がちょうは空を飛ぶか?
夢を見たような気がする。僕は暗い部屋にいて、ずっと恐れている。怖くて、がたがた震えている。
(……何から?)
答えはすぐそこにある気がした。
目が覚めて、身をおこすとじんと頭の芯が痛んだ。少し昨夜のアルコールが残っている気がする。
(シャワーが浴びたいな)
でも、そんなものはないだろうと思い直し居間に行くと、アンナさんが炊事場で朝ごはんを作っているところだった。
「おはようございます、コーキ様」
インガも椅子にかけていて、僕の姿を認めると、びくんと身体が跳ねる。それからうつむいて、何やらつぶやいている。
向かいに腰掛けると、インガの声が聞こえた。
「……ねむねむー」
呟いて、ちらりとこちらを見る。
「……ねむねむー」
それからまた呟く。
(なんなんだろう……)
そんな僕達を見て、アンナさんは、あはは、と笑い声をあげる。
「なでてあげてください。昨晩、なでてくれたのが嬉しかったみたいです」
言われて、インガの小さな頭をなでる。インガの髪は干し草のように軽く気持ちが良い。
「ぁう……」
インガは何だか恥ずかしそうだった。
「……なにやってんだ、お前ら」
トールが呆れ顔で居間にやってくる。
「今日は人と会う。それはともかく、まずは飯だ。アンナ、飯だ!」
「はいはい、ただいまー!」
アンナさんが出してくれたのは、厚切りにされたベーコンと黒パンだった。酢漬けの玉ねぎと人参が付け合せで置かれる。トールが黒パンにベーコンと酢漬けの野菜を挟んで食べているのを真似てみる。酸っぱい。酢漬けの野菜も酸っぱいが、パン自体もどこか苦くて酸っぱい。だが、そこに少し焼かれたベーコンの肉汁が加わると旨味が引き立つようで食欲が進む。
「誰と会うんですか?」
食べながらトールに聞く。
「エルンスト・グライフ子爵。俺達の、まぁ、パトロンだな」
「パトロン?」
トールもサンドイッチを食べながら答える。
「何もしないでこうして飯が食えるわけないだろう?パトロンが必要だ」
「でも、僕は何もできないですよ」
「できる。お前には、世界を救う力がある」
トールの言葉に僕は思わず閉口した。あまりにも現実離れした言葉に感じたからだ。
「……冗談ですよね?」
「残念ながら本当だ」
「僕にはそんな力ないです」
「ある。だが、今はまだ学ぶことが必要だ。順序良くいこう。そのためには、子爵に会う必要がある」
食事を終え、身支度を整えると、トールに連れられて出かけることになった。インガも一緒に行くらしい。
「ふんぐるい、むぐるぅなふ♪」
インガは意味のよく分からない歌を歌いながらご機嫌だ。
歩きながら、反面、僕の心は重かった。相変わらず記憶は戻らないが、少なくとも異世界の英雄になれるような能力は持っていなかったように思う。
(何をやらされるんだろう……)
僕は何もできやしない。何もできないとどうなる?怖いな、と思う。頭の奥がじんと痛む。
(失望されるのが……怖い?)
何だかそれは、ひどく馴染みのある感覚のような気がした。
暗い気持ちのまま、子爵の家に着いた。子爵の家は瀟洒な二階建ての邸宅だった。庭園を抜けて玄関にたどり着くと、ローブを着た男に迎えられた。
「お久しぶりでございます、トール様」
「久しいな、エッカルト」
エッカルトと呼ばれた男はどうやら使用人らしく、トールに恭しく頭を下げる。口ひげを生やした厳格そうな初老の男だった。
エッカルトに案内されて邸内に入る。まず眼に入るのは磨き上げられた木の床だった。よく掃除が行き届いていて塵一つ見当たらない。壁は白い漆喰の壁、天井にはシャンデリアが吊るされている。何だか場違いな場所に迷い込んだようで思わず萎縮してしまう。
トールは慣れているのか、エッカルトに案内されるまま堂々と歩いて行く。僕はあたりを物珍しく見ながらそれに付き従って行った。
エッカルトが大きな扉の前に立ち、扉をノックする。
「入れ」
中からしわがれた声がした。トールに連れられて部屋に入ると、思いの外、中は質素な部屋だった。執務室だろうか、巨大な書棚が置かれ、精緻な細工が施された長机が置かれている。そこに白髪頭の壮年の男が腰掛けていた。エルンスト・グライフ子爵だろう。
子爵は書き物をしていたらしく、机に向かっていた。
僕たちが部屋に入り、ドアががちゃりと閉められると、子爵はゆっくりと目を上げた。子爵は豊かなカイゼル髭を生やし、軍人のような引き締められた顔立ちだった。僕たちの姿を認めると、子爵は、ほほっ、と笑い声をあげて破顔した。
「おぉトール!これが新たな秘蹟のストルイムか!」
子爵は席を立って、僕に近づきうんうんと頷き、
「なんとまぁ……少々、間の抜けた顔立ちだなっ!」
と失礼なことを言ってまた笑った。
「だがまぁ、人の価値は顔ではなし。素晴らしいことだよ、トール!秘蹟の確立は我らの悲願、誠に喜ばしいことよな。おぉ、インガ!よくやったぞ。こっちへ来なさい、褒美を取らせよう」
子爵は机の上の盆からいくつか焼き菓子をとって、きょとんとしたインガに握らせた。
「甘くて美味しいぞ!」
それを聞いて目を輝かせたインガは、早速手にとって口に運び、
「んーっ!」
と顔をほころばせて歓声をあげた。
それから、僕に一つ差し出した。
「甘くておいしいのですっ!」
「ありがとう」
僕も差し出された焼き菓子を口に頬張る。小麦とバターの香り、それに砂糖の強烈な甘さにじんと身体が震える。この世界に来て初めて感じる強い甘みだった。
「おいしい?」
「おいしいよ」
僕が答えるとインガはにっこりと笑った。
そんな僕らを半ば呆れながら見ていたトールが子爵に言う。
「……しかしながら子爵、ダイヤ原石も磨かねば石のままです」
「然り、ならば如何にしてそれを磨くかね?」
「まずは探求者の学院に入れ、磨きたいと思います」
「なるほど、支度金が必要だな」
「はい、銀貨100枚ほどを所望いたします」
「ふむ、用意させよう。だがしかし……」
子爵はしばらく考えてから言った。
「話をしようか。ある村にがちょうを連れた男が来た。男は言う。これは金の卵を生むがちょうです。そして男は見せた。これががちょうの産んだ卵です。確かにそれは金でできた卵だった。餌をやり、育てれば、栄華は思うのままだと男は言う。村人はそのがちょうを買ったか?」
「買わなかったでしょう」
「なぜだ?」
「金の卵は偽物だったからです」
「本物であったなら?」
「買わなかったでしょう」
「なぜだ?」
「がちょうが産んだとは限らないからです」
「そうだ。では、どうすればいい?」
「がちょうが卵を産むところを見せれば良いかと」
「そうだな」
とグライフ子爵は頷く。
「たまさか、わしを騙そうという輩もおるまいが、試金石は必要だ」
「では如何様にして生むところを見せましょう?」
「そうさな……」
顎をなでながらしばらく間をおいて、子爵は言った。
「がちょうは飛ぶか」
「がちょうは飛びません、子爵」
「ならば飛ばせてみよ。城門の見張り台ほどから飛ばせば、驚いて卵を産むやもしれん。それを持って試金石としよう」
子爵は静かな笑みを僕に向けて言った。
「立会にはエッカルトを出す。その時は呼ぶと良い。期待しておるぞ、ストルイム」
わけがわからなかった僕は、ただ黙って話を聞いているしかなかった。
「……あの人は何を言っていたんですか?」
グライフ子爵の邸宅を出てから、僕は先を行くトールに尋ねた。
「何をって、言葉のままだ。子爵は飛べと仰せなのさ」
「飛べって……城門の見張り台からですか?」
昨日登った城壁を思い出す。城壁よりも二階分も高い高さの三角屋根の建物、あれが見張り台だろう。合計すると4,5階ほどの高さはあるだろうか。
「僕は空は飛べないですよ」
「何を言ってるんだ」
振り返って、トールは呆れた顔をした。
「人は空を飛べない、当たり前だろう。飛び降りろってことだ」
「……死にますよね、普通に考えて」
5階から飛び降りて、少なくとも無傷でいられるとは思えない。十中八九、頭を打ち付けて死ぬだろう。
「まぁ死ぬだろうな。だが、死ぬだけで銀貨100枚だ。悪くない話だろう?」
「人の命だからって、ずいぶん勝手なこと言いますね」
僕が不平を漏らすと、トールはふんと鼻を鳴らして皮肉げに笑う。
「死ぬ程度でがたがた言うなよ」
「……本気で言ってるんですか?」
僕はトールの意図がよくわからなかった。ふざけているようでもあり、真面目なようでもある。
「そろそろ教えてやるよ、お前が何なのか」
ついてこいよ、とトールは歩き始めた。
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