僕の可愛い妹
妹は可愛い。
最初にこれを思ったのは、彼女が僕の家に来た時だった。五歳という年齢の僕が、サーシャに突然なにかしたら一大事だと思った両親が僕に彼女を見せたのは彼女が生まれてから、大分後のことだった。
両親がそう思ったのも無理は無い。当時の僕は、他人を、そして、自分を偽ることを知らず、また、その必要もないと思っていたため、誰に対しても無愛想で、笑わない、不気味だとよく噂されるような子だった。
そんな僕の元に、彼女が現れた。産まれてから一年経つか経たないかくらいの時に連れて来られたサーシャは、初めて見た僕に対しても無防備に手を伸ばしてくる。
なるほど、両親が過保護にするのも納得というものだ。
侯爵家である我が家に擦り寄ってくる貴族は多い。
子供の僕の方が懐柔しやすいと思ったのか、同じ子供同士が仲良くなれば、侯爵家と仲良くなると考えたのかは分からないが、やたらと子供を僕に見せたがった。
僕は子供と云うのが嫌いだった。今にしてみれば、子供が同じ子供に対して何を言っているんだという考えも出来るが、当時の僕は大人びていても、所詮子供ということだった。
今も子供が嫌いという考えは変わっていないというよりもかなり酷くなっているが、この当時から赤ん坊が特に嫌いだった。赤ん坊もそれを悟るのだろう、僕が近づくと泣き叫んだ。この泣き声と云うのもなかなかに癪に障ったのだが、僕のただでさえ良くなかった機嫌が更に急降下するのを見て、青褪める赤ん坊の親というのは滑稽だった。
「ほら、アラン、この子がお前の妹だ」
「可愛いでしょう?」
必死に言い聞かせるように僕に対して言う両親がやや不快だったが、泣きださない赤ん坊というのは初めてだった。いや、僕が赤ん坊に対して苛立たないから泣かなかっただけなのかもしれないが、それは鶏が先か、卵が先かの些細な問題ということにして、僕はそっと彼女の伸ばしてきた手を握った。
握るとは言っても、自分の親指と他の指との間に、彼女の手を入れただけの拙いものだったが、彼女はその小さな紅葉の手で懸命に握り返してきた。
きゅん
自分の胸に手を当ててみる。心音に異常は見られない。しかし、周りの人は何も気にした様子が無い。今のは空耳だろうか。
訝しみながらも、握り返してきたサーシャに、お返しと言わんばかりに握り返してみる。柔らかく、柔らかく、それこそ砂糖細工のものを触るかのごとくやってみたところ、サーシャはその顔に笑みを浮かべた。
「かわいい」
僕の呟いた一言で、周囲の人が喜色満面になった。かわいいくらいは、流石の僕でも何度か言ったことはある。何が琴線に触ったのだ、気色が悪い。
サーシャに抱いた感情とは真逆のことを思いながら、両親の方を向く。
「まあまあまあまあ! アラン、サーシャのことが気に入ったのね!」
「そのようだな。全く、息子ながらに表情の起伏が乏しくて心配だったが、妹を見て笑うくらいの感情を持ち合わせているなら大丈夫なようだな」
笑う? この僕が? 自覚はしていなかったが、確かに笑っている。何故だ。そんな要素などないはずだ。
「だあー」
「あら、お兄ちゃんに抱っこされたいの?」
「だあう」
「アラン、抱っこ出来るかしら」
「します」
脊髄反射でそう答えた僕の手に、抱き方を指示した後に、サーシャが渡される。思っていたよりも軽い。吹けば消えるようなその軽さは、僕が守らなければ死んでしまうんではないかという感情を抱かせた。
「サーシャを守ってあげてね、アラン」
「勿論です、母上」
意識して、笑みを乗せ返事をする。情操教育が上手く行きそうだなどと、執事や侍女頭が小声で話しているのが耳に入る。上手く行くどころか、逆に悪くなったのだが、彼らに言う筋合いはないだろう。
彼女を守れるように、僕は強く、そしてお前には優しくなると誓うよ、サーシャ。
そんな誓いを立てて、早十数年。サーシャは花も恥じらうとても綺麗な少女となった。いや、少女と女性の境目という危ういところにいるからだろうか、純粋で、それでいて上品さと清らかさを持ち合わせる彼女に対して、邪な感情を持ち合わせる輩が増えたように思う。
サーシャを見ればそうなってしまうのも道理かもしれないけれど、彼女をそんな輩にあげるつもりは一切ない。
気付かれないように、そっとその手のものを使って、そんな気には起きないようにさせる日々が続いていた。
そんなある日、サーシャは僕と話している途中で急に押し黙り、顔色がやや青くなった。婚約関係について話していたせいなのか、それとも医者を呼ぶべきなのかを検討しながら、声をかける。
「どうしたんだい、サーシャ。顔色が悪いよ?」
「あ」
間抜けな声を出すサーシャ。上品な彼女だが、時々抜けたところもある。それも可愛いと思ってしまうのは、兄の欲目か、それともなんとかは盲目とやらか。
そんな自分の気持ちを隠しつつ、優しく彼女にもう一度声をかけるも、立ち上がりかけたサーシャはふらつく。
急いで肩を掴んで転倒を防いだ僕に、彼女の匂いであろう、甘い匂いがふわりと伝わる。それをもっと近くで感じたくて、彼女を抱きしめようとする自分を必死で制する。
見えた彼女の顔は先ほどよりももっと悪くなっていた。やはり、医者の方か……?
彼女に失礼して額の熱を測ってみると、平熱より少し高いかな、というものだった。わざわざ己の額を当てなくてもいいじゃないかと思うかもしれないが、こんなときくらい兄という存在の特権を使っても悪くないじゃないかと思う。
サーシャが望むなら医者を呼ぶようにすればよいか、と判断して眼を開けると、瞳を潤ませ、頬を赤く染めた彼女が僕を見ていた。先程の青褪めた顔からは一転している。不思議に思いながらも、彼女のそんな表情を見れたことを役得とし、部屋へと付き添った。
その日は、ただサーシャの具合が悪かったのだと思った。
数日してから、そうじゃないかもしれないと分かった時の僕の喜びようはたとえようもなかった。
サーシャはその日から、今までしたことのなかった警戒を、僕を含む何名かのものにするようになった。本人が自分の危うさを自覚しての警戒ならば望ましいものなのだが、そこに僕を入れたことが衝撃的だった。
彼女に対しては、本当に心の底から愛しいと感じたままに行動しているのにという思いと、一番警戒すべきなのは僕なのだと気づいてしまったかもしれないという思いからだ。
しかし、逆に言えば、警戒するに値するものだと思いながらも、これまで通りに僕を慈しんでくれる彼女がいるというのも事実だ。僕のこの気持ちを正確に分かっていないからこそ出来る技なのかもしれないが、彼女が去っていかないことが嬉しかった。
彼女が僕から離れていくなんて、自分でもどうなってしまうか分からないから。
そして、僕がこの気持ちを抑えなくてもいいかもしれないと気づいたのは、僕と話している最中に、サーシャが赤くなることが何度かあるようになった、お茶の後、気まぐれに彼女の部屋へと足を向けた。
彼女は自分で自分のことをしたがることがあるので、侍女はあまり彼女の部屋近くにはいない。それが油断となったのだろう、彼女は自分の部屋で、勿論自分の部屋であるからこそ、問題はないのだが、独り言を言っていた。
「お兄様、お兄様、アランは私のお兄様。胸が高鳴るなんて、そんなのは幻ですわ。目を覚ますのですわ、自分。こんな自分が知れたらどうなるかなんて分かりません。ポーカーフェイスを心がけるのよ」
そこで聞くのをやめて、自分の部屋へと戻ったが、顔が喜色を彩るのを止められなかった。あれは、まるで、僕を好きと言っているようでは無かったか?
いや、そうではないとしても、最近よくサーシャが顔を赤くするのは、照れていたのか? 自分の言動で!
「全く、僕の可愛い妹は本当に可愛くて困る」
ちっとも困ったとは聞こえない声で、僕は思わず言ってしまったのだった。
勿論、サーシャはアランに対してだけ自己暗示をかけていたわけではありません。
彼女の口調がお嬢様言葉と、現代での話し方が混ざっているのは、動揺しているからです。お兄様は、日常的に愛を囁くタイプです。
今回入れなかった彼女の他の人に対しての自己暗示。
「そう、そして、ゲームで婚約者になっていたあの方にしても、同じですわ。あの方は私以外にも同じことを言っているに違いありません。ええ、そうですわ。それなのに、私だけが心動かされるなんてもってのほかですわ。あれは私に向けて喋っているのではない、くらいの認識でいかねばなりません」
それでは、閲覧有難うございました。