第89話 根負けスマホ
幸盛はポケットにすんなり収まるのでガラケーにこだわっていた。電話とメールさえできればよいのに、世はアプリアプリと、どこかの自治体までもが便利なアプリを開発して市民に利用を促す有様だが、あのスマホのガタイのデカさは持ち運びに難儀することが目に見えている。
ある日、胸ポケットに入れていたガラケーを不注意で固い床の上に落としてしまった。恐る恐る開いてみたら画面ではない方にひび割れが生じ段違いになっている。しかし、機能としては正常に使えたので、近いうちに買い換えるつもりでいるものの、日々の雑事に追われてなかなかショップまで足を延ばせずにいた。
それから二週間ほどが過ぎた頃、これまた不覚にも職場の更衣室でガラケーを畳の上に落としてしまった。今度は二つ折りのちょうつがいの部分が破損したようで、開閉する際に線だけで繋がっている状態になっちまった。しかし、幸いなことにデータは失われていなかったので、一刻も早く新しいガラケーに買い換えてデータを移さねばならない。
その日の仕事帰りに蟹江町のソフトバンクショップに寄り、開口一番、店員に「ガラケーの在庫はありますか?」と尋ねた。店員は在庫を調べようともせずに即答した。「お取り寄せになりますが」と。幸盛も間髪入れずに応じた。「じゃ、いいわ、よそを探すで」
次に当たったのはヨシヅヤ蟹江店内にあるジョーシンだ。
「ガラケーの在庫はありますか?」
「申し訳ありません」
とにべもない返事。くそっ、と、きびすを返して次に向かったのは中川区千音寺のアズパーク。車を屋上駐車場に駐めて、一階まで降りて外に出てすぐ目の前にあるソフトバンクショップに入る。
「ガラケーの在庫はありますか?」
「少々お待ち下さい」
と、店員は奥の扉を開いて倉庫内に消えた。さすがに名古屋ともなると在庫があるかもしれないと期待する。しかし、戻って来た店員の口から朗報は得られなかった。
クソッ、最後の砦として名古屋の栄にあるソフトバンクまで行けば在庫があるかもしれないが、スマホを売るための戦略としてわざと置かないようにしている気がするし、これから名古屋高速を飛ばしてそこまで行くだけの根性は失せてしまっていた。もし、四軒めであるアズパーク・エディオンに在庫がなければ、いよいよスマホに買い換えるしかないか、と、半ばあきらめかけている。
はたして、やはりそこにもガラケーの在庫はなかった。力なく携帯電話専用カウンターに向かう。幸盛は疲れ果てた顔で店員に声を掛けた。
「四軒回ったけど、ガラケーはどこにも置いてないんだね。今日からでも使える新しい携帯が欲しいんだけど」
小柄な若い女店員が微笑みながら言った。
「料金設定がスマホの方がお値打ちですし、そちらのシンプルスマホなんかは使いやすいように工夫されていますよ」
振り返ると『シンプルスマホ3』という機種が陳列棚に置かれているが、やはりバカデカい。しかし、老眼にとっては大きい方が文字が見やすいし、タッチパネルの操作がし易いのも事実なので、もうあきらめて買うことにした。そして店員が赤外線を使ってガラケーのデータをそのスマホに無事に移してくれたのだった。
最初の一週間は慣れるまでに膨大な時間を要し、わけが分からないものだから、そんなものかと思いながら、今となっては必要のないアプリを次々にインストールしてしまった。その気になれば不要なアプリをアンインストールする方法もあるのだろうが、少し探してみたが簡単にはできぬように細工してあるようで、面倒臭くなったのでうっちゃっておくことにした。
長男夫妻が孫を連れて遊びに来た際に、ラインで動画を送信する方法を教えてくれた。孫の傑作動画を送ってもらい、それを見ては笑い転げた。なるほど、スマホも悪くない。
その日の夕刻、近所を散歩していた時に孫が叫んだ。
「鳥さん!」
見ると鴨のような鳥が用水の橋の上をテクテク歩いている。孫を抱いていた長男が小走りで追いかけると、鴨は用水に飛び降り、なんと、小さな四羽の雛を従え、浮き草をかき分けてすいすいと泳ぎ去って行ったのだった。あれはきっとカルガモの親子だったに違いないと思うのだが、その日の夜、あれこそスマホで動画を撮るべきだったと後悔した。
その教訓は翌日に活かされることとなった。夜遅く、台所でインスタントコーヒーを入れていたら、キーッという声が聞こえたような気がしたので、もしかしたらと思いながらテーブルの下に仕掛けてあるネズミ取りをのぞくと、子ネズミが、粘着剤に身体をくっつけてもがき苦しんでいる。
しめしめ、これこそ動画の被写体にふさわしい。一分間ほど構えていると、二度ほど大暴れしてもがき苦しむ様子を撮影できた。その動画を長男の嫁のスマホにラインで送り、ひとこと添えた。
「もがき苦しむ子ネズミの残酷映像です。南無妙法蓮華経」