3.彼女は怒っているのだ
「ひーろ、ケーキ屋行こっ」
毎週の友人の誘いに、しかし今日は、彼女は眉をひそめた。
「あそこはもう行かないよ」
「どして?」
思い出したくもない男の姿が頭に浮かんでしまった。
「変な男に絡まれたって言ったじゃん」
言うと、忘れていたらしい友人はしまったという顔をした。
「じゃあ、今日やめとく?」
「…別のとこならいいけど」
友人のケーキ好きはいやというほど知っているし、彼女だって甘いものを食べて忘れたいこともあるのだ。
彼女と友人が利用する駅の近くのケーキ屋は、できて間もないけれど、甘さほどほどの素朴な味わいがときどきに無性に食べたくなって、よく足を運んでいた。ぎゅうぎゅうに混みあうことはないけれど、常に人が数人入っている、知る人ぞ知る店だ。
からんからんとアンティーク調のドアベルが鳴って、二人は店に入った。カウンターの店員が、笑顔で迎える。
「いらっしゃいませ」声に、背筋が凍った。
「あんた」
「偶然だよ?」
先週会ったばかりの男は黒髪をさらりと揺らして微笑んだ。その姿は、彼女が立つカウンターの向こう側で、白い制服を身につけていた。
「どうかした?」
会話が聞こえていなかったらしい友人が尋ねてきたが、彼女はなんでもないと答えて言葉通り何事もなかったようにケーキを注文した。あてつけのように一番安いケーキを購入したが、いつも夕方には売り切れている彼女の好きなタルトが残っていたのに買わなかったことで、よりストレスが溜まった気がした。さらに言えば、一番安いと言ってもケーキも紅茶もいつも通りおいしくて、あてつけになった気はいっさいしなかった。
「今日、誘わない方が良かったね?」
店を出た彼女が驚いて友人を振り返ると、気まずそうに笑ったのが見えた。
「思い出しちゃったんじゃない?その、変な男のこととか…」
態度に出していなかったつもりが、どうにも不機嫌になっていたらしい。この友人はそこまで表情を読むのがへたじゃない。
「ごめん。気を使わせるつもりじゃなかった」
「気を使ってたら誘ってないよ」友人は苦笑いを深くした。
「でも、あたしも、ケーキ食べたかった」
思わず声が小さくなって、友人はとうとう声を上げて笑った。
「じゃ、いいか、うん。来週も食べたかったらつきあって」
こういうからっとしたところが彼女は好きだ。快く答えて、彼女は友人と別れた。けれど彼女が向かうのは家の方ではない。行かなければいけないところがあった。
日の落ちきった公園に、男が現れた。着ている服の色が暗いせいか、シルエット全体が真っ黒に見える。辺りに人が少ないことに彼女は少し怖じけつくけれど、すぐ近くには彼女の働くコンビニがある。大丈夫。
「本当にやめてくれない?」
声をかけて初めて、男はこちらに気がついたようだった。
ここに来るかどうかは賭けだった。何度帰ろうかと思ったことか。彼女は何度も腰をあげかけたベンチに座り直して、傲然と足を組んでみせた。
「君だったか」
「‘君’とかやめろ」彼女は怒っているのだ。丁寧な言葉遣いなんてしてやるつもりはもうない。男も、彼女が何の用件でここへ来たのか、薄々感づいているようだ。口を開いて出てきたのはいいわけめいた台詞だった。
「今日は本当に偶然だったんだけど」
「嘘を吐け」
あの店は彼女の通学路のすぐ側だ。前回の口ぶりから彼女の学校は知っていたのだろうし、そうでなくともあとをつければすぐわかる。彼女と友人がケーキ屋に行く曜日は決まっている。そしてあの店に通う頻度は比較的高い。
「そういうやり方をしたら、いよいよまともなつきあい方できないって、ちょっと考えたら、わかるでしょ。もうあたしの中で、あんたの評価、最悪だから。今からあんたと知り合ってお友達なんて、絶対できない」
彼女がまくしたてると、男は少し声音を弱めた。
「それは困る」
「残念でしたね」
「じゃあ、俺はあの店を辞める」
「もう無理です、取り返せません」
「認めるよ、あの店に君がいつも来てるなんてことは知らなかったけど、期待はしていた。ケーキ屋で働いていたらいつか会えるかも知れないって」こんなにすぐとは思わなかったけど、と男は小さく付け足した。
「それが気持ち悪いって言っているの」
「でも、どうしても、俺は君と会いたいんだ」
ここで初めて彼女は男が焦っているのを感じた。本当に、彼女との関係が(始まってもいないけれど)終わってしまうことを恐れているようだった。
「だから、どうして」
しかし問いかけると、男は困ったように口をつぐんだ。しばらく待っても、彼は口を開かない。そっちがその気ならと、彼女も黙ったまま、踵を返そうとした。
「…君だから」声が彼女を引き止めた。
「どう言う意味?」
「だから、君だから、それしか言えない」街灯の真下でうつむいているので、表情が陰になって見えない。
「なんであたしなのって聞いているのに」
「君だからなんだ」それしか言わないので、「キミダカラ」というなにか意味をもつ単語があるのではないかとまで思ってしまった。
「人をだまそうってわりには設定がなっていないんじゃないの」
彼女は鼻で笑った。男は彼女をだまそうとして接触をしていて、ただ同じ言葉を繰り返すのはマニュアルにないからではないかと暗に鎌をかけていた。
男が顔を上げようとした瞬間、悲鳴が聞こえた。
女性の悲鳴だ。かなり、近い。悲鳴は続き、たすけてという言葉が混じっている。
動いたのは彼女が先だった。声の方を振り返り、走ってその場に駆けつけようとした。その横から男が彼女を追い抜いて行く。彼女は部活こそ引退してここ数ヶ月出ていないものの運動には自信があったのでこれには少し驚いた。男がそれほど俊敏に見えなかったせいもある。
先に公園を走り出た男を追って彼女も入り口を走り抜け、男の向かった方向を見れば、すでに終わってしまったようだった。
立っているシルエットは男だろう。その足下にうずくまる人影と、さらにその向こうに倒れている人影。彼女は誰が被害者なのかわかりかねた。
「ひ…ろ?」
うずくまっていた人影がこちらを見上げ声を上げた。悲鳴の時点で聞いたことのある声だと思っていたのが、これではっきりした。
「森下!」
彼女は森下に駆け寄ると、しゃがんで様子を窺った。森下は涙で顔をぐしゃぐしゃにして、彼女にすがりつく。
「森下」
無理もないが、混乱している。彼女はもう一度森下の名前を呼んで、何があったか聞き出そうとした。
涙声で聞き取りにくい森下の言を聞くに、ストーカーに引き倒されて、襲いかかられたということだった。
「ストーカーって、ストーカーはこいつじゃ…」
「言っておくけれど、俺はそのひと見たことないよ」彼女が男を振り仰ごうとするのを遮るように、男は言った。男は倒れている人影に近寄って、乱暴に担ぎ上げた。男の方が確実に小柄なのに、いとも簡単に背負ってしまうのが、なんだか安いCGみたいに見えた。
「こういうときは、けいさつに行けばいいんでしょう?」
なんとなく冷めた声音で聞くので少し怖くなって、彼女は黙ったまま首肯した。




