第三話「悠様最愛の男性――椿十志郎様のご帰還です」
Q、富士宮悠ってどんな男の子?
「小動物系? 子リスとか、ウサギとかか?」
「それは草食系って意味じゃないのかしら?」
「とにかく何か小さくて可愛い動物って感じかな――かな?」
「えー、じゃあ子猫とかはどうかなー?」
「猫じゃない断じて。肉食は絶対違う系」
「植物って感じよね。日がな一日日向ぼっこしてそう」
「それー、たぶん光合成だと思うよー?」
「でも日焼けとか、シミ、そばかすとは無縁、みたいな――な?」
「何じゃそりゃ、ズっリぃ!」
一同爆笑。しばし質疑不能となる。
Q、もし富士宮悠と付き合うとしたら?
「え――それって無理くないか? だって『富士宮』だぞ?」
「ちょっと一歩引いちゃうのは否めないわね」
「でも玉の輿だよ! ――だよ?」
「あー、お菓子いっぱい食べられるー?」
「おまえの欲望ってその程度なんだ……安っ!」
「えー、いっちゃんだってー松野屋でおなかいっぱいになるレベルじゃんかー」
「牛盛りカレー舐めんなよっ! カレーと牛煮込みの合い掛けだぞ! これは奇跡の出会いなんだからな!」
「それはともかく――この街で生活する以上、富士宮の名前は影響力が強すぎるというわけね」
「ああ、まあ富士宮でさえなければなあ、あたしの弟分にしてやってもいいんだが」
「でも富士宮だからこそ、富士宮くんはあんな感じなんじゃないのかな、――かな?」
「あー、うちのお父さんが入社式で彼のお母さんに会ったって。すごい美人らしいよー……あれ、お父さんだったかなー、あれー?」
「まあもし万が一にでも付き合う――なんてことになったら、人生が変わる覚悟は必要ね」
Q、もし富士宮悠が女の子だったら?
「ちょっとまて、何だよその質問は!?」
「悪意――は感じないけれど、紙一重な質問ね。あなたが言うとなおさら」
「富士宮くん、女の子なの、――なの?」
「いや、そっちも普通に考えようとするなよ!」
「でもー違和感はないかもー」
「まあ確かに。あいつだけ体育のときの着替え、別部屋だしな。一緒だと男共が落ち着かんらしいぞ」
「私も聞いたわ。やたらおどおどするから妙な気分になってしまうとか……」
「わかった、彼はきっと元々女の子で、男の子として過ごすように言われてるんだよ、――だよ?」
「一体なんでそんな面倒なことをせにゃならんのよ?」
「男にしか富士宮は継がせないとか、――とか?」
「えー、今の当主はお母さんでしょー」
「あ、それもそっか、――そっか?」
「それより、いい加減教えて欲しいんだけれど――これは一体どういう意図の質問なのかしら、真咲莉於さん?」
喧噪渦巻く朝の教室。
早々に集まっていたクラスメイトを相手に、莉於はガールズトークがてら『探り』を入れていた。
「いえ、特にこれといった他意はありません。お気になさらぬよう――鮎川様」
莉於に『様』付けで呼ばれたクラス委員長、鮎川よしえは、歯にものが詰まったような顔をしたあと、メガネの位置をクイッと直しながら言った。
「同級生を『様』付けなんて、相変わらずね。普段話しかけてこないひとから話しかけてきたと思ったら、富士宮くんのことを訊いていくるとは、さすが彼のメイドさんだわ」
「なんだ、富士宮の奴に自分のこと訊いてこいって命令されたのか? 根性なしめ。あたしを口説くなら自分から話しかけてこいって言っとけよ」
バレー部のレギュラーにして性格もアタッカーな越後谷一子に、莉於は優雅に一礼した。
「いいえ。悠様は自分からああしろこうしろと莉於に命令は致しません。全ては僭越ながら莉於の独断で行っていることです。最後に付け加えるなら、悠様の好みから越後谷様はもっとも縁遠いところにおられるのでご安心下さい」
「なんだとー! ケンカ売ってるのかこらー!」
「そんな慇懃無礼な態度だから、未だに友達ができないのよ。富士宮くんも、あなたも」
「えーそんなことないよー。富士宮くんも莉於ちゃんもとっくに友達だよー」
独特のしゃべり方と雰囲気を纏う少女、八重山鈴に莉於は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます八重山様。主に代わって御礼申し上げます」
「そんなー、おおげさだよー。えへへー」
そう言いながらもまんざらでもない様子の鈴だった。
「真咲さんはいつも大人っぽくてステキだね、――だね?」
どんな時でも文庫本を手放さない少女、高桜もえ《たかざくらもえ》が莉於の同年代離れした礼節に感心したように呟いた。
「とんでもありません高桜様。莉於はただのまふぃあん・メイドにすぎませんので」
次代の富士宮家当主と轡を並べる豊芦原中学校のクラスメイトたち。
生粋の上流階級たる富士宮への威光を公私にわたり感じつつも、悠自身のキャラクターのなせる業なのか、彼女たちの悠に対する心理的な壁が決して高くないことを莉於は確信していた。
だが逆に言えば、距離が近いが故に、悠は彼女らの感情の変化を受けやすいのだ。
特に――現在莉於が話しかけているこの四人は、クラスの中でも悠に近い存在で、何だかんだと言いながら、富士宮の家名に臆すことがない得がたい少女たちなのだった。
「朝の貴重なお時間に話しかけて申し訳ありませんでした。富士宮悠専属まふぃあん・メイドであるこの莉於、長年の疑問が氷解した思いにございます。皆様に厚く御礼申し上げます」
と言いつつ、その顔だけは氷付けのまま、莉於は貴人にするのと何ら変わらない丁寧なお辞儀を披露するのだった。
「まあ別にいいけどよー、てかおまえが時々使ってるその『まふぃあん・メイド』ってなんぞ?」
「そればかりはいかな越後谷様といえどお答えすることはできません。お許し下さい」
ネタなのか本気なのか――取り付く島もない莉於の態度に一瞬気まずい空気が流れた。
だが、拒否された当の本人は、さし的にした風もなく頭を掻いていた。
「いやまあ別にいいけど、――しっかし、相変わらず言葉使いすげーよな真咲は。何時代のヒトですかって感じ?」
そうね、と隣のよしえも頷いた。
「何度も言うようだけど、正直クラスでも浮いてるわよあなたのその態度。学校にいる時分くらい、せめてそのお堅い口調だけでも何とかしなさいな」
口々に手厳しいことを言う一子とよしえに対し、莉於は能面を張りつけた無機質な顔でぽそっと囁いた。
「――おふた方に心よりの感謝を。莉於もようやく良心の呵責が消え失せました。やはりスケープゴートはあなたたちに大決定です」
「は?」
「え?」
莉於は懐から携帯電話を取り出すと『ちぇりー1、GO』と短く口走った。
ガラガラガラ……、ものすごく間延びした音を立てて教室の扉が開く。
悠だった。
顔はうつむき、その表情は見えない。ズルズルと足を引きずりながら、一子たちの前で立ち止まる。
立ち止まったまま、悠は一向に喋らず――どうしたものかと、一子とよしえはひとまず朝の挨拶を送った。
「えっと、おはよう富士宮くん?」
「何だ何だ、本日はいつにも増してどんよりドヨドヨだな。もちょっとシャキッとしろよ」
無反応。いつもならビクつきながらも返事をするはずなのに。一子とよしえは顔を見合わせる。
「富士宮くん、もしかして体調が悪いのかしら?」
よしえがそっと手を伸ばす。無防備に差しだされた白い手をすり抜けると悠は――胸の上に手を置いた。
ふくよかなよしえの胸の上に。
――ビクン、とよしえの身体が硬直する。
手の甲がぶつかったなどという生易しい状態ではない。
よしえの――同年代にしてはかなり大きめな胸に――乳房に――おっぱいに、悠の手の平がこれでもかとジャストフィットしていた。
あまつさえ食い込んだ指の間から柔肉がはみ出ていて、白いシャツが扇情的なシワの形を作り上げていた。
一子たちがぎょっとする。
気付いた他のクラスメイトたちも騒然とし始める。
凍り付いた時間の中で、悠の手は確かによしえの胸を一回、二回、三回――と、はた目にも分かるほどの確かさでグーパー運動を繰り返した。
「あん」
その声を聞き止めたクラスメイトたち全員に衝撃が疾走った。
あえて文字に現すなら「ッッッ――!?」といったところだろうか。
知的でクールな学級委員長から発せられたとはとても思えない艶めいた鼻声に、誰もがショックを隠せない様子だった。
「よ、よしえちゃん――ちゃん!」
わずか数秒で銀河の彼方へと旅立ってしまった親友を帰還させるため、高桜もえは切実な声を張り上げるのだった。
「は――いや、違、これは違うのよ!」
己の胸をかき抱きながら、慌てて悠との距離を置くよしえ。
その顔は冬の寒さに熟れたリンゴのように真っ赤ではあるものの、夏の太陽に育まれたトマトのように艶やかなものだった。
八重山鈴は後に語る――あの時のよしえちゃんは『知らないよしえちゃん』だったと。
「ぎゃはははッ、何やってんだ富士宮~! よしえにセクハラか~?」
場の空気が読めないことがこんなにありがたいとは思わなかったと、後によしえは語った。
一子は馬鹿笑いしながら男友達にするよう悠の肩を気安く叩く。
悠に対してこんな距離感を持っているのはクラスでも彼女だけである。
「おまえ大人しそうな顔して結構やるじゃん。押せばコロッといく女ですよ委員長は。だからそういうことはジャンジャンおやんなさい」
「な、何言ってるの一子!」
「にゃははははッ!」
怒りだしたよしえを悠を盾にして躱す一子。
ふたりの間に立たされた悠はやにわに手を広げると、腰だめの構えを見せた。
「かみかぜ……」
「ん、何だって?」
「――の、じゅつ!」
よしえの胸を揉みしだいていたその手で――今度は一子のスカートの裾を思い切り捲り上げた。
「おおッ!」
その声はクラスの男子が。
「きゃあッ!」
その声はクラスの女子が。
数十人からの少年少女たちの前に、引き締まった一子の脚線と、健康的なストライプ柄のショーツが晒され――クラスは水を打ったように静まり返った。
――そして時は動き出す。
「て――てめえ、何しやがる!」
「突然こんなことして、一体どういうつもりなの富士宮くん!」
「はいはいはい、おふたりとも、そこまでにしてください」
悠に掴みかからんとする一子とよしえを遮り、どこから取り出したのか分厚い伊達眼鏡を装着した莉於が、ふたりに名刺を差し出しながら高らかに宣言した。
「私、悠様の顧問弁護士を務めます真咲莉於と申します。以後お見知りおきを」
「真咲さん、さっきはメイドって言ってたのに、――のに」
もえの突っ込みもぶっちぎって莉於は続ける。
「悠様に対する意見や苦情、訴訟に関します問題などは、今後すべて代理人である莉於を通してのみ行っていただきます。悠様と直接の交渉はどうかご遠慮下さい」
慇懃無礼。事務的であまりに誠意を欠いたその態度に、さすがの一子たちも穏やかではいられなくなる。
「おい、何だよそりゃ。あたしはな、別にスカートめくりを怒ってるわけじゃなくて――いや、みんなの前で恥かかされたんだから怒ってはいるけども――とにかく、こんな小学生みたいなマネした理由をそいつに問い質したいだけなんだ」
「そうね、その通りだわ。一体どういう考えでこんなセクハラまがいのイタズラをしたのか、そこのところをハッキリとしてもらわないと。富士宮くん、真咲さんの影に隠れてないで、いい加減なんとか言ったらどうなの?」
「悠様、こちらの方々はこう言っています。触るなら触ったで構わないから、認知した上で責任を取ってお付き合いをして欲しいと――」
「誰もそんなこと言ってねえ(ません)!」
突如として朝の平和な教室に舞い降りた大事件。
一子とよしえの剣幕に、もえと鈴はおろおろするばかりで、他のクラスメイトたちは事の成り行きを固唾を呑んで見守っている。
当然ながら一部の男子生徒たちの脳内では、よしえの「あん」と、一子のパンツの『名前を付けて保存』が最優先処理されている真っ最中――だったりした。
「ふ、ふん――小学生じみたイタズラって言うならさあ、こんなことぐらいで目くじら立てないでくれるかな!」
喧々諤々な教室に響いたのは悠の声だった。
微妙に目を泳がせながらも、つんとアゴを上げ、胸を精一杯そびやかしている。
そのあまりといえばあまりの物言いに、一子たちの顔からはみるみる血の気が引いていった。
「ぼ、僕はね、『富士宮』なのさ。君たちが何を騒いだところで問題にすらならない。『富士宮』がさせない。さ、さっきのはほんの挨拶代わりさ。これからは僕に不用意に近づけば、遠慮なく『中学生体育祭』レベルや『高校生文化祭』レベル――あるいは『大学生合コン』レベルのエッチなことをするから、そそ、そのつもりでいてよね!」
しぃ――んと辺りが静まり返った。
草食系、もしくは植物系と言われ、校内でも人畜無害さでは定評のある富士宮悠が全方位に対して牙を剥いた瞬間だった。
ゆっくりと――瞳の奥に燃えるような怒りを宿しながら一子は吐き捨てた。
「見損なったぜ富士宮。てめえがそんなクズ野郎だったなんてよ」
「家柄のことなんて鼻にかけないひとだと――友達だと思ってたのに。残念だわ」
一子とよしえの言葉を聞いて、悠は無言で教室を出て行く。
クラスメイトから容赦なく浴びせられる非難の目から逃げるよう足早に――
「失礼します」
ふたりに深々と頭を下げ、莉於も悠の後を追う。
「待ちなさい」
呼び止めたのはよしえだった。
「さっき富士宮くんが言ったこと、あれはあなたもそのつもり――ってことでいいのかしら?」
家柄を笠に着て自分の欲望を押し通す――そんな主を肯定するのかと彼女は言っていた。
「はい――莉於は悠様専属のまふぃあん・メイドですので」
莉於はニコリともせず一礼すると、風のように走り去った。
*
悠が消えた方角に見当を付けやってくると、人気のない旧校舎に辿り着いた。
「どちらでしょうね」
莉於の前には塗料がボロボロに剥がれた木製の扉が二枚。
辛うじて色が判別できる――ピンクの扉が『女子トイレ』で、ブルーの扉が『男子トイレ』である。
そっとブルーの扉を開ける。
しくしくしく……と、奥の個室からすすり泣きが聞こえてきた。
いまのところ旧校舎のトイレに幽霊が出るなどの噂は聞かないが、それも時間の問題だろうと思った。
莉於はコンコン、とかなり強めに個室をノックする。
「ひッ――は、入ってます」
案の定、中身が植物系男子であることを確認した莉於はさっと隣の個室に入った。
「あ、あの、もしかして莉於?」
恐る恐る扉が開かれる。誰もいないことを確認すると悠は「ひぃ」と短く悲鳴を上げた。
「ううう、あんなに強いノック、気のせいなはずないし、莉於、莉於なんでしょう、ねえ?」
呼びかけるもなしのつぶて。
いまさらながら自分が人気のないトイレにいることを思い出し、悠はガタガタと震え出す。
「莉於ぉ、うう、さっきの誰ぇ……うああ」
「――ばあ」
「うわあああああああああッ!」
上から莉於が降ってきた。
壁板の天辺に両膝をひっかけ、犬神家よろしく逆さまの状態だった。
狭い個室で逃げ場などあろうはずもなく、悠は扉に頭を打ち付けて悶絶した。
「失礼、思ったよりも手間取りました」
「知らないよ! 何してんのさ!」
「ありきたりな登場はメイドの沽券に関わりますので」
「出たての芸人なの! 僕のメイドはどこ目指してるのさ!?」
「頭に血が上ります」
「ひ、ごめん――って、そんな状態だからだよね? 怒ってるわけじゃ――」
「悠様?」
脚の間に挟んであったスカートがふわっと落ちる。レースの付いた白い花びら(他意なし)のようなショーツが露わになった。
「サマーソルトキック」
「わああああああああ!」
ベソをかいてる場合ではなくなった。
今はもう使われなくなった旧校舎の空き教室。
教員用の椅子の上で脚を組む莉於の膝元、――悠は罰でも食らったように正座させられていた。
「悠様、莉於は別に怒っているわけではありません」
「そんな蔑むような眼をしてるくせに説得力ないよ」
さめざめと泣きながら床の傷を数える富士宮家次期当主だった。
「ですがひとつ――越後谷さまのパンツとどちらが好みですか?」
――また答えにくいことを。
ニコリともせずそんな質問を浴びせるものだから、悠は蛇に睨まれたように固まった。
「どちらですか、お答えください。ちなみに莉於はソニックブーム→キャンセル追い→サマーソルトのコンボが得意ですよ?」
「さっきの唐竹キックだけじゃないの!?」
「ソニックブームを当時『姉貴ブーム』と勘違いしていた全国の小学生に罪はありません」
「いや、確実に僕もそのひとりだけれども」
「姉貴ぶーん」
「ぐえっ、入ってる、単なる絞め技入ってるから!」
「さあ、疾くお答えください悠様」
「莉於――莉於のパンツのほうが好きだから!」
パっと悠の首を解放すると莉於はフンスっと胸を反らした。
「当然です。仮にも富士宮家に使えているメイドですので、主の下着の好みも把握済みなのです」
「ねえ、何の話だっけ?」
「悠様がのべつ幕なし、女性にセクハラして家柄を盾にする最低野郎という話です」
「わああああん!」
忘れていたかった事実を突きつけられ悠は再び号泣した。
男の中の男に憧れる純朴な少年が、それとは対極の最低行為をしてしまったのだ。
しかも富士宮の名前を笠に着て女の子にセクハラをするなど、悠の目指す男性像からはもっとも遠い存在となってしまった。
――というのも、実はこれもすべて莉於の提案だった。
昨夜、富士宮の屋敷で彼女は悠に言ったのだ。
「クラスの女の子全員に嫌われてしまえばいいのです。簡単なお仕事です」
「え、えええ……?」
眉をへの字にする悠に莉於はずいっと詰め寄った。
「悠様が好意を向けるに値しない、権力を振りかざし、好色の限りを尽くす最低の卑劣漢と思わせましょう。そうすれば悠様の身体が女の子になることもなくなります」
「そんな――そんなことできないし、したくもないよ!」
当然のリアクションだった。莉於は聞き分けのない子供に諭すよう説得を続ける。
「悠様、ひと時の辛抱です。しばらくマイナスのイメージは付きまといますが、後でいくらでも返上できます。ですが悠様が望む男性の身体は、この機会を逃せば二度と手に入らないかもしれないのですよ!」
「――ッ!」
がーん、と悠の衝撃は如何ほどのものだったか。
少なくとも部屋でひとり塞ぎ込んでいる場合ではないことだけはわかったようだった。
「そうだよ、その通りだよ。あと一週間以内に男の身体を手に入れなきゃ僕はずっと女の子のまま。わかったよ、――僕は植物系男子をやめるぞRioォ!(ドドドドドド)」
それは究極の決断だった。
どんな手段を使ってでも、誕生日を終えるその瞬間まで、男の身体でありさえすればいいのだという、相当にリスキーな勝負と言っても過言ではなかった。
「ときに――実際に越後谷さまと鮎川さまをセクハラなさっていかがでしたか?」
莉於の無慈悲な質問に、悠はうなだれた。
「すごく恥ずかしくてみっともなかった」
声は消え入りそうなほど小さいものだった。だが「ううん」と即座に否定する。
「違うよね、僕でさえこうなんだから、やられた彼女たちはもっと恥ずかしかったはずだよね。僕は――なんて取り返しのつかないことをしてしまったんだ……!」
悠は紛うことなき温室育ちである。
だがそれはナヨナヨしているという意味ではなく、純粋で純朴で、他者の悪意に免疫がないということを意味する。
クラスメイトたちから浴びた感情――驚きと困惑、そして軽蔑。
それらを受け止めるには悠の心はあまりに無防備で繊細なのだった。
「大丈夫――」
今にも床に額をつけて懺悔しそうな――そんな主を莉於はそっと抱き起こした。
「莉於がおります。例えクラス全員が、学校中の誰もが悠様を嫌いになっても、莉於だけはずっとお側におりますよ。ですからがんばって男性の身体を勝ち取りましょう」
「莉於……」
悠の喉奥がきゅうっと締め付けられる。
莉於の顔はいつもの無表情なのに、泣いてしまいたくなるような、胸の奧がいっぱいになって、苦しくて切なくて叫び出したくなるような――そんな衝動が悠を襲う。
莉於は主をしっかと立たせると、優しく膝を払いながら言った。
「さし当たって莉於から悠様にプレゼントがあります」
「え、本当? 何かな?」
泣いたカラスがなんとやら――現金な悠に莉於は肩を竦める。
「一発逆転の特別アイテムです。エリクサー並の回復効果が見込めるシロモノです」
「喜んで飛びついた途端、致死性のダメージを受けそうな気がするねそれ……」
「いまここで致死性のダメージを受けてみますか。莉於のコンボがゼロ距離で炸裂しますよ?」
「すすす、すいません!」
「――富士宮家次期当主が謎の怪死。旧校舎女子トイレの惨劇、という見出しはどうですか?」
「さらっと僕の亡きがらを女子トイレに移さないでよ!」
そんなやりとしをしていると、頭の上からお腹に響くような爆音が近づいてきた。
「到着したようですね」
「え、ヘリコプター? どうして?」
また昨日のように実家まで移動するのだろうか――
悠が当惑していると、校舎のほうから溢れんばかりの歓声が聞こえてきた。
ビリビリと、学校全体が震えているような、それほどに大きな喜びの悲鳴。
男女を問わず、全校生徒の全員から手放しで歓迎される――そんな人物を悠はひとりしか心当たりがなかった。
「莉於――もしかして!?」
「富士宮の財力にものを言わせ、無理やり留学を取りやめにいたしました。昨夜のうちにチャーター機を使い帰国を急がせたのです」
「――っ!」
悠は駆けだしていた。
泣いている場合ではなかった。
自分がいま一番会いたいひと、必要としている人物が帰ってきたのだ。走り出さずにはいられなかった。
富士宮の家紋が入ったヘリがグラウンドに砂塵を巻き上げる。
サイドハッチから颯爽と降り立った少年の姿に学校中が驚きと祝福が込められた声援を送っていた。
何故ならその少年は――向こう一年はアメリカに留学しているはずだったからだ。
少年の名は椿十志郎。
名前も男らしければ、風貌も中学生とは思えないほど大人びている。
恵まれた体格と運動神経を野球に注ぎ、地元の弱小リトルリーグを世界一へと導いた神童である。
中学生でありながらすでに超高校級の実力を認められ、スポンサーまで付いているというまさに天武の才を持った少年だった。
「半年ぶりか……やっぱ日本はいいなあ」
十志郎は懐かしい校舎を見上げながらニカっと笑みを零した。
途端大人びた風貌が崩れ、年相応のあどけなさが顔を覗かせ――ベランダの各所から黄色い悲鳴が沸き起こった。
その反応も当然。彼は正真正銘この学校の、引いては地元のヒーローなのだから。
「みんな、騒がせて悪いな! 何だかんだで椿十志郎、日本に帰ってき――」
最後まで言い切ることができず、十志郎はその場に尻餅をついた。
「よう、ちょっと背伸びたか――親友」
悠だった。
息は切れ切れ、顔は涙と鼻水で酷い有様。でも――
「相っ変わらず女みたいな顔しやがってこの――」
日焼けした手が悠の髪をくしゃっと撫でた。
悠が欲しいものをすべて持っている大きな大きな手だった。
「十志郎ぉ!」
「おい待てこら、俺にそういう趣味はないぞ!」
十志郎の逞しい胸の中で、悠はわんわん泣き出した。
校舎中から黄色い声と、ちょっと趣の違う歓声が聞こえてくるのは気のせいではない。
悠のたったひとりの友人にして、『悠の身体を男性にしてくれる存在』――椿十志郎。
これで悠が望む未来のためのピースがそろったのだ。
グラウンドで抱き合うふたりの『男同士』の姿を、莉於は校舎の影から無表情に見つめていた。
富士宮悠の性別が決定するまで、残り六日と一六時間――