「腐葉」帖 (一)
■主な登場人物
雪代 風太 母を殺害した父を恨む少年 小学六年生
鵠 小次郎 謎の青年 悲しみにくれる風太を闇の世界へとへと誘う
鵠 いかる 小次郎の妹 風太のことを気にかけている
川辺なずな 風太の同級生 この春に転校してきた少女
司馬 良次 埼玉県警捜査一課のベテラン老刑事
吉村 明 埼玉県警捜査一課の新米刑事
風太の父 奇病に冒され、精神錯乱の中、妻を殺害する
風太の祖母 一人残された風太の面倒を見る
柳田課長 司馬、吉村の上司
池波医師 元検死官の医師
忙しなく回転する救急車のサイレン光が病院への夜間急患入口を示した看板を赤く照らし出した。その前を縫うように担架を持って走る二名の救急隊員の影が何かを叫びながら慌ただしく通り過ぎていく。
「さっき連絡した地下鉄工事現場の患者です」
治療室に入ると救急隊員は搬送用のベッドに患者を乗せ担架のベルトを外した。
「すぐに心電図の用意を。酢酸ジフロラゾンを開けておいて」
看護師に指示をしながら当直の若い医師は苦しそうなうめき声を上げ続ける男の毛布を剥いだ。
「な……何……?」
患者の姿を見た医師は全く何も言えなくなり、自分の血の気が全身から一気に引くのを感じていた。
人の生き死に対して心が慣れている経験豊富な看護師らも、その姿を間近に見た途端、点滴など治療用具の準備をしていた手を止めずにはいられなかった。
その夜、確かに人間だったモノが救急治療室のベッドの上で、何の手の施しようがないまま息を引き取った。
(一)
樹齢二千年と言い伝えられる『識神桜』は式外社『識神の社』に座するご神木である。
大人五人でも抱えきれない太い幹にごつごつとした樹肌をまとい、その枝は参拝客を暖かく包み込むかの如く四方に広く伸びている。
春になり一斉に開く薄紅色をした小さな花は赤子の笑顔のように見る者全ての心を明るく優しい気持ちにさせ、小さな境内はそれを一目見ようと遠くから訪れる訪問者で一杯になるのが常であった。
小学生六年生の雪代風太は、花見客にぶつかり押されながらも識神桜の根元を囲んでいる柵の前を一歩も動かず満開の花を睨み付けていた。
物心ついた頃から決まって四月二日に風太の父は近所にあるこの桜を見に、風太と母親、祖母の三人を連れてきていた。父の弁を借りて言うのなら、この木は、どんなにその年が寒くても温暖でも、決まってこの日が見頃になる律儀で不思議な樹であるからとのことであった。
その父も母も今はいない。
今年の識神桜いつもと違い、再び訪れた人は一目見るなり、ため息をつき、哀れみの視線をおくった。幹に緑青色のカビが付着し、西半分の枝は蕾さえも付けていなかった。
(お前は何でまだ花を咲かせているんだよ、お前が枯れないでいるのも父さんのおかげなのに。枯れちゃえ、枯れちゃえよ)
風太は柵を掴む指の腹に板の痕が残りそうな程、深く食い込ませた。
「お前は桜が嫌いか」
桜の美しさを賞賛する声と木の寿命を心配する声が入り交じる中、風太の耳元に若い男の声が問いかけてきた。
その声に驚いた風太があわてて振り向くと、花を初めて見て喜ぶ老人夫婦やスマートフォンでの撮影に夢中になっている女性しかおらず、声の主はどこに行ったのか探し出すことはできなかった。
何となく気を削がれた風太は、人いきれで蒸しかえるその場所から、祖母が一人で待つ自宅への帰路についた。
(二)
ピッ!
工事現場の誘導員が笛を鳴らし、風太に早くこの場所から移動するように急かした。
識神の社のすぐ近くを新しい地下鉄の路線が通ることになっていて、工事車両が、ひっきりなしに掘削した土を山のように載せては、どこか遠くの残土処分場へ運ぶことを繰り返している。
識神の社から風太の家がある街までは、なだらかな坂が続く。一般車両と工事車両で渋滞する車道を横目に、風太は自転車をこぐペダルに力をこめ、暖かい春風を自分の髪と頬に受けとめた。
市道沿いの歩道の向こうから自分と同じ年頃の少女が母とおぼしき女性の後ろからうつむき加減で歩いてきた。不動産屋の広告看板が斜めに倒れ、歩道へと突き出ているのが見えたが、少女はそれにまるで気が付いていない。看板にぶつからないよう風太は自転車のベルを一回だけ鳴らした。
「あっ」
少女は顔を上げ、倒れた捨て看板に気付くと驚いたように道の端に寄った。
「なずな、またよそ見していたの?トラックもいっぱい走っているし、本当にいつか事故に遭っちゃうわよ」
「ごめんなさい、お母さん」
風太は親子の顔を見ることもせず、歩道横を通り過ぎていった。
(三)
樹木医である風太の父は枯死しかけた識神桜を何とか再生させようと、発根を促進させる治療を中心に、毎日のように神社へと通っていた。近くの地下鉄工事の影響で地下水の流れが変わったのではないかという話も一部出ていたが、全く関係していないことがその後の工事関係者による調査で分かっている。
「ん?」
しかし、物言わぬ識神桜は、そのような父の強い思いも届かず、根や枝と言わず徐々に菌類に蝕まれていった。
ある日、小さいガラス玉のような物が根の一部にからんだまま光っているのを見付けた。表面は汚れているが、太陽光の加減で渦を巻いているように見えた。風太の父が取ろうと指で掴むと、それはあっけなく粉々に砕けた。
その日の夜から父の頬に小指の先ほどのかさぶたがぽつりとできた。はじめは父もカミソリ負けの傷か何かだと思い、あまり気にも留めていなかったが、次第にそのかさぶたが顔中に広がっていった。
かさぶたというと大抵、剥がれ落ちるとその下は白くなったきれいな皮膚ができるものだが、父の場合はその下に奇妙なトゲの付いた小さいイボができ、また新たにそこから黄色い膿汁を止めどなく噴き出させていた。
周りの人間が病院を勧めても父親は頑なに拒んだ。
それから何日かすぎた頃から父が幻や変なうわごとを口走るようになっていった。身体がやせ細り窪み落ちた眼球をグリグリと動かして、痰と吐瀉物を家の中に散らし、それを母親が泣きながら雑巾で拭き落とす毎日が続いた。
そして、初夏。
風太が学校から自宅に帰ってくると、狭い玄関に赤黒い血が一面に広がっていた。容易ならざる出来事が起こったことは誰の目にも明らかであった。
リビングに通じる扉を開けると、椅子に腰掛け背を向け全身を血だらけにした父親がうな垂れていた。
「やぁ、風太おかえり、この戸の向こうにお母さんが待っているよ。お父さん、何かおかしくなっちゃったようなんだ。病院に電話したいんだけど、電話のかけかたがわからないんだ、ほら」
そう言って、二つに折れた携帯電話の下の部分を肩越しに見せた。
「お父さん、お母さんは大丈夫なの……」
風太の足は恐怖で一歩も前に踏み出すことができなくなっていた。
(しばし夜はまだ深きぞ)
振り返った父親の顔は樹皮のようなかさぶたに覆われ、小さな隙間から白い眼球を細かく動かしていた。
そして、テーブルの縁にぎざぎざの歯を食い込ませた折りたたみ式のノコギリを引き抜き、ゆっくりと立ち上がった。
「お前の腕も切って治してやろう、虫や菌がまわらないようにな。若木だから右の枝だけでいいだろう。でもね、でも、木はお父さんのことをあの世界からずっと拒否している」
父によって蹴倒された椅子が大きな音を立てて床の上に転がった。風太は持っていた鞄を父に投げ付け、血だまりに足をとられながらも玄関の方へ一目散に走った。
程なくして、風太の住んでいた公団住宅の建物の周囲には警察とマスコミが大挙して押し寄せ、騒然とした場となった。
父親は玄関から表には出ず、数人の警察官によって抵抗も見せないまま取り押さえられた。
それからほとぼりがさめるまでの数日、扉の向こうの母親のことを風太に話しかける者は誰もいなかった。
風太の悲しい記憶の風景は全て茜色に染まっている。
母の遺影が飾られた仏壇から線香の匂いがかすかに漂う中、風太の父が亡くなったと近所の母の実家である祖母の家に警察病院から電話があった。
鰯雲の浮かぶ夕暮れの空の下、猫の額ほどの小さな庭にある柿の木は葉が全て落ち、鳥についばまれ穴の開いた実だけが細い枝にしがみつくようにぶら下がっていた。
風太は段々と冷えていく空気の中で足下の石ころを拾い、たいして面白いと思っているわけではないのだが、一人だけいる寂しさをまぎらすようにその実をめがけ投げていた。
祖母は生返事を繰り返し、ただただ呆然とした表情で受話器を握って立っているのが見えた。
後は記憶が途切れ途切れになっていた。はっきりと覚えているのは焼き上がった父の遺骨を白い壺に入れようとした時、骨が火葬場のコンクリートの床に軽い音を立てて落ちたことだけである。
(四)
空の星はスモッグに遮られぼんやりとした月光だけが真夜中の街を照らし出す。
郊外へ下る地下鉄の車両内は、家路へ向かう会社員や都心からの遊び帰りの若者で混雑していた。
『人々を襲う奇病の恐怖』そう赤い太ゴシック体の文字で書かれた週刊誌の中吊り広告が、車両の動きに合わせ前後に揺すられている。
ガラス窓には車内灯の蒼い蛍光灯の光が疲れのたまった乗客の顔を写しだしていた。それはどこの都市にも見ることのできるごくありふれた日常であった。
突然、大きな警告音の後に車両が急ブレーキをかけた。手すりやつり革につかまっていなかった者たちは、激しく進行方向に身体が流され、倍以上の力で後方に押し戻された。
車両の中ではすぐに悲鳴や怒号が湧きあがり、ある者は飛ばされた自分の携帯を血眼になって探し始めた。
「車両前方に障害物があります。恐れ入りますが、確認が終了するまで乗客の皆様には大変ご不便をおかけたします。少々お待ち下さい」
「何だよ、謝罪も無しか」
「すぐに本社にクレームだ、クレーム」
蝉のような声をした車掌のアナウンスに、人々は不満をそれぞれ口にした。女性や若者はすぐに携帯を取り出し、メールでその様子を家族や知り合いに慌ただしく連絡を取り始めた。
三分……五分……閉じ込められた乗客達の不快な気持ちは徐々に高まっていった。
予告もなく急に車両内の蛍光灯が一斉に消えた。
「きゃぁ!」
車両内が大きくどよめいたが、車掌のアナウンスは沈黙を続けている。不満の募る乗客の何人かは軌道横の避難の誘導口を示す緑色の灯に気が付いた。
「おい、ドア開けろ」
奥からそのような声が立て続けに起こったのをきっかけに、各車両で扉を手動で動かすことのできるコックが開かれた。
「早く降りろよ!後ろつまってんだぞ!」
(貴賎群集の色々に 心の花も盛なり)
窓を叩く鈍い音が車内に響いた。
乗客の目に飛び込んてきたのは、吸盤のような物が付いた長い指がびっしりと隙間無く貼り付いている窓ガラスであった。
(五)
「あれ、すごかったよな」
給食後の昼休みはいつものようににぎやかであった。椅子を斜めに座ったり,机に肘をついた姿勢の男児らが教室の後ろで昨日の地下鉄の事件の話で盛り上がっていた。しかし、小学生にとっては、その事件よりもいつもの番組が放送されなかったことの方が大きな問題であった。
「でもさ、雪代んちの事件より、すげぇよな」
「そうだ、そうだ。人もいっぱい死んだしな」
同級生は、そう小声で言い、一人で座り屋外を眺める風太の方をちらちらと見た。自分のことを揶揄する声に対し、風太は聞こえていてもいつも無視することにしている。今日も自分の机上に花瓶に活けた花が嫌がらせをするように置かれていた。
父の事件以来、風太の顔から不機嫌そうな表情が消えることはない。噂をしていた男児らはもう風太の方を見ることなく別の話に興じていた。
(六)
今から三十年ほど前には教室が不足していた校舎も今では空き教室が多く、余計にコンクリートをパステル色に塗装しただけの壁がやけに冷たく感じられる場所となっていた。めったに人が来ることがない場所が四階上の踊り場である。手すりや床に埃が随分と溜まっているが、彼にとって校舎の中で唯一心の安まる場所となっていた。教室にいたたまれなくなった今日も、この場所に一人足を向けている。
「あれ?扉が開いている」
いつもは鍵がかかっていて、教師からも強く出入りをしてはいけない場所だと知らされている。が、風太は開け放たれた扉の向こうから生温い外気が流れてきているのに気付き、注意されていることも忘れ、屋上に足を踏み出していた。
曇り空の下、自分が住んでいる街並みの広がりの中に、識神の社の桜は遠くからでもその存在を誇示しているように淡い紅色を添えている。風太は思わず、転落防止用の錆びた金網を力強く握った。
「やはり、お前はあの桜が嫌いなようだな」
後ろからいきなり声をかけられた風太は思わず声を上げて驚いた。
すぐに振り返ると、古い着物を纏った髪の長い青年が微笑みながら風太を見ていた。頭には鷹の羽のような大きな髪飾りが風にゆらゆらとなびいている。
「誰?先生じゃないよね」
「あいにく……いかに感じるか風太よ……この街は荒ぶる神によって既に呪われた」
「何で僕の名前を?」
「お前ならわかるはずだ。この空気のよどみを、血の涙に沈む怨念を、そして、これからの自分の行く末を」
つかつかと歩み寄った青年は、ある方向を指さした。それは、昨日からテレビを騒がしている地下鉄の事件のあった場所であった。
「闇の宴にて共に舞おうぞ、雪代風太」
「えっ」
青年の姿は一瞬のうちに消え、狐につままれたような顔をした風太だけを残し、桜の花びらが一枚風に乗って空に舞い上がっていった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが無情に鳴った。
(七)
「科捜研の連中も総動員で動き出したっていうじゃないですか」
埼玉県警捜査第一課の吉村の若い顔は強ばった。この地下鉄京北線の現場に足を踏み入れた時、充満する血と肉の腐敗した匂いに思わずハンカチで鼻を押さえた程であった。
「うちの鑑識課だけじゃ、心もとないってことだろうよ。まぁ、ただの事故っていう訳じゃなさそうだしな。電源の復旧はまだか?」
「さっきの連絡ではまだ時間がかかるようです、原因がわからないみたいですね」
「真っ昼間から暗闇の捜索か」
多くの事件現場を見てきた司馬刑事も自分の予想と多くかけ離れていたこの惨状には、ため息を漏らすことしかできなかった。司馬は組んでいた腕をとくと、写真を撮っている鑑識課の男に二、三、撮影する方向を指示した。
「司馬さん、これってやっぱり新手のテロでしょうか」
「さぁな。おっとそこにまだホトケさんの腕が転がっているぞ、踏むんじゃねぇぞ」
吉村は慌てて立っている場所から飛ぶように後ろに下がった。
「わかっていることは、この事件が今までの俺たちの仕事の枠をえらいはみ出しているってことぐらいだ」
老若男女の乗客の遺体は、まるで爆死したように肉片と骨片を暗いトンネルの中に散らしていた。血糊で固まった髪の毛がコンクリートの壁にへばり付いたままになっているのを見て、司馬は、飛んできた方向を慎重に推測していた。部下の吉村の携帯電話が鳴ったが、彼は先程から自分の足下にばかり気にしているようであった。
「ムラ(吉村)、電話鳴ってんぞ」
「あっ、すいません。柳田さんからだ。何だろ」
吉村は、冷や汗をかいた自分の額を背広の袖でぬぐうと、すぐに携帯を耳に当てた。
「吉村です。ええ、司馬さんもそばにいます。まるでどっかの戦場に迷い込んだみたいですよ。いや冗談じゃありません。はい、えっ?三人ですか、困ったな。あっ、ちょっと待って下さい」
吉村は携帯の話口を親指でおさえ、司馬に吉川から来た電話の内容を手短に告げた。
「こっちで何とかすると柳田に言っておけ」
「わかりました」
現場の二駅前からマスコミ関係者が徒歩で侵入したようだとの情報であった。
「連中、仕事増やしやがって」
司馬は吐き捨てるようにそう言って、白髪交じりの頭をかきながら、彼らの来る方向であるトンネルの奥を見つめた。季節外れの広葉樹の枯れ葉が、線路上に数枚散らばっていることに、まもなく定年を迎えようとする司馬刑事は、まだ気付いていなかった。
(八)
「ちょっ、やばくないっすか」
ポータブルカメラを持った男は、先を歩くディレクターの男に不安そうに尋ねた。
「かまうもんか。道に迷ったとでも言っておきゃいいんだよ、上からの催促もうるせぇしな。上手く撮れりゃもうけもんだ。うちみたいな弱小下請け会社は、命を削ってなんぼのもんだ」
懐中電灯を手にした男は、その問いに振り返りもせず歩きながら答えた。
「それにしても、一帯がこれだけの長い時間封鎖されてること自体が不思議っすね」
「サツ(警察)は行方不明者を捜索中って言っていやがるが、ほとんど死んじまってるみたいだぜ」
音声マイクを持っていた男も会話に加わることで、言いようのない不安を打ち払おうとしていた。
三人の急ぐ足音が暗いトンネル内にこだました。次第に、その足音に奇妙な音が重なり始めた。
「誰かついてきてるんじゃないか」
最初に気付いたのは音声の眼鏡をかけた若い男であった。
「サツの連中にばれたかな、現場までこのまま行っちまうぞ」
ピタピタと水の付いたビニールの布が地面を叩くような音が徐々に辺りから増え、大きくなっていった。
「何すか!この音!何か近付いている!」
カメラマンの男の声に先頭を進む男は、立ち止まり音のする方向に懐中電灯の明かりを向けた。
「臆病だぞ、何も聞こえて……う、うわぁ、何だこいつらは!」
(九)
男達の断末魔の声が捜索を始めたばかりの司馬と吉村の耳に飛び込んできた。
「悲鳴です!」
「聞こえている、ムラ、本部に連絡しとけ、至急応援の要請もだ」
「あっ、司馬さん、待って下さいよ!」
司馬刑事は、吉村刑事を残してさらにトンネルの奥へと足を進めていった。
あれから男達の声はしない。
「どこだ、どこにいる!」
緊張する司馬の目に、湿ったコンクリートの線路脇に寝転がった姿勢の男の姿が映った。側に近寄って確認するまでもなく、既にこときれているのは明らかであった。ズタズタに引き裂かれた服の間から覗く白い骨と赤い肉塊、引きはがされ髪の付着したままの頭皮だけがかろうじて人の痕跡を残していた。
司馬は軽いめまいを覚え、刑事として恥ずかしいとは感じながらも片手を非常灯の灯る壁に手をついた。
(十)
傘を差す程でもない雨が、アスファルトの上をほんのうっすらと濡らしている。午後からの授業が突然中止となったため、市内全ての学校の児童は一斉に下校することとなった。子供たちの喜んだ表情と相対するように、通学路の途中途中の交差点には、教師や警察官らがこわばった表情で立っている。ヘリコプターの飛ぶ音やサイレンが昼過ぎからにわかに増え、眠っていた街を起こす目覚まし時計のコールのような感じを風太は受けた。
市の広報車が市民に外出を控える放送を流しながら、歩道の横をゆっくりと通り過ぎていく。その後ろから何のお構いもなくクラクションを長く鳴らしてトラックが追い抜いていくのが見えた。
「絶対、地下鉄の事件だぜ。やっぱりただの脱線事故じゃなかったんだ、見に行きてぇな」
「やめとけよ、捕まっちゃうぞ」
「お巡りさん、ここに逮捕されたい人がいまぁす」
子供たちの好奇心はとどまることを知らないが、しかし、風太はずっと屋上で出会った青年の幻を心のどこかで気にしつつ、低く垂れ込めた雲の下を何度も旋回しながら飛ぶヘリを見つめていた。
「なぁ、何か変な音が聞こえないか」
「変な音?えっ?あっ本当だ。何だろう」
「どこから聞こえるのかな」
前や後ろを歩いていた子供たちも、その音に興味をそそられたように辺りをきょろきょろと見回している。
「ほら、何やってんだ。寄り道しないで早く帰りなさい」
傍らで見ていた男性教諭が子供たちの会話をさえぎるように荒々しい声で注意をした。
「先生、聞こえないんですか、この面白い音」
「こんな時にふざけるんじゃない、音なんて聞こえないぞ」
教師は子供の答えに憤り、眉と眉の間をしかめた。
「僕も聞こえるよ。何かいっぱい小さい子がいる感じ」
「私も……ほら……何だろう」
普段から真面目で嘘を付くとは思えないような子まで、一様にその音が聞こえることについて同意していた。教師の顔に驚きの色がはっきりと浮かんだ。
「あっ、ここからだ!ここから聞こえてくるよ」
「本当だ。ここからだ。変なのぉ」
「でも、声がすぐに変わるよ、面白いね」
「ほら、根っこからの方が大きく聞こえる」
子供たちが指し示した所は街路樹の幹であった。大人達の薄気味悪そうな表情を無視し、一年生や二年生の子供たちは嬉しそうにスキップしながら、彼らだけに聞こえてくる音と戯れた。
風太にもその音が聞こえていた。
断続的に聞こえてくる心臓の鼓動のようなリズムの繰り返し。時に弦楽器の奏でるピチカート、時に金管楽器の鳴らすスタッカートと、幼児の集団のような歌声がくるくると目まぐるしく変化していた。
「気持ち悪い……」
奇妙な歌声に対し、風太は他の子供達と異なり、たいへん不快な気持ちを抱いた。
「わぁ!呼んでるよ!行ってみよう!」
「すぐに集まれって!何かくれるかもよ」
「呼んでるよ、呼んでるよ」
子供たちがランドセルを揺らしながら、大人を突き飛ばすようにして、一斉に勢いよく同じ方向に向かって走り出した。
「こら、どこに行くんだ!」
「先生も行こうよ」
「向こうの子達が呼んでいるよ」
子供たちの目は既に正気を失っていた。
風太はぶるっと身体を小さく震わせた。それは自分の同級生達の目が、父の目とあまりにもだぶっていたからである。
「みんな……おかしい……」
「だめだ、しっかりして、どうしたんだよ」
風太は友達を何とか止めようと前に回って説得をしたが、皆聞く者もなくぶつぶつと歌いながら駅の方へ向かっていった。
「おかしい……みんな変だよ!」
結果的に風太も引きずられるようにじりじりとその場所に近付いている。
にわかに深い霧が街を覆っていった。
規制線の張られた周囲には警察や機動隊らが、一般人が立ち入りをしないよう、厳しく監視にあたっていた。その規制線を乗り越えようとする無言の一群があらわれた。それはランドセルを背負った子供らであった。
「だめだ、だめだ、ここに子供が来ちゃ!」
追い返そうとした警官の腕を掴み、男児は彼の指を口の中に入れ、歯に力を込めた。
「ぎゃっ」
あまりの痛みに我慢しきれず、警官は男児を振り払った。頭からアスファルトに頭をぶつけた男児は、血が流れ出る痛さにも気が付かない風でにやにやと笑い。ぷっと口から警官の小指を吐きだした。もみ合う人の間をすり抜け、子供が各所から地下鉄駅への階段を目指していく。野次馬も増え、現場は騒然とした雰囲気に包まれた。
テレビカメラを抱えたスタッフらは、何とか良い画像をものにしようと、押し寄せる子供達の混乱に乗じて規制線を乗り越えていった。そして、異様な表情をした子供の行動を止めることもせず、ただあおるように、その中に入って金切り声を上げながら中継を続けた。
既に幾人かの子供が地下構内へ向かって階段を駆け下りていった。
「そこに入るな、放送やめろ!」
「一体何があったのでしょうか、視聴者の皆様やスタジオやの皆様、ご覧いただけますでしょうか、至る所で警官と子供達との小競り合いが続いています。あっ、今、何人かの子供達が、地面に押さえられています!ねぇ僕、ちょっと話を聞いてもいい?」
スマートフォンでその様子を撮影していた若者達は、自分の写した画像を見せ合いながら笑っていた。
この状況を中継で見ていた警察上層部はようやく重い腰を上げ、現場に対し緊急報道規制を敷いた。
(十一)
現場から少し離れた校門の前でも、風太と同じように友達の強い誘いを断っている少女がいた。
「いや、私は行かない」
「なずなちゃん、楽しそうだよ。ほら、また呼んでる」
「そうよ、どうして行かないの、早く行かないと乗れないよ」
少女達は、なずなの手をぐいぐいと引っ張っていく。
「だめ、怖いの、この歌声、とても怖いの!」
なずなは、今すぐにでも自分の両耳を塞ぎたかったが、少女達は笑い声を上げてはしゃぎまくっている。
「いや、痛い、もう離してよ!」
なずなは思いっきり少女の手を振り払い、児童玄関の方へ逃げるように走っていった。
「なずなちゃん、もう、仲間に入れてあげないよ」
「言いつけちゃうから、向こうの子達に……」
残された少女達は校舎に背を向け、スキップしながら駆けていった。
泣きじゃくるなずなの報告を聞いた教師達は、すぐに駅へ向かって走っていた。
(十二)
サイレンの音が四方からぶつかり合う校舎の屋上に、風太が以前に出会った青年と少女が立っていた。青年と同じ古めかしい白い色の着物を着た少女は、金網によりかかりながら言った。
「ねぇ、小次郎。あの子達どうなるのかな。自分勝手な子が多いみたいだし、助けるのなんてやめちゃえば?」
年の頃は十歳くらいの少女の顔はおだやかながらいたずらっ子のように目を輝かせていた。
「笑止」
「嘘よ、嘘、風の兄様が気付けば一人でも絶対に大丈夫だしね」
「いかる、お前は昨日まで愛しの風太が一人なら心配だと言っていなかったか。それに風太はまだ……」
「いかる」と名を呼ばれた少女はぎくりとし、顔を真っ赤にしながら、横に立つ小次郎の足を思いっきり踏んだ。
「痛っ、だから幼子の言うことはわからぬ」
「う、うるさい」
「お前は、あのもう一人の娘が奴らの歌に踊らされないのも気になるのだろう」
なずなは、友達の手をふりほどいて震えながら校舎の中で泣いている。
「それは気になる……あの子も……」
「あの娘も運命の落とし子なり……」
その時、報道用のヘリが二人の頭上を過ぎていった。その中では若いアナウンサーが興奮気味で地下鉄事故現場の様子を実況している。
「この人達も踊らされているのかな」
「魔は人の恐怖や快感を喰うもの、甘い蜜の如く人心の奥底から絞り出す」
「もう、こんな汚い世界、いっそのことなくなっちゃえばいいのに……そう思っちゃいけないのかな」
「清い水だけでは生ある者にとってつらいもの。それは、いかる。お前が一番知っているのではないか?」
「わかってる、わかってるって。でも汚いよ、この世の人の心、こんなことなら私、まだ眠っていたかったな……ああ、考えているのも面倒くさくなってきたぁ、小次郎、もう早く始末しちゃおうよ」
「しばし……奴の出方がまだわからぬ……だが直に動く……」
「あーあ、また偉そうに。このおじさんは」
「私はおじさんではない」
いかるの艶のある黒髪が、彼女の笑う動きに合わせ風に小さく揺れた。
「霧だ……」
「来たの?」
緊張するいかるの横で小次郎は腕を組んだまま、土から湧き出す白い霧にじっと目を据えていた。
絹のように白い霧が街の家々や人々をどん欲に飲み込んでいく。
「小次郎!」
いかるが声を上げた。
「時、動きし……風太よ、お前がどちらにつくか見定めさせてもらう」
小次郎はそう言うとふわりと空に浮かんだ。
「あっ、待ってよ」
いかるも風に乗るようにあわてて空へかけ飛んだ。
(十三)
「司馬さん、何か上が騒がしくないですか」
「野次馬共の規制も張れんのか。他県からの要請の数をけちりやがるからだ」
奇しくも第一発見者となった司馬刑事は、署員の応援を得つつ、事件現場に残る証拠を探そうと疲れた神経をごまかしながらその任にあたっていた。
「鬼の第四隊をこんなに早く現場につっこんだだけでも凄いですよ。今回の県警の動きは」
機動隊は既に捜索の済んでいない西部地区に突入しようとしている。
「こういう時、一番とち狂うのは一般人だ。報道も規制しないでそのまま垂れ流ししてりゃ、集まり騒ぐのは目に見えてる。ムラ、お前も手を休めてないで、毛の一本でも早く見付けやがれ」
そう言った司馬刑事は一枚の枯れ葉に視線をやった。
「何だ?」
白い手袋をはめた指が、葉脈のきれいに残った一枚の枯れ葉をつまみ上げた。
(十四)
警視庁警備部から第四機動隊が地下鉄構内に投入されたのは、吉村刑事からの通報後まもなくのことである。
中隊長が突入指示したと同時に整然と整列しながら、ライオットシールドを手にし、ヘルメットを装着した隊員達がそれぞれのルートに分かれ地下鉄構内へと足を踏み入れていった。隊員は警棒の他に緊急特別用の自動拳銃も携帯している。このような重装備で現場へと突入したことは誰もが経験をしたことのない事態であった。
「動物園から逃げ出した猛獣でもいるんじゃないか」
一人の隊員のつぶやきに答える者は誰もいない。
午後二時、地下鉄構内はもちろんのこと、隣接した街まで地下街に通じる通路は全て閉鎖され文字通り地下は暗闇に包まれた。
「こんな真っ暗な所で羆とご対面なんて勘弁して欲しいぜ」
「もう、排水溝を伝って下水管に逃亡している可能性はないのか」
機動隊員はいくつかの分隊に分かれ、わずかな明かりを頼りにトンネルの中を探り続けた。しかし、一向としてその手がかりを掴むことはできなかった。小さな暗がりの中に動物もしくはその群れが潜んでいるという予想が外れているのではないかと疑いをもつ隊員もでてきた。
遠くから空気の隙間をぬって、強い風のような音が聞こえてくる。
「車両の動く音?まさか、全て止まっているはずだが……電源が回復したのか?すぐに音の確認急げ」
分隊長の命令で隊員が本部に連絡をとる間もその音は大きくなっていった。
「分隊長……私たちは何を……」
ライトを手にしていた隊員達は口をあんぐりと開けたまま、目の前の光景をただ見つめることしかできなかった。
青白く透き通った車両に無表情の社会人や学生が乗っている。窓ガラスは破れ、血の手形が紅葉の葉のようにジュラルミンの車体に付けられていた。そしてその先を、無数の鬼火が死の国に先導していくかのように舞い飛んでいる。
隊員のヘルメットのスクリーンにもその不気味な影がゆがんで映った。
「誰だ。こんなことをする奴は!」
分隊長はこのありえない光景にこらえきれず大きな声で叫んだ。乗客達は寂しそうに横目で、冷や汗を流している分隊長や機動隊員の顔を流し見た。
「うっ、うわっ!」
一人の機動隊員が、もがきながら後ろに大きくのけぞった。携行していた照明灯が、冷たい地面に大きな音をたてて転がっていく。
「どうした!ぐっ、ぐぇぉ」
駆け寄るもう一人の隊員の首筋に吸盤のついたぬめぬめとした指が、まるでイソギンチャクの触手のようにゆっくりとからんでいった。
隊員の短い叫び声が辺りにこだました。
「こちら、第二分隊渋澤、非常事態!」
「どうした、何だ、何があった」
返答を促す早口の声がイヤホンから漏れている。
その横で分隊長の右耳が湿った音をたて自分の靴の上へ落ちた。
(十五)
地下鉄の駅へと下りる出入り口周辺の道路には主に捨てられたランドセルがいくつも転がっている。
「お迎えが来た、お迎えが来た」
そう口々に言いながら大人達の間をすり抜けることができた子供は、地下の暗闇の中に続く階段を降りていった。
「出入り口シャッターを何で閉めないんだ!」
「まだ電気関係復旧していません」
「子供たちの確保を優先」
駅の構内では、警官に腕をつかまれた子供の一人が、目をらんらんと輝かし、網に捕らえられた魚のように跳ね飛んでは、ホームに転がることを繰り返した。
「乗り遅れちゃうよ。離してよ!」
事態にとまどう警察と駅職員、そして狂ったようにはしゃぐ子供達しかいない駅のホームにオルゴールの柔らかい音色が響いた。続けて蛍光灯が細かく明滅しはじめ、女性の声でアナウンスがぶつぶつとノイズを交えながら流れ出した。
「マモナク二番線ニ上リ列車ガマイリマス。白線ノ内側マデオサガリクダサイ」
今まで検証に立ち会っていた地下鉄関係者らは驚き、駅員室に飛び込むと、慌てて放送機器のスイッチを切ろうとした。だが、機器に通電されている様子もなくメインスイッチはオフの位置のままであった。
「スイッチが入っていません!」
緊張した駅員の言葉が聞こえたと同時に、懐中電灯をはじめとしたホーム内の光が全て消え、辺りは自分の手も見えないほどの黒色の世界に変貌した。
奥で現場検証している司馬や吉村もまた同じ暗闇の中にいた。他の警察関係者全ても、次々と起こるトラブルに辟易していた。
「ありゃ?司馬さん、懐中電灯壊れてしまいました、接触かなぁ、電池変えたばっかなんだけどなぁ?」
「うるせぇ、慌てんな、まだ予備があるだろうに。しっかし、バッテリー付の誘導灯まで消えてるなんてな。点検ミスか……」
司馬が自分の背広の内ポケットからオイルライターを取り出し火を着けた。オレンジ色のゆらめく光が血だらけの現場を余計に彩った。
光の隅に飛ぶように動く小動物の影がいくつも横切った。
「ムラ!右だ。そこら辺に何かいやがる」
「えっ」
吉村は辺りの影が激しく弾き合っているように見えたが、近寄ってみると、そこに何かがいる気配はなかった。光のゆらめきがそう見えるのだと吉村は自分で判断した。
「何もいませんが……」
乾いた拳銃の音が構内のどこからか断続的に聞こえてきた。鑑識官らも作業を再開したばかりの手を止め、音のする方向へ耳をすました。
「発砲音?」
「反響して、どこから聞こえているのかわからないな」
「すぐに行くぞ」
「えっと、どっちに?」
「馬鹿野郎、ムラ、お前聞き逃しやがったな、こっちだ」
暗闇の中を走り出した司馬の背中を見て、吉村もあわててついていく。
「司馬さん、この構内は、どうなってるんすか?」
「どうも何も、趣味の悪さでは間違いなく日本一の見せ物小屋だ」
司馬の苦り切った顔に汗が流れた。
(十六)
救急車のサイレンが、騒がしい街中をさらにあおり立てる。
風太の目の前で同級生は意味不明の言葉を叫びながら、警察官に羽交い締めにされ、引きずられていった。
(風太、やはり来てくれたのだな。)
友達の奇行を止めることもできずに困る風太を呼ぶ声がどこからか聞こえた。屋上で出会った青年の声ではなく、懐かしく心暖まる声。
(誰?)
風太は誰かが自分を見ていると感じた。
広い車道の向こうに陽炎のようにゆらぐ父親の姿が見えた。父は風太と視線が合うと、一回だけ左手で手招きをした後、口に軽い笑みを浮かべながら風太のいる位置とはちょうど反対側の地下鉄ホームへの入り口を降りていった。
「お父さん!」
風太は自分の鞄を放り、車道を横断し、警察官の脇をすり抜けるようにして入り口に向かって全力で駆けた。なぜか、子供達を制している警官は風太の行動に少しも気を留めず、他の子供たちの保護を続けている。
「小次郎!聞こえた?やっぱり風の兄様が呼ばれたよ」
空に浮かぶいかるが甲高い声で叫んだ。
「まいるぞ!」
小次郎は、道路上に降り立つと地下への階段に向け空中を突進した。警備している警官達にその姿は見えず、彼らにとって風の轟きが行き過ぎただけであった。
(十七)
「また、子供が入った、五、六人はいるぞ、非常電源を付けろ、早くしろ」
警官や職員がもつ懐中電灯の心細い光が重なり、時には離れ、まるで生き物のように動いた。
「何だ、あの火は!」
弱々しい緑青色の灯がホームの左奥へ導くようにゆっくりと手前から伸びていく。ライトをかざすと何もないが、光点をはずすとまたゆらゆらと同じ場所にゆらめいた。
「ひっ」
職員の男はその場に腰を抜かしてずるずると後ろに下がりはじめる。
そこに存在する灯の一つ一つは苦しみにゆがむ老若男女の人間の顔であった。
右の奥から車輪をきしませながら動いているはずのない車両がホームにゆっくりとブレーキ音をたてながら侵入してきた。
「いやだ、俺は出るぞ。こんなところ!」
涙混じりの叫び声をあげながら、這いつくばって職員らが出口の方へ逃げていった。残った職員は暗闇の何もできないままホームで立ち尽くしている。その先頭を逃げる職員の頭上に広葉樹の枯れ葉が雨のように降り注いだ。
「枯れ葉……」
ゆっくり天井を見上げると長い毛の生えた小さな猿のような生き物が、隙間無くびっしりと蠢いていた。そして待ち構えていた山蛭のようにぼたぼたと落ちると職員の肌に音を立てて吸い付いた。
「ぎゃぁ!」
警官も拳銃で応戦するが、発砲による光が暗闇の中で自分の場所を知らせる結果となった。
(十八)
地下鉄の線路内に水が轟々と音を立てて流れ、水面がホームと同じ高さになるまでほんのわずかな時間で満たされていく。狭い地下鉄構内の空間が膨張し、それに呼応するかのように鬼火に包まれたアルミ車両が水の上に浮かぶ木造の和船に変貌した。
(幾多の子らの怨み忘れまじ)
船上に幽鬼のような白い顔をした風太の父の姿があった。その姿に気付いた小さな生き物達は嬉しそうにバシャバシャと水音を立てながら飛び跳ねだした。
「お父さん!」
父の姿を見た風太は絶叫した。
「自分の今の姿を知らぬまま、現世にさまよう子……」
優しかった父の目に蛇のような異様な光がたたえられた。
「お父さん……何言ってるんだよ」
「こちらへ来やれ、そして、この子らの深き怨みを晴らそうぞ」
頭にまげをゆった子供の首がころころと転がってきた。両の目のある場所がぽかりと空き、そこから白い蛆が何匹もせわしなさそうに這い出てきている。
「あな楽しき所、こちらに来やれ」
首だけの子供はそう言って鬼火をたずさえ、ぶんぶんと唸りを上げて風太の周りを飛んだ。血と脂の匂いが風太の鼻孔の奥を刺激した。
「笑止!」
後ろから走り出た小次郎がその子供の首を刀で両断した。子供の首は落ち葉の塊になってホームの床に四散した。
「あっ!」
驚く風太の後ろにいかるが軽やかな動きで近付き寄り添った。
「風の兄様、私のこと覚えている?ってわかる訳ないか……ここから動いちゃだめだよ。あいつはととさまの姿を借りているだけなの、あいつはね兄様を依り代にしたいんだ、そして兄様の力を……」
「何でお父さんが」
「今は私たちを信じるか、写し身のととさまの言うことを信じるか。私たちにそれは決められないの」
風太の目が小次郎と父の姿に据えられた。
小次郎の光の露をたたえた刀がまとわりつく鬼火を次々と切っていく。
「魔の者よ、その姿を見せし時、この式神小次郎待っていたぞ」
「汝……我を玉に封印し者の遣いか……こ奴と共に眠りし時、長かったぞ」
「木々は風により自ずの生の場を広げ、風により葉を落とす、ゆえに風により封印す」
父の姿を借りた者は厳しい目を小次郎に向けた後、別人のような切なそうな目と口調で風太に懇願した。
「さぁ、黄泉の船に乗りて力を我に、お前の母も常世で喜ぶ」
父は、小次郎の刀を避けながら血に染まった船の縁まで近付き、風太に手を差し伸べた。
「お父さん!待って」
風太は惹かれるように、ゆっくりと船の方へ歩き出した。
「あっ!」
小さな猿のような生き物がいかるの着物の裾をするするとつたってきた。その動きに気が付いたいかるは、短刀をその生き物ののど笛に深々と突き立てると、小さな枯れ葉がはじけるように散った。
「小次郎!風の兄様行っちゃうよ!」
「ちっ!」
小次郎は舞うように異形の者を切り裂きながら、父の立つ場所へ向け地を蹴った。
「風太、思い出せ。誰のことか、誰の姿なりしか!そして、お前の!」
小次郎の清らかな声すらも闇はどん欲に飲み尽くす。
冷え切った空気と生温かい妖気が混在し、河の水の如く流れ出した霧がそこにいる者達全ての足下と犠牲者の遺体を覆い隠した。
(十九)
竹の箸の先から白い骨片がこぼれ、ゆっくりと床に落ちた。
周囲の人の声で騒がしいはずなのだが、風太には針を落としたような小さく乾いた音がとてもよく聞こえた。
(お父さんは死んだ……)
包丁を手にした醜い顔の父が血に染まった居間で笑っているのが見えた。
(お母さんも殺された……)
最後まで開けることのできなかった扉の向こうでは、母親の首が観葉植物の鉢に植えられていた。足を引きずるように歩いてきた父親は、包丁をショックで動けない風太の頭上へ大きく振るう。刃の先は風太の首の奥深くまで刺さり、頸動脈から吹き出た血が天井に赤く散った。
(そして……僕も殺されたんだ……)
記憶の中の母親が小さかった頃の自分を抱き上げ頬ずりをした。
自分のとても幸せだった時の思い出にかぶるように母親の歌っている子守歌が何回も耳の奥で繰り返される。警察署の霊安室に眠る風太の青白く固くなった身体を祖母は泣きながら何度もなでている。
(あの時、落ちたのは僕自身の……骨……)
夕焼けの庭で黄色いくちばしをもつ小さな鳥が、輝く紺色の風切り羽を力強くはばたかせた。
(僕はもうそこにいなかったんだ)
白い花を活けた花瓶だけがのる教室の風太の机、誰もいない校舎の屋上、うつむきながら歩く少女が振り向くと風だけが静かに通り過ぎていく幻。
(この世界は……何……ここにいる僕は……)
(二十)
「わぁい、宝船だ!」
「お迎えだ、お迎えが来たんだよ!」
柵をくぐり抜け、駅に下りてきたばかりの子供たちは、これから遠足にでもいくように浮かれ、はしゃぎながら、見えない渡り板をたどって船へと足を踏み入れていく。
「我が為すことのつかいとなるか、現世のかわいい幼子達よ」
父の姿を模した者が手招きしていた掌を静かに上に向け、安堵を促すように自身の胸にあてた。そして、静かに呆然とする風太に声をかけた。
「我の傍らにて、幾百年も我を封印せし者よ、我の血となって滲み出た思い十分知ったことであろう、されば我と共に逝かん」
(僕は……)
風太の身体から黄砂混じりのつむじ風がたちのぼり、辺りの霧を急激に吸い込み渦潮のように回転させていった。
(僕は……)
風太の身体が光を帯びていく。
「小次郎、風の兄様が!」
「いかる!その渦に呑まれるな!」
「あっ!」
小次郎の言葉を聞き、急に思い出したようにいかるの姿は光となって空中に消えた。職員の遺体や枯葉、血の滴までもが徐々に暴風の渦の中へ呑まれていった。
「目覚めるか、風太、我らと同じ魔を葬りし役目を授かる者として、その為に自分をも欺く者として。もしくは、我の切るべき魔の者として」
小次郎の黒く長い髪が風に流されていく。
(あれはお父さん……違う……僕を殺した奴……そして僕が封じていた……)
「凶神でありながら、その運命に逆らうとは愚かなり。それにしても惜しや、この霧風の力……」
風太の父の姿を借りた者は顔色一つ変えず、その場から動かない風太の様子を見ながらつぶやき船の中央に戻った。船に乗る子供や小さな生き物達は、風太の父を守るように近付き、手を取り身体を重ね合わせていく。
「逃げるか」
小次郎は持っていた太刀を投げようとしたが、樹木にへばりつく蝉のような子供達の姿に躊躇した。
逆巻く風の渦が子供らであふれんばかりに一杯となった船を覆い尽くしていく。
「待て、風太!子供がいる」
小次郎の呼ぶ声に光に包まれた風太がぴくりと反応した。
風の勢いが急に衰える中、父親の笑い声が鬼火の灯る構内に響いた。
「また、会いまみえようぞ、小次郎とやら……時満つまでお前にその凶神を預けておく。いずれ我が闇の衣にて貴様達、いやこの現世全てを覆うなり」
「逃げるか!」
「ふふふ……くだらぬ、我にその言葉の値なし。古よりの復讐、今この時よりかなえよう」
ドンという衝撃音が辺りの像を大きくぶれさせた。
「逃げたか……」
不快な騒がしさが嘘のように静まる。黒い空間が和船と共に消失し、蛍光灯に電気が走った。白く照らし出された地下鉄駅の構内には、小次郎と風太だけが立っていた。小さな光の玉が小次郎の髪の中から現れた瞬間、心配顔のいかるがもう風太の顔を覗き込んでいた。
「ねぇ、僕って誰なの。僕はもう死んでいるの?」
光の衣が消えた風太が悲しそうに小次郎の瞳を見つめた。
(二十一)
「停電が復旧したぞ、やりましたね、司馬さん」
「やりましたじゃねぇだろ、お前自分の目ん玉でそこよくみろ」
「うわっ」
誘導灯がぼんやりと緑色に光り鉄の線路をにぶく照らした。その先に、銃声の主と思われる機動隊員らが壁にもたれたままこと切れていた。
司馬は足元から「カサリ」と乾いた音がしたことに気付いた。
「ここにも散ってやがる。花見の季節だっていうのによ」
「何すか」
「見てわからねぇか。馬鹿野郎め」
先の現場と同じように、司馬は手袋をはめ、枯葉の一枚を拾い上げるとポケットから取りだしたハンカチの中に慎重に包んだ。
その日、事件に見舞われたこの街に政府の命を受けた自衛隊が投入され、被害者の救援活動が行われた。しかし、その死傷者は警察関係者だけで二十名、行方不明者も合わせると子供も入れ四十九名にも及んだ。
各国からもこの出来事に対し、大規模な調査団が組まれ大挙来日、マスコミ関係者も加わり現地周辺地域の宿泊施設は予想しない特需に恵まれた。事故現場及びその周辺には夜間外出禁止の方針が打ち出されたが、このようなことに慣れていない人々はその不便さを口に表し、政府の対応を無責任に批判した。野党の一部からは人権侵害という声さえもあがり、その法令も数日のうちに有名無実と化した。官房長官の記者会見はもちろんのこと、警察関係者も今回の前代未聞の惨事に対し、希望の感じられるコメントは一切発せられことはなかった。
おどろおどろしいBGMと低音のナレータ付きの、あたかも娯楽番組のように連日流されるその無意味な報道だけが、国民の中に徐々に浸透し人々の不安感をより一層濃縮させていく。老いによる死を意識するにはほど遠い若者達の一部は興奮し、次に起こる事件を今か今かと心待ちにしていた。
人々の日常は明らかに「厄」の時に入った。
(二十二)
「風太、いつまで寝てるの、学校に遅れるよ、いかるちゃんも迎えに来ているし、もう、おばあちゃん知らないからね」
祖母の大きな声が廊下から風太の部屋に響いた。
のそのそと起きた風太が枕元の目覚まし時計を見ると、針はもう午前八時を回っている。
「いけね」
風太は寝癖をそのままにシャツに着替え、鞄をもって玄関に走り出た。
「朝ご飯は」
「おばあちゃん、ごめん!」
「待ちなさい、お腹すくよ!」
玄関のガラスの引き戸を開けると、赤いランドセルを背負った年下の少女が怒った顔をして立っていた。
「遅いよ、兄様、学校に遅刻しちゃうよ」
「ごめん!」
祖母が玄関前に出てきた時、既に二人の姿は道の向こうに小さくなっていた。
「もう……」
祖母が人の気配に気付きゆっくりと振り向くと、紺色のスーツに身を包んだ小次郎が笑っている。
「おはようございます」
「あら、鵠さん、恥ずかしいところを見せてしまって」
祖母はあらたまって向き直ると、丁寧な会釈をした。
「いや、うちの『いかる』も年の近い兄ができたようでとても喜んでいます。私とは年が離れているから」
「こちらこそ、空き家だった隣に越してこられたお陰で安心だし、何よりも風太が喜んでいますよ……あのぅ……ところで……風太のこと何か聞いていますか」
「いえ、私たちも越してきたばかりですし、何も」
小次郎は祖母の不安を打ち消すようにつくり笑顔を見せた。
「私も風太君のような良い子が妹の友達になってくれて感謝していますよ」
そう言いながら腕時計を見た。
「すいません、私も遅刻してしまいそうなので、では失礼します」
少し不安がとけた表情の祖母に小次郎は礼儀正しく礼をし、その場を後にした。
警戒中のパトロールカーが、祖母の家の前をまた通り過ぎていった。
(二十三)
風太といかるが、息を切らせて児童玄関に飛び込んだ途端、玄関の施錠を知らせるチャイムが鳴った。ぎりぎりで登校してきた他の子供たちも息をはずませながらもほっとしている。
「セーフ!」
「いかる、もっと早く走れただろ」
「そんなこと言うなら、もう迎えになんか行かないよ!」
いかるは風太にしかめ面を見せ、かわいく舌を出した。
「みんな、もう少し早く来なさい。昨日も遅かったわよ」
目の前の賞状やトロフィーが飾られたガラスケースの前で、生徒指導の教師が大きな声で注意をした。その横で生活係の少女が遅れてきた子供らの名前にチェックを入れている。
(この子……あの時に踊らされなかった子だ……)
正気を失った子の中で唯一正気を失っていなかった少女。いかるはそう思いながらも、少女の持っているカードを覗き込み、わざとらしく悲惨な声を上げた。
「えっ、もしかして遅刻イエローマークついちゃった?ああっ、風の兄様のせいだからね!」
「何で?」
「だって、兄様が遅いからじゃない!」
「遅いいかるにスピード合わせたからじゃないか」
「もっと早く起きればいいのに!」
二人は、他の遅刻した子供や、なずなの前で大声でそれぞれの言い分をののしりあった。
「さぁ、みんな、早く教室に急いで!何してんの!」
「あの……先生」
「どうしたの川辺さん」
女性教師はなずなの方を見て聞いた。
「もう、朝の会議はじまっちゃいますよ」
「あら、すぐに戻らないと!川辺さん、後でチェック票を持ってきてね」
そう言い残して教師はあわてて校舎二階の職員室へ階段を駆け上っていった。
「君、えぇと、何て名前だっけ」
「私?川辺……川辺なずな……だけど」
「ありがとう、川辺、助かったぜ。俺、雪代風太」
「お姉ちゃん、ありがとう!私、鵠いかる!」
なずなは二人の言葉に顔を赤くして照れた。
「ついでにその遅刻マーク消してくれたら嬉しいのに」
「それは……駄目」
「兄様、調子にのるな!」
薄暗い児童玄関に三人の明るい笑い声が響いた。児童玄関前には警備員が二名緊張した顔で校外に目を向けている。
児童玄関の下駄箱には先の事件で主が行方不明となった上靴が整然と並べられ帰りを待っている。その数はこの学校に通う子供たちの一割を占めた。
風太といかるの欄にチェックを入れようとしたなずなは、二人の氏名欄がないことに気付いた。
「先生、チェック票を間違えている」
顔を上げると、二人はもう階段の方に行ったのか、姿は見えなくなっていた。
(二十四)
まるで養鶏所のケージである。二十名程の捜査官や刑事が身動きもできず座っている埼玉県警捜査第一課の会議室は、煙草の煙で部屋の中が霞んでいた。ここでは、禁煙も嫌煙もはるか次元の違う言葉で、昭和時代の香りが充満する場所であった。
「桜の葉?それが何で芋が焼けるほど地下にあるんだ」
司馬は鑑識課から上がってきた書類をくどくどと説明する吉村に苛立った。
「えっ、司馬さん、葉っぱで芋焼くんすか」
「馬鹿野郎、俺が言いたいのはもう少し要点をまとめろってことだ。そんなこともいちいちお前に説明しなけりゃならねぇのか」
「あぁ、それですね……それだったら……と、どこまで説明しましたっけ」
二人のかみ合わない会話にもう一人の温和そうな初老の捜査官が口を開いた。
「司馬もそんなにイライラしたって、お前さんの若い頃もこうだったろう」
「柳田、余計なこと言うな」
司馬はむすっとした表情で腕を組んだ。吉村は頭を恥ずかしそうにかきながら、ようやく自分の説明していた場所を見付けると、また、そのまま文書を追って話し出した。
「この桜の葉は、ごく普通に見られるソメイヨシノではなく、エドヒガンと呼ばれる自然種でして、えっと、岐阜県『薄墨桜』など古木に属する物はこれと同じ種類の物が多いと言われているそうでして、例をさらに挙げると、うちの管轄区の『識神桜』も同じ種ですね。そして、今回採取された葉は今年の葉ではないことがわかりました。その乾燥した状況から少なくとも二年以上は立っている模様だそうですけど」
「それなら、犯人はそれをわざわざ冷蔵庫に入れて保管していたとか」
「通風口から入ってきたのがたまっていたんじゃないのかね」
捜査官はそれぞれに思いついた感想を話したが、司馬はどの考え方にも同調することはできなかった。ただ、一箇所「古木」という点が何か心にひっかかっていたが、まだイメージできるほどのものではない。
「新たなガイシャの傷も前の事件と同じ、動物のような物によって付けられたことは間違いありません。しかし、現在、自然に日本で見られる動物には該当するのはありません」
「ペットが逃げ出したということは」
「ありません、動物学者にも確認を依頼したのですが、人間の爪痕に酷似しています。それも幼児の、でもそんなことはまずありえないという返事でしたね」
「消えた子供、幼児の爪痕との酷似、日本に……いや世界にもいない新種の動物か」
一通りの説明を聞いた柳田と呼ばれるこの捜査の責任者は頭を抱えた。
「司馬、お前はどう考える。午後からの記者発表にも関係するんでな」
「わからんが、とりあえず午後から桜の葉について聞き込みたい。清掃事業所、ボランティア、思いつくところ全部だ。ブン屋の連中には、適当に捜査中だと言っておけばいい、わからねぇことを無理にとってつけるとボロがでる。それをあいつらは面白がっているだけだ」
司馬が吸っていたたばこの火を灰皿に押しつけて消した。先にたまっていた吸い殻が灰皿の縁から二本机の上に転がった。
(二十五)
桜の花の散った後の葉が黄緑色に輝き、薫風が街を包む。本来であれば一年の中で最も過ごしやすい季節だが、二人の刑事の足は鉛のように重い。
「まだ、五月だっていうのに今年は暑くなりそうですね」
紺色の背広の上着を左手にかけた吉村は右手のハンカチで顔の汗をぬぐった。
「何でそんなことがわかるんだ」
先ほどの訪問した家での聞き込みの内容を茶色い小さな手帳にメモをしながら、司馬はにべもない返事をした。
二人の歩く先に識神の社に向かう石段が見えてきた。花の季節が終わると、あの賑わいがまるで嘘のようにこの辺りは急に閑散となる。
「ほらよ」
『識神社前』と少し錆びた標識が掲げられたバス停横の自販機で、司馬は缶コーヒーを二本買い、そのうちの一本を吉村に手渡した。
「あっ、すんません、いただきます」
埼玉県警とサイドに大きく書かれたパトカーが赤色灯を回しながら、横目で追う二人の前を通過していく。
「人が少ないっすね」
「みんな、訳のわからない連中に殺されたくないからな」
「通信販売会社の株が上がりそうですね」
「お前、刑事のくせして、そんなのやってるのか」
「冗談、冗談っすよ、家賃払うだけでもつらいのに、できる訳ないじゃないっすか、そんな怖い顔でにらまないで下さいよ」
司馬は吉村の弁解に納得したように、残りのコーヒーをぐいと飲み干した。
「しかし、合同捜査本部から何も指示がきませんね」
「いいか、ムラ、組織っつうのは、でかけりゃでかいほど穴が開きやすい。中にゃ、真実に迫っていても上から圧力がかかって潰されちまうこともある。特に忘れた頃につまらねぇ情報がぽろぽろ出てくるお宮入りの事件は大抵このパターンだ」
「だから、足を使って揺るぎのない確実な情報を集めろってことですね。もう耳にイボができるくらい聞いていますよ」
「便利にして良いのと悪いのがあるってことを頭に叩き込め、俺は三丁目方面をもう一度あたる、お前は自分で決めろ。あと、イボじゃなくてタコだ。このタコ!」
司馬の入れた空き缶がプラスチック製のゴミ箱の底でにぶい音をたてた。
(二十六)
吉村は司馬とは逆の空に向かって伸びる神社の石段に足をかけた。丘というべきたいして高くもない所なので自動車も走ることのできる道がすぐ横にもついているのだが、季節がそうさせたのか何となくその石段を吉村は登りたくなった。
燕が青い空を横切っていく。
かごめ かごめ かごのなかのとりは
いついつでやる よあけのばんに
吉村が石段を登り切ろうとした時、風に乗って境内から子供たちの歌声が聞こえてきた。
「わらべうた……珍しいな、今時こんな遊びをしているなんて」
境内は小さくなだらかな丘の上に広がり、石造りの神明鳥居の奥に石畳の参道が真っ直ぐに続いている。五十メートルほど行った先に摂社を従えた古い本殿と社務所、そして右側に『識神桜』が枝を大きく横に広げていた。
「さっきの歌声は」
鳥居の下に立った吉村は周囲を注意深く見回したが社務所はおろか周囲に人影がなく、参道脇の手水舎からちょろちょろと清水の流れる音だけが聞こえていた。
「空耳だったのかな」
首をかしげる吉村の目に、識神桜と本殿の間の狭い一角にかごめ輪をつくる普段着を身に纏った子供の集団をみとめた。
「何だ、いるんじゃないか」
子供たちはもう誰一人歌っておらず、全員手をつないだまま顔を下に向けている。吉村は一歩一歩近付いていくうち、一つの疑問が頭の中にわいた。
(今日は平日だ……近隣で臨時休校があるとは聞いていない)
石畳みの上を底のすり減った革靴がこすりあって音をたてる。動物的な本能が気持ちを高揚させていることに、吉村自身はまだ気が付いていない。
(こんな人影のない神社で……あの事件の後だぞ、遊ぶ子供なんているのか)
流れ出る冷や汗が吉村の頬をつたう。
「ねぇ、君達」
呼びかけた声に子供たちは反応し一斉に顔を上げ吉村を見た。
「うぉっ!」
吉村は自分が刑事であるということも忘れるほど大きな声を上げた。
彼らの顔のあるべき所に目がなく、ただ、つぶされたようにその部分が赤黒く肉塊が盛り上がっている。アカギレのような口だけは茶色く不揃いの犬歯を覗かせていた。子供たちはきゃあきゃあと奇声を上げながら、小さな摂社の方へ飛び跳ねるようにして走っていった。
「待て、待ちなさい!」
気を取り戻した吉村は持っていた上着を傍らに放り投げ、子供たちの後を追った。風のように走る子供たちはどやどやと足音を立てながら古びた摂社の中に次々と飛び込んでいった。
一番最後に入った子供は開いた扉の格子を持ち、内側に勢いよく音をたてて閉めた。
「待つんだ!」
大人が四人も入れば一杯の狭い社内である。
追いついた吉村は、中にいる子供たちを確認しようと観音扉を大きく手前に開けた。社内の空気が揺れ動き少し湿った木とかび臭さが混じり合った臭気が彼の鼻孔にじんわりと広がっていく。
「これは……」
子供の姿はかき消え、そのかわりに小さな社内につくられた木の棚には、色がはげ落ちた民芸品の大小様々な「こけし」が所狭しと並べられていた。それに埋もれるかのように誇りのかぶったまま藁製の宝船や馬の民芸品が置かれている。どれも古く、最近奉納された物ではないように見えた。社内の天井隅には主のない蜘蛛の巣が扉の隙間から差し込む光を弱々しく反射させている。
(早く……司馬さんに連絡しなきゃ)
胸ポケットに入れている携帯を取りだした吉村の手は自分の意志とは逆に細かく震えていた。
吉村は、全ての物言わぬ『こけし』が、何かに恐れを抱いている自分を見てあざ笑っているように感じた。
(二十七)
「馬鹿、夢でも見ていたんじゃねぇのか」
司馬はそう言いながらも白い手袋をつけた手で扉を開け、摂社の中を覗き込んでいる。奉納された一本のこけしが倒れているのに気付いた司馬は、手に取り、隣のこけしを倒さないよう慎重に立て直した。
「足跡もねぇ、子供たちが隠れていたような形跡もねぇ、例えお前の言ったことが本当でも周りは信じねぇなぁ、俺もだが……」
「司馬さん、本当なんっすよ」
吉村はその説明にしどろもどろになりながらも手振りをまぜ、重ねて説明を続けたが、司馬は大きく首を振って聞く耳をもとうとしない。
紋入りの白い絹袴の装束をまとった初老の神主は、社務所の窓から見える二人の男が摂社の前で異様な動きをしていることに気付いた。
物騒な事件が起きていることもあり、神主は恐る恐る見慣れない二人に近付いていった。
「どうかされましたか」
「おわぁ!」
後ろを向いた吉村は大声を上げて驚いたが、司馬は手袋をはずながらゆっくり立ち上がり、神主に軽く会釈をした。
「埼玉県警捜査第一課の司馬です、お騒がせしてしまい申し訳ありません」
神主は司馬の差し出した警察手帳を見て、ほっとしたような表情で二人の顔を交互に見た。
「あの、この神社で何か……」
「あ、いや、先に挨拶をすれば良かったのですが、聞き込み捜査の途中で、子供が隠れていそうなところを調査しているのですよ」
司馬の理にかなった説明の中に、吉村の先程見た子供のことは一切触れられなかった。
「ああ、そうでしたか。私どももこのような仕事をさせてもらっていますが、夜が怖くて、怖くて。子供さんも最近は全く見ませんねぇ」
「当然だと思いますよ」
司馬と神主の会話に吉村が申し訳なさそうに割り込んだ。
「あのぉ、神主さん、この小さな社に何かいわれみたいなものはあるんですか」
神主は吉村の言葉を聞いて、軽く頷き少ししわがれた声で話し始めた。
「この摂社は、この神社の中でも一番古いといういわれがあるのです。今、ここに建てられているのは、昭和に入ってからのものですが、元々はあの『識神桜』の側にあって、この摂社だけは『ひごとの社』と呼ばれていたそうです。今はそう呼ぶ人は誰もいないのですが」
「ひごと?毎日の日毎かぁ。毎日お参りに来た人がいたからだな」
吉村が神主の言葉に頷いている横で司馬が短い言葉で質問をした。
「このいっぱいのこけしは?」
「こけしが奉納されはじめたのは明治の中頃くらいでしょうか、もっと前は子供の名前を記した木札が納められておりました。何でも、この摂社に祈願すると亡くなったり、行方不明になった子供が戻ってくるという伝承があったそうです。また、その他にも亡くなった子への悲しい気持ちを無くしてくれるなんていう話もありましたが……」
(子供が戻ってくる……)
司馬の心に何かひっかかるものがあった。
「今でもお参りに来る人はいるのですか」
司馬の続けた質問に、神主はゆっくり首を振って否定した。
(二十八)
事件が起きてからの子供たちの様子は、何かいつもおびえているようだった。それが例え、校門を警察官が警備し、多くの大人達に守られた校舎内であっても一人で行動する子供たちはいなかった。しかし、例外はいる。
風太は、たった一人で四階の空教室の一番窓際の席で空を眺めながら、自分がどうしてここにいるのかずっと考えていた。
(僕は……あの時……死んだことに気付いた……でもここにいる……小次郎さんもいかるも死んではいないと言ってくれている……川辺だって普通に話してくれている)
爽やかな風が教室のクリーム色のカーテンをこそりと揺らした。ぼんやりとしている風太の耳に、小鳥の羽ばたきのような軽やかな足音が聞こえて来た。
「ああ!ここにいたぁ!」
赤いランドセルを背負ったいかるが、扉を勢いよく開けたと同時に風太の側に走り寄ってきた。
「兄様、集団下校だって、街の方で暴れている人が出たみたい」
「えっ、だってまだ登校してきたばかりじゃないか」
「何言ってるの?もうお昼だよ」
「しまった!寝ていたのかな、クラスのみんなは?」
慌てて立ち上がったので、椅子が床に大きな音をたてて転がった。
「多分、兄様のこと欠席だと思っているよ。このままこっそり帰っちゃえば良いよ」
児童玄関前では、子供たちが帰る行き先ごとに集まって、教師に見守られながら、それぞれの帰路についていた。
「兄様、こっち、こっち!」
いかるが手招きして風太を呼んでいるその隣では、なずながくすくすと二人の様子を見て笑っていた。
「二人は本当の兄弟か恋人みたいね」
「でしょ。私、風の兄様のお嫁さんになるって決めていたんだ」
まんざらでもない顔で喜ぶいかるを見て、風太は顔を赤くして否定した。
「んな、違う、違うよ。こいつが勝手に」
他のクラスメートは、混雑する下駄箱のから靴を取るのに夢中で、風太がいることに最後まで気付くことはなかった。
道の辻ごとに警察や地域の住民が立っているその光景は一種異様な雰囲気であった。中には木刀のような長物をたずさえた老人もいる。
すれ違う人々の中に、背広を着た白髪の男と若い青年の二人組がいた。
若い青年は何か一生懸命、その少し年老いた男に訴えていたが、白髪の男は何かを考えながら先を歩いている。
いかると楽しいおしゃべりに夢中になっていたなずなが、若い青年にぶつかった。
「あ、ごめんね。大丈夫かい」
青年は反射的によろめいたなずなを支えた。
「ご、ごめんなさい」
いかるとなずなも、申し訳なさそうな表情をしている青年へすぐに頭を下げた。
「おい、ムラ、そんな所で何立ち止まってるんだ」
「すいません司馬さん、今行きます、それじゃぁね」
青年はなずなの無事を確認すると、その場を足早に立ち去っていった。
「あっ」
少し後ろから歩いていた風太が、声を上げて神社の石段の上でこちらを見ている大勢の子供たちに気が付いた。
「あれ……隣のクラスの子じゃないか」
「見ちゃだめ!知らない振りをするの」
急にいかるの声が息を殺したように静かになった。
「連れに来たんだよ、また子供達を……あれ凶仔だ」
それまで話に興じていたなずなが急に立ち止まり、自分の右のこめかみ辺りをさすった
「何か頭がチクチクする……」
ふらふらと神社の方へ身体を向けた。しかし、なずな自身はそのことに気付いていない。
「なずな!帰るのはこっちだよ」
石段の上の子供達は無表情のまま、ゆっくりと手招きをしている。
いかるがなずなの手を引っ張り、勢いよく神社とは反対の方向に走り出した。
「兄様、なずな、早く行こう」
風太はその場に後ろ髪を引かれる思いであったが、蒼白の顔をしたままのなずなのことを気にせずにはいられなかった。
「あっ……」
なずなの視界の中に蒼い空と目に染みるような緑色の若葉が流れるように通り過ぎていく。手を引かれながらなずなは自分が何で走っているのかがわからなかった。
息を切らせながら走っていたいかるがようやく走るのを止め、なずなの方を振り向いて言った。
「ちょっとかけっこしたくなったの」
なずなは、笑いながら話すいかるにきょとんとした顔を見せた。先ほどまでの頭痛は潮が引くように消えていた。
「なずなちゃんね、明日から遠回りして帰った方がいいよ、何かあの白い髪のおじさん怖い顔してたから。また、ぶつかっちゃうかもしれないよ」
「えっ、そんなこと言うのは良くないわ」
「だって、変な人がいたら逃げなさいって、先生言ってたもん。ね、兄様」
「あ……あ、うん」
いかるの哀願するような目に風太は生返事をせずにはいられなかった。変質者に見られた司馬達にとっては納得のいかない話ではあろうが、そのようなことを心配する必要はここでは皆無である。
「そうね、ちょっと遠回りになるけど」
「ねぇ、なずなちゃん、これから朝も一緒に登校して良い?」
「え、私は良いけど……」
いかるはまたちらりとふり返り、風太の表情を見て意味深に笑った。
「よかったね」
なぜか風太は自分でも分からないが、赤面していることに気が付いた。
「そう言えば、川辺はどこから転校して来たんだっけ」
風太が話の話題を切り替えようと、なずなに問いかけた。彼女が転校してきたことは当然知っていたが、それまで二人で話す機会や接点はない。
「あ……稲毛という所……その前、二年生の時までは札幌……幼稚園のころはお婆ちゃん達の住んでいる北上……」
その返答を聞き、風太といかるは目を丸くして驚いた。
「なずなって、色々な所に行ってるんだね、私と兄様なんてこの街にずっと……」
いかるは自分で慌てて口をつぐむと、わざと明るく振る舞った。
「いつか、みんなと行けるといいね。ね、兄様」
「そ、そうだな……」
風太はいかるの顔を見てそれ以上、この話題に触れるのを止めた。
(二十九)
「小次郎、小次郎、たいへん!」
自宅である日本家屋の玄関をいかるは大声を出しながら上がり、木貼りの狭い廊下を走った。履いていた真新しい小さな運動靴は脱いだままの形で片方の靴底を天井に向けて転がっている。茶色くシミがかったふすまを勢いよく開けると、縁側に背中を向けて作務衣姿のまま正座する小次郎がいた。
「小次郎!」
「凶仔のことか」
藍色の作務衣に既に着替えていた小次郎はゆっくりと首をまわし、興奮気味のいかるに静かに返答した。
「えぇっ?また内緒で見ていたの?」
「私達の役目は知っておろう」
いかるはぷっと頬をふくらませ、その場に座り大きく脚を投げ伸ばした。
「いさらい(尻)が見えておる。今は人の姿であるがゆえ、しっかりと自身で律しなければならぬ」
顔を真っ赤にしたいかるはスカートの真ん中を両手で押さえ、すぐに立ち上がった。
「変態、小次郎!」
「ほぅ……こう見ると本当に女童のようだ。役目とはいえ風太の影響は大きいものだな」
小次郎は微笑の後、すぐに表情を変え言葉を続けた。
「夜だ……」
不意の単語にその場から離れようとしたいかるは足を止め、ふり返った。
「我らの遊庭に不浄はいらぬ、迷い子らが闇の遣い魔に化する前に全て今宵に浄する。よいな、いかる。風太はお前に任す、それと……」
小次郎は懐から黒鞘の先の柄に蒼い淡光の帯びる一本の短刀を抜き出した。
「風太に持たせろ、我らと共に眠っていたものだ」
手に取ったいかるは見た目よりもずっと軽いことに驚き、目をこらして刀の特徴をつかもうと必死になった。鞘を少し引き抜くとまた一際刃の表面が光輝いた。
「これって……イツノヲハバリ?」
「腐食しているため、あまりもつまい……が、風太を闇の眠りから覚ますため……荒療治もこの際仕方なし。もう一人のなずなという娘、あれは間違いなく曳かれずの力を持つ者だ。あの娘もいずれ力を欲する邪鬼に魂を喰らわれる運命にある。このままではな……」
いかるの小さな顔がこわばったのを気にも留めず、小次郎は目を閉じて再び沈思した。
(三十)
司馬と吉村のいる捜査第一課の詰所は、二十四時間人の出入りが絶えることがない。自分の座席に座った吉村は、大きなあくびをして、留守中に来た電話の要件が書いてあるメモを一枚一枚気だるそうに眺めていた。
「こんな連絡、携帯に直接かけてくりゃいいのに」
彼の小さなぼやきを耳にしながら、司馬は灰色表紙にシワの入った大学ノートへ細かい字で、今日の聞き込みの情報を荒々しい字で早速まとめていた。
「司馬さん、もう続き始めるんですか、ちょっと休んでからやりましょうよ」
「先に休んでいろ」
司馬は一言言って禁煙運動を進めるステッカーの張ってある灰皿を、手元に引き寄せ、胸ポケットから取りだした煙草に火を付けた。
「もう風呂に何日入っていないんですか」
吉村は呆れながら机上に山のように積まれた書類を隣の机のプリンターの上に無造作に積み上げた。
「忘れたよ、お前の方こそ臭うぞ」
「マジっすか」
司馬にそう言われて、吉村は慌てて自分の左脇を大きく持ち上げ顔を寄せた。
「だめだ、こりゃだめだ。司馬さん、シャワー浴びてきていいですか」
「今の若い者はいちいち人に聞かないと何も出来ないのか。勤務時間はとうに終わっているぞ」
「すいません、すぐに戻ります!」
司馬の返答を聞くもそこそこに吉村は詰め所から飛び出していった。その様子にあきれ笑いながらも司馬はまた、自分のノートに情報を書き加えていった。
ノートの一ページには大きく「消失」に関する情報が経文のようにぎっしりと隙間無く書き込まれている。司馬は最後に一際大きく赤い文字で「識神桜と証拠物のDNA鑑定結果、明日十三時」と書いてノートを閉じた。
「司馬、ご苦労だな」
柳田捜査官が、缶コーヒーを後ろから差し出した。
「柳田、夜の糖分は身体に悪いぞ」
「心配するな、無糖だよ、糖分を気にしながら缶ピースか、お前らしいがね、お互い自分の身体を気にする年になっちまったもんなぁ。再来年の定年までお互い身体もつかね」
「五分五分だな、この仕事やってきてここまでもちゃ儲けもんだ」
「それもそうだ」
柳田は、笑いながら司馬のノートを手に取った。
「お前もいいかげんにパソコンにしたらどうだ、庶務の連中が苦労してたぞ、読みにくいって」
「そんな物、俺が読めたらいいもんだ、人の字の特徴に目を向けるのも俺達の仕事だろ。冷やかしはここまでだ……何が聞きたい」
その言葉に柳田は吉村の座っていた椅子に腰を下ろし、小さく呟いた。
「お前の当てにならない正確な読みだ」
司馬はゆっくりと煙草の煙を吐き出した後、火の付いた吸い殻の先を灰皿の底に押しつけた。
「犯人は分からないが、うちの若い者が偶然に糸の先を見付けたよ。この地域の伝承との関係、例の「識神のお社」だ。まだ、結果は出ていないが、現場に残された葉は、あの社のものだ。この近くで犯人グループは己の存在と力を誇示しようとしている」
「それなら犯行声明とかもっとおおげさに行う可能性があるんじゃないか」
「気が付いた者だけが受け止めることのできるメッセージ」
「なぜ?それだけであの人数を死傷、誘拐できる集団でもいるのか。お前もやはり統率のとれたカルト説を支持するか」
司馬は首を振ってやんわりと否定しながら言った。
「そんな簡単にはわかんないねえ、それこそ当てにならない不確かな読みだ。明日の昼過ぎに少しは分かる」
「そうか、おお、これを渡しに来たんだった。この中のデータを吉村君に印刷してもらえ」
柳田は自分のポケットから携帯記憶端末を取り出して司馬に渡した。
「何だ、これは?」
「俺達の地方署単位で今できることは限られる。明日から中央合同捜査本部のお偉いさんが全てを仕切るのは間違いない、俺の力なんて、その中じゃ犬の糞みたいなもんだ。それまでこの署で調べ上げた情報をまとめられるだけまとめてお前さんに渡しておきたいと思ってな」
「感謝されないお前の置き土産か」
「いや、イタチの最後っ屁だ」
夜の捜査室に二人の壮年の笑い声が響いた。壁の時計の針は午後十一時を指し示していた。
(三十一)
昭和の時代を象徴するかのようなアパートの外階段は、手すりに赤錆が浮き出、吉村が一段上る度に大きく揺れた。
部屋の前のポスト口には、たまった新聞が隙間無く押し込められている。
吉村が一番上の新聞を一部取ると、重なり合った色取り取りのチラシは巻かれた水のように床の上に散らばった。
こんな真夜中にアパートの玄関前でうろうろしている自分の姿こそ不審者ではないか、そう思いながら渋々と吉村は音に気を付けながら一枚一枚腰をかがめて拾った。
夜の人通りはあの事件後から激減している。その静けさを証明するかのように、普段は気にも留めていなかった夜行列車の行き過ぎる音と踏切の遮断機の音が遠くから聞こえてきた。
吉村は今日の神社の出来事が急に頭に浮かんだ。
まさかとは思いつつ、手にとったチラシをぎゅっと丸めながら神社のある高台の方向へ振り向いた。
彼の居るアパートの位置から神社までさほど遠くはないが、途中で高い建物に阻まれているので直接は見えない。しかし、吉村は子供の頃に聞かされた怪談話の後の時間のように、つま先から冷たい空気が自分の心をずっと握りしめられているような感覚に包まれていた。
どこかで誰かが走っている。つと気を取り直した吉村は視線を移し、その姿を確かめようと首を伸ばした。
少年と巫女装束の幼い少女が神社の方角へ夜の道を駆けていく姿が目に入った。
(三十二)
夕方、深刻な顔をしたいかるから突然手渡された小刀は、色のさめた柄糸がほつれ、頭金が黒ずみ、鞘から抜くこともままならない状態であった。夜店で売っているプラスチック製の刀のおもちゃの方が犬を追い払うのに好都合といった体であった。
ただ、見た目よりその刀は随分軽いと風太は思った。
枯れ枝は見かけが太くても持つととても軽く感じる、それに似た印象であった。
風太の素朴な問いにもいかるは黙っている。その態度に風太は心のどこかで何かがはじけたかのような強い口調でいかるをなじった。
みるみるといかるの大きな目に涙が浮かんだ。それでもいかるは何も話さない。
自分の心がちくちくと痛み出しながらも段々と風太の怒り声は大きくなっていく。
風太は窓の外を指さし、すぐに自分の部屋から出て行くように言った。
いかるは悲しそうな表情のままうつむきかげんで、畳のへりを踏まないように静かに立ち上がると、さっとガラス窓を開け、風太の部屋のある二階から飛び降りた。
驚いた風太は、何て馬鹿のことを言ってしまったのだろうと、いかるの名前を大きく呼びながら窓に飛びついた。
いかるの姿は消えていた。
真っ白な顔色に変わった風太は何度もいかるの名前を呼び、裸足で表に飛び出した。いかるは庭の柿の木の側で半べそをかきながら立っていた。駆け寄った風太も自分の言葉で傷付き悲しむいかるの姿にこらえきれずに泣いた。いかるも泣きながら小さく一言だけ口にした。
「風の兄様が自分で気が付かなければだめなの……」
(三十三)
石段の向こうにある境内に目を向けた風太は、既に一帯が修羅場となっていることを知った。
逃げ惑う顔のない子供達の中に分け入り、次々と長刀で首をはねていく小次郎は誰が見ても「羅刹」であった。
子供達は鳥居の柱下でろくろのように首をぐるぐると振って、時折、小石を拾い、血しぶきを身にまとった小次郎に向かって投げている。小次郎は気にもせず、風のように近付き一閃で彼らの頭を二つに割った。
灰色の脳がどろりと土の上に流れ出た。
逃げ場の失った子供達は我先に小さな社に向け駆けだしていく。
「いかる!」
小次郎が声を上げる前にいかるは白い着物のたもとから黒い羽を指の間に何枚もはさんで取り出した。カラスの羽を模したかのような黒光りする物は空気を切り裂いて子供達の喉に食い込んでいった。
あまりにも残虐な光景を目の当たりにした風太は顔を地面に背けた。
切られた細く小さな白い指が血だまりの中に、何本も転がっているのが見えた。
「やめて……やめてよ!小次郎さん!いかる!」
風太は驚きの声を上げずにはいられなかった。
気遣わしげな目をしたいかるは、ただ黙って逃げる子供達の先に周りこみ、その命を絶っていった。自分のしていることを風太が理解してくれる訳ではないことをいかるは知っている。
顔全体に突き刺さった羽根をとろうともがく子供達。
凶の者は愛くるしい容姿になっていることが常であり、その油断に付け入り、生者の肝を喰らう存在である。小次郎が口にしたように使い魔になれば、さらに人間への被害は計り知れないものとなる。それを風太に理解してもらう為にはあまりにも時間が少なすぎた。
(三十四)
月光がほのかに浮かび上がらせる石段を吉村は全力で駆け上っていた。二人の子供達が上っていくその先から今まで聞いたことのないほどの苦しそうな悲鳴が聞こえてくる。
「出ろ、早く出てくれ!」
震える片手で携帯を握り、アドレス帳の一番初めに登録してある司馬を呼び出している。
「司馬さん!事件です!神社で!至急応援願います!」
「ムラ、どうした」
吉村の狼狽えた携帯からの声を聞いた司馬は、声の調子をわざと下げ、ゆっくりと返事をした。
「例の神社で子供が大量に殺されています!犯人は……」
目の前でまた一人幼子の頭が小次郎の太刀によって断ち割られた。飛び散る薄紅色の脳漿が携帯を握る吉村の左手を生温かく濡らし、携帯が指の間から地面に滑り落ちた。
「動くな、警察だ!」
吉村は無意識のうちに持ってきているはずのない自動拳銃の入った脇の下のホルスターを右手で探った。しかし、そこにはいつものごつごつとした感触はなく、薄い衣服が冷えた肌をぎこちなく摩擦するだけであった。
血の滴る太刀を右手にした小次郎は一瞬冷ややかに吉村を見つめ、すぐに殺戮を再開した。
「識神の社で事件発生!」
静かだった警察署内は、司馬の一声に続く非常ベルの音に蜂の巣をつついたような喧噪状態へと変わっていく。部屋内の赤い緊急灯が司馬のまとめていた乱雑なファイルの束を赤く照らした。
出動命令の出された警察車両の中で、司馬は貧乏揺すりをしながら、自分の経験からでは考えられないことについて、もう一度頭の中を整理しようと考えた。神社につながる道路を全て封鎖中との連絡が無線に入るが、司馬にとってはそれよりも自分が昼間に見落としていたことが何かないかということを思案した。
(行方不明になった児童の関係者の復讐……伝説を模した愉快犯の犯行……カルトの宴……地下鉄の事件の犯人グループとは別なのか同じなのか……)
「ムラ……お前はいったい今現場で何を見ているんだ……」
最初の連絡以来、携帯のつながらないことが司馬の苛立ちを余計につのらせた。
(三十五)
いかるが青年の動きに気をとられた隙に、呆然とする風太の周りには凶仔がすぐそこまで押し迫っていた。凶子は口を大きく自分で割き、そこからもう一つの犬歯が幾重にも縦列するもう一つの吸盤のような口をちろちろと動く蛇のような舌と共にのばした。
「風の兄様!後ろぉ!」
いかるの驚声にも風太は動くことができない。凶の者の犬歯が風太の幼いうなじに食い込み、猛烈な痛みを風太に与えた。
「わっ!」
後ろから飛びつかれた風太は鉛の重りを首にぶら下げられたように前のめりに地面に崩れた。
目の前の地面を濡らす血が自分の身体から流れ出た物であることすらもう確かめることはできない。風太の指が細かく痙攣をはじめた。凶仔は風太の首の肉にがつがつと食らい付いていく。
(痛い……痛いよ……)
「こいつらは?」
風太の倒れる場所に駆け寄ろうとする吉村の前に、にこにこと笑う凶仔が通せんぼをするように立ちはだかり、鼠のような甲高い声でわらべ歌「とおりゃんせ」を歌い出した。
とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこの細道じゃ
天神様の細道じゃ
ちょっととおしてくだしゃんせ
ご用のない者とおしゃせぬ
この子の七つのお祝いに お札をおさめにまいります
行きはよいよい 帰りはこわい
怖いながらも とおりゃんせ とおりゃんせ
地面に伏し苦しむ風太の目が、やにわに大きく見開かれ、伸びていた両の指が龍のように曲がり地面に深く食い込んだ。
(痛い……痛いんだよ。僕を喰おうとしたな……)
地面の一端からわき起こった小指の先ほどの空気の渦が次第に広がり、桜の葉ずれの音が嬉しそうに呼応をはじめた。
吉村の前に立ちふさがっていた不気味な子供達は何か大きな力に蹴り上げられたように高々と空中に舞い上がった。そして、高い奇声を発するまもなく空中で身体をねじあげられ、赤い血を裂かれた部位からほとばせた。
(静かに……眠らせてあげていたのに……その僕を怨んで喰おうとした)
頭上から降る血の雨に顔を濡らしながら吉村は呆然としながら見ているしかなかった。地面に落ちた子供達の首は手鞠のように跳ねながらわらべ歌をまだ歌い続けていたが、その声は風の音にかき消されていった。
「小次郎!風の兄様が!」
いかるの呼び声も地面から次々とわき上がる突風の中に飲まれていく。いかるは小さな光の球となって吉村の後ろに逃げるようにして飛ぶと、また少女の姿に戻り、立ちつくしたままの吉村のだらりと下がった腕を鳥居の陰まで力強く引いた。
「小次郎さん……いかる……思い出したよ……」
逆立った髪と洋服を血で染まらせた風太はゆっくりとその場に立ち上がった。いかるから手渡された『イツノヲハバリ』がしっかと握られた手は蛍の発するような淡い光が刃をさらに尖らせたように放たれている。風はその先から巻き起こっていた。
「僕は……」
小次郎は、風に飲み込まれまいと逃げる凶仔を切り捨てながら、口元で軽く笑った。
(三十六)
お気に入りの漫画を読み終えたなずなは自分の椅子に座ったまま大きな伸びをした。階下からは両親の見ているバラエティ番組のつくられた笑い声がこもった音で聞こえてくる。小学生にすしたら本当であればもうとっくに就寝している時間ではあった。が、正気を失った子供達が地下鉄で消失する事件があって以来、何となく夜が怖いと感じていた。
大人も怖いのだろう。あまりテレビを見ることのなかった両親も、今はニュースにチャンネルをあわせることもなく、軽い内容の番組ばかりを見るようになっている。
なずなの勉強している机の一番上の引き出しには、かわいいキャラクターが描かれたシールシートで一杯になっている。前に自分が通っていた学校の友達や知り合いに手紙を出す時、必ずその中のシールを貼ることを密かな楽しみにしている。なずなが手に取った一枚のシートには、青い小鳥と遊んでいる縞模様の子猫のキャラクターが色々な表情で描かれていた。
(これ、いかるちゃんにあげたら喜ぶかな)
学校で出会った明るく笑ういかるの顔を想像して、なずなは微笑んだ。
「そういえば何年生か、聞いていなかったな……風太君も……」
窓の外から警察車両のサイレンの咆哮が近付いてきた。いつもと違うのはその車両の多さであった。尋常なことでないことは明らかであった。
「また、事件?」
なずなは椅子から立ち上がり、窓の前で息を殺して水色のカーテンの隅を少しだけまくり覗き見た。向かいの家の初老の男性が音の行き先を確かめようと玄関から飛び出して来る様子が目に入った。近くの家では、カーテンが開いたり、ちらちらと電灯の光が揺れたりして、人々が慌てている様子があちらこちらで伺える。
階下から両親が自分の名前を心配そうに呼ぶ声が聞こえた。昼間のように、なずなのこめかみに針を少しだけ刺したような痛みが走った。
(三十七)
「俺は何を見ている……こいつらは……」
吉村は金縛りにかかったように身体が硬直した、自分の力では立てず、鳥居に寄りかかったままぼんやりと血だまりの中に浮かぶ風太の発する光と風の渦を見せられた。
脂汗の滲む吉村に対し、足下の子供の首の顔は光を浴び恍惚の表情を浮かべていた。
すぐ真上に和船が一艘浮かんでいる。
「なぜ、船が……」
(白むは花の影なりけり)
(少年の春の夜は明けにけりや)
船の中から黒い影がせり上がる。
風太の父親であった。
「我と共に子らの怨み晴らす時下りし……」
風太の父親が、鬼のような形相へと変わっていく。
(夢は覚めにけり)
風太の全身がまばゆい光に包まれた中に、一枚の写真のように切り取られた画像がかげろうのように映っては消えていく。
自宅の台所、顔全体がかさぶたに覆われた父が、手にする包丁で風太の首をゴリゴリと切り落としていく。
(夢は覚めにけり)
烏帽子をかぶった男らの集団が荒縄で縛られた泣き叫ぶ子供達の首を儀式の作法に則りながら、大刀で落としていく。子供の親は我が子が神に捧げられることを誇りに思いながら空が白み始めた刻より酒色にふけっていた。
桜の木の前に作られた祭壇に紅で唇を薄化粧された子供らの首が丁重に並べられていく。その周囲では村人達が酒を飲み陽気に歌や舞を舞いながら自分たちの春の享楽にこうじていた。
重なり合った笹の葉が風で落ち着きを失ったように縦横に揺れた。
(夢は覚めにけり)
獣の如き鎧武者に追いかけられ、息を潜めている子供。しかし、後ろから躍り出たもう一人の落ち武者に小さな胸を深々と刺し貫かれていった。
心の弱い者ほどその不満のはけ口を身体の弱い者に求めていく。外道の道を歩む落ち武者に命を奪われた哀れな子供達の骸の上に音もなく霧雨が落ちていった。
「この凶仔は識神桜の贄のなれの果て……」
そう言う小次郎の切った凶仔は風太の生んだ風の渦の中に飲み込まれていった。
「そう、我は望まなくとも、この子らの血を吸い、屍を喰ろうて生きざるをえず。我、自ら復讐を願えども、汝らの封印によりその願いかなわぬ時、あろうことか子らの眠りの地の下に人の道つくりし。我と子らの涙さえ、地脈の中へ消えた」
風太の父が腕を突き出しゆっくりと回転させた。みるみると空間がゆがみ境内の景色が黒一色に染まっていく。
「しかし、見よ、この封印も我の姿の者が解き、生きとし生ける者全てに露の嘆き知らしめん喜びを。風霧の力をもつ凶神よ、そのお前の痛み、全てこの子らの味おうた痛みよりも軽し、さあ、我のもとへ。
(僕は……)
「主の命により、その魂を沈めんが為、常夜より現世に誘われし者、それが我ら式神。風太よ、お前に迷いがまだあるのなら再び闇へと沈められん、お前は我と歩むか、お前を殺めた父の仮姿と歩むか。風太、歩む道は主が決めよ、返詞によっては我が手により闇へ葬らん」
小次郎の刀の切っ先から紅珊瑚色をした血の球が一筋伝わり地面に落ちた。
(僕は……僕は……僕も……式神だった……)
風太の目から血の涙が流れ落ちた。
勢いを益々つけた竜巻は、父が乗っていた宙に浮かぶ和船を粉々に粉砕した。破片となった大きな板が一掴みの藁しべと化し、風の中に消えていく。
自宅で狂った父によって風太の首が切り落とされた瞬間、風太の魂を光と一迅の風が包みこんでいた。家具に血が飛び散る中、父は風太の心臓に何度も包丁を突き立てている。狂気と化した父は、風太の生首を持ち、快楽の雄叫びをあげた。壁に放られた風太の首は血を振りまきながら、床に転がった。
その時、この瞬間を待っていたかのように、一つの小さな光が風太の父の盆の首から飛び出、風太の眉間に取り付いた。父はそのことにまるで気が付いていない様子であった。
(我の名は『天空』、主の命により魔を封印せし者である。お主の魂とその姿、父に殺められた無念ごと今もらい受ける。しかし、我封印の力未だ復せじ、汝、その使命に気付くまで力をとどめさせてもらう)
父と同じ姿をした凶の者が、凶仔に囲まれながら風太に迫る。
「我にその人間と式神の首を捧げ復讐の宴の肴とせよ」
風太の父の姿をした者が叫ぶと、風に呑まれながら子供達はキイキイとさらに高い声で喚き続けた。
「やめろ、君たち!」
吉村は動きの鈍った自分の右脚を一歩前に踏み出し叫んだ。
「どけ!」
鳥居脇の吉村の胴を切断しようとした風太の刀を小次郎の刃が止めた。白い火花がほんの一瞬だけ二人の顔を闇に浮かび上がらせた。
吉村は頭を鳥居の柱にぶつけ、昏倒した。
「長き封印により、己の行く末も見誤ったか、風太、いや天空よ……」
風太が『イツノヲハバリ』を横一文字に切ると光でできた鎌刀が避ける小次郎の髪の穂先を宙に散らした。
「小次郎……痛い……痛いんだよ、この凶仔らの生前の念、千年にもわたる封印ににじむ怨みの念、お前がぬくぬくと土中に眠る中、僕はずっと耐えていた」
「聞け、凶神『天空』よ……凶仔を今ここで浄化するのが我らの役目の一つ。憎しみによって闇に戻したとて、怨み、災いを根絶やしにすることなどできぬ。凶神のお前とて断ち切らなければならぬのは、その身勝手で些細な憎しみと怒りよ。それとも天空……お前は乗り移りし少年の心さえ未だとらえることができぬのか……時過ぎ墜ちたものよ」
「小次郎、敵と思うなら敵と思えばいい」
二人の間に重苦しい沈黙が居座った。小次郎は愛刀をつかんだ拳を口の高さまで持ち上げ、八相で構えた姿勢のまま腰を低く落とした。
「殺さねばならぬか……天空」
「邪魔だ、小次郎!」
繰り出される風太の光の刃は、残った凶仔を切断し、小次郎の立つ場所の足下に螺旋状の光路を描きながら突き刺さる。沸き立つようにはじけた地面の土が、周囲に広く散った。
小次郎はこの場で狂気の漂う風太を切らねばならぬと確信した。
血だまりの中に相対する二人は寒々とした情景の中にいる。
「あな面白し!滑稽な奴らめよ」
風太の父の姿をした者は、二人の相まみえる様子に笑いをこらえつつ、識神櫻の根元に降り立った。
「子らよ、起きよ、今、闇の花開く時……」
両の手を地面に付けると、識神櫻から黒い靄が蒸気となって立ちのぼり、天に大きな雨雲をつくった。
「水垂れと化す涙よ、我が種子として降り落ちよ」
闇に包まれた境内にぽつぽつと雨粒が落ちていく。次第に風太の生じさせた風と絡み、時間がたたぬ間に辺りは嵐の様相と化した。ただ、その雨は身体を濡らすことなく、地に落ちると瞬時に蒸発していく。
(花物いはぬ草木なれども とがなき謂を木綿花の 影唇を動かすなり)
「やめて小次郎!風の兄様が、天空がせっかく戻って来たのに!」
いかるが涙混じりの声で叫びながら、二人の間に分け入ろうとするが、それよりも早く風太は地面を蹴り、小次郎に迫った。
待ち受けていた小次郎は駆け寄る風太の頭上に刃を渾身の力を込めて打ち下ろした。風太のもつ『イツノヲハバリ』が小次郎の刃を突風のからんだ光ではじいた。
「闇の心に染まりし天空、常世へと帰せ」
「闇に帰すのはお前だ!小次郎!」
「奴と共に死せ……凶神よ……」
父の姿をした者が風太に冷たく命じた。
風太の左右から繰り出される打ち込みが激しく続くが、小次郎は全くあせる様子を見せることなく、自分の刃で軽くいなした。
「子供の身体に身をやつしていたとて遠慮することはない……それともまだ迷いがあるのか?」
「黙れ!」
風太の怒りを加えた次の一撃はわずかながら、小次郎の足下をふらつかせた。
わずかな隙を逃さず、風太は『イツノヲハバリ』の刃先を小次郎の眉間めがけて思い切り突き立てた。
「くぅっ!」
いかるが短くあわれな叫び声をあげた。二人の間に飛び込んだいかるの小さな身体に風太の刃が深く食い込んだ。
風太の手に豆腐を箸で刺すような軽い弾力のある感触が伝わった。
いかるは小さなうめき声を上げ地面に転がった。白い巫女服に突き立てられた刃を中心に赤い花びらが開いていった。
「お前の目覚めを一番望み、一番側に寄り添いたかった小さき者を己の手で殺める気持ちはいかに」
小次郎は風太の目を冷たく睨み続けている。風太はその場に釘付けになったように動かない。
「くだらぬ、このようなことを……このような」
そう言いながらも風太の『イツノヲハバリ』の握っていた手はだらりと下がった。
「だ……だいじょうぶ……だよ……天空……ううん、風の兄様……つらくても……私も……小次郎も風の兄様を……待っていたから……」
小次郎は鞘に自らの刀を音をたてずに収めると、いかるの身体を抱きかかえるため地面に立て膝をつき、静かに背中に手を添えた。いかるの口から止めどなく血があふれてくる。
「僕がいかるを殺した……」
「ほんに良きことである……我らに仇なす者の運命、凶神よ、我、力を得し宴の夜より、五十日祭ぬばたまの夜まで待てり……」
父の姿をした者は満足気に一度うなずくと、身をひるがえして自分の姿を空間に溶かした。
光を失った『イツノヲハバリ』が地面に転がり、錆びた刃が参道の一番外側の石畳の角にあたり、にぶい音をたてて折れた。だが、風はおさまるどころが、かえって力を増していった。
風太は両手で自身の頭髪をかきむしりはじめ身体をがたがたと震わせていった。
「いやだ……いやだ……いやだ……」
小次郎は天空の迷いを広がるうつろな静けさの中に感じ取った。
「いかる、逝かないでよ!」
天が割れるほどの大きな叫び声は風太自身のものであった。闇の世界が急激に収縮し風太の父、凶仔全てを吸い込み音を立てて割れた。
(三十八)
雲の切れ目から弱々しい光の星が覗いた。
風の乱舞が終わり、境内の周囲は警察車両の黒い影を作り出す赤いサイレンの光と、男達の荒々しい足音に包まれた。
「ムラ、生きているか!」
最初に血にまみれうなだれた吉村を発見し駆け寄ったのは司馬であった。境内の至る所に血だまりができていた。乳飲料会社の広告が入った錆びたベンチにも手水にも全て血しぶきの散った後が残っている。
「司馬さん……司馬さんっすか……すいません……俺……頭が狂ってしまったかもしれません……すいません……何も……」
「しゃべるな、救急隊もすぐ来る」
「すいません……俺……何もできませんでした……ただ、殺していた男は小次郎……そして風太……そう言っていました……」
吉村の声には戸惑いと悲しみが混じった響きがあった。吉村がおずおずと差し出した右手を司馬はしっかりと握り力強く黙って頷いた。
「いいから、今はしゃべるな、後でいやと言うほど聞かせてもらう。おい、早く救急隊をまわせ!」
司馬は吉村を介抱しながらもゆっくりと現場を見回した。通報にあった被害者である子供の姿はどこにもない。
「被害者確認できません、捜索進めます!」
捜索を開始した警官らの声に最初は聞き間違いかと思ったが、多量の血痕は残されている。しかし、被害者の遺体もしくはその証拠となる物はどこにも見あたらない。この場所で惨劇が繰り返されたことは間違いないとふんでいた司馬にとってそれは大きな誤算であった。
放心したままの吉村が担架に乗せられていくのを確認することもなく、司馬は境内の奥に足を進めた。固まった血を踏んだ靴が冷たい地面に引っ張られていくように徐々に重くなっていく。
「馬鹿にしてやがる」
深く息をついた司馬の足下から広がる血の海の中に転がっていた物は、被害者の無惨な死体ではなく、鋭利な刃で切り刻まれた数十体の古びたこけしと枯れた桜の葉だけであった。
首だけのまま転がったこけしの墨で細くひかれた目はどれも既に薄く消えかかっている。
司馬は、どこか遠くから『とおりゃんせ』を歌う幼子の声が聞こえたような気がした。
(三十九)
次の日の朝、この街の物々しさがさらにひどくなったようになずなの目には映った。神社の側の通学路は数人の警察官によって黄色いビニール製のロープで警戒線が張られていた。なずなは、昨日の帰り際、いかるがあの道を通るなと言っていたことを急に思い出した。自分の歩いている前や後ろからいかるや風太が来ないかと注意していたが、二人のじゃれた笑い声は聞こえてこない。
教室に入ろうとしたなずなは、風太を少しだけ気にかけ、それぞれの教室を覗き込んだが、風太の姿はおろか、いかるの姿もそこにはなかった。
「あのさ、この学校に雪代風太君っているよね?ちょっと話したいことがあって」
朝の会がはじまる前、隣の席の男子になずなは風太のことを尋ねた。
尋ねられた子の顔が急に白くなったようになずなには見えた。
「川辺さぁ……何冗談言っているんだよ……雪代ってさ……何か月も前に自分のお父さんに殺された奴だろ……」
「えっ?」
「ああ、お前転校したばかりだからな。知らなかったんだろ。隣のクラスの雪代は、もうずっとこの世にいないよ。そいつの机の上に花が飾ってあるからすぐにわかるよ。へへ、話したいなんて、びっくりさせるようなこと言うなよ」
「なら、いかるちゃんって女の子は……まだ二年生か三年生くらいの」
「そんな名前の子は聞いたことがないよ、前の学校の奴なんじゃないか」
そう言った男子は、心の不安を打ち消すように奇妙な顔で笑っている。
なずなの手の中の鉛筆が床に小さな音を立てて落ちた。
式神小次郎 「腐葉」帖 (一)
続