40. それはどんな色なんだろう
まわりはものすごいスピードで、動いている。彼女が立つ地面ですらも、何も変わらないように見えて、秒速400km以上で自転している。
「ちょっと待ってって、言いたくなるよ」
そんなせりふを、漏らした事がある。何度言われても牛乳をパックから直接飲むのをやめない弟は、冷たい視線を彼女に投げた。
「みんな、十分待ってくれたんじゃねえの。動かなかったのは姉貴だろ」
「どうして、あんたはそう知ったふうな口を平気できけんの」
「姉貴が聞いたから、答えてやってんのに」
こう見えても勉強してんですう、俺は、と憎らしげに言う弟は、遊んでいるように見えてちゃっかり進学校に通っている。
「バイト、行ってくる」
「帰りにサンデー買ってきて」
わからないわからない、と呟いてみても、いっこうにわからない。何がわからないのかわからない。
でもわからない限り進めない、と思う。だから待ってほしいのに、もう十分待ったのだという。みんなはもうわかっているから、進んでいるんだろうか。
客が途切れた途端、森下は話しかけてくる。真面目に仕事しろ、と言いたくなる。
「彼氏さん、最近見ないね?」
「…彼氏じゃないし」
いつもはかるく受け流すのに、その日は否定した。森下がおや、と眉を上げる。
「じゃあ、もらっちゃおうかなあ」
「は?」
千円札を数えて十枚の束にしながら、森下はなんてことのないように言う。
「人のものには興味ないんだけど。フリーなら十分狙っていいよね。顔も悪くないしさ」
「もらうって?」
もうらうだとか、人のものだとか、何の話をしているのだ、自分たちは。くらひとのことを話していたのじゃなかったのか。
レジ検査を終えて、森下は売り上げをしまうドロアーを閉めた。
「嘘ですー」
「はあ?」
「べたでしょお。てか私、カレシできたしい」
全然会話が通じている気がしない。
「せっかく今好いてくれてるんだから、捕まえとかないともったいないかもよ」
「あのね」
そういうもんじゃないでしょう、なんて、何でただのバイト仲間にそんな説教めいたこと言っているんだ、自分は。
「てかねえ、私バイトやめるんだぁ」
「…急だね」
「それって話の切り出しかたが急ってこと?やめるのが急ってこと?」
「……」
「もう、会うことないかもねえ」と森下は笑った。
どうにも合わない相手だよな、と彼女は思う。言動も、私服の好みも、男に対する考え方も。
あげるとか、もらうとか、捕まえるとか、物じゃないんだから。
大体、大前提から間違っている。
あいつは、彼女を好いてなんかない。
その後、彼女が試験期間に入ってしまって、シフトにほとんど入らなかったうちに、そのまま森下はバイトをやめて、いなくなっていた。
くらひとと出会って、一年以上経っていた。彼とはどうにもなっていない、するつもりもない。だってくらひとは夢だから、現実じゃないから。いつもそこにいて、変わらない。それに彼女は安心するのだから。
でも、最近そう言い切れない。
「現実じゃない」なんて、存在すら認めないようなことを言っておいて、これ以上何を求めるというのか。
自分で自分にそう突っ込むけれど、彼女は思わずにはいられないのだ。
あの目が、彼女の目の奥を通り抜けるあの目が、彼女自身を捉えたとしたら、それはどんな色なんだろう。
「は?」
「だからさ、今度どっか遊びに行こうぜ」
「二人で?」
「二人で」
大学の追い出しコンパだというのに、先輩にはひとつも話しかけずに彼女にしきりに話しかけるクラスメイトを、少しうっとうしく思っていたら、思わぬ展開に転びつつあるようだ。
友人が遠くからにやにやと彼女とクラスメイトを見ているのが気になる。
「みんなじゃだめかな?」
「みんなとは、良く行くじゃん。おれは、宮丘と二人がいいんだけど」
これは、どう考えても、目の前のクラスメイトは、彼女に気があるんだろう。
答えあぐねていると、クラスメイトの背後から卒業生がぬっと現れて、「あいさつもなしとはお前も偉くなったなあ、ああ?」なんて言いながら彼を連れ去ろうとしている。
「あのさ、考えといてよ」
「うん、まあ」
残された彼女に、ずっと見ていたらしい友人達が集まってきた。
「ねえまじで、誘われた?」
「付き合うの?」
「いや…」
そういえば、よく話しかけてきたよなあと今さらながらに思う。飲み会でも隣にいることが多かったよなあ。
「そんなに鈍感じゃないつもりだったんだけど」
「ねえ、どうすんのさ?」
まただ。彼らはいつも急かす。答えを、態度を、決意を、生き方を。
けれど、今回に限っては、すぐに答えが出そうだ。
だって、どうするかというよりも、どうなるのかということのほうが気になるから。
クラスメイトに返すべき態度を考えるより先に、このことをくらひとに話したら、どうなるんだろう、それを真っ先に考えたから。
もうそろそろ、認めないわけにいかないかもしれない。
彼女がくらひとのことを「 」ということ。
「 」の中が、わからないふりは、もうできないかもしれない。
停滞中。もう少しで、彼女も動けるはず




