を身にまとう風太が霧を伴った渦の中心に立っていた。薄や笹の葉が風太の立つ場所から発した怒りの言葉と輪唱するように大きく波打ちはじめた。
「雪代君……」
お伽の世界からそのまま飛び出てきた服装と、吹き荒れる風に白く髪を逆立てた少年を見て、なずなはすぐに風太とはわからなかった。今、自分を守ろうとする少年と、優しくておとなしそうな学校での風太のイメージを重ねることはできなかった。
風太が口の中で呪詞を唱える度、つむじ風が一人一人の身体をまるで手玉をとるように草の伏した地面に転がしていく。その度に風太の全身から淡く蒼い光が花びらのように散った、
「いかる!」
「うん!」
子供のうなじに馬を操る騎手のように乗っていた遣い魔は一匹残らず、いかるのするどい羽根によって消されていった。
「行けよ、川辺!」
「どこに……」
「決まっているだろ、『ヒガゴトの社』がある神社だよ!」
「何で、私が……」
「今、この厭な世界を終わらせることができるのは、この異界で川辺と、あの刑事さんしかいないんだ」
「いや……行けない……そんな所にまで行けないよ」
空気がざわつき、腐葉鬼達の咆哮がさらに激しくなっていった。
闇の中に突然稲光が輝き、雷鳴が轟いた。光は瞬くようにして輝き、その間だけ辺りを銀の世界に変えた。
「天空……お前もこちらに来ればよかったものを……積み重ねし年月の怨霊暴れしこの時に……」
風太が顔を上げると烈風に飛ばされ薄くなった霧の虚空に、風太の父親が恐ろしい鬼のような表情で浮かんでいた。
「凶神のお前のこと……本当はこの娘の臓物を喰らいたいのだろう?」
天空と呼ばれた風太は、いかるに小さく目配せをし、自分の背後にまわらせた。
「ああ、それも血をいっぱい飲みながらね、この子の光はまぶしすぎる……だけど……その前にお父さんをお前のような腐れ神に身写しされている方が我慢できない」
なずなの震えの止まらない身体をいかるはそっとかばい、少しずつ、ほんの少しずつ後ずさっていく。
「ほう……あわれよのう、お前のような姿を持たなかった風の者が、依り代の男童の心に毒され同化してしまうとは……」
白く輝く鼬鼠が数十匹も風太の周りから飛び出していくのが見えた瞬間、辺りの木や笹、草が鎌で刈られたように薙ぎ払われた。光の帯は風太の父親に向かっていったが、彼の伸ばした右手の手のひらから出した空気の波にいとも軽く散った。
「くくく……たわけた呪詛よ……」
父親が手をかざしただけで、風太の立っている足下の地面が割れていく。風太はそこから動かずに影絵狐を作るように指を組み、中指、薬指、親指を開いた。
風太の父親の後ろに大きな風の刃があらわれ彼の身体を大きく割いた。それはすぐに枯れ葉となって、空中ではじけた。
「やったか」
「ふふふ……」
この場から逃げようと走り出したいかるとなずなの前に、父親の姿をした者は何事もなく立ち、引きつった笑いを見せている。
「童の呪詛は所詮、童の呪詛」
父親の足下には無数の遣い魔が蛆のように蠢いていた。
(五十三)
「こっちだ!待避だ!」
司馬と残りの正気を保っている警官達は警察署の屋上にまで追い詰められていた。
「押さえろ、押さえろ!」
「侵入されそうな場所の確認!」
司馬をはじめ警官達は屋内に通じる鉄の扉をやっとのことで押さえている。時折、拳銃から発せられる銃弾の跳ねる音が聞こえてきていた。
刃物や工具など凶器を手にした大量の市民の乱入に警察署は何の対策もとることができず、このような状態と化している。
「急げ!縛るの手伝え!」
避難用ハシゴにセットされたロープを見つけた制服姿の警察官が、手際よく給水タンクの脚の部分から引っ張り、扉を押さえるように逆側の天井窓のコンクリート製の基礎まで、幾重にも巻き付けた。
「避難ばしごは使えるのか!」
「下が無理です!」
その答えの通り、警察署の周囲には地獄の亡者と変貌した市民が、職員が上から顔を覗かせる度に、大きなうめき声を上げている。
(腐りかけた大樹の呪いにその真実あり……刑事の経験も何もあったもんじゃねぇな。小次郎、一体てめえはこの街で何がしたかったんだ?)
司馬は自分の今おかれている状況を、まだ悪夢の中で一人彷徨い続けているように感じている。なぜか今まで思ってもいなかった、年老いた妻と手をあまりかけられなかった娘の心配そうな表情が心をよぎった。
(あいつは大丈夫なのだろうか……)
「奥の非常口突破されたぞ!」
悲鳴のような職員の声が闇に消えた。
(五十四)
街の中は騒然とし、人の叫び声が、霧の流れとともに絶え間なく響き続けていた。
車の陰に身を隠している吉村は、周りの異様な人間達がさらに増殖しているように感じた。
「助けて!」
「怖いよ!」
吉村は自分の耳をふさぎ、顔をしかめながらつぶやいた。
「ごめん……でも、必ず助けてやるから。本当に……本当にあいつの言うとおりなら……」
自分の不甲斐なさが生む苛立ちを振り払い、吉村は人の悲鳴や助けを求める声を背に、草に覆われはじめた道を神社のあるべき方向に足を向けた。
「小次郎……てめぇ、嘘だったら絶対許さねぇからな。」
吉村は不満を何度も口の中でつぶやきつつ、建造物や藪に素早く身を隠しながら、入り組んだ道を進んでいく。いくつも越えなければならない狭い交差点にさしかかる手前では、特に緊張しながら足音に気を付け、五感を研ぎ澄ませた。
首が折れた若い女性や老人の死体が転々と転がっているのが見えた。閉められた店のシャッターの中央部に血の痕と大きなくぼみができていた。
(このガイシャ(被害者)投げられたのか……)
吉村の背後に近付く者がいた。
「何!」
背広を着用した大きな身体をした二人組の男の一人が吉村の身体を羽交い締めにした。その男達は柔和な表情をしながら、吉村の動きを止めた。
吉村がよく見ると、隣の課に所属している顔見知りの捜査員であった。しかし、男は手を緩めることはせず、微笑を浮かべたまま、吉村の身体をぐいぐいと締め上げた。
吉村の前に立つ男は通りの花壇に使われているレンガを手にし、何やら奇声を発していた。
男の頭の後ろに、毛の生えた奇妙な生き物が乗っているのが吉村に見えた。
(まずいだろ!)
吉村は一度大きくのけぞり、反動を使って腰をぐっと前に折り曲げた。男は腕を放さなかったが、ほんの少しの緩みを見せた。吉村は勢いを付けできる限り身体を地面まで下ろした。
土とコケの付着したままのレンガが、吉村をつかんでいる男の顔面に深くめり込んだ。彼の潰れた顔から生暖かい血が噴き出すのに時間はかからなかった。男は吉村を抱えたまま大きく後ろに倒れ込んだ。
(おい、それって、計算違いだって)
抜け出せるとふんでいた吉村はどうすることもできなく、そのまま地面に倒れた。掴んでいる男の頭の後ろにいた遣い魔が、地面に付く前に男の頭から逃げるようにして離れていくのが見えた。
ごつっという鈍い音をたて、男の後頭部が割れた。
吉村は男の腕を振り払うと、地面に転がり片膝立ての姿勢になってレンガを手にしたままの男と向き合った。
「こういう場合はだな……」
まだ肩で息をしている吉村であったが、ゆっくりと立ち上がり左右を警戒した。
「逃げる!」
(逃げるんじゃねぇ)
司馬の叱咤が聞こえてきそうであったが、吉村はその場から駆けた。
「司馬さん……やっぱ俺、この程度の奴なんすよ」
吉村は逃げながら悔し涙を流した。それでも数キロ先にある神社までの距離は段々と狭まってきている。彼が逃げて数分もたたないうちに、何百人はあろうかと思われる数の狂人達が暗闇からあらわれ、細い市道に充満した。そして腐臭にひかれる獣のようにうめき声を発しながら走る彼の後をゆっくりと追い始めていった。この街の人間は、もう遣い魔の馬としてしか存在できないところまで墜ちていた。
(五十五)
「逃げよう!なずな!」
いかるとなずなは、立ちふさがる父から逃げようと背を向けた。
遣い魔が蚤のように地面を一斉に跳ねた。その音はまるで大風に意のままにされている大樹の葉ずれのようであった。
風太の発した霧風と鎌鼬がそれらの遣い魔を一瞬のうちに空中に裂いた。
「惹かれずの娘に近付くな」
つり上がった目は明らかに風太のものから変貌していた。一旦は枯葉となって散った遣い魔が、風の隙間を縫って集まり、何かをゆらゆらと形成していった。
(風太、お帰り、今日はずいぶんと遅かったのね)
風太の母親の、学校から帰ったときに見せる優しい笑顔がそこにあった。いつもは面倒くさく小うるさいと思っていたただの言葉であったが、風太の琴線をこれにもないほど刺激した。
(明日はお父さんがお休みみたいだし、みんなで……)
「母さん……」
(そんなにふくれていてはだめでしょ、風太)
(風太はとても優しい子だから……)
式神の天空と身は変わってはいたが、奥底に息づく風太の心は、懐かしさとは違う後悔と悲しみに締め付けられた。
父親の放った気の一撃が、風太の身体を地面に叩き付けた。
「ああっ!」
「早く、なずな!今行かなきゃ!」
見ていたなずなが悲鳴を上げた。いかるは驚きながらも、少しでもその場から離れようと、なずなの手を強く引っ張り続ける。
「童の心、捨てられぬお主の黄砂、霧風の力など、もはや力ではないわ」
再び空に飛んだ父親は自分の目の前に指で大きな輪を描いた。冷気を帯びた人一人が中に入れるほどの漆黒の玉が空間を震わせながら表れた。
「所詮、貴様も外道陰陽師の遣われ魔よ、ヒトガタと土くれに戻るがよい」
風太は、地にめりこんだ身体を起こすため、感覚の戻りきらない手ではびこる草の一端を握り、今、出せる力を振り絞って声を上げた。
「いかる!川辺、何やってんだよ!」
その声を聞いたなずなは、目に涙をためながらも口を引き締めて、いかるの手を握り思い切り駆け始めた。
「虫との戯れ……愉快であったぞ」
父親の姿と化している者は、息子に対しての哀憐の情のかけらもなく、漆黒の玉を風太めがけて投げ落とした。
(五十六)
「どこだ!川辺なずな!」
顔から汗を滝のように流した吉村の前に、神社へと続く長い石段が闇に伸びている。参拝者用にアルミ製の手すりが左右に付いた整備された石段ではなく、丸石を所々に埋めただけの草の生い茂った細道であった。倒れかけた石灯籠の中に碧色の鬼火がちろちろと見え隠れしている。その度に異様に大きく霧に映った影法師が招かれざる来訪者の吉村をおどすかのように黒い手を伸ばした。
「いやだよぉ、死にたくないよぉ」
「おどう……怖いよぉ」
虫の声のかわりに子供のすすり泣きの声が、草場の到る所の陰から聞こえてきた。葉の上で羽根を震わせている虫の頭は髷をゆった幼児の顔であった。
吉村は目に入ったあぶら汗を破れた服の袖で拭き、前だけを見つめるようにした。背後から吉村を追う様々な声は思っているよりも早く近付いてきていた。
足を石段にゆっくりとかけた。一番手前のぐらぐらと安定していなかった丸石が、階下に音を立てて転がっていった。
(五十七)
「いってぇ」
風太の服は腐食され元の形を成してはいなかった、彼の顔は血にまみれ、風の力によって辛うじて漆黒の玉をはじき返した手のひらはぼろぼろに焼けただれていた。
「ほぅ、凶神……さすがよのぅ。しかし、二度はあるまいて……」
風太は鬼の言葉に笑った。
「それは、お前だよ」
風太を空中から見下ろしていた鬼の後ろで銀色の刀が一閃し、風太の父親の首が飛んだ。
小次郎であった。
地に降り立った小次郎が露のしたたる刀を勢いを付けて振り下げ、粘りの強い血のりを刀身から払った。
流れる風に長く柔らかな黒髪がたなびく。
「貴様の邪念……我が主の命により封印させてもらう」
小次郎は再び柄を両手で持ち、愛刃をきらめかせた。
首は空中で回転を止め、大きく目を見開き笑った。
「おかしや……おかし、土塊の式神子が何を血迷うておる……戯れはここでしまいじゃと言ったろう」
「笑止」
小次郎が大地を蹴って振り下ろした次の刀の光で風太の父親の頭が割れ、灰色の脳漿が霧散した。
残っていた父親の身体が空に崩れるように溶け落ち、両断された紙の札が花びらのようにひらひらと地に舞い落ちた。
「天空、来るぞ」
「うん」
小次郎の言葉の投げかけに立ち上がった天空の風太は小さくうなずく。
(埋木の人知れぬ身と沈めども、心の花は残りけるぞや)
子供らの顔の浮かんだ幾百もの鬼火が地面から湧き出し、空中を乱舞する。
(後夜の鐘の音、響きぞ添ふ)
地獄からの亡者の締め付けられるような泣き声が、さながら大鐘の音のように辺りに殷々と渡った。
「風太の父の姿と化した鬼よ……いや……その姿……今は『樹老人』と呼ぶべきか……」
小次郎が愛刀を静かに構え直す。
大きな雄叫びを上げながら、小次郎と風太の前に鬼がその真の姿を見せた。
(花もの言はぬ草木なれど、罪なき謂を木綿花の影唇を動かす也)
(五十八)
闇だが闇ではない月夜のような薄ぼんやりとした紺色の世界に吉村はいる。人魂や鬼火が音を上げて頭上を通る度に冷気が身体を縮ませた。
石段を登り切った所が、惨劇となった境内である。吉村がうろたえ情けない姿を司馬に見せた時と寸部と変わっていない。異なる点は黄色いテープの規制線が切られ、立ち入り禁止と書かれた折れた看板の上には乾きかけた血がたまっている。
うるさい虫の羽音が吉村の耳に入る。辺りに散乱する千切れた内臓の腸には既に小蠅がたかっていた。鳥居の向こうには『識神桜』の大樹がおぼろげに見えてきた。
「人……?」
本社から伸びる参道沿いに吉村は、言いようのない陰鬱な気配を感じた。鬼火が重なり合い、足を止めた吉村の周囲を今までよりもやや蒼く照らし出した。
眼鏡をはずした司馬の落ち着いた顔が闇に浮かんだように見えた。
「司馬さん!」
急激に足を止めたため、疲労による筋肉のけいれんが起きたが、吉村は自分の最も信頼すべき者の所にたどり着こうと、必死になって歩みを進めた。
「司馬さん、待っていてくれたんすか!」
吉村は汗と涙でびしょびしょになった顔のまま近付いていく。彼の心のこもった自分への叱咤を心のどこかで期待していた。
ごろりと音をたて、司馬の首が地面に転がった。頭頂部の白髪が血によって赤く染まっていた。
「!」
鬼火に浮かんだ狂人は皆、にたにたと薄気味悪い笑みを浮かべていた。
「ぐはぁ!」
吉村があまりの驚きに呆けた顔を見せると、狂人達はそれぞれ自分の手に持っていた警察官や職員のまだ血の滴る首を宙にかかげ、喜びの奇声を発した。
ぬばたまの夜の慟哭の時は、まだ刻まれ続けている。
(五十九)
「地、気、この現世において全ては清くなければならず。輪のように廻ること、これ理なり。『人』なる毒虫によって全てが汚され、心さえも尊さを失った輩、徘徊する現世をままにしておくことなど誰ができよう。情無き理で殺められていった子らの怨念を我ら常世の霊をのぞいて誰が静めよう……」
樹老人は尉面と呼ばれる老人の表情を模した木製の面を付け、頭にのせた黒色の烏帽子は吹き付ける風に流されたような形をしていた。闇の空間に浮かぶ金色の狩衣をまとった姿は、まさに幽玄の世界から呼び出された貴人であった。
手に持った蝙蝠扇が静かにひらひらと動く度、風太や小次郎の周りの地面から数百の遣い魔が醜い姿を現していった。その輪は小次郎達を中心にかなりの範囲に広がっている。
「眠る地を汚された浮かばれぬ子の数は限りなし」
遣い魔のただれた細い指先についた爪は鋭い。それが一斉に風太や小次郎の息の根を止めようと狙っていた。
風太は丸めていた右手の親指と人差し指、中指を伸ばし、自らの眉間の前に持って行き、詞をつぶやいた。
小さく長い胴体をもつ動物達が風太の周りを守るように囲んだ。
「空鼬鼠よ、全てその刃の露とせよ!」
風太の力強いかけ声のもと、檻から解き放たれた勢いで地面を跳ねるように白色の動物は舞った。遣い魔の繰り出される爪の間を縦横無尽に、空鼬鼠は乱舞する。遣い魔の消滅を意味する落ち葉が雪のように地から吹き上がっていった。
樹老人の表情には余裕の笑みが浮かんでいる。
「かっ!」
鬼の一声にそれまで硬い地面が、泥沼のように代わり風太の足の自由を奪っていった。
「くそっ」
泥に飲まれないよう足下に空気の渦をつくったが、すでに風太の足首に遣い魔の爪が幾枚も深く食い込んでいた。毒爪であることは疑いようもなく、風太の足は紫色に変色していった。
「その姿、既に七神の樹老人となるも、天の理から大きく外れ、このようの『狂』の立ち振る舞い、決して許さじ」
小次郎は、動きの鈍くなった風太を空中に引き上げ、辺りの霊気を愛刀で払った。小次郎の力強い声色が辺りに朗々とこだました。
「土塊のヒトガタが我に逆らうこと自体、愚よ」
鬼の発した黒い球体が目に止まらぬ速さで小次郎に向かっていった。小次郎の前に風太が立ち、再び霧風の壁をたてた。霧風の壁は障子紙のように破れ、風太の身体は飛ばされた。
「小次郎さん!早く!」
天空となっている風太をかばうようにしながら小次郎は飛び交う鬼火を自分の周囲に引き寄せた。小次郎の影に陽炎のような白蛇の姿が重なっていった。
小次郎の気が限界までに高まったことをその猛々しい白蛇は大きく哭いて知らせた。蒼い光が膨らみ、光の塊が鬼にぶつかった。周囲に密集するように湧いていた遣い魔の残骸を示す落ち葉が降った。
「ふぉっふぉっ……目の前にいる者ばかり葬ろうとて何になろう」
樹老人が笑った。一度地に落ちた落ち葉は、空に舞い上がり一体の大きな遣い魔と化し、小次郎と風太の身体を掴もうとぶんぶんと空気を震わせ、辺りを飛び交った。
「豊穣なる地をくりぬき、厳かなる山を切り崩し、毒を清らかなる川に流す。このような汚れしところで彼の子らの魂をなぐさめられる訳がなかろう。恨み辛みを糧に我も貴様の主と同じ鬼として生きる道を選んだまでよ」
樹老人は能舞台と化した闇の空間に優雅に漂っている。
小次郎は自分よりもはるかに大きくなった遣い魔の手首を切った。切り口に落ち葉が一旦は広がるものの、すぐに何事もなく再生していった。
「我が主のことを言うな!」
小次郎の瞳に今までに無い強い怒りの感情が湧いた。
「小次郎さん!あいつの挑発にのっちゃだめだ!」
風太は風の渦で巨大な遣い魔の腹に大きな穴を開けたが、一時の気休めにもならなかった。
「我が樹の前に、恐怖におののいた貴様らの首をそなえん、この子らがされたようにな」
闇から突然生じた無数の棘に彩られた蔓が、風太と小次郎の両腕と両足首にからみつき二人の自由を奪い取った。
(六十)
「司馬さん……殺されちゃったんすか……こんな奴らに……」
首だけとなった司馬は既に何も言わない。あざけ笑うような人々の声が吉村の耳に響く。
「許さねぇ!」
これだけたまった怒りを押さえるほどの気力がない吉村は、自分の使命も忘れ、刃物を手にする狂人達に素手のまま飛び込もうとした。
その時、小さな摂社の前に大きな空気が流れた。吉村と狂人の合い挟んだ黒く開いた空間から子供が二人飛び出してきた。
「川辺なずな!」
通り過ぎる際、いかると吉村は目が合った。
(早くついてきて、お願い。小次郎が引いておいてくれた結界まで……)
吉村の頭の中にいかるの声が響いた。なずなが地から伸びてきた遣い魔の手に足をとられた。
彼の強い義の心は簡単に消えるものではなかった。吉村は反射的に、なずなの身体をかばうように前に飛び込んだ。なずなは吉村に抱きかかえられたおかげで、すんでのところで転ばずにすんだ。
「すぐに行かなくちゃだめなの、風太君やいかるちゃんを助けたいの」
夢遊病患者のように、なずなは、その場でふらふらとしてはいたが、目は真っ直ぐ自分の進むべき『識神桜』を見つめていた。
いかるは湧き始めた遣い魔と追ってくる狂人達から、なずなを守ろうと鋭い羽根で必死に抵抗した。
「畜生!畜生!畜生!」
叫びながら吉村はなずなの身体を抱きかかえたまま『識神桜』に走った。
目の前に白い光がオーロラのように垂れ下がっているのが見えた。二人が近付けば近付くほど輝度を増していく。地に描かれた不可思議な模様を二人が超えると白い光はさらに強くなっていった。その結界の中だけは、外の世界とはまるで異なり静寂で清らかなる気に包まれていた。
吉村はズボンのポケットに入ったままの木札を取り出した。
「これを西の幹の瘤に供えろ……だっけか……」
吉村が振り返ると、狂人の群れが一人で奮戦するいかるの周囲を取り囲んでいた。
「やばいじゃないか!」
押しつけるようにしてなずなへその札を渡し、吉村はすぐさま結界を飛び出た。
「子供に近付くな!この野郎!」
吉村の怒声にいかるに気を受けていた者達が一斉に彼の方を見た。
吉村はがむしゃらに身体ごと突っ込んでいった。前列にいた男達は吉村のタックルの勢いで仰向けに倒れた。いかるはその隙にどうにか輪から逃げ出すことができた。
しかし、武器も何もない吉村の上に狂人達の群れは、遠慮なく彼の命を奪おうと迫ってくる。はじめに襲ってきた男の持っていた角材を吉村は振り下ろした際に奪い取った。
「てめぇら!ここから先は通さねぇからな」
しかし、狂人を五人も倒さないうちに、頼みの角材は真ん中から折れた。ふいに吉村は腹部に何か熱い物が当てられたように感じた。
一人の女性の持っている刃物が深々と突き刺さっているのがかすかに見えた。すぐにその女性を引き倒し、刺さったままの包丁の柄に手をやった。
(抜いたら出血がひどくなる……)
空気が抜けていくように、その場に立つ力が失われていく。
「俺……子供……守れたのかな……司馬さん……俺……みっともねぇよ……」
痛みが脳を支配する前に、吉村が最後に見たのは自分の喉笛に食らい付こうとする男の顔であった。
「あっ!」
吉村の命があまりにもあっけなく奪われていく。いかるはなずなを守りながら悲しい視線をおくった。吉村がいなければ、間違いなくいかるとなずなは狂人の波に呑まれていた。
「西の……西の……こぶ……」
なずなの全身にも我慢できないほどの痛みが走っていたが、這うようにして少しずつ少しずつ幹に近付いて行った。
幹に手を伸ばしたなずなは一瞬幻を見た。自分に年格好がよく似た巫女姿の少女が小さな人型に切った二枚の和紙と小さな水晶玉、そして木札を桜の樹の下で手にしている。
「勾陣よ、この子供らの怨を後の世になっても必ず静めてくだされ……でもお前の姿はどうしても小太郎兄様に似てしまうのう。小太郎兄様の優しさを持てよ。もし封印破られし時、お前の強き力が必要になる。天空よ、邪鬼を封印し続けなければならぬ一番つらき運命を与える。玉に身をやつすお前の霧風の力が頼りなのじゃ。天后よ、この現世の時の荒海を安らぎなるよう見守りもうせ」
少女は微笑しながら、それらの物を掘ったばかりの浅い穴の中央に置き、最後に懐中から短刀をのせ、土を両手ですくってかぶせた。側に小さな子供のしゃれこうべがいくつも転がっているが、少女は気にすることもなく黙って小さな山をつくり、一番上に紙の札をうやうやしく置いた。
少女がその場を離れ、霧深い参道に一人消える時、鉦鼓の乾いた音が辺りに悲しく響いた。
我に戻ったなずなの目前には、太い幹の真ん中に、顔のような形をした小さな瘤が見えた。
なずなが吉村から託された札を瘤の上に貼ると、そこから光が湧き樹木全体を包んでいった。なずなは力尽きるようにその場に眠るように倒れた。
「なずなぁ!」
いかるは近付き飛び込もうとするが、常世の者であるいかるは結界の壁によってはじかれた。
(六十一)
蛇のような動きを見せる先端が尖った蔓が、身動きのできなくなった小次郎と風太のそれぞれ二の腕や太ももを貫いた。
「ぐっ!」
逆鈎の形をした棘が引き抜かれるとき、二人の肉を内側から削っていった。小次郎と風太にこの痛みから逃れる術は残っていなかった。傷ついた箇所が紫色に染まっていく。
「怨みの子ら自らの手で闇に消えさるが良い。」
鬼は扇を開き、目の前に放電を伴った黒い球体を創り上げた。はち切れんばかりに膨張した球体の周りには無数の子供らの苦悶の表情が刻まれていた。
「くぉっ!」
鬼は突然、頭を抱えるようにして苦しみだした。黒い球体は子供の聞くに堪えがたい悲鳴と共に空に消えた。
なずなの貼った札の効果があらわれた。
風太は力を振り絞って『空鼬鼠』を放った。
力の弱まった毒蔓は、あっけなく鼬鼠の鎌に切断されたが、毒が身体にまわった風太は地面に落ち、自身の動きを止めた。
小次郎は地に落ちながらも再び愛刀に蒼い光を蓄えた。
「樹老人よ、貴様のケガレを永遠に浄す!」
空を廻るように白蛇が振り下ろされた小次郎の刀から飛び出す。
光となった白蛇は樹老人の身体を喰らうように突き抜けていった。
樹老人の面が音を立てて割れた。
彼の顔のあるべき所には黒い雲の渦が巻き、奥深い虚空だけが広がっていた。
「我は子らの悲しみを長きにわたり吸い、そして知った。この世の生ある人間全て浄化せぬ事には現世の甦生はありえぬと。ぬばたまの心に染まる賤人の身勝手さ振る舞いをいさめるのは常世に住する我らしかいないではないか。式神よ!」
空中で苦しみのたうちながら樹老人は、小次郎への言葉を続けた。
「我は主の命を守るだけ」
「だから……土塊というのよ。ならばなぜ、我をそのまま枯らしてはくれなかったのだ……子らの怨みは我が身体をもって償いたかった。それすらも賤人はさせてはくれなかった……」
「風太の父は桜の木を、いや貴様の真の姿を命をかけて、守りたかっただけのこと。そこに一片の疑いは生ぜぬ」
二人の問答は続く。
「こ奴ら、賤人どもは、そう言いながら古来よりの土地さえも汚し食い潰していくのだ、それでも守ろうとするお主の心……わからぬわ……」
「甦生と豊穣の神である貴様自身が道を見失っただけのこと」
「道とは何ぞ」
「いかに美しく咲いている花も朝には落花となる理」
「子らの花は咲く前に散らされておる」
「ゆえに我らは生を得ている者達の心を正しく導かねばならぬ。怨みや恐れのみ煽ったところで、それが現世から絶えることはない」
「それでも導かれぬ者は……」
「柳桜は共に揃いて錦となる、朝に夕に貴賎群集の心を咲かせること、これも我らの進むべき道」
「心を咲かせるとは……」
「慈悲の花」
「笑わせおる!」
「だが、見よ……樹老人……貴様の迷いし子らの姿を」
腐葉鬼となり墜ちた子供達は、傷付いた鬼の身体を小次郎の第二の太刀から隠すようにわらわらとかたまっていた。誰に命じられた訳でもなく、醜い遣い魔らは必死に身を挺して樹老人を守ろうとしている。
「このような姿になり、心を捨てようとしても捨てられぬのが人の心というものよ」
キーキーと木のきしむ不快な音と、葉ずれのざわめきさえも樹老人をかばっているように聞こえた。
「おおっ!」
樹老人の咆哮は天を震わせた。
「なぜ、我をかばって泣く!なぜ奴らを殺さぬ!なぜ、積年の怨みを晴らさぬのじゃ!」
力の衰えた樹老人の周囲には、散りかけた腐葉鬼までもが泣きながら集まっていく。
「我のしたことは……我のしたことは……何……我はお前達の怨をはらしてやろうとしていたのに……我が我の怒りで見失っていたというのか」
樹老人は赤子のように取りすがろうとする遣い魔達を包み隠すように狩衣の両袖を高く持ち上げた。
「貴様の慈の心がこの者らの針の先ほどの人の心を失わせておらぬのだ。この子らの悲しみ、今は消えることはなくとも気の如く薄らぐことは可能なり。貴様がその本来の姿を……その高貴な真の姿を未来永劫見せることで、この子らの魂をなぐさめ続けることになろうぞ」
「我の本来の姿……」
「そう、地に腐りし不浄のものさえ花や実と化し、終わらぬ時を再びつむぎし神としての本来の姿」
小次郎の言葉にうやうやしく頭を垂らした後、樹老人は白く輝く光に包まれ天に昇っていく。
闇が晴れ、天には数多の星々がこぼれ落ちそうなほどきらめいた。
小次郎は愛刀を鞘に静かにおさめ、地に降り立ち、倒れたままの風太に歩み寄った。
「小次郎さん……」
風太が力無く頭を上げた。
「天空……樹老人の舞が闇に呑まれた失われし時を甦生させる。よくぞ、耐えてくれたのう」
「良かった……僕……もう少し眠っていてもいいかな……」
「ああ、風太の身中でこのまま……」
小次郎の笑みの向こうの星空に、金色の狩衣を着た貴人が厳かに舞っているのが見えた。
(花に清香月に影……白むは花の影なりけり……夢は覚めにけり……嵐も雪も散り敷くや……花を踏んでは同じく惜む少年の春の夜は明けにけりや……)
風太は樹老人の舞を最後まで見ることなく、また深い眠りにおちた。
(六十二)
「風太、いつまで寝ているの。起きなさい。遅刻するわよ!」
風太の母の声がいつものように扉の向こうから聞こえてきた。
「もう少し寝かせてやればいいだろう。昨日は珍しく遅くまで勉強を頑張ったようだからな」
優しい父の声が同じ扉の向こうから聞こえてくる。風太の寝ていた場所は、両親と住んでいた家の自分の部屋であった。
(ここは僕の部屋……だった……)
ベッドから身体を起こした風太は過去の日常の世界にいることがはじめ信じられなかった。が、時間が歩むごとに夢と現実の記憶が見る間に薄らぎ、いつもの朝なのだと思えるようになってきた。
風太は、扉の向こうに本当は何もないのではないかと少し不安感を残したまま、隣の居間に通じるノブをゆっくりと回した。
(六十三)
なずなは今日から通う学校に朝から緊張していた。
(友達できるかな……)
部屋の窓のすぐ外で青みがかった頭と灰色の美しい羽を持った小鳥が高く澄んだ声で鳴いた。小さな女の子の幻が一瞬見えたような気がしたが、すぐに机の上に置いてあった真新しいノートとペンケースを鞄にしまった。
風太は住宅街にのびる通学路を学校に向けて走っている。前に母親と連れだって歩く見慣れない少女に気付いた。
(転校生かな?)
風太は少し気になって、通りすがりざま、少女の顔を見た。少女も驚いたように風太の顔をじっと見つめていた。
「あら、ここの小学校に通っている子?」
少女に目鼻立ちのよく似た母親が風太へ優しく質問をした。
「はい」
「何年生?」
「えっと、たしか六年生……だったかな。もう四月だもんな」
少女が風太の言葉にくくっと笑った。
「なずな、良かったわね。同じ学年の子みたいよ」
少女の母親が優しく笑いかけ、なずなの背中を軽く押した。
「あの……川辺なずなです……ここ……何もわからないことばかりなので……」
「えっと……僕、雪代風太。大丈夫だよ、わからなかったら何でも僕に聞いて」
「なずな、良かったわね。この学校での最初のお友達ね」
風太となずなは見つめ合うと互いに頬をほんのりと赤らめた。
耳慣れない小鳥のかすかな声が、またどこかで聞こえた。
(六十四)
身を寄せ合うようにして建物が建つこの街にも春の空はある。
日曜日、風太は祖母も含めた家族全員で神社の御神木『識神桜』を見に来ていた。
休日なので、名所となっているこの場所に早朝から多くの人が集まりはじめている。参道に並ぶ出店の男達は商品を並べたり、仕込みを行い、神社の職員は、御朱印所の前を掃き清めている。その忙しさが人々の暮らしの華やかな活気を生んでいた。
風太は一番に石段を駆け上がり、『識神桜』の根周りを保護するロープまで、力一杯走った。息を切らしながら見上げると、花弁の白さを際だたせた満開の花が青空の下、風太を優しく出迎えた。
心地よい春のそよ風が風太の顔を撫でていく。
ふと、背中に人の気配を風太は感じた。
(お前は桜がきらいか?)
「ううん、大好きだよ。だってさ……あれ?」
風太は振り向いたが、誰もいない。ただ、一枚の桜の花びらが風に乗るように空高く舞う様子が目にとまった。
よれよれのお世辞にも高級とは言えない外套をはおった司馬は、小さな摂社の前で両手を合わし、拝んでいた。
「あれ、司馬さん、どうしたんすか。」
スリ事件の捜査のため、吉村と司馬の両刑事は、朝からこの神社に来ている。
「俺達はなぁ、被害者の仏さんに拝むだけじゃねぇ、悲しい事件を繰り返させないと自分自身にいつも言い聞かせているんだ。お前も刑事の端くれだったら、そのくらいのことはやっておけ。それになぁ、事件と同じだ。あの目に飛び込んでくるでっかい本殿じゃなくて、こういう小さな社にこそ真実が詰まっていたりするものだって……お前聞いてんのか?」
「ん……ああ、そうっすね」
アルバイトの若い巫女が横切る姿を吉村はぼんやりと目で追っていた。
「てめぇ、始末書書かせるぞ」
「すいません、捜査第一課吉村!これよりスリ犯人逮捕に尽力致します!」
「朝から鼻の下のばした男の言葉を誰が信じるかよ……それより、自分を警察だと人前で言うその無神経さが甘いっつうんだ、それに、ちゃらちゃらしたそのお前の目立ちすぎる私服姿は頭の中だけにしておけ馬鹿野郎」
「あっ、ちょっ、待って下さいよ、司馬さぁん!」
申し訳なさそうに頭をかく吉村を背に、司馬は人波の中へもう足を向けていた。吉村は小さな摂社に軽く手を合わせた後、慌てたようにその後を追いかけていく。
長き時、その場所に生を得、何も語らぬ『識神桜』は今年の春もまた、現世の営みをつむぐ者達一人一人へ、小さな喜びと慰めを与え続けていた。
知るも知らぬも諸共に 誰も花なる 心かな
式神小次郎 「腐葉」帖
了