目覚め
まぶたを開けると、目の前がちかちかとまたたいて、思わずまた目をつむった。熱でもあるのか閉じた眼の奥がずーんと重たい。無性に気だるくて、寝返りを打つのも億劫だった。
それでも、嗅いだことのない土の香りや何だか固いベッドの違和感が気になって、おそるおそる目を開けた。明るい……明るい部屋だ。
(というか……どこだ、ここ?)
煉瓦の壁、木製の簡素なテーブル。大きく開かれた明かり取りの窓にはガラスがなく、代わりに鎧戸が支え棒で庇のように立てられている。
(僕の部屋はもっと暗くて……どんなだったっけ?)
何だか頭に霞がかかったようにぼんやりとして思い出せない。それでいて、まるで憑き物でも落ちたようなすっきりとした気分だった。不思議な感じだ。
(……で、そもそもにして、だ)
ベッドの横の椅子に座り、僕の腹に頭をのっけて誰かが寝ている。うつ伏せで顔は見せないが、身体は華奢で小柄に見える。色素の薄い白銀色の髪が陽光できらきらと光っている。すぅすぅと聞こえてくる寝息はとても穏やかだった。
(誰なんだ……)
こんな知り合いはいなかったように思う。
(何なんだ、この状況は……)
気怠さも手伝って、僕は目を閉じてしばらくぼんやりと呆けていた。
不意に、足音がして目を開けると、赤髪の女性が部屋に入ってくるところだった。今更になって気づくが部屋にはドアがなく、当然というべきか、ノックという習慣もないらしい。赤髪の女性はお洒落というよりは実用一点張りという風情の白とベージュのエプロンドレスを身につけていて、古式ゆかしいメイドさんという感じだった。年の頃は20代前半くらいだろうか。赤髪の女性は部屋に入ると、僕のベッドに頭を乗せている誰かを見て声を立てずに微笑んだ。そして、そっと誰かの肩に手をかけようとして、僕が見ていることに気づいてあっと声をあげた。
「目が覚めたんですね!えっと……、ストルイム?」
(ストルイム?)
「ほら、インガ様!ストルイムが目を覚ましましたよ!」
女性がぐらぐらと誰かの肩を揺すると、目が覚めたのか誰かはゆっくりと頭をあげる。そうして、誰かはゆっくりとこちらを見て、目があった。寝ぼけた様子の誰かは、驚くほど容姿の整った女の子だった。10代半ばくらいだろうか、幼さの残る顔立ちだ。綺麗というよりは可愛い感じ。ベージュ色のふんわりとしたチュニックがよく似合っている。寝ぼけた様子の今はとても……うん、アホっぽい。だらしなく半開きの口からよだれがだらりと垂れている。チョコレート色の瞳が次第に焦点を結んで、どうやら僕を姿を認めると、びくんと身体がはねた。あわあわと口を動かしながら、雪のように白い顔を紅く染める。そして、よだれを垂らしていたことに気づき慌てて手で拭うと、さっと立ち上がって走り去ってしまった。
「ちょっと、インガ様!?全くもう……」
赤髪の女性はやれやれという風に肩をすくめると、僕に向かって優しく微笑んだ。
「おなか、すいてますよね?今、食べるもの、お持ちします」
そう言って部屋を出ていこうとして、あっと声をあげてくるりと振り返った。
「私はアンナです、ストルイム。よろしくお願いしますね!」
(ストルイムってなんだ?)
聞く間もなく、アンナという女性は部屋を出て行ってしまう。
(何なんだ一体?)
考えようとすると、頭がずきりと痛んで、考えがまとまらなかった。
ほどなくして、アンナという女性が木製のトレーに湯気の立つ皿を持って戻ってきた。
「起きられますか?」
正直、身体が重くて怠く、動きたくなかった。とはいっても寝たままでは食べることもできない。頭が痛まぬようにそろそろと身体を動かしていると、アンナさんがトレーを置いて手伝ってくれた。身体を寄せられて抱くように背中に手を回されると、ふんわりとおしろいと微かに汗が混ざったような香りが鼻孔をくすぐる。
(いい匂いだな……)
肉付きの良いふくよかな感触は、身体を起こすとすっと離れていってしまう。
「お口に合うといいんですけど」
そう言って、そっと膝の上にトレーのまま皿を置いてくれる。ざく切りにされた野菜と肉のスープだった。相変わらず身体は怠く感覚が鈍いが、ほんのりとした肉の匂いに俄然食欲が湧いてくる。添えられた木の匙をとってスープをすくおうとして、僕は思い直して一度匙を置いて言った。
「いただきます」
アンナさんは優しく微笑んだ。
「召し上がれ」
何だか懐かしい気持ちになった。こうして食事をするのは、ずいぶん久しぶりな気がした。木の匙をとってスープをすくい口に運ぶ。人参と玉葱とジャガイモ。それに、鶏肉だろうか、微かに色づいたスープに肉の脂が浮いている。くたくたになるまでよく煮こまれた具材は、口に入れてわずかに力を入れただけでほろりと崩れる。味は薄く少し最初は物足りない気がしたけれど、喉の奥を通って腹に入れると身体に染み入るようだった。全身でうまいと感じる。
夢中になって食べる僕をアンナさんはにこにこと笑いながら見ていた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまです」
食事を終えて、アンナさんがトレーを片付けて部屋を出て行く。
そこでふと、部屋の入口から顔を半分だけ出して、インガと呼ばれていた女の子がこちらを覗いているのに気づいた。じー、と見られている。すごく、観察されてる。
(何なんだろう……)
こちらも見つめ返すと、目があった。すると、びくりと身体を震わせてさっと隠れてしまう。しかし、しばらくすると、またこそこそとこちらを覗いてる。
「……何をやってるんだ、お前は」
不意にやってきた男がぱしんとその頭を叩いた。40代ぐらいだろうか、中年の男はインガの肩に手をおいて、押し出すように僕の前に連れてきた。
「まずは、ようこそと言っておこう」
と中年の男は言った。
「俺はトール。この家の主であり、その他もろもろあるが……まぁ、それはおいおい説明してやろう」
トールという男は黒髪黒目、長く伸びた髪を肩口で無造作に束ねている。口の周りには無精髭が生え、何だか時代劇にでも出てくる浪人といった感じだ。そう、浪人という感じ。
「……日本人?」
アンナさんやインガもハーフかクォーターという程度に顔の彫りが深く鼻が高かったが、それと比較するとトールの彫りの浅い顔と黄色い肌はまさに日本人のそれだった。
僕の問いにトールは頷いて応える。
「そうだ。ミクリヤ・トール。生粋の日本人だ」
それで、とトールはインガの肩をぽんと叩く。
「自己紹介しろ」
インガはしばらく目を伏せて身体の前で手を組んでもじもじとしていたが、意を決したように口を開いた。
「……インガ、ですっ!」
インガは身の丈は150センチくらいだろうか、長身で筋肉質のトールと並ぶと余計に小さく華奢に見える。白銀の髪を長く伸ばしていて、肌は雪のように白い。大きなチョコレート色の瞳が印象的だった。続けて、というわけではないのだけど、僕も名乗ろうとして、自分の名前が思い出せないのに気づいた。名前はおろか、自分のことが何もわからない。
(そんな馬鹿な……)
奇妙な焦りを感じて必死に思い出そうとすると、頭がずぅんと重たくなって思わず目を閉じた。
「……思い、出せない。何も……」
やっとのことでそう言うと、トールはやれやれと軽く肩をすくめる。
「しょうがねぇなぁ、ねぼすけくん」
そう言うと、トールは出し抜けに僕の頭を鷲掴みにして、ぐっと顔を近づける。息のかかる距離で視線を合わせられる。思わず手が震えた。トールの目は怖いくらいに強い意志がこもっていた。
「甘えるなよ。思い出せ」
頭が軋む。頭を掴まれているからじゃない。頭の芯がぎゅっと収縮するように痛んで、気持ちが悪くなる。
「……思い……出せないんだっ……!」
目の前が暗くなる。
「思い出せる」
暗くなる視界の中で、トールははっきりと断言した。
「逃げるな、向き合え。すぐそこにあるだろ。そら、それだ。掴みとれ」
霧がかった頭の中で、何かが触れるような気がした。
「……サトウ、コーキ……?」
勝手に口が動いたような感じだった。頭が離されて、トールがすっと身をひく。
「思い出せただろ」
トールは鼻を鳴らしてふんと笑った。
「これから、しばらくは身体と心の違和感に悩まされるだろう。でも、覚えとけ。答えは全部持っている。ただ、思い出せないだけだ。困ったら考えろ。意志の力が鍵になる……なんだよ?」
見ると、インガが頬を膨らまして、トールを睨んでいる。
「すとるいむ、いじめちゃ、だめっ! なのですっ!」
「コーキだよ。いじめてねぇし」
呆れた顔のトールに、インガはむー、と唸り声をあげる。
「すとるいむっ!」
「だから、ストルイムじゃねぇよ」
言い争う二人を横目に見ながら、俄に緊張の糸が切れて、僕はどさっとベッドに横になった。
(ストルイムってなんなんだ……?)
疑問はあったが、横になると腹が膨れたせいか、無性に眠かった。
「……寝ておけ、明日から忙しくなる」
僕の意識は闇に落ちていった。
しばらく定期更新します