30.
中年の男女がふたり、彼を見てほっとしたような顔をした。男の髪はほとんどはげ上がっていて、女も白髪まじりだ。けれど服装や雰囲気から裕福なのだろうなと察せられた。彼らは愛想笑いの見本のような笑みを浮かべて、こちらに向かって口々に何かをまくしたてた。その言葉は彼に聞き覚えのないものだ。ぼんやりと聞いていると、続いて何かの紙をさしだした。思わず受け取ってしまい、見下ろしてもやはりその文字は読めない。もし自分の知っている言語だったとしても、どうせ彼はあまりたくさんの字を読めなかったけれど。
言葉がとまった。顔を上げると、彼らは何かを期待するような顔で何かを言った。語尾があがっていたから、何かを問いかけたのだろうか。もう一度、多分同じことを言ったのだろうけれど、彼にはさっぱりわからない。しかしこの勢いと愛想笑いには覚えがある。
きっと彼らは商人のようなものなのだろう。何かを交渉しにきたのか、彼には交換できるものはないにもないし、そもそもその条件を理解することもできないだろう。
首を振ってみた。彼の知っている限り首を横に振れば否定になるはずだったが、果たして訪問者ふたりは、一気に顔を曇らせ、期待はずれだという表情をあからさまに作ってみせて、言葉少なに彼の前を離れていった。ここでもそのジェスチャーは正しく通じるようだ。
ふたりの行方をもう少し見ていると、今度は彼の開けている扉のすぐ隣の戸をノックして、しばらく待っていたが、居留守なのか本当にいないのか、返事がなかったようでそそくさと帰っていった。廊下の奥に消える前にこちらを振り返り、まだ見ていたのかという顔をするのを忘れなかったのでなぜだか感心してしまった。
ちょうどいいのでそのまま部屋を出てみた。さきほどの二人組が靴を履いていたことと、ちょうど足下にスニーカーがおいてあったのとで、履いて出て行くことにする。
廊下は解放廊下になっていた。手すりの向こうにはベランダから見たのと同じ高さの景色が見えた。少し身を乗り出して下を確認すると、同じような廊下が4つあった。この階はつまり五階だということか。
廊下の突き当たりに階段があった。廊下といい、床の素材がよくわからない。みょうに規則的な模様のついた、ゴムのようで、しかしそれよりは固い。靴の底も、ゴムでできていて、床との反発はなんだか心地いい。彼は階段を、少しずつ降りた。
道に降り立てばより濁ったにおいが鼻を突く。ほこりっぽいけれど砂漠とも違う。異様なにおいだ。道は黒い石のようなもので敷き詰められていて、妙な踏み心地がする。
たくさんの建物があるけれどいちいち規模が大きい。ここではこの大きさが標準なのか、特別裕福な地域なのか。大きい人間が出入りしている姿を想像してくすりと笑ってしまった。実際には彼は彼の知っている人間と同じサイズの人間に会っているし、扉のサイズもよく知ったものだ。
動物を紐でつないでいる中年女性とすれ違った。どうしてつないでいるのか、凶暴なのかと思えばその動物はすっかり野生を失っているようである。今いち意図が分からない。その動物は鼻をふんふんと鳴らしながらおとなしく女性に曳かれていく。彼は黙って見送った。
道に大きい箱が置いてある。ガラスがはまっていて、中が空洞になっている。
何の用途か、と思って覗き込んでいると、持ち主(?)らしき人間が近づいてきて、さりげなく身を引く。しかし結局怪しまれたようで、じろじろと彼を見ながら男性が箱に手をかけると、箱が開いた。どうやら扉がついていたようだ。同じ色でわかりにくく作られているが、なるほど線が入っている。ということはそのすぐ後ろの線も扉を示しているのか。
男が中に入っていくのを遠目に観察する。もぞもぞと男が手元を動かしたかと思うと、箱全体が大きく震えて、鳴いた。
すごいうなり声だ。中に動物でもいるのだろうか、それともまさか、男が出しているのか。
見ているうちにその箱は動き出した。
上下に動くでもなく、地面を滑るように走る。その足下を見ると輪がくるくると回っていて、車輪だと彼は気がついた。
車の一種なのだろうか。牽引するものが見えないが、それがこのうなり声なのか?スピードもものすごく速いから、魔術か、それによって強化された動物が動力なのかも知れない。
たくさんの見慣れないものがあった。あのうなる車は、少し大きい道に出ればたくさん走っていた。人びとの服装も見慣れないものだったけれど、そもそも人の姿をあまり見なかった。気配はするけれど、みんな建物の中に引っ込んでしまっているみたいだ。
その日歩き回ったのはごく狭い範囲だったけれど、一時間ほど時間をかけて街や人を観察した。たったそれだけで疲れ果て、もとの部屋に戻って眠った。




