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短編小説集

寡黙な花

作者: 摂氏

叙情的な夕闇に浮かぶ、君の影。壮美な雰囲気に満たされた教室の一角に佇む、筆舌に尽くし難い程に優美な君。決して言葉を紡ぐことの無い君の表情から汲み取れる感情は、希薄の一言に尽きる。静寂に溶ける君は、何も変わらない。

勇気なんて言葉は、僕には縁の無い言葉だと思って居た。一生涯、使う機会の無い言葉だと思って居た。


「一緒に……お祭り行かない?」


でも、僕は言葉を絞り出した。君の瞳を見据えて、握った拳に滲んだ汗を振り払って、言葉を投げ掛けた。

一生涯、使う予定の無かった勇気を振り絞る時節に、強い焦燥感が背中を押した結果なのだろう。

口を飛び出した言葉は、僕の手の届かない場所に行って仕舞った。もう、無かった事には出来ない。静寂さえ喧騒。一瞬で吹き出す冷汗に嫌悪感を感じる暇さえ無く、居た堪れない感情が後悔の念を駆り立てる状況に、呼吸さえ止まった儘、ただ僕は待った。君の返答。何かしらの応答を、只管に待った。

「……」

やがて、時は一瞬。永遠のような刹那。君は、小さく揺れた。僕の視界の端で、君は揺れた。風の所為と言われて仕舞えば、僕は否定できないだろう。

「え?」

見逃して仕舞った君の挙動。勢い良く顔を擡げた先で、微風に戦ぐ君の髪。灼けた夕日を背に立つ君の表情を伺うことは叶わない。

でも、君は揺れた。


僕の勇気の発露に、君は頷いた。


……


君の声音は、誰も聞いたことが無かった。

僕の交友関係の幅は狭い。然し、教鞭を取る立場の人間さえ、彼女の声に触れた経験は無いと聞く。数少ない友人も然り。クラスメイト同士の会話に耳を欹てた結果も変わらない。皆が皆、口を揃えて「聞いたことが無い」と言った。

彼女は、掴み所の無い不思議な存在だった。

だからなのだろう。僕は、摩訶不思議な彼女に惹かれた。人の感情の機微に疎く、謎の介在さえ把握できない僕自身が、明確に『知らない』と断言できる君の心に、強く惹かれたのだ。そして、君の声が聞きたいと切に願った。

それは恐らく、皆々同様なのだろう。言葉の無い彼女は、ただ其処に居る人間だ。感情表現に乏しく、人と会話することの無い彼女を評価する要素は、非常に限られている。君の外見で判断する人が多数を占めるのは、極めて必然で自然な成り行きだ。

麗しい容姿が際立つ彼女に好意を寄せる人間の数は如何程か。思索に耽る必要も無い。指折り数えられる数には収まらないだろう。

君は、そんな君だった。途方も無い存在と感じていた君の心に、初めて触れた日。君が明確に意志を示した、あの刹那。僕は、一生涯に渡って忘れることは無いだろう。

何故、君が僕の誘いを受けてくれたのか。何度も何度も思索を巡らせた結果、要領を得る解答を導き出すことは叶わなかった。

でも、君は確かに、僕の誘いに乗ってくれた。ただ、その事実だけが嬉しかったんだ。

「……」

自室の天井に見る、君の姿。走馬灯の如く、明確な輪郭を持たない虚像は変遷する。

恋情の何たるか。延々と続く人生の十数年間、触れた経験さえ無かった感情が交錯する今、難解な疑問に押し潰されて仕舞えば、安寧は訪れるのだろうか。ただ座って居ることさえ落ち着かない。胸中に抱える想いの八割方は、彼女に係る感情だ。目を開けば君が居て、目を閉じても君が居た。

これが恋情か。

布団を頭から被り、固く目を閉じる。暫くの間、僕は眠れないのだろう。一昨日も、昨日も、今日も、明日も、明後日も同じ。君は、何時も此処に居るのだろう。然して、眠れぬ夜には君の夢を見るのだろう。

思い至る間に、僕は想う。

……気分は落ち着かないが、悪くは無い。

それは、きっと贅沢な苦悩なのだろう。

約束の期日は、もう間近に迫っていた。


……


七月十日。約束の日、手紙に記した待ち合わせの場所に、僕は居た。

祭り会場の神社本殿前の灯篭付近。今更だが、馬鹿な選択だったと自責の念に駆られる。幾ら田舎とは言え、年に一度の縁日に出向く人間の数は多い。午後一時を跨いだ神社の境内は、只ならぬ雰囲気に酔った人間で溢れ返って居た。

この環境で、僕が椎名さんを見つけることは簡単だろう。だが、椎名さんが僕を見つけることは、決して容易いことでは無い。

容姿端麗な想い人を有象無象の群から探し出すことは容易だが、有象無象の群から単一の有象無象を探し出す難度は、想像に難く無い。君が、僕の顔を覚えて居ると断言できる根拠は無い。

約束の時間が迫り、僕は灯篭の付近を眺め回して、君を探した。

その刹那、そっと肩に触れる感触が、意識の前面を覆った。

勢い良く振り返る先。見慣れた、決して見飽きることの無い姿が在った。

「椎名さん」

意志の範囲外で漏れた声に、君は頷く。その姿に、僕は自分自身の目を疑った。

「椎名さん、浴衣……」

失礼とは理解しつつ、普段の制服とは毛色の異なる和装を、僕は指で指し示す。変わって君は、自分自身の浴衣を一瞥し、腕を真横に伸ばした。

上腕の形に沿って流線を描く、空色の布地に桃、青、紫の鮮やかな紫陽花が咲いた浴衣の袖。重力に逆らうこと無く垂れる袂。無造作に整えられた、ミディアムショートの緩い癖っ毛。心倣しか柔和な表情と、一挙一動に漂う純真無垢さ。

調和した美を表現する課題が課された日、きっと僕の答案には、君の名が記されて居るだろう。

高鳴る心臓は、僕の誠の心を映す鏡。自分自身の感情に嘘を付くことは出来ない。

今だって、そうだ。

想像の中の君と対峙する機会は、数えられる代物では無いが、現実に居る僕と君の逢瀬が叶った今、高鳴る心臓の早鐘は、鳴りを潜める気配も見せなかった。

今日のために、散々シミュレートした計画なんて、現実では役に立たない。僕の脳内を埋め尽くす感情が、綿密に練った計画を忘却の彼方へと追い遣った。

どうすべきか。思考が纏まらなかったのだ。

如何ともし難い状況の中、両腕を広げて、浴衣の袂を上下に揺らす君の姿を脳裏に焼き付ける暇に、君は不思議そうに小首を傾げた。

僕が先導すべきなのだろう。なに、簡単な話だ。「行こうか?」と一言、君を誘えば良い。

……と、言葉に思い起こすことは簡単だ。此処から、いざ行動に移すために必要な勇気が、どれほど重たいものか。君を縁日に誘った、あの日に思い知ったさ。

君の存在を感じては、手汗を握り潰してばかりの僕を見て、君は暫く僕の目を見据えた。

蒼穹を宿す瞳。暗い蒼の奈落の底で惚ける、僕の姿。魂さえ君の意識に溶けて仕舞い兼ねない蒼。君は、そっと手を伸ばした。

「え?」

微かな風圧を感じた腕に視線を向けた刹那、君は僕の左腕の袖を摘んで居た。突然の出来事に塞き止められた喉は、一切の声を通さない。混乱の渦中に在る脳が、現状を理解する前に、引かれた袖に追従するように身体は動いて居た。

「し、椎名さん?」

僕の問いに対する反応は無い。でも、指先で摘んだ袖を離す気配は無く、僕自身の手が届く距離に君は居た。

それは、酷く不思議な感覚だった。偶像のような、美の象徴に過ぎなかった君が、僕の間近に居る奇跡のような逢瀬。君が踏み締める一歩一歩の草履の音さえ、僕に語り掛けて居るような錯覚。多幸感と焦燥感。そして、喉と胸を締め付けるような息苦しさ。

君の手に触れて仕舞えば、楽になれるのだろうか。

僕の傍に居る君の遠い背中を眺めて、僕は感情を心の奥に仕舞い込んだ。

連れ立って、人波を潜り抜ける道中。君は、立ち止まった。

「……どうしたの?」

背後から眺める君の表情を窺うことは叶わないが、長い睫毛が、陽光を照り返す艶やかな褐色の髪の隙間から覗いていた。

君の視線の先に在るのは、恐らくは屋台。境内の参道に沿うように立ち並ぶ出店は、この時期の風物詩と言える。

「行ってみる?」

自然と口から溢れた言葉。君は此方を振り向き、小さく頷いた。その君の隣には、誰も居ない。今ならば、僕が占有できるのだろう。

決意一つ。君の横に向かって、僕は一歩を踏み出した。

その瞬間、僕自身の右腕の袖を摘む君の右手が、僕の決意を揺さぶった。

……どうしようか。

悶々と思い悩む暇が在る訳でも無く、君の澄まし顔を見据えて仕舞えば、高鳴る動悸が追い打ちを掛けた。

人生の長い道程。奇跡的な偶然の結果、君と交えた日から、僕の人生に満ち溢れる決意と決心。寿命を削って、決意と決心を固め、勇気を振り絞り、僕は君との邂逅の機会を得た。

ならば、今更になって臆することは無いのだろう。あの時と同じように、君を誘えば良い。

「ねぇ……」

上擦った声が漏れる。僕の喉は、他所の人間の意志を宿して居るかの如く、僕の意志の範囲外で震える。冷や汗さえ滴る刹那、立ち止まることは出来なかった。

「この手さ……こっちの袖に変えない?」

一言を告げた間は、悠久の停滞。騒々しい喧騒さえ静寂。音の止んだ世界で、静寂に揺蕩う君は静かに僕を見詰めた。

時は一瞬。そして君は、そっと僕の右の袖から指を離した。

然し、君は僕から視線を逸らした。その視線の先に在るのは、境内に沿って軒を連ねる屋台。

僕の心臓は跳ねた。

心地良い焦燥感から一転。急激な血圧の低下と背中を伝う冷や汗、湧き上がる吐き気。選択を誤った可能性が、脳裏を埋め尽くす。

「し、椎名さん……」

縋るような情けない声を絞り出す僕を見て、君は何を思うか。でも、咄嗟に取って仕舞った行動に、僕が抗う術は無かったんだ。

君の言葉を待ち、君の意思表示を待つ暇。真夏を間近に控えた初夏の陽気に、身体を震わせる僕。君は、再び此方を振り向いた。

それから、柔和な表情を浮かべた君の右手が、そっと僕の方に差し向けられて居ることに気が付いたのは、景色を彩る君と人波の変遷を、暫く眺めた後だった。

宙に浮いた君の手は、何を待っているのか。君は、言葉には出さない。でも、夢のような逢瀬に夢のような現実が、信じ難い事実として在った。

「……」

明確な意志で以って、此処に在る君の右手を見据えて、僕は陽光に煌めく銀灰色の手を取った。

そっと触れた刹那、感じた君の体温。僕の体温を塗り替える熱量が、君の体温を語る。だが、触れた事実を捨て置き、湧き上がる衝動が在った。

触れて仕舞えば、楽になれるのだろう。そう、漫然と思い描いて居た。

思えば、自分自身が感じて居た胸の狭窄感の逃げ道を用意しておく為に、ある種のバイアスが掛かって居たのかも知れない。

人の心とは、誠に度し難い。自分自身の心さえ僕の管理の及ぶ範囲には居ないらしい。

掌に乗せた小さな君の手を、僕は掌で覆った。

震える親指で触れた手の甲。僕の掌に引っ掛かる君の細い指。浴衣の袂から覗く、艶めく君の手首。扇情的と言っては、下世話な表現なのかも知れない。だが、君は扇情的だったのだ。その容姿は、俗世とは隔絶された世界に存在する、途方も無い存在と思えた。

「っと……」

僕が君の手を取り、君が僕の手を握り返したと同時に、君は不意に歩き始めた。

人波を擦り抜け、真っ直ぐ向かう先の見当は付いた。

「金魚掬い?」

その問いに、君は頷く。

果たして、金魚を飼育する為の設備を持って居るのだろうか。費用も手間も掛かる。貴重な時間さえ削って、金魚を飼育する覚悟は在るのか。

思うことは、人の数ほど溢れた。だが、何れも愚問なのだろう。妙に勇んで草履の音を響かせる君の様子を見て、掛ける言葉は引っ込んで仕舞った。

やがて、屋台の手前で立ち止まる君に追従するように、僕は立ち止まった。

君の横に並び立ち、眼前に据え置かれたビニール製の水槽を眺める。極彩色の小柄な金魚が、木漏れ日の差し込む水槽の中を縦横無尽に泳ぎ回る様子が見て取れた。

「いっぱいいるね」

立ち替わり、君の様子を眺める。水面が弾いた陽光が、君の肌の上で揺らめく。酷く興味津々な様子で、水槽を凝視する君は、金魚を初めて見るのだろうか。

湧き上がる疑問に回答を求める訳では無く、ただ君の夢中な様子を見据える暇。君の新鮮な表情を脳裏に焼き付けた。

「おう、ねえちゃん。一回やってみないかい」

麗らかな世界に浸る暇に響いた、威勢の良い声。見上げた先に居たのは、眼前の水槽を挟んで向かい側の店主。水溶性の薄い紙を貼ったポイを掲げて、快活な笑顔を浮かべて居た。

だが、当の君は酷い焦り様で、主人の顔を一瞥。然して、縒れた鼻緒一本が支える草履とは思えぬ速度で、後方へ駆け出した。

「おおお?」

突然の出来事に、僕は引っ張られるが侭に出店から遠ざかる。背後を見遣った瞬間に目の合った店主に向かって、「また来ます!」と声を掛けることが精一杯だったが、店主のサムズアップが、彼の人柄を物語って居た。

君の様子を間近から眺めて、先刻から抱えて居た、君に係る疑問。

君は、人に慣れて居ないのか。人が苦手なのか。人が苦手だから、人に慣れて居ないのか。

確信が持てる想像は、飽くまでも可能性に過ぎないが、人に慣れて居ないことは事実なのだろう。

程なく、君は立ち止まった。

肩を上下に揺らして、乱れた呼吸を整える君。

「だ、大丈夫?」

僕の問い掛けに、君は肯定の意を示した。

君が首を振る所作は、何時の間に見慣れて仕舞ったのか。肩を揺らしながら、忙しなく周囲を見渡す君の一挙一動から、次の行動を予測する僕。

然し、君への心配は杞憂。今日の計画を立てる必要も、恐らくは無かったのだろう。

目に留まる出店を見つけたのか、束の間の休息から一転。何の予備動作も無く、僕の手を引いて一歩を踏み出す君は、宛ら子供のように見えた。

然して、君が足を止めた場所は……。

「かき氷」

君は頷くこと無く、プラスチック製の容器に裁断された氷が盛られ行く様子を、食い入るように眺めていた。

別段、かき氷が食べたい訳では無いのだろうか。先程から、僕と同世代の連中に取っては、知識を付けた場所さえ曖昧な常識の範疇に在る物事に対して、格別の興味を抱く様子が見受けられた。

箱入り娘と言うのだろうか。学校生活では、そのような素振りは見せなかったが……。

とは言え、このまま呆然と立ち荒んで居る訳に行くまい。人様の迷惑と言えば迷惑だ。

僕は、チノパンに捩じ込んだ財布を取り出して、メニュー表を一瞥した。

「すみません。いちご一つ」

「あいよ!300円ね!」

僕たちの注文を待ち侘びて居たのだろう。威勢の良い店主は、野太い声を張り上げた。

「椎名さんは?」

僕の視界の端で、僕の一挙一動を刮目して居た君の身体が強張った。

「どれがいい?」

財布を持った手で、僕はシロップの後面に置かれたメニュー表を示す。聞き慣れた名が連なるメニュー表だが、果たして君が選ぶ味は何か。

暫くの間、メニュー表を眺めて沈黙して居た君が、おずおずと指し示した先には、僕の予想と相違ないメニューが記されて居た。

「ブルーハワイ、一つ追加で」

「あい毎度!」

僕の頼んだ品を削る間に、手際良く君の分の容器を準備し始める店主。僕は、名残惜しさを噛み締めながら、君の手を離した。

開いた財布に残る札は三枚。全て、野口の旦那だ。

僕は、なけなしの野口を一枚引き抜き、今生の離別を惜しむ心の儘、君の分の氷を削る店主に差し出した。

「毎度!四百円の釣りだ」

店主は、僕の手から千円札を受け取り、予め用意して居た四百円を、僕に手渡した。

その儘、僕たちは商品の完成を待つ。

「……」

二人の間に会話は無い。然らば、静寂に潜む僕らを取り巻く周囲の環境音を強調させた。

活気に溢れた若人の喧騒。自然の摂理の下で生きる木々の騒めき。諸々が鼓膜に語り掛ける、夏を間近に控えた初夏の風情。無情な時の流れは、悠久を流るる緩やかな渓流。束の間の活気に溢れた、木漏れ日の落ちる境内で、僕と君は互いの時間を共有して居た。

此処で、君は何を想うか。この逢瀬を由無し事とは思わず、多少は楽しめて居るのだろうか。

僕は君を見遣った。

ふと、通い合った互いの視線。涼風に揺れる浴衣の裾が語る、無常の時に相反する君は、視線を逸らさない。斯く言う僕は、所詮は小心者の末裔だ。君から視線を逸らして、溢れる羞恥心の源泉を断ち切る為に、削り氷の様子を眺める他に無かった。

その瞬く間を置いて、失念して居た事案を思い出したかのような素振りで、君は我に返った。

俊敏な所作で、腕に下げた巾着を漁り始める君の行動。大方の察しは付いた。

「いや、いいよ。これは僕の奢り」

僕は、君の行動を制した。

懐は、宛ら宇宙。只管に寒い。でも、僕の方から誘った手前、崩落する寸前の男としての脆い尊厳の形は保った儘で居たかったのだ。

「あいよ、お二人さん!」

君が、僅かな逡巡の影を落とした瞬間、タイミング良く、店主の声が掛かった。

その手に在る、見慣れた飽きることの無い代物。店主から、綺麗に器に盛り付けられた鮮烈な紺碧と躑躅色の削り氷を受け取り、片方を君に差し出した。

「はい」

君の眼前に据えた零度の息吹が、火照った掌に浸透する感覚。程良く心地が好い。

暫しの逡巡の末、漸く君は手を伸ばした。

僕の手から器を受け取る間は一瞬。然して永遠のような一瞬。僕の眼前に立つ君が口を開いた瞬間、僕の意識を覆う時間は停滞した。

「……」

然し、君は口を閉じた。

逡巡に逡巡を重ねる君の胸中に抱える想い。僕が汲み取ることは叶わない。きっと、森羅万象を司る神さえ知り得ない理由が在るのだろう。

然して、君の双眼に僕の惚けた面が映り込んだ。そして、僕の双眼に映り込んだ君の表情には、儚い笑顔が咲いた。

その隔絶された美の権化。言葉を仕舞い込んだ少女の微笑を湛える姿を見る機会なんて、僕の理想が渦巻く空想の世界にさえ存在しなかった。

紡ぐ言葉さえ虚空の彼方に消え失せて居た。

蒼穹に漂う入道雲にも負けぬ白砂の如き白に埋め尽くされた、僕の大脳新皮質。言葉さえ纏まらない思考回路が導き出せる回答など無い。美を尊ぶ誠の心に抗う術は無く、ただ君を見据えては想い焦がれる時間が過ぎて行った。


……


それからの僕の記憶は曖昧だった。ずっと、問答に耽っていたのも知れない。

意識の片隅に巣食う君の存在が、僕の意識の前面を覆った事実は此処に在る。ただ、それだけ。君との邂逅を果たした日から数ヶ月が経過した今宵、漸く溢れる思慕は堰を切った。

後戻りの出来ない場所まで来て仕舞ったのだろう。想い到った強い感情を忘却の彼方に追い遣る方法に、思い及ぶ可能性は無かった。

ただ、君の形貌を眺めて居る幸福を噛み締めた、桜雲の舞う春。それから、寡黙な君の声を聞きたいと願った、雨雫の滴る梅雨。何時しか、君との逢瀬を望んだ、玉雫が肌を伝う初夏。

そして、淡い月白が降る今宵。遂には、今生の離別さえ君と添い遂げたいと願って仕舞った。

輪廻は廻る糸車。斯くして尚、因果は付き纏うのだろう。廻る因果は君との逢瀬。悠久の輪廻は巡り、幾度も君との邂逅を果たせるのならば、永遠さえ君と添え遂げたいと思えたのだ。

神が求める理想的な存在を創造する過程で生まれた、制御の利かない感情に左右される人類。恋情が制御の利かない感情たる所以など、理解の及ばないものと信じて止まなかった。

だが、道理だ。いま僕は、君への恋情を確信した。

淡い恋情を自覚する機会は、幾度も在った。昨晩の瞑想に耽った暇が記憶に新しいが、君の姿を眺めては空想の羽を羽搏たかせた過去も然り。

恋情を恋情と理解する為には、僕が感じていた感情から汲み取れる程度の好意の欠片では、途轍も無く足り得なかった。恋情の輪郭は、常日頃から視界の片隅には存在して居たが、僕の知識量や経験では、不明瞭な輪郭しか摑み取れなかったのだ。

いま、漸く恋情の形を見た。掴んで仕舞えば、なるほど。呆気の無いものだ。

恋情は、飽くまでも感情だ。数多の感情に内含される、心が持つ機能の一種だ。そこには、言葉で語られた知識では理解が遠く及ばない、『自分自身が恋情を抱く経験』と、『自分自身が抱く感情が恋情と確信した自覚』が必要だったのだ。

恋情を知り得ず恋情を抱く経験が、恋情を恋情と知る手段とは、僕が抱く感情を言の葉に託す為の語彙が不足して居るのかも知れない。

恋情を抱き、苦悩に悶絶する間は、好意の対象を想い、その容姿や表情、声が脳裏を離れることは無いと、文献を読んだことは在った。

きっと、正しいのだろう。いま、思い返した僕の人生は、文献の記述を点々と辿る人生だった。

だが、当時の僕が、僕自身の状況について、恋情と理解して居たか否か。答えは、断じて否。恋情とは思い至らず、悶々とした感情程度の認識だった。

恋情が恋情たる所以。それは、当人の意識の問題なのだろう。自分自身が抱いている感情が、恋情で在ると確信した時、悶々とした感情は恋情への昇華を果たす。そこに、恋情を定義する外因的な知見は必要ない。恋情は、当人の感じた感情の程度を図る指標の一種とも言えるのかも知れない。

だから、僕の感じた恋情は、いま抱いている君への思慕。そこに他者の指標は必要ない。

そうだ。僕は、君に恋をして居たのだ。

「……」

見晴らしが良い、神社の境内から逸れた雑木林。開けた平地が一望できる場所。此処に、僕と君は居た。

ちらほらと疎らな人影が、月影に照らされる叙情的な光景。小規模ながら、縁日の終わりを締め括る花火大会が開催される前に、良い場所を確保しておこうと思ったが、良い場所には人が寄り付くもんだ。

比較的に人影の少ない坂付近に聳える常緑樹の根元に、僕は腰掛けた。

「大丈夫?」

浴衣で座る場所では無いのだろうか。僕が腰掛けた場所の隣を見据えて、暫く難しい表情を浮かべて居た君に、僕は声を掛けた。

問答する言葉を持たない君は、無言で首を横に振り、意を決して僕の隣に腰掛けた。

周りの男女ペアや複数人の男連中の会話が聞こえる最中、僕と君は終始無言だった。

とは言え、この静寂さえ心地が良い。火照った頬を撫ぜる夜風が揺らした、君の袂と髪。時折、君の浴衣の裾が触れる距離に僕は居た。

切り取られた刹那の間に、僕と君を隔てる隙間は無い。原子さえ、僕たちを別つことは出来ない。

そして、時偶に香る夜風の便りは、仄かな君の匂い。夜風の芳香に紛れて、それは言葉の無い君を語る。なんと表現すれば良いか、言葉に余る芳香。本能的な幸福を想起させる香り。煩悩を必死に押し込める僕の身体は正直だ。心臓の音が、只管に喧しかった。

「あと数分かな」

気が付けば、腕に巻いた時計の指針は七時二十八分を指し示していた。夏至を超えた七月下旬の今宵は、仄暗い満天の星空と仄かな望月の月華が覆う。さざめく有象無象の喧騒に掻き消された静寂は、決して喧騒と相容れない孤独な概念だ。

周囲の有象無象は、花火大会の開催を今か今かと待ち侘びて居るのだろう。だが、夜空に咲く大輪が待ち遠しい……とは、僕は思わなかった。

寧ろ、この時間を切り取って、時間の渓流から隔絶された空間に在りたいとさえ思う。

時間は、須く流れる。時間は、人間の意志など意に介する余地も持たない。いま、花火大会が始まって仕舞えば、それは君との逢瀬に告げられた終幕の鐘に等しい。

漸く掴んだ逢瀬。まだ、終わらせたくは無かった。

幸福が増える程に苦悩は増えて、苦悩が潰える前に、次の苦悩は降り積もる。然し、今が幸福である事実は揺るぎ無い。

虚空を見上げて、間近に在る君の気配に幸福を感じる暇。僕が抱いて居た君の印象を塗り替えた逢瀬。無口で、感情表現に乏しく掴み所の無い級友と思って居た君は、存外に、身体と表情で感情を示した。言葉で語らぬ少女は、表情で言葉以上に語る。僕に抱かせた君の印象は、今日一日で、如何程も塗り替えられた。

静寂に揺蕩う君は、虚空に視線を彷徨わせ、膝を抱えながら前後に揺れていた。言葉を抱く君の胸中に渦巻く言葉は、何を語っているのか。その言葉を、僕は君の口から聞きたかった。

その刹那の閃光。虚空を彩る大輪が咲いた。

周囲に散在する若者が「おお!」と、感嘆の声を上げた途端に、あらゆる雑踏の音を掻き消した大輪の咆哮。命を賭した叫声は、空間さえ揺るがす渾身の一撃だった。

円弧を描いては、落花飄々と虚空に溶けて消えて行く大輪を眺めて、僕も「おお……」と声を漏らした。

果たして、君は夜空に咲く花を眺めて何を想うか。咲く普遍的な美しさか、散る侘び寂びの美しさか。

二発目の蕾が茎葉を伸ばす魂の飛昇。徐々に開花の時が迫る中、僅かに覗いた君の瞳に映る白の光点。君は、思い馳せる。君は、大輪の開花を待つ。僕の視線を感じる素振り無く、微動だにしない。夢中なのだろう。周りの状況など、見えてないのだろう。


「きれい」


君は、呟いた。

たった一言。時は一瞬。されど、遥かな時間さえ待った瞬間。君は、呟いた。

二度目の衝撃。体を貫く、強烈な振動さえ希薄な刺激。僕の視線を、君から逸らすことは適わなかった。

「……」

そして、君は気が付いた。

油断して居たのだろう。唐突に口元を押さえて、現状を確認するかの如く僕を見た。

停滞した空間に、僕たちは在った。喧騒から隔絶され、花火の咆哮は鳴りを潜める。呆然と君を見据える僕は、一体どんな表情を浮かべて居るのだろう。

絞り出せる言葉は無く、夢幻の境に在ると錯覚した心の混乱が、僕の感情を掻き乱した。

ただ、この感情を誤魔化す術は無かった。

此処に在る僕たちは、互いに無言。僕の視線は君に向き、君は視線は虚空を彷徨う。

やがて、君は小さく溜息を吐いた。

「もう、誤魔化せないね」

君は、観念したかのように言葉を紡いだ。

それは、管楽器の旋律を彷彿とさせる声。繊細な声音が振動させた空気が、僕の鼓膜に触れる。驚愕とは、今の僕自身の感情を指すのだろう。

「……初めて聞いたよ」

「入学して、初めて喋ったから」

然して、次から次へ語られる言葉。夜空の大輪の咆哮とは比べ物にならない程、僕の心を揺るがす音色。通い合う視線と言葉の応酬に、僕は感動さえ感じて居た。

「油断してた」

君は肩を竦めて、自分自身を嘲笑するかの如く笑った。

無口な君に感じた好意とは異なる好意。言葉を紡ぎ、微笑を湛える君への思慕は、止め処なく溢れる。同一人物を相手に、言葉の有無で感じる印象とは、斯くも変わって仕舞うのか。

「でも、どうして……」

問うことが正しいか否か。僕が判断する為の材料は、切れ端の一片さえ無い。だが、僕は知りたいと願った。願って仕舞った。

だから、僕は問うた。

大輪の種が飛翔する音が鳴り響く中で、君は沈黙の海に沈む。膝を抱えて、空を翔る光点を見据えて、何事か思惟に耽る。その端正に整った横顔に、僕は恋患って居た。

「いずみくんは、友達はいる?」

刹那、僕の心臓は跳ねた。油断して居たタイミングで語られたのは、聞き慣れた僕の名。大輪の砲声さえ搔き消えた、聞き慣れぬ君の言葉。

僕の名前、知って居たのか。

浮かれて舞い踊りたい欲を抑えて、僕は言葉を模索する。

「多少は、居るかな」

「じゃあ、仲のいい友達はいる?」

君の問いの真意。僕の問いの回答に係る質問なのだろう。

だが、その問いが意味する真意とは、皆目見当も付かなかった。

「仲の良い友達……数人くらい」

僕は、指折り数える友人の顔。良く遊ぶ友人は、片手の指で収まる程しか居ない。

然し、君は満足そうに「そっか」と頷いた。

「私は、友達はたくさんいるんだ」

君は空を眺めて、癖の付いた髪を梳く。

「でも、ほんとに仲のいい友達はいない」

穏やかな表情を浮かべた君の横顔。仲の良い友達が居ない現実。それは、酷い苦痛の味を想起させた。

然して、君は僕を見据えて、有ろうことか屈託の無い笑顔を晒した。

「それが好きなんだ」

それは、呼吸さえ止まる程に優美な姿だった。

表情で語り続けた君は、表情に加えて言葉で語る。外見では理解できなかった内面は、表情では語られることの無い、君の胸中に抱えた想いの吐露。漸く聞いた、君の内心の発露だった。

「じゃあ……君は友達と程好い距離を保つために?」

君は、「うん」と小さく頷いた。

「そっか」

僕は、納得した。そして、同時に嬉しかった。

君の声を聞いたこと。君の内心に抱える想いの奔流を聞いたこと。延々と待ち侘び続けた理想が、現実として此処には在った。

何てことは無い。静寂を纏う君は、普段から友人に囲まれて居た。好奇から寄り付く人も居るのだろう。でも、無口な君に話し掛ける「友人」は、確かに居たのだ。

側から見れば、それは前者の人間ばかりの印象が強かった。

然しだ。君から見れば、それが殊更に良い関係だったのだ。

一発入魂の如く咲き誇り、須らく生を散らす小玉の花を眺めて、僕は長々と息を吐いた。

やがて、生の息吹の終焉を聞く暇に、君は口を開いた。

「ね」

「うん?」

僕は呼応する。

「私も、質問していい?」

首を傾げて、囁くように問い掛ける君。僕は、「もちろん良いよ」と返した。

深呼吸一つ。束の間の静寂。切り取られた刹那に感じた、本能的な焦り。僕は、君の様子に胸の緊縛を感じた。

「いずみくんは、なんで今日、私を誘ったの?」

直前に感じた予覚に準ずる質問。僕の緊張は、突如として極限に達した。

「それは……」

僕は、回答に窮した。

いや、回答なんて此処に在った。数ヶ月以上の短い永遠を、胸の内に抱え続けて生きて来たのだから、今更になって回答を模索する必要なんて無かった。

然し、眼前の君に言葉で伝える勇気を用意する暇なんて無かった。

好意を伝えて仕舞えば、僕と君の関係に大きな影響を与えて仕舞うのだろう。良い方に転べば万々歳。悪い方向に転べば、君と僕の関係に修復の利かない溝が入って仕舞い兼ねない。

この関係の命運を握るのは僕だ。いま此処で、運命の糸を手繰り寄せた結末を見る勇気など、絞り出せるものか。

「……」

でも、君は望んで居た。月桂を照り返す君の目が語って居た。僕の真意の吐露を、僕の想い人は待ち望んで居た。

僕が抱える胸中の恋情の正体に気が付いて居るか否か。世情に疎い君のことだ。恐らく、質問に特別な意味など無く、純粋な興味が故に他意なく聞いたのだろう。

僕が、君の胸中の想いの吐露を望んだ過去と同様、君が望んだ真意。だが、君は真摯な態度で、僕の問いに答えた。

双方の回答の比重なんて、個人の裁量で比較する術は無い。人の感情の軽重を客観的に計る指標など存在しないのだろう。

月が森羅万象を平等に照らす世界で、僕は平等で居られない訳が無かった。

拳に握る汗。背筋を伝う雫。いま伝えないで、いつ伝えられるのか。勇気など、出して仕舞えば呆気ないのだろう。

夜空の大輪が咲き乱れた世界で、青白く煌めく君の凛とした表情を見据えて、静寂なる空間に在る僕は、震える口を開いた。

刹那、際立った大輪の咆哮が響き渡った。


「好きだから」


大輪の咆哮に追従して紡いだ言葉。僕の思慕の吐露。夜空の大輪に負けぬ程に大きな想いの奔流。僕は、確かに伝えた。

然し、君の表情は翳った。

夜の静寂さえ淡い、暗々とした影を落とす君。その表情が抉った僕の心臓は、しめやかに止まった。

「ね」

刹那、目眩が襲った。僕の肺は、呼吸さえ覚束ない。此処から、一目散に逃げ出して仕舞いたい衝動に駆られる。

だが、君は言葉を紡いだ。

「も一回、言って」

「え……?」

「あれの音で、ちょっと聞こえなかったから……」

言葉を紡いだ君の細い指が指差す先には、既に虚空に消えた花火が残した白煙。それは、予期した最悪の事態を打ち消した事実だった。

直後、僕の口から安堵の溜息が漏れた。

然し、ほんの数秒程度の出来事の為に擦り減らした精神は完膚無きまでに疲弊し、緊張の糸は断ち切れて仕舞った。

「き、気になったからさ……君が、どんな人なのか」

再度、君に真意を伝える為の精神力は、此処には残って居なかった。もう、あの勇気を絞り出すタイミングは、僕の中には存在し得なかった。

若干、不思議そうな表情を浮かべた君。然して、納得したかのように笑った。

「そうだったんだ」

君は膝を抱えて、虚空に語り掛けるように言葉を投げる。

「みんな、不思議に思うよね」

再び、嘲笑を醸す微笑を浮かべて、君は笑う。

その言葉に、僕は内心で叫んで居た。今日の誘いは、好奇が故の誘いでは無いと、ただ必死に叫んで居た。

然し、決して空間を震わせることの無い叫声は、大輪の咆哮の如く飛び出すことは叶わなかった。


……


花火大会が終わり、雑木林から消えた人影。終幕を告げる閃光の如く、束の間の逢瀬は終演の時を数える。名残に後ろ髪を惹かれて、僕は此処に座り込んで居た。

然し、延々と此処に居座る訳には行かない。時の緩流に歯向かう術は無く、常識の枠内で生きる僕らの夜は、直に終わる。何れ、更ける夜は過ぎ去り、朝が訪れる。

そうだ。この逢瀬の終幕が、君との因果の終焉では無いのだ。

「そろそろ、帰ろうか」

その言葉に頷く君に、若干の寂寥感が蟠る僕の心中は、君の知る由も無いのだろう。

背を凭れる常緑樹の根元から立ち上がって、僕は君を見下ろした。

「……」

眼下に在ったのは、僕を見上げて、両手を伸ばした君の姿。掌は、満天の星空に浮かぶ望月を覗く。その姿に高鳴る鼓動。数刻前に触れていた君の手と、改めて意識した途端に、それは羞恥の念を駆り立てた。

浴衣の袂が捲れて、露出した青白い腕。流線型を描く腕から掌に視線を辿る間に、鼓動さえ耳を叩く。

その小さな手に、僕は触れた。

艶やかな肌を滑り、そっと握り締める。然して君は、何変わらぬ微笑を湛えて、反して僕は、羞恥に堪え兼ねて視線を逸らす。無心を演じた儘、地面に足を据えて、君を強く引き寄せた。

然し、勢い余った。小柄とは言え、存外に君は軽かった。厳つい男子の体重しか知り得ない僕の力加減は、華奢な君には強過ぎたのだ。

立ち上がった瞬間には手を離した僕の胸元に、勢い余った君は、そっと凭れた。

硬直した僕の身体。張り詰めた背筋に伝う汗。僕の眼下に在るのは、緩く畝った髪。仄かに煌めく艶やかな髪。顎を引いた僕の鼻腔に触れるのは、君の匂い。

「ありがと」

胸元に凭れた儘、君は礼を告げた。

此処から、君の表情は伺えない。だから、僕は君を見据えて居た。瞳を合わせて仕舞えば、僕の脆い心臓は爆散して仕舞うのだろう。

田舎の広大な平地を眼下に、満天の星空の下。現実に在れば良いと願った理想が、いま現実に在る夢幻のような事実。

僕の鼓動は、聞こえて居るのだろうか。汗の臭いは、大丈夫だろうか。君は、緊張しては居ないのだろうか。

そんなタイミングだった。君が、僕を見上げたのは……。

「顔、赤いね」

「い、いや。これは違くて……」

極度の緊張は、言葉を仕舞う抽斗さえ緊縛し、必死の弁明は言葉にならない。君の言動に右往左往した挙句に、珍妙な言葉ばかり洩らす僕を間近で見据える君は、「あはは」と笑った。

初めて聞いた、君の愉快な笑い声だった。

途端に胸元の圧が消えて、飄々とした表情を浮かべた君は、僕の眼前に立った。然して、そっと目元を拭った。

「ごめんね。ちょっと楽しくなっちゃった」

「そ、そっか」

君の指標では、些細な悪戯に過ぎないのかも知れない。でも、僕の心は激しく動揺して居た。

当たり前だ。初めての経験の連続に係る相手は、他ならぬ君なのだから……。

僕は、そっと溜息を漏らした。

「帰ろっか」

望月を眺めて、君は言葉を漏らす。

「そうだね」

僕は未だ夢見心地な儘、承諾した。


……


帰路を辿る影二つ。月華の明光が頼りの遊歩道を行く、二人の陰影が伸びる。視界を遮る遮蔽物も無い田舎の直線歩道だ。いま暫くの間、僕たちは帰路を違える時まで、隣に並んで家路を辿ることと相成った。

時偶に、他愛の無い話柄に満開の花が咲き、良い塩梅で沈黙が訪れる。夏を間近に控えた今、夜半の静寂を搔き消す虫たちの協奏曲。喧騒も見方次第では、美しい旋律に変わるのだ。

僕たちの間に会話が無ければ、周囲の環境に溶け込み、非現実とさえ紛う現実に浸っては悦に入る暇。突然、君は「ふふ」と笑った。

「どうしたの?」

「ううん。ちょっと思い出し笑い」

草履の音を響かせて、君は静寂に揺蕩う。揺れる髪の隙間から覗く表情に、僕の心は揺蕩う。

「ね。いずみくん」

君の呼び掛けに、僕は「うん」と答える。

「いずみくんが、私を誘った理由……なんて言ったか覚えてる?」

「え?」

矢継ぎ早に言葉を連ねる君の問いに、僕の胸中の早鐘は鳴り響いた。

好意を示した勇気が霧散した過去。潰えた勇気が故に絞り出した言葉は、未だ良く覚えて居た。

「君の為人が、気になったから……」

君は、「そうだったね」と笑った。

満ちる静寂。地平線の彼方。遥か三十八万キロメートルの距離に在る望月を眺めて惚ける君は、どんな意図を抱えて居るのだろう。

草履が打ち鳴らす音。靴と砂利の擦れる音。時の渓流を示すかの如く、規則的に響き渡る空間に在るのは、僕と君。ただ二人。

「じゃあさ」

君は、虚無に向かって囁くように言の葉を紡いだ。そして、君の草履の音は止んだ。


「読唇術って知ってる?」


麗らかな声。その声は、時の渓流さえ塞き止めた。

振り返る勇気を振り絞る余裕なんて、僕には無かった。満月の月影さえ霞む月色に埋め尽くされた脳裏は、途方も無い虚無に至る。

その虚無に落ちた頭で、唯ひとつだけ。僕は、理解した。君が辿り着いた理解について理解して仕舞った。

「口の動きってさ。耳には聞こえない言葉でも……」

「ま、待って!それって……」

無意識に振り返って、僕は君の言葉を遮った。でも、淡い月明に映えた、人待ち顔で立つ君の姿は、宛ら幻影のようで……。

「嬉しかったよ」

無垢な微笑が、立ち止まった空間ごと切り取られた一枚絵のように、ただ只管に美しかった。

手の届かない距離。でも、声は届く距離で君は揺れる。

そうだ。此処に、君は居た。

「本当は、いずみくんの口から聞きたかったんだよ?」

無垢な微笑も意地悪な表情も映える君に絆された僕は、きっと惚けた阿呆面を晒して居るのだろう。僕に与えられた行動の幅は紙縒ほど細く、焦燥感と高揚感、羞恥心が複雑に交錯した胸中が生み出した魔物は、僕の脳裏に浮かんだ言葉の断片さえ啄んだ。

「もう一回、言って欲しかったなぁ」

目を瞑り、後ろ手を組んで揺れる君。

「ご、ごめん……」

情けない話だ。答えるべき言葉は一切合切、脳裏に浮かぶ気配も無かった。

君に魅せられた僕は、ただの腑抜け。本能的な感性に依る君への思慕は、僕の誠の心だ。自分自身の心を欺く術は持ち合わせて居ない。

向かい合う身体。然れど、僕の目線は落ち着き無く、君と虚空と望月の間を彷徨う。

「顔、赤いよ?」

「それは、まぁ……」

手の届かない距離から、僕の表情を覗き込む君。僕の嘘偽りは、もはや無意味なのだろう。もう、捏ねる嘘も残っていない。捏ねる嘘は、君に奪われて仕舞った。

そうだ。僕が嘘を吐く前に、君は僕の本音を見つけ出しては、造作も無く拾い上げた。

心の奥底に仕舞い隠した想いさえ汲み取る君は、僕の心を読めるのだろうか。女子とは、斯く言うものなのだろうか。

思い悩む暇さえ与えられない。悶々とした感情に振り回されて、君の悪戯な遊び心に弄ばれて、僕は心身諸共に磨耗して居た。

だが、僕は此の期に及んで漸く噛み締めた。

君は、僕の恋情に気が付いて居るのだ。それ以上も以下も無い。それが全てなのだ。

事実とは非情で残酷な概念だ。事実は姿形や意志を持たず、自ら知られる為にノコノコと歩いて来る訳でも無い。ただ、流されて来るのだ。僕自身の意志とは関係なく、ただ此処に在るのだ。

僕が、君に寄せる恋情。その恋情の切っ先が指し示す先には君が居る事実を、君自身は知っている。その事実に触れた僕が、抱える恋情の矛先である君に視線を合わせることが出来ないのは、至極当然なのだろう。

「私は?」

「え、え?」

唐突に話を振られて、正直な心は戸惑った。

当の僕の声帯は、自分の意思とは無関係に引き締まる。焦燥感に急かされて君を見遣れば、自分自身の巾着を持った手で、自分自身を指差す君が居た。

「私の顔」

「椎名さんの顔……?」

「うん。赤くない?」

僕自身の火照る顔を差し置いて、君の顔が赤いと指摘するのは気が引けた。加えて、僕の色覚がトチ狂っているので無ければ、君の頬は、月影の白を宿した珠玉のように見えた。

「赤い……のかな?」

僕は、答えた。

「赤いよ。きっと赤い」

君は、答えた。白砂のように蒼白な顔色で、君は答えた。

「どうして」とは、僕には聞けなかった。顔が赤いと紡いだのは、何かしらの理由が在るのか。君は、君自身の表情に変化が無いことに、気が付いて居るのだろうか。気が付いているのならば、何故、君の顔が赤いか否か、僕に問うたのか。

数刻前は、只管に触れたいと願った君の心に触れて仕舞うのが、今は怖かった。

期待している訳では無い。いや、期待が無いと言えば嘘だ。だが、過度な期待は身と心を滅ぼし兼ねないと、僕は知っていた。

そうだ。蓋を開けて見れば、感情の起伏に富んだ、揶揄い好きな君が居た。悪戯に心が擦り減る暇さえ幸福と羞恥の坩堝に溶け込んだ僕には、現状を瓦解させる勇気なんて無かった。

「……」

だが、気に掛かるのだ。知れば知るほど、殊更に知りたくなって仕舞うのだ。言葉で語らない君とは異なる雰囲気の君を見て居れば、斯くも当然のことだろう。

君と初めて会った日、僕は君の存在を知った。それから、君の外面を知った。明くる日、君との逢瀬の味を知った。やがて、君の声を知り、内面を知った。

そしていま、君の心の深淵を知りたくなった。

過去の僕が知り得なかった心の深淵に、恋情が芽生える余地が在るのか。僕の知らない君は、まだまだ隠れて居るのだろうか。僕は、知りたくなって仕舞ったのだ。

自分自身、難儀な性分だと思う。面と向かって言葉を交える機会など滅多に無い僕が、有ろうことか意中の女子と視線を通い合わせて、君に問いを投げ掛ける。此の儘、切り取られた空間と関係に甘んじて生きるのか。将又、更に高次に在る未来を掴み取る為に、美しい一枚の絵から抜け出すのか。

だが、僕も所詮は此の地に芽吹いた命だ。単なる男だ。男なる生き物は皆、こんなものだろう。

僕の意志の枠外で無常を刻む鼓動。握った拳に感じる湿った汗は、心に巣食う感情を映す鏡。聞きたいことなんて、幾らでも在った。

緊張の弦が張り詰める中、無常に刻む時間だけが無情に過ぎて行く。思い返せば、思い悩んだ日々は、何時も斯く在った。散々、僕は待った。待って、待って、只管に待って、漸く得た逢瀬では無いか。

踏み出したのならば、淡々と前に進めば良いのだ。立ち止まっている時間には、もう浸り過ぎた。

もう、逆上せて仕舞ったよ。

「し、椎名さん」

静寂は喧騒。虫の音は讃える喝采。僕は、擡げた足を踏み出した。

「椎名さんが、僕の誘いに乗ってくれた理由って……何なのかな」

拒む障壁も無い。君と僕の間には、もう何も無い。そして、僕は踏み出した。

「そうだね」

静かな声。透き通る音色。君は、その場で立ち止まって、組んだ後ろ手を解いた。

「好きじゃない人と、お祭りなんて行かないよ」

その言葉の真意を汲み取る余裕なんて、疾うの昔に枯れ果てていた。

「え……?」

「フェアじゃないよね」

困り顔の君が、淡々と紡ぐ言葉は、処理能力の欠けた脳裏に蓄積されて行く。ただ、呆然と立ち尽くす僕の目を見て、君は……ただ笑った。


「いずみくんのこと、好きだよ」


たった一言。それは僕が望んだ、たった一言の想いの証明だった。

君の声を搔き消す音も無く、虚空を流れ流れて、それは僕の心に触れた。

「……」

僕は、すっかり言葉を忘れて仕舞っていた。

君の言葉が脳裏で反復されて、湧き出る僕の言葉さえ遮る。物理的な距離も心理的な距離も狭まった事実に触れた今、容積の小さな僕の心は、遂に四散した。

「だから……いずみくんの言葉が、嬉しかったんだ」

君の好意を語る言葉が如何に重たいものか。君の外見に抱いた恋情と、君の想いに抱いた恋情。知り得た君の欠片の一つ一つに抱く恋情。君を知れば知る程、僕の恋情は高次に向かって駆け上がる。そして漸く、溢れ出る好意が脳裏を埋め尽くした。

いま、口を開いて仕舞えば、溢れ出る想いの奔流は塞き止められないのだろう。

「いずみくん」

草履の音が響き渡る。一歩、また一歩。触れる音は、君との距離を物語って居た。

君が醸し出す不可思議な雰囲気。僕の意志に触れて、僕の所有物さえ束縛する。そして、此処には君が居た。僕の眼前に、君は居た。

「もう一度、聞かせて」

囁く声。気さえ狂れる程に甘美な色艶に満ち満ちた声。吐息さえ間近に感じる距離で、君は囁く。

「あなたの声で、もう一度……」

「好きだよ」

「え……」

縋るような表情から一転、君は唖然とした表情を浮かべた。

「また、聞こえなかったのかな」

自制心の欠如した僕は、溢れる思慕の儘に、華奢な君の肩を掴んだ。息を吐く間も無く、君の身体は僅かに跳ねた。

もはや、僕の意志が依る場所が曖昧だった。

僕の行動が、僕の意志に依らないのかも知れない。いや、此れさえ僕の意志なのかも知れない。

浴衣の生地を超えて、君の体温が僕の掌に伝わる。初めて、僕の方から触れた君の肢体。その事実に、僕の心臓は痛い程に荒れ狂って居た。

でも、もう止まらなかった。止める事なんて、出来なかった。

「初めて会った時から、ずっと……」

君の澄んだ目に映る僕の表情は見えない。でも、此処から君の表情は良く見えた。

その表情に奥に据える感情は、決して読み解くことは叶わない。でも、盈虧の気配も無い月桂さえ僕の背に遮られた君の表情に浮かぶ頬の朱が意味する感情は、きっと僕の過剰な自意識が見せた錯覚では無いのだろう。

「顔、赤いね」

僕の言葉に、君は視線を逸らした。

「……当たり前だよ」

僕の影を縫って差し込んだ月影に曝された君の瞳に、暗い深淵の底を見る。その深淵の奥底に宿る僕の姿は、互いの意識に、君と僕が存在し合う証明。

「でも、ありがと」

素直な君の言葉が、僕の鼓膜に触れた。

流線を描いた目を細めて、君は顔を綻ばせる。

「ずっと……初めて会った時から、聞きたいと思ってた」

そっと、君は僕の視界から消え、硬直した腕は、誰も居ない空間を掻いた。

張り詰めた空気さえ消し去る感触。僕の胸元に触れた、軽い圧。虚空を掻いた僕の腕が抱き留める形で、君は僕の胸元に凭れて居た。

「……」

言葉は希薄。在るのは、腕の中の感触だけ。腕で抱えて、触れることは無かった掌の行き場は、自ずと定まった。

張った腕を引き寄せて、僕の掌は、君の背に触れた。

「いずみくん。心臓、うるさいよ」

「そりゃあね……」

煩いと言う君が、此処から離れることは無かった。

僕の衣服と君の浴衣の衣擦れの残響に浸る余韻。此処には、他愛の無い会話さえ無い。だが、僕は永遠さえ厭わない。この時間が在り続けるのならば、僕は時の停滞を望んだ。

何れ、止まらぬ時の警鐘が語り掛けるだろう。それまでは、こうして居よう。

間も無く、僕の思考は、君に溶けて消えた。


……


翌日の見慣れた教室。変わらぬ君の姿が在った。

椅子に深々と腰掛けて、黙々と書冊に視線を這わせる君は、昨日の夢現に微睡む姿の影も無い。

然し、あの逢瀬に揺蕩う君が脳裏に焼き付いた今、言の葉を封じた君の姿に高鳴る鼓動は、意外な一面を覗かせた君に抱いた思慕の結果だ。以前に抱いていた感情に重なった想いは、存外に大きかった。

「おはよー」

君に差し向けられた挨拶への返答は無い。ただ視線を合わせて、首を下げる。君は、クラスメイトが良く知る君だった。

「おう」

「ああ、おはよう」

内耳に響いた声の主は、僕の数少ない友人の一人。往斗は、僕の机の前に立って、僕を見下ろして居た。

「いずみ」

朝の挨拶を済ませるや否や、嫌らしい面を湛えながら、僕の真横に寄った。

「お前。今、椎名のこと見てたろ」

無遠慮さの滲み出た声量で指摘する往斗。僕は、書冊を仕舞い終えた鞄を、往斗に押し付けた。

「お。いずみも遂に、椎名推しの仲間入りか?」

何処から湧き出るのか。然して、僕の友人二号が、ボウフラ宜しく湧き上がっては、僕の背後から這い寄り、往斗とは反対側の机の脇に腰を据えた。

「やめておけよ。お前には無理だ」

肩を竦めて、無理と首を左右に振る往斗。追従する洋二は、嘲笑の意を醸す表情で、僕を見据えた。

「何を根拠に……」

「顔だ」

「性格だ」

瞬く間を与える慈悲も無く、僕の友人と思しき有象無象は臆する事なく告げる。その言葉に反応したクラスメイトの数人から、堪えた笑いが漏れ出した。

そこまで堪えたのならば、せめて最後まで抑えて欲しかった。

「言ってろ」

ぶっきらぼうに、僕は一蹴した。

そうだ。この会話は、君の耳に届いて居るのだろう。意味さえ理解して居るのだろう。

僕が君に見合うか否か。僕が判断する事では無い。あの逢瀬が、僕の果敢無い幻夢の生み出した虚実では無いのならば、判断する権利は君に在る。そして君は、確かに選んでくれた。

その事実が、雑念の割り込む余地も無く、僕の心を満たした。

「悪いことは言わんから……」

「さっきの悪言の贅を尽くした罵詈雑言の数々を忘れたとは言わせない」

悪怯れた様子も無く、往斗の都合の良い頭は他所を向いて、聞く耳は両の手で塞がれる。

「何のことかな」

洋二も同様、僕の文句の矛先が差し向けられる前に、外方を向いた。

「その都合良く機敏な頭、交換して欲しいよ」

僕は溜息一つ、意地の悪い表情が張り付いた二人を追い払った。

大人しくも騒々しく、自席に戻る二人を尻目に、漸く訪れた暫しの静寂に浸る。だが、僕には静寂に揺蕩う暇は無かった。

今日の二限目に待ち構えている公民の課題を取り出して、僕はペンを手に取った。

昨日の今日だ。凛々しく聳え立つ課題を憂う前に、今日の朝方に至る迄、課題の存在さえ僕の前頭前野から排斥されて居た。

当然の結果とは納得して居たが、期限は無情に迫る。止まれぬ時間に流される僕も止まれないのだ。

そうだ。やらねば、やられるのだ。

ペンをノートに押し付けて、いざ課題に取り掛ろうと意気込んだ刹那のこと。ふと、机上に細い影が落ちた。

環境の変化に釣られて、意図の無い儘、無意識に見上げた先。陽光を遮った影の持ち主は、外ならぬ君だった。

君が、僕の席を横切る間際に落とした影。無表情な儘、見慣れた後ろ姿を眺める暇に、僕の心臓は激しく脈打った。経験の無い出来事に、動揺の色は抑えられない。

如何にか平静を装い、動じぬ姿で在ろうと教書に手を置いた時、視界の隅で往斗と洋二が、僕の様子を眺めて笑って居る姿が在った。

「……」

僕は、阿呆二人に中指を突き立てて、教書に向き直った。

そして、僕は見つけた。机上に影を落とした君の落し物。差出人に宛てられた、小さな落し物。僕は動揺を抑えて、握った拳に落し物を包み込んで、席を立った。

一枚の紙。丁寧に折られたノートの切れ端を、僕は駆け込んだ化粧室の個室で開いた。


ーーお昼、屋上で待ってるねーー


記されて居た簡潔な要件。それは、長い一夜の逢瀬を語った端的な一文だった。

目から脳へ伝達された文言を噛み砕いた僕は、個室の薄い壁に凭れた。

安堵感と湧き上がる幸福が、胸中を駆け巡る。妄言に取り憑かれた訳では無かったと、不安の根源に居た君自身が証明してくれた。

昼は毎日のように、教室に居なかった君が、立ち入り禁止の屋上に居たこと。以前は想像さえ出来なかった姿さえ鮮明に想像できる。僕の知る君ならば、然して異常では無いと思えた。

だから、僕は笑う。込み上げる情動に従って、笑う。滲んだ視界さえ情動が故の感情の発露だと、僕は笑った。


……


屋上に続く階段。一段一段を踏み締めて、靴の音を響かせて歩く。手汗を握る拳を振って、明光の漏れる階上を目指し往く。

軍靴の音とは程遠く、軍靴を踏み鳴らす心境で、漸く辿り着いた最上階。最後の曲がり角に差し掛かった所で、僕は聞き慣れた囁き声を聞いた。

朝方に散々な罵詈雑言を貰い受けた、憎き腐れ縁の声音。忍び足で登る階段の先に、その後ろ背が見えた。

「何やってんのさ」

「あっ!」

仰け反って、反射的に振り返る影二つ。案の定、腐れた縁の友人二人だった。

「んだよ、椎名親衛隊か……」

「先生かと思ったわ」

盛大な溜息に合わせて毒を吐く野郎二人を見据えて、「何してるの」と、僕は問う。

「親衛隊なら、椎名の動向ぐらい把握しておけよ」

往斗の言葉を補足するかの如く、洋二が「こっちだこっち」と、僕が目指した屋上に続く扉の前に誘う。大方の予想は付いたが、僕は大人しく洋二の隣に腰を据えた。

「ほら、親衛隊。あれを見ろよ」

往斗の視線が注がれる先。曇りガラスの隅に、欠けた小穴が在った。

校内の不穏な輩が抉じ開けたのだろう。自然の造形とは異なる穴を、洋二は指差した。

「まあ、覗いてみろって」

此の儘、当の二人が進む道を誤れば、愚者の道の真髄に至るのも時間の問題だろう。

知ったことでは無いが。

僕は渋々、埃の付着した曇りガラスに片目を寄せた。

窓の縁に吹き溜まった埃が舞う中、開けた一面の蒼と一面の石灰色のコントラストが広がる視界の先。向かって反対側の出入り口の上部に据え置かれた、貯水タンクを背に蒼穹を仰ぐ、紛う方の無い君の姿が在った。

純白の積乱雲が漂う碧落さえ脇役と紛う程、優美な容姿が映える想い人は、人待ち顔を湛えて、癖の付いた髪を涼風に戦がせて居た。

「まさか、ここに椎名が居るなんて思わないよな」

「ほんと。真面目だとばかり思ってた」

両者は口々に、君の印象を語る。往斗は前言に加えて、「絶対に喋らないけど、それがまた良いんだよな」と言う。洋二は、「あの想い耽って居るような表情も良いよな」と、嫌らしい面を湛えて、褒め称えた。

確かに、昼の教室から忽然と姿を晦ます君の行方は、クラスを跨いだ噂話になって居た。

何処に居るのか。君の胸中に抱える想いの矛先は、一体何処に在るのか。それこそ、往斗や洋二が抱いて居る印象さえ持って居たさ。

そうだろう。至極、当然だろう。僕だって、そう思って居たよ。

「な、いずみ。お前だって、そう思うだろ……って、待て待て待て!」

ドアノブに手を掛けた瞬間、二人の静止の声が掛かる。

「なにさ」

「いや、お前。椎名が居るの見えただろ」

扉を挟んで向かい合わせの僕と君。限られた逢瀬は有限だ。時間は、止まらない。止まる術を持たない。ただ、無情に流れる。最早、有象無象の声音に耳を貸す余裕なんて無い。

「知って居るよ」

「なら、此処で見て居れば良い……」

呆れ顔の往斗の言葉を遮って、僕はノブを捻った。

「見て居るのは、もう御免なんだ」

開け放たれた扉の先。ガラス窓に穿たれた穴の奥に在った君を見据えて、僕は往く。刹那の逢瀬に通い合う視線。その場に腰を据えた儘、君は柔和に微笑む。阻む壁は、もう無い。

前進の意志を忘れた連中には、良い薬だろう。

胸中で吠える勝ち鬨。一歩一歩の歩調が奏でる余韻に浸って、一歩一歩を踏み締める。

早々に噂は伝播するのだろう。あの噂話の収集に余念の無い二人のことだ。教室に戻る頃、根掘り葉掘り問い質されるのかも知れない。

……その折に、君は言葉を紡ぐのだろうか。僕以外の人間に、声で語り聞かせるのだろうか。

「……」

入り乱れる正負の感情。双方が相反する二つのベクトルに挟まれる暇に、僕の憂いは加速する。

貯水タンクに続く錆びた階段を踏み締めて、僕は天地の曖昧な碧空を仰ぎ見る。落ちて居るのか、登って居るのか。曖昧な感覚に揺蕩う刹那に、僕は思い至った。

一人で思い悩む必要なんて無い。そうだ。聞けば良いのだ。今ならば、僕は聞ける。今ならば、君の想いは知り得るのだ。

「おはよう。椎名さん」

君の前に立って、僕は口を開く。

「おはよう。いずみくん」

僕の前に座って、君は口を開いた。蒼穹が平等に見下ろす世界で、頬朱を滲ませた君の微笑を見据えて、僕は憂鬱さえ吹き飛ばす。

そうだ。だって、君は言葉を紡ぐのだから。言葉の応酬が叶うのだから。君と僕の距離には、原子さえ割り入る隙が無いのだから。

「良い天気だね」

紺碧の空。白砂の入道雲。千切れ雲。時間は須く流れて、空間を支配する。厳格な束縛の前には、逢瀬さえ囚われる。

然し、輪廻は巡り巡って訪れる。因果も巡り巡って訪れる。一度の邂逅は、未来永劫の往生を約束する楔。

「本当に、良い天気だよ」

今生の逢瀬は、前世の因果に依る運命なのだろう。

途方も無い蒼穹に思い馳せる僕の隣に、君は存在する。過去も現在も未来永劫、此れが変わらぬ運命だとしたら……如何だろう。

「……」

果てない旅路。終わりの無い輪廻。延々と絡む因果。僕は、蒼穹を宿した瞳を見据えて笑った。

「どうしたの?」

「いや。なんでも無いよ」

それは、きっと至上の幸福なのだろうと……僕には思えたんだ。

無口な子、良いですよね。

無口な子が紡ぐ声には、ある種の特別な価値が宿ると思って居ます。希少価値と言いますか、決して語らない声で言葉を紡ぐ意味。情報を纏わず、情報を語らない少女が紡ぐ情報の価値、胸中の吐露。

素敵です。


最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。

もし、琴線に触れる表現等ございましたら、次作も宜しくお願い致します。

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