15. 「学生の本分は勉学の合間に遊ぶこと」だ
食堂「三郎」は、国道から一本はずれたところにある。狭い道だが一応、よくバスが通る主要な通りではある。入り組んだ町だ。彼の祖父が開いた食堂で、昼間はサラリーマン、夜は近所の人で、大繁盛までとは言わないが、こうして彼が大学に通えるくらいには儲かっている。
五十音表を使った黒と彼の日本語教室は、その日の午後「わ」で終了した。助詞としての「を」は教えるのは難しく、「ん」にいたっては説明の必要もないだろう。
翌日から何を教えるべきか。「てにをは」をどうにかしようか、小学校の教科書を使って簡単な文章を読んでいくか。考えていると、営業を終えて店じまいをした父親と黒が戻ってきた。
「おい、四郎」
「ん?」テレビの前に座らないでほしい。
「お前明日休みだろう」
次の日は平日だが、講義がひとつしかなく、その講義も教授の都合で休みになったことを何かの拍子で親に言っていたらしい。
嫌な予感がした。
「明日、黒を食堂に立たせるから、お前ついてやれ」
ほうら。
予感は当たったが少しも嬉しくなかった。
普段は、母親の「学生の本分は勉学だ」という主張に基づき、彼は店をほとんど手伝わない。(尤も彼に言わせれば「学生の本分は勉学の合間に遊ぶこと」だ。)
忙しくなることが多い月末のアフター5は給仕を手伝わされるが、その程度だ。大抵の客は常連なので、「おう、しろちゃん」などと呼ばれる、それもいやで、極力手伝わされるのを避けるようにしていた。まさか、こんなふうに手伝わされることになるとは。
余談だがもちろん、彼はバイトなどしていない。バイトをするくらいなら食堂を手伝えと怒られるからだ。実家暮らしは不自由でならない。
黒が店で働き始めてから二週間ほどが経っていた。それまではずっと厨房で、調理の手伝いをしていたらしい。単純に、日本語が使えないのでは接客にならないのと、料理の種類と味を覚えさせるためだ。男の飲み込みの早さは彼も知っている。加えて手先も器用だったらしく、調理補助をあっという間にこなすようになった。
今日は水曜日。人もそれほど多くない上に、彼も学校がないということで、彼をヘルパーにして黒を接客に立たせることにしたらしい。
(そこにおれの意思は全くないんだよなあ)
ちらりと黒を見た。黒の意思もおそらく汲まれてはいないのだろう。
(黒については、自分の主張を全然しないからしょうがないっちゃしょうがないけど)それに、一応雇われている身で文句の言いようがないと、本人は思っているのかも知れない。
彼が自分のエプロンをつけると、黒が近づいてきた。
「仕込みは終わったのか?」
おそらく、「仕込み」と言う言葉に反応して、大丈夫という風に頷いた。
家族でこぢんまりと経営する食堂なので、服装に大した規定はない。彼が手伝う時は、黒い綿パンにTシャツを着て、その上にエプロンをつける。黒もいつも黒い服を着ているので、そのままエプロンを貸してやれば問題ない。
「まあ、大体わかると思うけど」厨房から店内は容易に見渡せる。それに黒が元いたところにだって店くらいはあっただろうから、流れはわかっていると思うが、何か間違いがあったときに怒られるのは間違いなく彼だ、父親の性格的に。
とりあえず、客が入ってきたところから、ひととおり説明することにした。
「お前客な。そこから入って適当に座れ」食堂の入り口から近くのテーブルまで指し示す。意味の分かっていないであろう黒はひとまず入り口へと足を運ぶ。
「いらっしゃいませー」
声をかけると、目を瞬かせてから頷き、テーブル席へ向かった。どうやら意図を理解したようだ。
水を差し出して、メニューに目配せする。気がついた黒はラミネート加工のメニューを手に取って、眺めた。写真がついているものもあるので、文字の読めない黒にもわかるはずだ。
「やきさばていしょく」
「焼きサバ定食ひとつ。以上でよろしいですか?」
黒は彼を見上げて頷いた。わかってないだろ、いいけど。客役を完璧にさせたいわけじゃない。
注文票にサバ1と書く。この注文票は厨房に回るので黒も見ているはずだ。それでも一応ちらりと見せて、カウンターへ持っていった。
「わかったか?」
今度は彼が客の役になって、再現させる。何度か繰り返して、台詞を直して、大体いいかというところでちょうど開店時間の三十分前だった。
「ま、常連さんばっかだし、てきとうに頑張れ」
「はい」緊張するかと思ったら、いたって普通に微笑んでみせた。
結果から言えば、黒は驚くほどうまく接客をこなしてみせた。愛想も良いし、注文を間違えることもなかった。彼の補助はいらないのではないかと思ってしまったほどだ。厨房に立っていたときから黒の存在は注目されていたらしく、常連に受け入れられるのも早かった。
(そういや、女性客が増えてたな)これも黒がやってきたからということか。顔がとりたてていいわけじゃないが、とにかく愛想が良い。中年夫婦しかいなかった以前とは大違いだろう。
「ほんとに、おれ、いらないんじゃないか?」
椅子に座り込んでかたわらの黒を見上げた。黒はきょとんと彼を見下ろしたが、父親に呼ばれて後片付けに行ってしまった。
「ああ、明日からどうしよう」
日本語教室で何を行うか、まだ考えていなかった。
作者は一人暮らしだったので実家暮らしの不自由さはあまりわかりません




