26. 背後の街は灯を点し始めていた
一見平和な日々だった。海沿いを進んでいたせいか天候も落ち着いていて、立ち寄る町町も豊かなところが多かった。
「魚も美味しくて、いいわね」
彼女は上機嫌だ。白身魚のグリルをつつく俺はそんなに食べ物にこだわりがなくて、食べられれば大抵おいしいと感じてしまう。元々の育ちの違いかも知れない。
「そういえば、礼緋チャンのいた街は、海が近かったね」
「なんで知ってんのよ」
話したっけ、と本気で首を傾げる彼女は、俺が昔彼女に会ったという話をまた忘れている。
「忘れてるんじゃないのよ、信じてなかっただけ」
「もっと悪いじゃん」
俺の非難めいた視線にも構わず、彼女はコーヒーを一口、飲んだ。
「今日は一日、買い物しようか」
彼女の提案に対して、俺には常に異論はない。
一日、目的もなく、しかも二人で行動するということは、よく考えれば初めてのことだ。
彼女がふらふらと、気になるものを見に店に立ち寄る、俺はそれにただついていった。彼女の興味はなんにでもある。不思議な器械の仕組みや、微細な細工の行程、見たことのない野菜や魚が加工される様、興行師の手品のタネにまで。
曲芸師の周りに人だかりができていた。彼は物を投げ上げては器用にキャッチする。彼女はそれを遠くから眺めて、
「あれくらい、あんたにはできるんじゃないの」
と言った。
「できるけど」
「一稼ぎ、できるんじゃないの」
「できるけど、するの?」
稼ぎたいわけではないが、見てみたいと彼女は言った。
それならと、少し離れた広場へ行った。近くで営業されては、曲芸師の彼も困るだろうと、俺にしては殊勝なことを考えたからだ。
口上をあげて客寄せをしなくてはいけない。あんまり文句を覚えていないけれど、団長のあげていた大声を思い出す。
「さあさあ、ご通行中の皆様、ほらそこらでぼーっと立ってる少年も、お急ぎのご夫人もほんの少し足を止めていただいて、お目にかけるはこのナイフさばき、寄ってかないと損するよ」
こんな感じではなかったような気もしたけれど、とにかく大声のおかげで何人かが振り向いた。彼女も目を丸くして俺を見た。こんなに声を張り上げたところを見せたことがなかったからだろう。
数人集まってきたところで、ナイフが本物であり切れ味が良いことを見せてから、わざと危なっかしいしぐさで曲芸もどきをした。俺はピエロだった経験はあるけれど、相方がいて、団長の口上があって初めて芸ができたのであって、自分一人で曲芸なんて、したことがない。曲芸で求められるべくは完璧な動きであって、ピエロが持つ滑稽さじゃない。それでもやっているうちに楽しくなってきて、彼女をサクラにしてウィリアム・テルの真似事をやってみたりもした。
三十分くらいで、お辞儀をして、中がからの水筒を差し出した。思った以上の拍手がおこって、金が投げ込まれるのは嬉しかった。
「なんであんた曲芸師やんないの」
「は?」
思わぬ臨時収入にほくほくしながら金を数えていると、本当に不思議そうな声で彼女が尋ねてきた。
「なんでって、だって、やってたら礼緋チャンについてけないじゃん」
「あんたばかね」
いきなりの罵倒に固まっていると、彼女は立ち上がって「行くわよ」と言った。
そのあと、何か特別なものを買ったわけでもない。俺が稼いだ僅かな金は、装備品と宿代、食事代に消えていった。
俺は自然に彼女の分まで支払ったけれど、彼女はちっとも気にするふうではなかった。それについて不満はない。彼女が言い出して曲芸をしたのだし、金は使うものだ。
このことで味を占めるかと思ったが、彼女は二度と俺に曲芸をしろとは言わなかった。それについて、尋ねたことがある。
「そう言えば、いつかみたいに、曲芸しろって言わないんだね」
「あたしがいつ強要したよ」
心外だと語調を上げて彼女は答えた。単に興味がなくなったのだろうと俺は納得してその話は終わりかと思った、そのあと、小さく声がした。
「…なんか、楽しそうだったから」
「は?」
彼女は俺のほうを向かないままなぜか不機嫌に言う。
「やりたいならやれば?曲芸師、向いてるわよ」
「…それって、どういう意味?」本当にわからなかった。
「言葉通りの、意味よ」
何か怒っている。俺には、その理由がわからなくて、何も言わないでいるうちに、彼女が話題を変えてしまった。
早めの夕食を終えて、薄暗くなってきた石畳を歩く。何気なく引き合いに出したけれど、この街はよく見るほどに彼女の住んでいた街に似ていた。
そう思って彼女を見ると、彼女は何を思っているのか黙り込んで、俺たちの間には十分すぎる距離があった。
思い立ったのは、もう宿が見えてくるところで、だった。もう少し歩きたいと思って、すぐそこの小径に入った。どうかしたかと彼女に問われたけれど、先に戻って良いと手を振って進む。
にぎやかな街だったけれど、宿のある辺りはもう外れで、道を一本はずれただけで人っ子一人いなくなった。すぐ横にある家々の、ひそやかな生活の音だけがする。
その建物群もすぐに姿を消して、ごろごろと大きな石が転がっているだけになった。顔を上げると、その先には、草原が広がっていた。街を出てしまったようだ。
転がっている石は城壁の名残だろう。ところどころ、石垣の姿を保っているところもある。
もう少しで完全な暗闇だ。
石に腰掛けて、遠くを眺めた。風が気持ちいい。
後ろをついてきていた彼女も、少し離れた石垣に座ったのが気配で分かった。何か言うのかと思って、俺はしばらく耳を澄ませた。
彼女が口を開いたのは五分くらいあとだったように思う。それまで俺たちは、ずっと黙ったまま、お互いも見ずに暗い草原を見つめていた。
「ねえ、」
言葉と同時に風が吹くから、彼女の声が起こした風なのかと一瞬錯覚した。
「あたしたち、どこへ行っても、きっとそのままだよ」
「どういうこと?」
たとえ、とてつもなく平和な国に行ったとしても、あたしたちは、あたしたち以外のものにはなれない。
「…令嬢だった君だっていたじゃないか」
環境は人を変えるよ。しかし彼女は首を振る。
「そういう意味じゃなくて、こうなるしかないのよ。こういう人間になるしかない」
どうにも納得がいかなかった。どこに行っても俺は俺でしかいられないなんて。
「じゃあ俺は、どこにも行けないってこと」
「違うんじゃない」
彼女を振り向くと、背後の街は灯を点し始めていた。
「あたしはあたしのままで、どこにでも存在できるってこと」
…それが、いいことなのか悪いことなのかは、しらないけどさ?
「人は変わるよ」
俺には、否定しか、できなかった。
「いやに悟りきってんだね、礼緋チャン」
こんな風に皮肉った言い方がしたかったわけではないんだけど。
彼女は傷ついた様子もなく、肩をすくめてみせた。
「わかんないわよ、そんな気がしただけ」




