12. 彼は押し入れを開けてため息をついた
新章、「彼」編です
夏休みが終わって、気怠い残暑とともに新学期が始まった。まだ大学一年生の彼は基礎科目が多く、授業がたるい。興味のある授業は受けて、他はそこそこに。睡眠をとるのも忘れずに。
残暑がもろに突き刺さるバス停に降り立つと、目の前が彼の家だった。「食堂『三郎』」、彼の両親が営む定食屋だ。
準備中の札に構わずに引き戸を開けると、テーブル席のひとつに見知らぬ男が座っていた。
「こんにちは」
男は彼のように戸惑う様子も見せず、人なつこい笑みで挨拶をした。
「こ、こんにちは…」
「おう、帰ったか」
前掛けで手を拭きながら、父がカウンターの陰から姿を現した。
「ただいま」きっと客人なのだろう。失礼にならない程度にスルーすることにして、テーブル席の脇をすり抜けて厨房の奥から住居スペースの方へ抜けようとした。
「おい、ちょっと待て。話がある」
よく考えたら小さな自営業を営む中年親爺と、息子と同年代の男にそうそう接点なんてある訳ないだろ。
ちくしょう親父め、おれが猫を拾ってきたときはめちゃくちゃ怒ったくせに。
その日彼は父がどこからか拾ってきたその男に日本語を教えることを命じられた。
父親が変な男を拾ってきたと言って、同級生からろくな返答が返ってくるわけもない。質問攻めにされて、茶化されて、終わりだろう。かといって彼がどういう言葉を望んでいるのかと言えば、自分でもよくわからない。
そういったわけで、誰かに相談したいと思いながらもできず、もんもんとした気持ちで彼は帰途についた。
男は翌日から来るらしい。考えてみれば、彼が父親から与えられた情報は、男が店の手伝いをする代わりに彼が日本語を教えることになったこと(それに関して彼の意思はまったく反映されなかった)、男は日本語が全くと言って良いほど理解できていないこと、その二点だけだった。
「どこで拾ってきたんだよ、三郎」
厨房に向かって声をかけると、まず父親を名前で呼び捨てるなという怒鳴り声が返ってきた。自分の名前を食堂につけるくらいの男が何を言う。
「で、どうしたんだよ、あの人」
「知らねえよ、うちにふらっとやってきて日本語教えろって言うからそうすることになっただけだ」
うちのどら息子は家の手伝いひとつもしやがらないからな、と嫌みとともに言われた。
「『日本語教えろって言った』って、なんでそこで会話が通じてんだよ」
「うるせえな、ぜすちゃーだよ」ジェスチャーのことをうまく言えないなら無理に外来語を使うなといつも言っているのに。
(ジェスチャーでよくそんな複雑な交渉ができたものだ)そんな突っ込みを入れてもこれ以上まともな答えが返ってくるとは思えないので心の中だけにとどめておいて、
「で、何を教えればいいんだよ」
「日本語って言ってんだろ、何を聞いてんだお前は」
「日本語って言ってもいろいろあんだろ」文法とか会話とかあるんじゃないのか、と聞いた。
「ああ?…まあ、接客のことは店で覚えさせるからよ。適当に日本語しゃべれるようにしてやれよ」
「適当にって…」
簡単に言ってのける。
「お前国文科だろ。学費出してやってんだから今回くらい活かしてみせろ」
確かに大まかに分ければ国文科だが厳密には違ってくるし、教職課程を取っているわけではないので教えるのが得意では全くないのだけれど、父親にそんな細かいことを言ってもどうにもならない。
「なんか見返りあんのか」
調子に乗るなと殴られたが、最終的には一万円の臨時収入を約束させた。
先日あいさつをさせられただけで男の日本語がどれだけできないのか彼にはわからないが、彼と父親の会話をにこにこしながらぼんやり聞いていた様子を見る限り本当に全くわからないのかも知れない。
実際しゃべってみないとわからないけれど、いろいろ用意しておいた方が考えやすいだろう。小学、中学のころの国語の教科書はまだとってあるだろうかと、なんだかんだのせられやすい彼はさっそく考える。
翌日から来るのであれば今晩は大捜索だと、彼は押し入れを開けてため息をついた。