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第一話「ここひと月あまり、悠様は女性であらせられます」

 プロローグ


「立ちションがしたいんだ」

 夕焼けに染まる教室で、真咲莉於まさきりおは衝撃の告白を受けていた。

下校時刻が迫る無人の教室――落ちる影はふたつ。

ひとつは莉於自身の。そしてもうひとつは小柄な少女――否、少年のものだった。

「毎晩夢に見るんだ。愛しい僕のムスコの姿を……もう一月にもなる――早く、一刻も早く逢いたいんだ!」

 目を血走らせ莉於に迫り来る少年――名を富士宮悠ふじみやゆうという。

 小柄で細くて、中性的な顔立ち――

 見る者の心根次第で男の子にも女の子にも見えるという不思議な容姿。

言ってることは残念極まりないが、顔立ちの整った紛れもない美少年だった。

「…………」

 そんな美少年の決死の言葉を受け止める少女――莉於もまた、紛れもない美少女である。

 彼女をあえて一言で表すのなら、とても『真っ直ぐ』な少女だった。

 長く艶やかな黒髪と、つま先から頭のてっぺんまで、まるで一本の強固な芯が通ったような美しい立ち姿。

 視線もまた真っ直ぐと、目の前で気炎を吐き続ける少年――悠を見つめている。

「こんな苦しみ、君に話してもわかるわけがないよね。でももう限界なんだ!」

 そして悠を見つめる莉於の顔には一切の感情がなかった。

誤解しないで欲しい。彼女はいつでも誰に対しても無表情なのだ。

 無表情であるがゆえに、冷たい印象を周りに与える――それが莉於という少女だった。

実際、悠の言葉を受けても、莉於の瞳に感情の起伏はなく、口からは小さなため息がわずかに零れるばかりだった。

「聞いているのか莉於、俺は――」

 次の瞬間、莉於の右手が弾けた。

机五つ分の距離を一瞬で奔り、小気味のいい音が響く。

 果たして悠の左頬には真っ赤な紅葉てのひらが作られていた。

「な、何をす――いた、いたたたっ! 痛みが遅れてやってくる!? 新手のスタンド!?」

「家人の前での一人称の使い分けは厳密にと、莉於は何度も言ったはずです――悠お嬢様」

「お嬢様って言うな! 俺は――ひ、僕は私は男、だ」

 莉於がこれ見よがしに右手を振りかぶったのを見て言い直す悠。

「男なんだ、男の中の男になるんだよう……」

 と、本人は言うものの、莉於の無言の圧力に屈し、いまにも零れんばかりの涙を湛える姿は、男の中の男にはほど遠い姿だった。

「もう一月以上も女の子の身体のままなのにですか。は――座ってするおしっこにはもう慣れましたか?」

「うわあああああ言うなあ! それ以上僕の心を傷つけるなあ!」

粗相・・をするたびに、男子トイレで後始末をする莉於の身にもなってほしいものですね、お嬢様」

「うわああああああああん! ごめんなさいいいいいい!」

 訂正。莉於は無機質でありながら瞳には確かな愉悦を浮かべていた。

浮かべながら――自らが仕えるべき主を散々に罵倒しているのだった。

「だって、だって、ひっく、不便なんだもん、ひっく、おしっこのたびにパンツまで下ろさなきゃならないなんて、だから、だから――」

「だからといって女の子の身体で『ショートカット』を試みた結果があの大惨事ですか。便器はおろか天井にまで……何が悲しくて男子トイレの個室に脚立とモップを持って、あまつさえ授業中に後始末に行かなければならないのか。せっかく奥様から頂いた校内特権の使用がいまだトイレの封鎖だけなど笑い話にもなりません――」

 愚痴りながら莉於は顎に人差し指を添え、くいっと小首を傾けた。上から見下ろすように冷たい眼差しが悠を刺した。

「ああ、これは莉於への遠回しな嫌がらせですか? ですね? そうなのですね?」

「ちちち、違うよ! ずっと我慢してたから勢いが、あと転んじゃって……」

「もういっそ明日からは女子制服で登校なさいませ。莉於もいろいろ面倒な手間が省けて嬉しゅうございます」

 あまりの物言いに悠は顔を真っ青にして食い下がった。

「そ、そんなの嫌だよ、女の子の制服なんて! いまさらどんな顔してみんなに会えばいいんだよ!」

「ぷ。お友達なんていらっしゃらないくせに無用な心配ですね」

「うぐ。いや、それよりもトイレは――女子トイレに入るなんて僕はいやだよ!」

「ご心配なく、男子トイレのままで結構ですよ。もしかしたら特殊な趣味のお友達ができるかもしれません。友達百人できるかな? ええ、悠様のご容姿なら間違いなくそっちのお友達ができますよ。百人でも二百人でも。よかったですねえ」

 莉於はにっこりと唇をつりあげるも、その眼はまったく笑っていなかった。悠は莉於の怒りが振り切れる前にあっさりと泣きを入れた。

「ご、ごめんなさいいいい、もう女の子の身体で『立ちション』なんかしませんからあああ!」

 土下座だった。主としての威厳もへったくれもない姿だった。そんな悠を見下ろして莉於はふう、とため息を吐いた。

「はじめから素直に謝ればいいものを。悠様をたしなめる莉於も辛うございます」

「いやいや、絶対悦んでたよね?」

「ナニにカテーテル突っ込みますよお嬢様?」

「口答えしてすみませんッッ!」

 必死で謝った。莉於の溜飲を下げるためならどんな醜態でも晒す――そんな覚悟で頭を下げる悠の姿がそこにはあった。


莉於は悠の同級生にして専属のメイドである。

それと同時に小さい頃から共に過ごしてきた幼なじみとも言える関係だった。

 実は悠は特殊な体質の持ち主であり、彼を公私にわたってサポートするメイドの存在は必須なのだ。

 雌雄共鳴体リバーシブルシンパシー――悠の身体に性別は存在しない。

何故なら、とある外的要因によって、悠の身体は男の子になったり女の子になったりしてしまうからだ。

そして現在の悠の性別は紛れも無く『女の子』のものだった。


「はああ……僕、いつになったら男の身体に戻れるんだろう……」

「残念ながら、椿さまが戻られない限りは不可能ですね」

「でも十志郎は留学中だし」

「はい、向こう一年はアリゾナですね。シニアのトライアウトを受けるために」

「…………」

「大丈夫です、悠様ならスカートもきっとお似合いになりますよ」

「なぐさめになってないよおおおおおお! うわあああああッ!」

 さわさわと揺れるカーテンにくるまり、よよよと泣き崩れる悠。

そんな様子は本当に女の子のようで――実際身体は女の子なのだが――とても愛らしいものだった。

親しい友達こそ一人しかいない悠ではあるが、決してクラスの嫌われ者というわけではない。

むしろ逆――悠に無意識に好意を向ける女の子はクラスのほぼ全員と言っても過言ではない。

学校を始め、公文書や周りには男ということで通しているため、一応悠は男性として認識されている。

だが実際、初めて悠を見た人間は悠の性別がわからなくて混乱してしまう。

 声変わりもしておらず、身長も男子平均よりも女子のそれに近く、本人の気弱な性格もあってどちらかといえば女の子に見られることのほうが多い――

 まだ善悪の判断もできない幼少の頃など、少し目を離したスキに誘拐略取拐かし……。

 本人は無自覚だろうが、その身を狙われるなど日常茶飯事だった。

 そして現在、中学生になった悠は、一見すれば可愛い男の子――守ってあげたくなるような女の子――に見られてしまう。

 クラスメイトはもちろん、悠が通う学校の生徒達はそんな悠に好意とは紙一重の無自覚な秋波を送り続けている。

それが――本人にはどれほど辛いことなのか知りもしないで……。


「うう、莉於の意地悪、サディスティックバイオレンスぅ……ひっく」

 しなを作ってカーテンの端を噛み続ける悠を、莉於は無言で見つめる。

その表情から感情を読み取ることはできない。

 怒っているのか嘆いているのかも判断しかねる微妙な表情で、ただただ主の無様にため息をつくばかりだった。

と、そのとき、莉於の携帯が着信を告げる。薄寒い教室にヴェルディの怒りの日が響いた。

「母さんだね……何だろうね」

「さて、またろくでもないことでしょう――はい、莉於です」

 携帯相手に何度か相づちを打つ莉於。

その視線が窓の外、紅の空へと吸い込まれる。次の瞬間――

「わ!」

 悠がくるまっていたカーテンが千切れんばかりにはためいた。

窓の向こう一瞬見えた漆黒のヘリ――UH-1Jが中空でホバリングし、サイドハッチから縄ばしごを下ろしてくるのが見えた。

「え、え、え?」

「どうやら一刻の猶予もないようですね。仕方ありません、参りますよ悠様」

「ちょっとまって、ここ四階――」

「屋上に近くて幸いでしたね。ヘリもぎりぎりまで寄せてくれます」

「む、無理無理無理! 危ないよ怖いよ絶対できっこないよ!」

 しっかとカーテンを握りしめ、涙目で訴える悠。内股になってふるふると震える様はどこからどうみても女の子そのもである――が、莉於にそんなか弱いアピールは無意味だった。

「失礼」

 悠の鳩尾に容赦なしのブローを叩き込む。「きゅう」と可愛らしく項垂れる小さな身体を抱き上げると、莉於は躊躇いもなく窓枠を跳び越えた。

校庭に砂塵を巻き上げながら、ヘリは闇色を濃くし始めた大空へと舞い上がった。

莉於の腕の中の悠は、誰がどう見てもヒロインだった。


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