落下
窓から差し込んでくる朝日で目が覚めた。久しぶりの、爽快な目覚めだった。
でも、ベッドに染みこんだ血の乾いた跡には思わず閉口した。染みこんだ血が乾いてばりばりになってしまったシーツは、もはや洗濯しても使えそうになかった。まるで殺人現場だ。
トールに刺された腕を見ると、既にかさぶたになって癒えかけていた。
居間に行くと、アンナさんが朝ごはんを作っているところだった。
「おはようなのですっ、コーキ!」
インガが元気よくあいさつしてくる。
その声でアンナさんが振り返った。
「すみませんでした!」
僕は何か言われる前に、アンナさんに深く頭を下げた。
「あの時、俺、おかしくなってて……」
ふふ、とアンナさんは口元に手をあてて笑った。
「コーキ様、俺っていうの似合わないです。僕のほうがかわいくていいと思いますよ。大丈夫です。トール様から聞きました。男の子ですもの、そういうこともあります」
トールがなんと言ったのかは分からないが、何か誤解があるような気がする。ともあれ、アンナさんが気にしていないようで、僕はほっと胸をなでおろした。
「それより、いつのまに、インガ様はコーキ様を名前で呼ぶようになったんですか?何かあったんですか?」
僕は昨晩のことを思い出して、何だか無性に気恥ずかしくなった。
「いや、別に……」
「インガはおかーさんなのですっ!」
インガは胸を張って言う。
「お母さん?」
アンナさんは不思議そうに首をかしげた。
「いや、インガ、ちょっと……」
僕は慌ててインガの口を抑える。
ふふっとアンナさんは笑う。
「インガ様、コーキ様と仲良しになって良かったですね」
「仲良しなのですっ!」
「朝からにぎやかだな」
トールがあくびをしながら居間に現れる。よう、とトールは手を上げて、しげしげと僕を見つめた。
「目は醒めたか?」
トールの問いに、僕は頷いて答えた。
「はい、ありがとうございました」
「何がだよ。腕を突き刺したことか?何なら、また刺してやるか?」
「違います。生きていていいんだって、言ってくれたことです」
トールはふんと鼻を鳴らし、鼻の頭をかきながら言う。
「まぁ、どうせ楽には死ねねぇんだ。生きるしかねぇんだよ」
「何だかトール様、照れてないですか?」
「うるせぇな、さっさと飯持ってこいよ」
「はいはい、ちょっとお待ち下さいね」
「……で、どうする?」
朝食を終え、お茶を飲みながらトールが僕に言った。
「飛びます」
僕は答えた。不思議と不安はわいてこなかった。
トールが一足先に子爵の邸宅に向かって、後で城門で待ち合わせることになった。
「……その間、僕は何を?」
アホか、とトールは呆れたように言った。
「まさか俺の家を汚しといて、片付けしないわけじゃないだろうな?アンナにやらせるつもりだったのか?」
言われてみればそうだった。
改めて見ると、部屋は酷い有様だった。床とベッドには赤黒い血が飛び散り、砕け散った皿の破片が散乱している。思い返して、腕の傷口を見ると、かさぶたが硬くなっていた。指で少しこすってやると、ぽろりと剥がれた。即座に傷が癒えるようではないようだが、明らかに治癒が早い。それにこれだけ血を失っても、さしたる影響もない。自分の異常性を実感する。
(人間のような、人間ではない別の生き物、か)
急速治癒と無限に等しい命、それは確かに常人に比べると驚異的な能力だ。
(でも、中身が僕だからな)
22歳元ニート。運動不足だし、今となっては勉学もさして優れているわけではない。足りないものが多すぎると思った。そんなことを考えながら、僕は部屋を掃除した。
掃除が終わる頃には、時間的にもいい頃合いになっていた。そろそろ出かけようとインガを見ると、何だかもじもじしている。
「どうしたの?」
僕が声をかけると、インガは意を決したように言った。
「て、手をつないであげるのですっ!」
気を使ってくれているのだろう。僕が不安に思っていると思ったのかもしれない。うん、と頷いて、僕はインガの手をとった。小さくて温かい手だった。
「よかったですね、インガ様」
アンナさんがにこにこしながらインガに声をかける。
「うんっ!」
インガは満面の笑顔で頷いた。
インガと手をつないで、城門に向かう。
「ふんぐるい、むぐるぅなふ♪」
インガは歌を歌いながらご機嫌な様子だ。でも、その歌はあの情報の洪水を思いださせるので、正直、あまり歌って欲しくないのだが。
歩きながら、インガの10年を思う。暗い洞窟で祈り続けた10年の月日。狂気の沙汰、それは想像の埒外にある。歳よりも幼い無邪気なインガを見ていると、何だか無性に悲しくなってくる。だから、と僕は思う。未だにわからないことばかりだが、魔物を狩れというなら狩ってやる、世界を救えというのなら救ってやろう。そうして、この少女がずっと笑顔でいられるようにしたかった。
城門につくと、トールとエッカルトが待っていた。
「予想よりも早いですね」
エッカルトは僕の目を見つめて言った。
「……急いできたわけじゃないんですけどね」
そうではありません、とエッカルトは首を振った。
「旦那様は飛ぶのは数日後になるだろうとおっしゃっておりました。あなたは本当に決意がおありですか?」
「いじわる言うんじゃねぇよ、エッカルト」
トールが僕の肩に手をおいて言う。
「日本には男子三日会わざれば刮目して見よという言葉があってな。三日どころか一晩だが、思うところはあったらしい」
「そうであれば良いのですが」
僕は無言でトールの手を払いのけた。ん、とトールが怪訝そうな表情をする。トールとエッカルトを見ていて、僕は胸の内にふつふつと怒りがわいてくるのをこらえきれなかった。
「……お望み通り死んで見せてあげますよ。でも、一つ聞きたいんですけね……」
「何だよ?」
僕は深く息を吸ってから怒鳴った。
「あんたらおかしいよ!インガを墓場みたいな洞窟に10年も閉じ込めて、なんで平然としてられるんだよ! なんで、助けてやれなかったんだよ!」
僕に怒声に二人が返してきたのは、冷たく渇いた視線だった。エッカルトがやれやれという様子で嘆息する。一人、インガだけがきょとんとしていた。
トールが頭をかきながら言った。
「お前の怒りはもっともだ。だけどな、人を一人不幸せにしても、守らなきゃならないものもあるんだ。だが……帰ってきたら一発くらいは殴らせてやるさ。だから、行って来い。そこから始めるしかねぇんだ」
僕は黙って、憤然としながら城門へと向かった。
城壁の階段を登る。
登りながら、引きこもっていた日々を思い返す。いじめにあい、心が挫けてしまって、世界との接触を避けて逃避し続けた時間。両親が悲しむのを見るのが怖かった。学校に行くのが怖かった。失ってしまった時間を思うのが怖かった。未来を思うのが怖かった。
階段を登り終え、見張り台のはしごに手をかける。
今からやり直す。逃げ続けていた時間と向き合って、今から新たに始める。
見張り台の上に立つ。
下を見下ろすと、思わず足がすくむ程高い。小さくインガたちの姿が見える。
(でも、やるんだよ!)
縁に手をかけて身を乗り上げる。
ばくばくと、心臓は早鐘のように鼓動している。俄に怖気づく心を叱咤して、縁に足をかける。
(だって、俺は、生きていていいんだから!)
これから生きるために、今から死ぬ。深く呼吸をして、僕は足を強く蹴りだした。
頭から血の気の引くような浮遊感。
急速に迫る地面。
落下。
凄まじい衝撃が全身を襲う。
がぎり、と頚椎が折れた。