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17. もうすぐ一年だ、と母親が言った

 黒が現れて一年近く経った。何が変わったわけでもない。細かな違いとしては、彼は大学二年生になり、黒が食堂での仕事に慣れた、くらいだろう。

 黒は毎日彼の家にやってくる。文字通り、毎日だ。食堂「三郎」は、毎週火曜日が休みだけれど、それでもやってくる。彼がいない日や家族で出かけるときは、あらかじめ言い含めておかなくてはならない。

 働いている時間を考えると、普通のバイトなら結構な時給を支払わなければならないはずだが、それだけの金額を父親が黒に支払っているのかは謎だ。もともと、日本語を教える代わりに店で働く条件なので、十分な給料をもらわなくても黒は文句を言わないかも知れない。今や対価以上の働きをしているような気がするけれど。

 もうすぐ一年だ、と母親が言った。何か美味しいものでも作ろうか、という提案に、父親はそんな必要はないという。黒はきっとぽかんとするだろうなと彼は思った。暑い夏が終わろうとしている、そんな季節。


 黒が突然、やめたいと言ってきた。もう日本語も覚えた、ここには二度と来ないと。口に出す一瞬前までそんなそぶりを少しも見せなかったので、家族全員驚いた。問い質そうと彼が口を開く前に父親が鼻で笑った。

 「もっと日本語ができるようになってから言え」

 黒の日本語はかなりうまくなっていた。最初の全くしゃべれないときとは大違いで、砕けた言い方も理解するし、生活に支障はないだろう。しかししゃべるとなるとまだ片言で、口を開けば日本語に不自由なのは見て取れた。

 ただ、繰り返すようだが、生活は不便無くできるだろう。「不自由なのは見て取れ」るのだから、周りもそれなりに気を使うだろうし、男にはそうさせる愛嬌と、計算するずるさがあるように見えた。父親が取り合いもしなかったのはただ動転したことを悟られたくなかっただけだろう。思わず強硬な態度に出てしまったのだ。

 黒はいつもの調子でへらりと笑って台所へ向かった。仕込みがまだ残っていると言った。彼の母親はわかっているのだろうかと不安そうな顔をしたが、わからないはずがない。黒は普段黙々と仕事をするが、彼と二人のときはかなり良くしゃべる。わからない言葉でも表情から察するのがとてもうまいと彼は感じていた。ただ、あまりにあっさり引き下がるのは彼にとっても不安だった。男とはまだ短い付き合いだが、物事に執着のないようなそぶりをしておいてわりと頑固なことは知っていた。

 夜、店が終わって片付けを済ませた男が母屋に戻ってきた。いつものとおり帰ろうとするので、思わず彼は声をかけた。

 「店、やめんなよ」

 黒がいて、父はとても助かっている。悔しいが、今は彼よりも頼りにされているのではないか。たぶん、こういう息子が欲しかったんじゃないか、と卑屈に考えることも近頃多い。ただ、それとは別に、彼も黒を好ましく思っていた。日本語を教えて行くのも楽しかったし、言葉が十分に通じなくても、男の人柄はよくわかった。

 果たして男は振り返った。けれどその表情は、彼がみたこともない冷たいものだった。

 「そういうのはいらない」

 彼が言葉をなくしているうちに黒は去り、それきり現れることはなかった。

 一日目は待った。

 二日目、彼が学校へ行くときにあたりを見回すようになった。

 三日目には母親が町を探した。

 四日目には、彼も一緒になって探した。

 五日目は、食堂を臨時休業にして家族総出で探したが、そもそも探すあてがない。名前も知らないようでは、警察にも届けられないし、もう成年しているであろう男の行方なんて、探してはくれないだろう。何より、男は自分から去ったのだから。

 彼らがふと気がつくと、全部夢だったような錯覚すら覚えた。それでも、男はどこかをふらふらとしているのだろうと、思うことができた。半分は確信にも似た思い、 半分は願い。

 この感じを前に味わったことがあると彼は思って、気がついた。飼っていた猫がいなくなったときと似ていた。


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