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彼女と彼とある男  作者: ミノマ
くらひと
13/58

11. ブランコは惰性で揺れ続ける

 「幸せってどういうことなわけ」

 そして彼女は今もう一度呟いた。

 たった今観終わった映画は、彼女にそう呟かせるだけの衝撃を与えていた。くさいわけでもわざとらしいわけでもなく、「愛」だとか「幸せ」だとか、そんなキーワードは少しも出てこなかったのに、それを考えさせる痛烈なメッセージが彼女にぶちこまれていた。

 単館系の小さな映画館を出て、彼女の指は携帯電話を操りある電話番号を呼び出していた。

 あいつを問いつめなくてはならない。奇妙な強迫観念のようなものを抱いている。

 間もなく受話口から男の声が聞こえた。


 「やっぱり顔を見ないと落ち着かないね」

 男が笑った。それは、声でしか会話ができないことで、男の知らない言葉が出てもはぐらかしにくくなるからだ、と彼女は思った。しぐさや表情で、男は自然に彼女の注意をそらしている。知ったかぶりやはぐらかしがとてもうまい、この男は。

 「呼び出したのはどうして?」会えたのは嬉しいけれど、と男は言う。よく言うよ。

 「…映画を、観たのよね」

 「えいが。うん」

 彼女は男を睨みつけたまま視線をそらさず呟く。ごまかされてはいけない。

 「…あんたは、幸せなの?」

 「ん?」

 「幸せってどういうことだと思う」

 「しあわせ?」

 また男がおうむ返しに言うが、幸せの意味をわかっていることは知っている。

 「幸せ」

 男は苦笑した。何かと思えばそんなことかと言う。

 笑われて、彼女はわれに返った。「幸せ」なんて、何真面目に聞いているんだろう。自分は男に何を問いつめるつもりだったのか。

 「幸せはさ、比較だよ」

 二人してブランコに座っていたが、男はおもむろに自分の座るブランコを漕ぎだした。

 「幸せを知らない限り俺は不幸じゃなかったし、不幸を知らない限り俺は幸せじゃなかったのさ」

 しだいに勢い良く天にブランコを押し上げる。彼女はそれをぼんやり見上げている。

 「…幸せも不幸も、どちらも知ってるみたいな口をきくね」呟くと、がしゃんと音がして、あらためて男の方を向いた彼女は無人のブランコを見る。

 御者を失ったブランコは惰性で揺れ続ける。彼女は自分のブランコから立ち上がって辺りを見回した。

 「比較しただけ」

 すぐ近くから平然とした男の声はするが居場所がわからない。

 「上、上」

 言われるがままに見上げると、ブランコの鎖がさがっているパイプを掴んで男が逆立ちをしていた。

 「なっ何してんの!」

 降りろと声と身振りで示すが男は平気な顔でパイプをつかんだまま大きく一回転し、そのパイプに腰掛けた。

 「ご飯が食べられないことと、食べられること。そのどちらも知っていれば、食べられることが幸せってわかる」そんな小さいことで良いんだよと男は言う。夕日が後ろにあって、逆光になっている。

 「…顔が見えない。降りて」

 今度は、男は素直に降りてきた。再びパイプを掴んでぶらさがり、もといたブランコの上に着地する。いちいちオーバーだ。

 「ひいろがいるのといないのと、それだけ知っていれば、わかるよ」

 「…あんたは、あたしとどうなりたいの。あたしをどうしたいの」

 ずっと気になっていたことを、気にしないふりをしていたことをようやく聞いた。

 男は真剣な顔をするでもなく、いたってふつうに答えた。

 「一緒にいたいだけ。ずっとこうしてそばにいたいだけ。ひいろに恋人ができても、結婚しても構わないけど、そうなっても、ずっとそばにいさせて」

 ケナゲでしょ、と笑ってみせた。

 彼女は、ぞっとした。

 どうしてそんな平然と、ひとの人生を縛るようなことを言うのだろう。そこに彼女の意思は全くなくて、男の願いだけ。彼女のパートナーの有無を気にしないと言ったけれど、つまりはそうなっても男は彼女からはなれないということだ。いくら彼女が拒んだとしても。

 初対面の頃感じていた。男の異様な執着を、彼女は再び感じた。

 「…あたしが、いやって言ったらどうするの」

 「え?」 

 「あんたにそばにいてほしくないってあたしが望んだら、あんたは手を引いてくれるの」

 「……どうしようか」

 困ったように、笑った。その表情もふつうで、狂気なんてひとかけらもない。それがかえって彼女には恐ろしい。

 「…あたしを、殺したり、する?」

 彼女の小さな声を男は聞き取って、目を丸くした。

 「殺す?」

 男のほうがよっぽど常識がなくて子どもっぽいと思っていたのに、こうして聞き直されると幼稚なことを聞いているのは彼女の方で、顔が熱くなる。だけどもう取り消せない。

 「殺せるわけないじゃん」

 その言葉の意味が、心情的なものなのか、法規的なものなのか、倫理的なものなのか、それもわからない。

 「送るよ」

 男が立ち上がった。今まで送られたことなんて一度もなかったのに。彼女も頷いていた。


 無言。それも気まずい種類の無言だ。しかもそれを感じているのはきっと彼女だけなのだ。

 しばらく街の環境音と彼女のひく自転車のからからという音だけがしていたけれど、それに加えてだんだんと電車の音が近づいていた。高架の上を線路が通っていて、二人はもうすぐそこをくぐろうというところだった。

 「ひいろさ、」

 「んー?」わざと間延びした声で答えた。

 男は続けて何かを言ったけれど、その声はちょうど頭上を通り過ぎた電車の音にほとんどかき消された。

 「なんて言った?」

 「…だよねえ」

 男は笑った。しょうがない、というふうに笑った。

 「信じないよねえ」

 どうして聞こえていたことがわかったのだろう。気のないふりをして、聞き逃すまいと耳を澄ませていたことが。だけど、いったん知らないふりをした彼女には何も言えなかった。

 「このへんでいいよ」誰かに見られてもめんどくさいし。結局彼女が言えたのはそんな当たり障りのないことだった。先ほどの会話は、なかったことになってしまった。

 男は素直に踵を返した。

 「バイバイ」背中に声をかけると、振り返った男の笑みはやっぱりいつもの通りだった。

 「今度、教えてよ、その映画」

 「わかったわかった」

 「ばいばい」


 自転車にまたがりながら、どうして聞こえてしまったのだろう、男のせりふを思い出していた。

 冗談みたいなのに、なぜか頭から離れない。

 

 『俺は一度死んで、こことは違う世界からやってきたんだ。…って言ったら、信じる?』


第一部終了です

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