第十六話「ヘタレリミッター解除――さあ拳で語り合いましょう」
『連続ビジュアル小説~Y子の華麗なる日常~第79回、悲しみのはじまり~』
〈Y子〉は愛らしい。
その噂は学園を飛び越え、市井でも評判になるほどだ。
だが彼女の魅力はその容姿だけに留まらない。
影。彼女の表情には常に一抹の憂いが差す。
皮肉にも、それが彼女の美しさをより引き立たせてしまうのだ。
若くして大財閥の当主としての宿業を背負った彼女の運命はあまりに重く。
白くか細い彼女の手足はその重圧を支えきれず崩折れてしまいそうだった。
そんな〈Y子〉を傍らで支え続けた執事〈M〉の姿は今はない。
〈Y子〉をその家名ごと手中に収めんとする〈E〉の奸計に陥り、〈M〉は深い深い傷を負ってしまったのだ。
〈Y子〉は半身とも言うべき支えを失い、深い悲しみを抱えたまま学園と病院とを往復する日々を送っていた。
そんな健気な〈Y子〉に危機が訪れる。
今まで〈M〉の存在によって抑えつけられていた学園のむくつけ共が、可憐な〈Y子〉にその汚穢なる毒牙を伸ばし始めたのである。
「へへ、こんなところにまでひとりでのこのこ来るなんてよ、いつものスカした執事はどうしたんだよ、え? お嬢様よう」
「や、やめて、それ以上近づくと、大声を出す――出しますよ!」
僅かに乱れた襟元を押さえて悠――〈Y子〉は相手を睨み付けた。
「出してみればいい。きみの声は誰にも届かない。誰の心にも響かない。何故ならきみは自分というものを持っていないから。あの執事の支えなくして、きみは自分の立ち位置さえわからない。いまここにいるのはまさにそう――大海に一艘の小舟でこぎ出してしまったかのような――」
「カットぉ!」
丸めた教科書を地面に打ち付け、鈴は力の限り叫んだ。
「よしえちゃん、冗長すぎる台詞はいらないよー、行的には三行を越えるとNG! あと口語口調に文章的表現や比喩は多用しないー! あくまで簡潔な台詞の中に余韻を残すよう心がけてってばー!」
「むう。一生懸命考えたのに」
およそ失敗というものとは無縁のよしえが先ほどから一番リテイクを出されていた。唇を尖らせるよしえにニヤニヤ顔の一子が鬼の首を取ったように笑う。
「かかか、いい気味だなあおい。おまえの頭ん中って全部活字で出来てるんじゃねーの?」
「あなたの頭の中身は万年カートゥーンパレードでしょう。漢字には必ずルビが振ってある類のね」
「あ? やるかコラ。富士――〈Y子〉の前につまみ食いしてX指定にしてやんぞ?」
「どうぞやれるものなら。逆にあなたも女の身体に生まれたことを後悔させてあげるわ」
一子はタコ口でよしえは舌なめずり。双方わきわきと手を蠢かせながらにじり寄る。その間に割って入ったのは、女子の制服もすっかり板についた悠だった。
「ちょっと越後谷さんに委員長、もうちょっと真面目にやってよ」
「「…………」」
窘められたふたりは眉間を揉みながらしげしげと悠を見つめた。
「なんつーかしかし改めて見ると」
「犯罪的というか犯罪そのものというか」
悠の制服は一子の鞄に入っていたものだった。サイズ的には一回り大きく、悠にはちょっとぶかぶかである。だが、そのダボついた感じが見るものの保護欲をこれでもかと掻き立てる。
猫手で袖口を押さえる仕草といい、丈をめくって短くなりすぎたスカートといい、この姿をWEB公開などした日には死人さえ出そうな可愛さだった。
「ほんじゃ、シーン3、カット2、はい――アクション!」
カチンコの代わりにぱちんと手を鳴らして寸劇(?)は始まった。
劇中で悠は学校帰りの〈Y子〉で、そんな〈Y子〉を路地に連れ込んで迫るふたりの不良、――という簡易設定だった。
「もう言葉はいらないな」
メガネをスッと外しながらよしえが悠を壁際にまで追いつめた。あえて台本を無視した大胆なアドリブに鈴はオッケーサインを出し、続けて続けてと手を振る。
「いやッ――!」
「おっと、逃がさないぜ」
逃げようとする悠の退路を塞ぎ抑えつける一子。体格の勝るふたりに肩を掴まれ、悠はイヤイヤをするように首を振った。
一子が悠の顎をクイっと持ち上げる。差し出される小さな蕾。一子は吸い寄せられるようにその蕾を奪った。
「――んぐぅ」
莉於の手の平が熱いキスを受け止めていた。
「越後谷様、台本にキスは含まれていないはずですが?」
「いやつい、すま――んがあああ、コブラクローやあああああああッ!」
「バカね。まあ、気持ちは分からなくもないけど」
「鮎川様?」
「な、何でもないわ!」
「それで八重山さん、どうなのかな?」
赤くなった頬を抑えながら悠は監督に問うた。
「んー、こればっかりはもえに聞いてみないと。いかがですかーパッションさくら先生、実寸劇を見てなにかアイディアが浮かびましたかー?」
屋上の地べたにノートPCを広げたもえが、両手をホームポジションに置いたまま呆然と呟いた。
「ごめん、全然浮かんでこない、――ない……?」
原因を作った張本人として、現状を一刻も早く打破したいのに、まるでアイディアが出てこない。もえは空を仰いだまま肩を震わせる。涙が零れないように。
「ごめん、ごめんね富士宮くん、あたしへっぽこだ。へっぽこ過ぎだよ。自分で広げた風呂敷を畳めないダメダメな作家モドキだよう、――よう?」
「な、泣かないで高桜さん。無理をお願いしてるのはこっちの方なんだから」
「そんなこと言ったら、富士宮くんに迷惑かけてるのはそもそもあたしなわけで、こんなお話なんか書かなきゃよかったよう、――よう?」
「それだけは違うよ高桜さん」
悠は跪きもえの肩に優しく手を置いた。顔を下げたもえからポロポロと涙が溢れ――滲んでボヤケた視界のなかで、悠の強い瞳がもえを見つめていた。
「きみたちは確かに僕をモデルにした小説を書いたかもしれない。僕は全部読んだ訳じゃないけど、でもやっぱりあれはフィクションだよ。文末にもそう書いてあるように、ほとんどが僕の生活とは似ても似つかない展開になってた。それを現実とはちゃんと分けて考えられない読者のほうにこそ問題があるんだと僕は思うんだ」
「富士宮くん、――くん……?」
男の子なら自分が女の子になった話なんてきっと嫌悪するはず。もえはずっとそう思っていた。でも悠はそれとは別に、物語は物語として正当な評価をくれる。そして問題の本質を的確に見抜いている。
気弱でナイーブで優柔不断……でも実はしっかりとした信念を持っていて意外と頑固者。
他者への気配りを忘れず、自分以外にはどこまでも優しく温かい……。
まるでそれはもえが思い描いた〈Y子〉の完成形そのものだった。
「うん、確かにいっぱい問題はあるけど、彼女たちはただ純粋なだけなんだ。みんなきみの書いた物語が大好きなだけで、そのキャラクターが現実に居るかも知れないって思いこまされて、少し暴走しているだけなんだ」
あの狂態を『少し』と言い切れる悠によしえたちは瞠目した。
それと同時に、状況に流されるばかりに見えて悠が冷静な視点を持っていることにも驚いていた。
――ついでに、「富士宮ってこんなにいっぱいしゃべるんだ」などと失礼なことを考えていた。
「だから彼女たちをお祭り気分から醒ましてやるためにも、原作者である高桜さんには頑張って欲しいんだ」
「でも、私いつも鈴ちゃんに助けてもらうばかりで、一人っきりじゃ何にも考えつかなくて、――くて?」
「大丈夫、今日はみんないるよ。〈Y子〉である僕だっているんだ。執事の〈M〉だっている。鮎川さんや越後谷さんだって、どんな役柄だって引き受けてくれるよ、ね?」
「いや、あたしはもう出来るなら汚れ役は勘弁なんだが」
「あんたは黙ってなさい」
空気を読まない一子の口をよしえは両手で塞いだ。
「ううん、やっぱりあたしへっぽこだよ。いままで富士宮くんの一体何を見ていたんだろう。優柔不断な〈Y子〉とは全然違う。ちょっとかっこいいね、――ね?」
「え?」
見つめ合うふたり。潤んだ瞳のもえと、耳まで紅くなる悠。
カシャ――と、一子が写メった。
「何してやがりますか越後谷様ぁ!」
「いっ、だあああああ! いや普通撮るだろこの絵づらああああああッアイアンクローいやああああッ!」
「ほんとバカね」
もはやよしえはため息も出ない。そして――今の今までとっくり小説を読みふけっていたエリカがようやっと口を開く。
「悠様、私決めましてよ! 大鳥がスポンサーとしてふたりを全面的にバックアップいたします。既に連載分の78話をハードカバー仕様の全十巻で発売いしましょう。すぐに大手出版社に企画の持ち込みを――」
「まとめに入った話を引っかき回さないでください居候メイド風情がぁ!」
「やめて、ロール髪を伸ばさないでちょうだい! 毎朝自分でセットするようになってから苦労してますのおおおおおおおッ!」
「ほんとバカばっか」
「にゃははー」
よしえと鈴が乾いた笑いを浮かべるもどこか楽しそうだった。
屋上籠城という危機的状況下にあっても、笑い合えるだけのバイタリティは貴重なのだった。
「とにかく、物語を完結させるためには、多少強引でも大胆な展開にした方がいい。そのために必要なことは説得力だよ。読んだ人にそれ以外の結末が思いつかないくらい強烈なインパクトを与えるんだ」
「説得力……強烈なインパクト……他に思いつかない……ない?」
もえは腕を組み、黙考を始めた。時折うんうんうなり出すのを見て悠はあたふたする。
「た、高桜さん、どうしちゃったの?」
「大丈夫だよー、富士宮くん」
「八重山さん、でも僕、素人のクセによけいなことを言っちゃったんじゃ……」
「ちがうちがう、むしろ逆。ようやくもえにスイッチが入ったよー。もえはいつもスロースターターでねー。ああやってうなり出すまで時間がかかるもんなだけど、やるねえ富士宮くん。あたしよりよっぽど編集の才能あるんじゃないー?」
「僕なんかが役に立てたならいいんだけど」
イペリコ豚……松尾が告知した時間までは残り三十分。スタートが遅いだけで執筆スピードはかなりのものらしいパッションさくら先生が本気を出せばギリギリ間に合うだろうか――そう悠たちが考えていると再び耳障りな放送が聞こえてきた。
『ぴんぽんぱんぽんぱーん……あーあー、テステス――ぶひっ』
相も変わらずの油ギッシュな声音に、全員ラードを飲まされたような渋面になった。
『えー、屋上で籠城を続けるハニーと執事、その他大勢に告げますぅ』
悠と莉於以外は眼中にないと言われエリカがムッとする。悪役とはいえ自分も小説に出ているのに……。
『先ほどはタイムリミットを一時間と言っていましたが、予定が変わりましたぁ』
悠たちに戦慄が走る。この屋上の隔壁がもう突破されてしまうというのか――!?
『思ったよりと言うかあっさりと言うか、意外と意志薄弱なところがあったみたいね。一体何が彼をここまで追いつめていたのか、考えだすとごはんが欲しくなるわぁ――』
ガシャーン、と遙か階下で窓ガラスが割れる音がした。
『とにかく――洗脳完了しちゃったの、てへ☆』
ガシン、ガシン、ガシン――と、コンクリートを削る音が近づいてくる。
フェンスを跳び越え、空中でこれでもかとキリモミしながら、それは悠たちの前に降り立った。
『紹介するわ、彼の名前は〈T〉。蟹座で獅子年生まれの一五歳、スポーツ万能、成績優秀で帰国子女の――超絶美形よ!』
悠たちの前に現れたのは――何のことはない、単なる十志郎だった。
だがその格好は普段の彼を知る者達なら眉を顰めるものだった。
どこから持ってきたのかブラウンの長髪ウィッグに、襟を立てたシャツは前が全開。ボタンで留めるどころか最初からボタンがないという有様。
ひらひらとシャツが揺れるたび、鍛え上げられた胸板と腹筋がチラ見してウザったらしいことこの上ない。
なにより悠たちが驚いたのはその表情だった。
いつもの十志郎は男らしさとあどけなさが同居した魅力的な笑みを浮かべているが、いまは違う。
不敵で不愉快な、見る者を萎縮させるようなプレッシャーを放つ、傲岸不遜な笑みを浮かべていた。
「十、志郎――大丈夫なの?」
悠が恐る恐る問いかけると、十志郎――〈T〉はわざと足音を立てながら近づいてくる。
ぎゅうっと自身を抱き、悠は身を固くした。
十志郎は軽く口角を吊り上げながら唇を濡らすよう舌なめずりをし――それがまるで肉食獣が獲物を見定めるときの仕草に見え、悠は恐怖した。
「お待ちなさい」
十志郎の歩みを止めたのはエリカだった。
「何をやってますのこの駄犬は。スポーツマンにあるまじきチャラけた頭に――なんですこの甘ったるい匂いは! 男のくせに香水など惰弱な、恥を知りなさ――」
ぱぁん、と乾いた音が轟いた。十志郎がエリカの頬を張った音だった。
「――なッ!?」
強かに頬を打たれエリカの口端が切れる。倒れそうになるエリカを一子とよしえが慌てて受け止めた。
「くっ、何をしますの、この――!」
「黙れ〈E〉! よくものこのこと僕らの前に顔を出せたものだな! きみが僕たちにしたことを、僕は決して許さない!」
スポンサーであり、頭の上がらない相手であるはずのエリカにこの啖呵。なによりエリカのことを今〈E〉と――
「あーっ、思い出した、こいつ小説の中に出てくる〈T〉の格好そのまんまじゃねーか!」
一子がエリカを立ち上がらせながら言う。よしえも頷く。
「ええ、やたらと胸板を強調したシャツの着こなしに栗色の髪……まさに小説から飛び出してきたような完璧な〈T〉の姿――」
「洗脳が完了したってそういうこと――ですの?」
赤い口元拭うおエリカには目もくれず、十志郎は悠へと両手を広げて歩み寄った。
「ああ、〈Y子〉、ずっと待たせてごめんよ。イギリスに留学している時でも、きみのことを忘れたことはない。離れてようやく気付いたんだ、僕が愛してる女性はきみだけだって」
「ええーッ!?」
歯に衣着せぬ大胆告白に耳まで紅くなる悠。女子制服姿でモジモジとするものだから、傍目にも本物の女の子にしか見えない。ネタ出しのために女装をしたのが裏目に出ていた。
「さあ、行こう〈Y子〉。僕はもう迷わない。きみが好きだ。大好きなのさ。僕たちを縛るものは何もないだろう。今すぐ教会に駆け込むんだ。そしてふたりっきりのハネムーンに出かけるのだった――」
文章中のセリフを自分の言葉に変換していないので文節や語尾がめちゃくちゃだった。所詮十志郎の読解力だった。
「ちょ、ちょっとまってよ十志郎、いきなりそんなこと言われても僕、心の準備が……!」
「言っただろう、もう迷わないって。気持ちの整理なんてベッドの中で済ませればいいのさ」
「椿くん、ベ、ベッドってー、はわわわわー」
「超大胆だよ、――だよ?」
おまえらが言わせた台詞だろう、と一子とよしえとエリカは内心で突っ込んだ。
「ああ、なんて愛らしいんだ〈Y子〉、いますぐここで誓いのキスをしてもいいかい?」
悠の小さな身体はふわりと舞い、それが当然あるかのように十志郎の逞しい腕に収まった。
見た目は分からないが、悠の身体がめまぐるしい勢いで女から男へ、そして男から女へと変化を繰り返す。
服の下で繰り返される性転換は、悠の身体の感度を極端に高ぶらせ、その顔は火が着いたように朱に染まっていく。
「お待ち下さい」
ふたりの間に有無を言わせず身体を滑り込ませる莉於。悠を求めて再び伸ばされる十志郎の手を阻むよう莉於は敢然と立ちふさがった。
「やっぱりきみもそうなのか〈M〉。きみも執事という立場を越えて、〈Y子〉のことが好きなんだね?」
「ええッ!?」
驚きの声を上げたのは悠だけだった。普段悠に仕える莉於の姿を見ている者からすれば、十志郎の発言は別段驚くに値しない。
その態度はあくまで慇懃であるものの、悠のことを第一に考え献身する莉於の姿はなにか『特別』なものを感じずにはいられない。
この場で真実を知るのはエリカのみのはずなのに、女子たちに洗脳され、あわれ〈T〉と成り果ててしまった十志郎の言葉は、少女たちにはなんの抵抗もなく現実に置き換えられてしまった。
そして莉於は――無言だった。
否、震えていた。それは心情を言い当てられた羞恥、などでは断じて無く――
「あなたがそれを言いますか――しらふでは悠様のお気持ちにも一切気付かないあなたが、本人を目の前にしてそれを言いやがりますかッッッ!!」
咆哮した瞬間、ボウッと、莉於の全身に炎が灯った。
裂帛の気合いにフェンスがビリビリと震え、足下の小さなチリが円形に吹き飛んだ。
「すげえ、マジでドラゴ○ボールじゃん」
「空気を……いえ、もういいわ」
そんな感想が出るほど、莉於は怒りに燃えていた。ほんのり髪も金色に逆立つほどの激昂だった。
十志郎は――普段なら莉於に冷たい目を向けられただけでヘタレてしまうのだがいまは違った。
「きみとはいずれ、こうなる気がしていた――決着を付けよう。勝った方が〈Y子〉を奪う。異存はないな?」
「いい加減、その口を閉じやがれ――ですッ」
忽然と莉於の姿が消えた。ガン――と給水塔の側面がへこみ、次いでフェンスが大きく歪む。十志郎の背後から強烈な足刀が――
「――なッ!?」
驚愕。莉於の蹴り足は十志郎の手にガッチリと阻まれていた。
「相変わらず速い、そして巧い――けどそれだけだ。いいかい、いまから僕がきみに足りないものを教えてあげる――よッ!」
十志郎は莉於の足を肩に担ぎ、一本背負いのように投げた。莉於が顔面から床にたたきつけられる寸前、バネ仕掛けのように跳ね起きた十志郎から猛烈な前蹴りが放たれる。莉於の身体はくの字に折れ曲がり、そのままノーバウンドでフェンスを突き破り、階下へと真っ逆さまに落ちていく――!
「莉――」
悠が叫ぶ。だがそれより速く、十志郎の身体が弾けた。自由落下を始めた莉於の足首を空中で掴むと、そのままグラウンドへと叩きつける。
「於――って、えええええ!?」
急ぎフェンスへと駆け寄る一同。莉於は四階分の高さから地面に激突して――いなかった。
まるで猫科動物のように激突までの刹那、くるん、と体を入れ替え着地。そこから十数メートルも地面を転がり、全身で落下エネルギーを分散。埃を巻き上げながら飛び起きた。
――追撃。遅れて地面に降り立った十志郎へ莉於が肉薄する。ヘリのフロントガラスを砕くほどの拳が十志郎の顔面に叩き込まれた。
「言っただろう」
「なっ!?」
十志郎は莉於の拳を頬で受け止めていた。
微動だにせず、むしろ拳を押し戻しながら言い放つ。
「きみはそう、スピードスターだ。誰もきみには追いつけない。でもこうして捕まえてしまえば――どうだい?」
顔面に刺さる左拳を片手で拘束する十志郎。当然こうする、とばかりに莉於が右拳を放った。
「――ッ!」
拳が何もない空間に突き刺さる。十志郎が掴んだ左拳ごと莉於の体を僅かに動かし、拳の軌道を変えたのだ。
連続して放たれる莉於の右拳はことごとく空を切り、十志郎は僅かに首を動かすだけで瀑布のような攻撃を躱していく。
「ちいぃ――!」
拳による点の攻撃を諦め、蹴りによる線の攻撃に切り替える莉於。爪先が深々と十志郎の脇腹を抉る。だが――
「いい加減にしないかッ!」
大声とともに放たれる手の平。硬く分厚い、幾度も皮がむけてグローブのようになったピッチャーの手。エリカに放ったものとはまるで威力が違う。骨まで砕きそうな鈍い音が莉於の顔面から轟いた。
「がッ――」
莉於の両鼻から血が吹き出す。涙でぼやける視界が辛うじて次の攻撃を捉える。莉於は息を止め腹筋を固めた。
「ぐ――は……!!」
来ると分かっていたのに想定したダメージを容易く超えられた。まるで内臓が背中から吐き出されてしまったかような喪失感。直ぐさま襲い来る猛毒のような麻痺と激痛。横隔膜が肺までせり上がり呼吸を阻害する。
莉於は左拳を預けたまま、ガクリとその場に膝をついた。
こうべを垂れる莉於を見下し、十志郎は――〈T〉は昂然と言い放った。
「技や疾さをも上回る圧倒的な力。それがパワーだ!」
ドラゴ○ボールなのか幽○白書なのかどっちやねん――と。
そんな冷静な突っ込みを入れられる者は皆無だった。
ただひたすら、莉於と十志郎の人間離れした戦いを追うのに必死だった。
自称まふぃあんメイドである莉於の実力を悠たちは何度も目の当たりにしている。
その莉於が敗北する姿など、にわかに信じがたい光景だった。
「そういうことですのね」
エリカが呟く。口元を白いハンカチで押さえながら驚愕も露わに続けた。
「女子たちの洗脳により、駄犬の中の『ヘタレリミッター』が完全に取り除かれてしまったのですわ」
元々十志郎には大きな素質が秘められていた。大鳥の施した強化プログラムの成果により、プロにも引けを取らない身体能力を手に入れることができた反面、ここ一番の勝負では実力を発揮できずにいた。
チームに助けられ、なんとか世界一は手に入れたものの、多くの課題が残った。
エリカが十志郎を単身アメリカに留学させたのは、悠から引き離すためでもあり、そして十志郎自身に異国の地で勝負度胸をつけさせるためでもあったのだ。
「それが洗脳によって仮初とはいえ絶対の自信を手に入れ、あの駄犬の中に眠っていた潜在的な能力が完全に解放されてしまったのですわ。メイド長がいくら強いとは言っても、普通の人間は自身の持てる能力の三十パーセントも使いこなせていない。勝てる見込みはありませんわ!」
身体能力なら莉於だって負けてはいない。
だが男と女の間に存在する決定的な肉体の差――、身長や体重、搭載されている筋肉量にあまりにも開きがありすぎる。
細身の莉於が、雄牛と正面からぶつかって勝てる道理はないのだ。
「そんな――莉於しっかり! 十志郎、もう止めてよ、莉於を傷つけないでよぉ!」
悠の悲痛な叫びに応えるよう、十志郎は莉於の手を離した。そして振り向きざまウイッグの髪をかき上げながら、ビシっと屋上の悠を指さす。
「ならば認めるんだ、僕こそがきみの伴侶に相応しいと。きみ自らが〈M〉に負けを認めるように命令するんだ!」
悠は言葉に詰まった。
莉於に――、自分のために戦っている莉於にそんな命令をしなければならないなんて。でもこれ以上彼女が傷つく姿は見たくない。
何故かは分からない。いままでなら莉於が矢面に立つことは当たり前のことで、悠が影に隠れているのが常だった。
でも、いまはそれがとても辛い。どうして――
悠が動けないでいると、校舎から一斉に女子生徒がなだれ込んできた。
キャーキャーと黄色い悲鳴を上げながら、あっという間に十志郎と莉於を取り囲む。
自信と力に満ちあふれる〈T〉に歓声を上げる者、膝を折る〈M〉の姿に発狂寸前で叫ぶ者、屋上に制服姿の〈Y子〉を見つけて失神する者などなど、豊葦原中学校はますますカオスに――地獄の釜をひっくり返したような様相になった。
悠はひとり、ポロポロと涙をこぼした。
「そんな、こんなのってないよ……莉於は女の子なんだ。傷ついてるんだ……十志郎だって変になっちゃうし……なのにこんな、みんな酷いよう」
フェンスをぎゅうっと握りしめ、許しを請うように跪く。
自分は悪くないのに、それでも理不尽に巻き込まれ、大切な人たちが傷ついていく。
グラウンドの少女たちは、泣き崩れる悠の姿にさえ、狂乱の歓声を上げ続ける。
我先にと腕を伸ばし、携帯カメラで悠を激写し続ける。
自覚がないだけで、人はここまで残酷になれる。醜くなる。
昨日までは一緒に笑いあっていたクラスメイトひとりひとりが、いまは嫌らしい笑みを浮かべて他人の不幸を愉しんでいる。無自覚に。無遠慮に。
そして彼女たちをそんな風に心酔させている原因は――もえが悠たちをモデルにして書いた小説に他ならないのだ。
もえはこの事態を招いたのが本当に自分なのだと、たった今初めて自覚した。
どこか現実味がなかった。みんなおふざけの延長で楽しんでいるのでないのかと。
だが違う。その一線はとうに越えてしまった。
自分は元凶。巻き込まれたのではなく、自分が悠たちを巻き込んだ張本人なのだと。
実感が伴った途端、この事態を解決できるのは自分しかいないと、自分の小説しかないと、もえは強く思った。
〈Y子〉の――悠の涙を止めることができるのは、誰よりも悠のことに思いを巡らせてきた自分をおいて他にはいないのだ。
「鈴ちゃん、終わらせるよ、――るよ!」
「もえ!?」
床に広げたノートPCに向かい、一心にタイピングを開始するもえ。鍵打の音は途切れることなく、ピーンと張りつめた音波へと変わっていく。
「は、はえー。指が全然見えないぞ!」
「なんて集中力……周りの雑音が一切耳に入ってないって言うの!?」
突如として豹変したもえに驚きを隠せない一子とよしえ。
ようやく本来の姿を取り戻した相棒に、鈴も同じくパートナーとして応える。
「いっちゃん、よしえちゃん、これがパッションさくら先生なんだよ。そして私はさくら先生の専属イラストレーター、ベルっちなんだよー!」
同じくノートPCを広げ、こちらはタブレットを無線接続する鈴。ペン型の入力デバイスを構えながら、もえをの方をじっと見つめる。
「鈴ちゃん、共有サーバにラストシーンのプロット上げたよ! 足りない部分はイメージ膨らませて! 鈴ちゃんのセンスを信じるから! ――から!」
「おっけー、最高の一枚を仕上げて見せるよー!」
鬼気迫るふたりの様子に我知らず、一子とよしえはため息を吐いた。
「すげえ、まるっきりプロみたいじゃんかよ」
「ふふ、まさかこのふたりに嫉妬する日が来るなんてね」
テキストエディタに素早く目を走らせていた鈴が次の瞬間、悲鳴のような声を上げた。
「もえ、このお話って!?」
「――ッ、――ッッ!」
だが執筆に没頭するもえに鈴の言葉は届かない。いや、聞こえているがあえて無視したのだろう。
『信じる』。もえはそう言った。なら自分を信じてくれたもえを信じて描き進めるしかない。
「本当に終わりなんだね。本当に……」
ぽろりと、一粒の涙を零しながら、鈴は一心にペンを奔らせ始めた。
駆け抜けてきた創作の日々を思い出す。朧気に夢想していた最後とはずいぶんとかけ離れてはいるが、原作者が書く以上、これは紛れもない公式なラストシーンなのだ。
もっと違う最後もあり得るのではないか――そう言いたくなるのをぐっと堪え、読み込んだ文章を元に、思い描いたシーンを画面に起こしていく。
鈴のラフイラストを後ろから眺めながら、少しずつ浮かび上がっていく物語の結末を、一子とよしえは固唾を飲んで見守り続ける。
悠は再びグラウンドで戦い始めた莉於と十志郎の勝負の行方を見つめていた。
胸の前で手を組み、祈るように、願うように。
ふたりの大切なひとが、どうか無事でありますように……と。




