レムリア
息苦しさで目が覚めた。
目を開けると白いものが映る。至近距離でインガに覗きこまれていた。なぜか僕の鼻をつまんでいる。道理で息苦しいわけだった。
「ぅー、生きてるっ……!」
インガはうんうんと頷いている。
じとっと見つめ返すと、インガは恥ずかしくなったのか、急に慌てだしてぱたぱたと走って行ってしまう。
(何なんだろう……)
頭をかきながら身体を起こすと、笑いながらアンナさんが部屋に入ってきた。
「おはようございます、身体の調子はどうですか?」
言われて、普通に起き上がれている自分に気づく。手をぐーぱーぐーぱー開き閉じてみる。全身をゴムのような膜に包まれているようで、感覚が鈍い気がする。やはり幾分怠さは感じるが、前と比べると身体が軽い。きちんと血がめぐっている感覚。風邪の治りかけのような塩梅だった。
「ずいぶんよくなりました」
「良かった。起きられますか?」
「えぇ」
僕は頷いて、ベッドに手をついて起き上がった。
「大丈夫みたいです」
「それじゃ着替えて、朝食にしましょうね」
そう言ってアンナさんは着替えを持ってきてくれた。羊毛だろうか、少し色づいた白いシャツとズボンは少し大きく、使い込まれていてざらついていた。あと、革のサンダル。これは明らかに大きくて、ぶかぶかだった。
アンナさんは服を身につけた僕を点検すると、ふむ、と頷いた。
「やっぱり旦那様の服じゃ大きいですよね。後で直さないと、ですね」
服一式はトールのものらしい。
アンナさんに連れられて部屋を出る。その先は居間兼台所というか、現代風に言うなればダイニングキッチンのような間取りの部屋だった。大きな四角い木の机を中心に据えて、端に玄関があり、反対側が炊事場のようだ。煉瓦で組まれたかまどや大きな水瓶などが置かれている。部屋の様相は明らかに日本のそれとはかけ離れていた。欧州、それもかなり古い時代のもののように感じる。
(ここは一体どこなんだろうか?)
真ん中の机にはインガが腰掛けていて、部屋に入るとちらちらとこちらを伺っていた。アンナさんは僕をそんなインガの対面の椅子に座らせると、
「ご朝食、用意しますね」
とかまどにかけられた鍋の様子を見に行ってしまった。
「ぁぅー……」
インガは時折唸りながら、やはりちらちらと僕のこと見てくる。
黙ってじっとしていれば近寄りがたい清楚な美少女といったインガだが、昨日からの挙動不審な行動を見ていると、何だか小動物のようだ。こちらもじっと見返すと、えっ、と目を大きく開けたかと思うと、顔を伏せる。それでも、首を傾けてはちらちらと見てくるので、さらにじーっと見つめると、ついには顔の前に両手を当てて顔を隠してしまった。そして、指の隙間からこちらを伺ってくる。
(何が気になるんだろうか……)
自分の家によく分からない人間が来れば警戒するのは当然かも知れない。でも、インガの様子を見ていると、警戒されているというわけでもないようなのだが。
そんな様子を見て、アンナさんはにこにこと笑う。
「インガ様はずっとストルイム……じゃなかった、コーキ様のことを気にしてるんですよ」
(それは見てれば分かるよ……)
「そりゃあそうだろうよ」
大あくびをしながらトールが部屋に入ってきて、僕の隣に腰掛ける。
「自分のするいむなんだ。そりゃあ気になるさ。昔を思い出すね」
トールはそう言いながら、僕の身体をしげしげと見た。
「調子はいいようだな」
「えぇ、まぁ」
僕は曖昧に頷く。
「まぁ、いろいろ疑問に思うことはあるだろう。が、まずは飯だ。アンナ、飯だ!」
「はいはい、今、お持ちしまーすっ!」
そういうわけで、朝食になった。
深皿に盛られたのは白いお粥のようなものだった。
「なんだこりゃ、麦粥か?」
とトールが不満を漏らすが、
「コーキ様は消化にいいものが良いと思いまして」
と給仕をするアンナさんは悪びれない。
木の匙で口に運ぶとまったりとしたミルクの甘みが広がる。麦はしっかりと煮られていたが皮がプチプチとした食感で面白く、薄く塩味がつけられている。飲み込んで腹に収める度に、しっかりと血肉になっていくようだった。不満を言っていた割にトールも手を休めずに口に運んでいる。
「あぅ、食べてる……」
インガは相変わらず僕を観察していた。
「そういえば、コーキ様っておいくつなんですか?」
食事が終わり、お茶を入れながらアンナさんが言う。
「インガ様よりは年上に見えますけど」
それはそうだろう、と僕はインガを見る。インガは仕草や表情が子供っぽいので特別幼く見えるとしても、十代半ばくらいだろう。
「20は越えてますよ。22か3か……」
そう言ってから、ずきりと頭が痛む。そして、自分のことがまるで思い出せなかったのに、自然と歳を答えていることに気づく。
え、とアンナさんは目を大きく開く。驚いたようだった。
「コーキ様って、お若く見えますね。それじゃ、私とそんなに変わらないんだ」
「日本人は若く見えるんだよ」
とトールはお茶を飲みながら言う。
「旦那様はあまり若く見えないですけどね」
「うるせぇな。俺は人生経験が豊富なんだよ。年季の差ってやつだ」
「はいはい、そうでしょうとも」
賑やかに話す二人を尻目に、僕は自分の言葉を反芻する。
(22か3か……大学でたくらいか)
そう考えると、また、ずきりと頭が痛む。なぜだか、その先は考えたくなかった。
気を紛らわすためにお茶を口にする。微かに緑に色のついたお茶で、口に含むとレモンのような柑橘系の爽やかな香りがした。
「さて、そろそろ出かけるか」
お茶も飲み終わり一息ついて、トールが僕を見ながら言う。
「どこに、ですか?」
そもそもにして、と僕は言った。
「ここはどこなんですか?」
「レムリア」
と、トールは言った。
「俺達の生きていた日本、地球とは異なる世界だ」
しばらくの間、僕は絶句した。
「……突拍子もない話ですね」
「だが、事実だ。論より証拠とも言う。まずは、この街を案内してやるよ」
そう言ってトールは立ち上がった。
「……すとるむ、おでかけ?」
とインガが寂しそうに言う。
「何だよ、お前も行くんだよ」
トールが言うとインガは不思議そうに首をかしげた。
「私もおでかけ?」
「そうだ」
「すとるいむと、おでかけっ!」
インガはそう言ってぱっと顔をほころばせる。
「良かったですね、インガ様」
「うんっ!」
アンナさんの言葉にインガはにっこり笑って頷いた。
「ふんぐるぅい、むぐるぅなふ♪」
インガよく分からない歌のようなものを口ずさみながらごきげんな様子だ。
のんびりとしたやりとりに、何だか毒気を抜かれる。しようがなく、僕も立ち上がった。
外に出ると、久しぶりに浴びる日差しが眩しくて目を細めた。
「……太陽は一つなんですね」
「月も一つだ」
トールは答える。
「この世界の法則は基本、ほとんど地球と変わらない」
家を出ると、そこは絵画や写真でしか見たことのない、何というか、古い時代の欧州のような街並みが広がっていた。立ち並ぶ家々は無骨な石や日干しレンガなどで、一様に背が低い。当たり前というべきか、見慣れたオフィスビルやマンションのように高い建物は見当たらなかった。
「この世界が地球のように自転公転する惑星なのかどうかは分からないが、暦も24時間365日だ。その点は戸惑わなくていい」
トールは歩きながら言う。
「まるで異世界じゃないみたいだ」
僕がそう言うと、トールは皮肉げに笑った。
「俺も最初はそう思ったさ」
すれ違う人々も麻や羊毛のローブやチュニックを着て様相こそ違うが、人であることに変わりはない。人種はやはり西洋風の顔が多いようだった。
トールに連れられて行くと次第に行き交う人が増え、しばらくすると大きな通りに出た。
「ここがメインストリートだ」
「おー!」
インガが口を開けて喚声を上げる。
「人がいっぱいなのですっ!」
インガもこの街の住人ではないのだろうか。物珍しそうにきょろきょろしている。
「昼間は市が立っている。たいていのものは、ここで揃うな」
通りの両端に商店が並び、中央にも屋台が立てられて様々なものが並べられている。特に目が惹かれるのは八百屋だろうか。軒先に色とりどりの野菜や果実が並べられ、画家のパレットのようだ。その中には赤い大根のような見覚えのない野菜もたくさんあるが、リンゴやオレンジなどほとんどが見覚えのあるものだった。
「きれい、なのですっ!」
「そうだな」
トールが目を輝かせるインガの頭をぽんぽんと叩く。
「これ、食うか?うまいぞ」
「おー」
トールが一際鮮やかな黄色い果実をとって、インガに見せる。
(それはレモンでは……?)
「やめとけ、酸っぱいぞ」
僕が呆れて言うと、トールは頷いて答える。
「そう、こいつはレモン。酸っぱい。ひとつ賢くなったな」
「はいですっ!」
意地の悪いトールにインガは素直に頷いている。
「植物も、地球とほぼ変わりがない。食い物も大した違いはなかっただろう?」
今までの食事を思い返して、僕は頷く。
「そいつを3つくれ」
トールが縦長にカットされ串に刺された果物を指差して言う。
渡されたそれは。
(パイナップル、かな)
熟れ過ぎて切り売りされているのだろう、果汁がしたたっている。口にすると甘酸っぱいジューシーな果汁が溢れる。
「酸っぱいぞ」
トールが意地悪そうにインガに言う。
「ぅー……酸っぱい?」
僕を見上げてくるインガに僕は笑って頬張ってみせる。
「甘いよ」
インガは恐る恐るパイナップルを口にいれてもごもごさせると、目を輝かせて頷いた。
「甘いのですっ!」
通りを歩いて行くと、道の先に巨大な建造物が見えた。巨大な城壁のようだ。
「この世界における人の居住圏は、一つの巨大な大陸だ。その名をレムリア。俺も隅々まで言ったことがあるわけじゃないが、地球のユーラシア大陸ほどの大きさがあるという」
歩きながら、トールが言う。
「この世界には地球のように世界を表す固有の言葉がない。世界全体を指すとき、それもまたレムリアという。大陸が世界のすべて、ということだ」
「大陸の外はまだ誰も行ったことがない、ということですか?」
「そうだな」
トールは頷く。
「レムリアの外は周囲を霧の海、霧海と呼ばれている。その名の通り深い霧のかかった海だ。その先に行って帰ってきた者はいないという。故に、古来、レムリアの外には何も存在しないとされている」
しばらく行くと城門に行き着いた。4階建てのビルほどもあるだろうか、城壁は見上げるほどに大きかった。
「トール・ミクリヤだ。城壁に登りたい」
誰でも入れる場所ではないのだろうが、トールが一声かけると衛兵は道を譲ってくれた。
薄暗い階段を登ると、風通しの良い場所に出た。強い風に煽られて、髪を抑える。遮るものがないからだろう、一際強く風が吹き付けてくる。
トールは城壁の隅に立ち、手を広げて言う。
「ようこそ、ここが王都だ」
城壁からの光景に、僕は思わず絶句した。
広い。
一つの街がぐるっと巨大な城壁に囲まれている。そこには大小様々な家々があり、中央に大きな建物が見えた。王城、だろうか。
「王都クマリナドゥ、俺達の街だ」
そして、とトールは逆側の縁に歩いて立つ。
「ここがレムリアだ」
トールの立つ先、街の外の光景に僕は頭を殴られたような衝撃を受けた。
平原。見渡す限り、平原が続いている。
細く伸びている煉瓦の街道の先には鬱蒼とした森。
単純にして雄大な景色。
それは日本の街にはありえないものだった。
「広いのですっ!」
目を輝かせてはしゃぐインガとは裏腹に、僕は胸がどうしようもなくざわめくのを感じた。
僕はその時になって、ようやく自分が異世界に来たのだと実感したのだった。
帰り道で、靴屋に寄った。
日本の靴屋とは違い、並べられている靴はない。工房といった風情で、その場で靴を作ったり修繕したりしているようだった。目盛りの入った木の定規のようなもので足の寸法を測られる。それから、靴を調整していくようだった。金具を打ち付けて、手際よく靴が作られていく。出来上がったのは、革の靴底に、足先から革のベルト4本で足の甲と踵を包む簡素なサンダルだった。
「お前の最初の持ち物だな」
と、トールは笑った。
「ぬののふくに革のサンダル。持ち物が増えていくのは楽しいもんだろう?」
僕は曖昧に頷いた。
トールの家に帰る頃には日が傾きかけていた。
「おかえりなさい!」
アンナさんが笑顔で出迎えてくれる。
椅子に座ると、どっと疲れが押し寄せてきた。特になれない靴で歩きづめだったので、足の裏が痛かった。行儀は良くないんだろうが、靴を脱いで足を揉む。
「疲れたでしょう?ご夕飯にしますからね」
そんな僕を見てアンナさんは笑って言った。
日が落ち、机の上のランプに明かりが灯される。
出てきた食事は干し肉とジャガイモのスープだった。一口大に切られた干し肉は炒めてから煮込んであるらしい。一手間分香ばしく、噛むとじわりと塩辛い肉汁が染み出してくる。薄い味付けのスープだが、それがアクセントになって、具材を口に運ぶのが楽しい。一息に食べてしまった。
「一杯やるか」
どん、とトールが陶器のポットを机の上に置く。コップになみなみと注がれたのは濃い紫色の液体だった。
「これは、ワイン?」
「飲めないなんて言うなよ?」
トールは自分の器にも同じようにつぐと、美味そうに嚥下する。
トールを真似て口にすると、ひたすらに酸っぱくて苦い。葡萄の皮の絞り汁のような渋みだ。飲み込むと、舌の奥に微かに甘い香りが残る。
「……効きますね」
飲んでしばらくすると、内臓がぼぉっと温められるように気怠くなる。
「結構いける口だな」
トールはにたりと笑って、コップに酒を足してくれる。
「……ねむねむー」
見ると、インガが顔を垂れてうつらうつらと船を漕いでいる。
なんだか微笑ましい気分になって、僕は思わずインガの頭をなでた。
「……ぅーにゅ」
インガの唇の端がにんまりと緩む。
「ほら、インガ様、向こうで寝ましょうね」
アンナさんが肩を抱いてインガを寝室へ連れて行く。それから、アンナさんはまた明日、と帰っていった。
トールと二人きりになる。いつのまにかあたりは暗くなっている。ランプの明かりに照らされて、トールの顔が暗闇に浮かんでいる。
「お前は誰なんだろうな?」
トールが酒盃を満たしながらぽつりと呟く。
「……思い出せないんです」
「違う。思い出せないんじゃない。思い出したくないんだ。思い出せるのに、真実を隠しておきたいだけさ」
「知ってようなことを言うんですね」
「知っているんだ。俺も、お前と同じ異世界人だからな」
見上げると、トールはじっと僕のことを見ていた。
「トールさんも、過去を?」
「思い出せなかった。最初は、な」
トールはコップを口に運ぶ。
「俺たちはみんな、ある意味で同じ記憶を抱えている。思い出したくない記憶だ。俺たちはみんな逃げてきたんだ。そして、今はここにいる」
僕も酒盃に口をつける。
苦い。ひたすらに苦い気がした。
「だが、逃避した先でも、向き合わなきゃいけないんだ。逃げきれやしない」
(僕は、誰なんだろう……?)
静かに、僕は思う。答えは、浮かばない。
「今日はもう寝ろ。明日はもっと厄介事が目白押しだからな」
寝室に行くと、酔いも手伝ってすぐに眠りがやってきた。
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