もう一度やり直せるのなら
生暖かい血の匂いが、肺の奥深くまでこびりついて離れなかった。
高周波の耳鳴りが、頭蓋骨の奥を容赦なく引っ掻いている。呼吸がうまくできない。肺が酸素を拒絶しているかのように、喉の奥が引きつり、激しい呼吸の音だけが、深夜の無機質な空間に響いている。天井の隙間から差し込む微かな月光が、浮遊する埃を白く照らしていた。コンクリートの床はひび割れ、赤錆びた機械の残骸が闇の中に潜んでいる。
ー何が、起きた?
ゆっくりと視線を下ろす。
最初に視界に入ったのは、自分の両手だった。べっとりと、暗い赤が皮膚を覆っている。どろりとした粘り気をもつそれは、指の隙間を伝い、床に小さな水たまりを作っていた。
その血塗られた両手が、冷たい金属の感触を握りしめている。僕の手の中には、ずっしりと重いナイフの柄があった。手のひらにはじっとりと嫌な汗をかいていて、指先は小刻みに震えている。
視線をさらに下へ、床へ下ろした。
足元を見下ろせば、仰向けに倒れた男がピクリとも動かずに横たわっている。男の胸元は深く赤色に染まり、流れ出た血が、まるで生き物のようにコンクリートの溝を伝って広がっていく。
「あ・・・、あ、う、あ・・・」
声にならない悲鳴が、喉の奥から迫り上がってきた。
自分がなぜ深夜にこんな場所にいるのか、この男が誰なのかすら、パニックになった脳ではうまく認識できず、一切の思考をシャットダウンしていた。激しい動悸で胸が引き裂かれそうだった。
ガタガタと全身の骨がぶつかり合うような恐怖に襲われ、ただその場に立ち尽くす。呼吸をすることさえ忘れて、震えていることしかできなかった。
カッ、カッ、と硬い靴音が響く。
静寂を破って、錆びついた鉄扉がギィと鈍い音を立てて勢いよく開いた。恐怖に目を剥く視界に、一人の男が飛び込んできた。
「ーーっ、伊織!」
聞き間違えるはずのない、低く、気品のある声。
それは、大企業の若き最高経営責任者であり、僕が人生の全てを捧げたいと仕えてきた男ー雪澄玲亜だった。
「・・・っ!」
いつも完璧に整えられている彼の髪は激しく乱れ、仕立ての良いスーツの上着はどこかに置き忘れたのか、白いシャツの袖が揺れている。一瞬、現場の凄惨さと、血塗られた僕の姿を見て目を見開いた。
しかし、次の瞬間には、いつもの優しくて温かい表情に戻っていた。彼は、一切の躊躇なく、血の海を靴で踏み荒らしながら僕の元へと駆け寄ってきた。そして、凍りついた僕の肩を、壊れ物を扱うように優しく、けれど絶対に離さないというように大きな手で力強く包み込んだ。
「大丈夫。大丈夫だから、伊織」
その声は驚くほど落ち着いていて、優しかった。僕の狂いそうなパニックを必死に宥めるような、懇願に似た声色。
「でも、僕が・・・!僕が、この人を・・・!」
「何も言うな。お前は何も見ていないし、ここには来なかった。今すぐここを出て、家に帰るんだ。温かいものを飲んで、何も考えて眠るんだ、いいな?」
「そんなの・・・そんなの無理だよ!きゅ、救急車・・・!けいさつっ!」
「月綴伊織っ!」
鋭く、冷徹で、しかしどこまでも切実で優しい響きだった。
「頼む・・・もう頼むから行ってくれ」
彼は、僕の背中をそっと優しく、強く押した。
「・・・あ、あ・・・」
促されるまま、僕はよろよろと歩き出す。頭の中は真っ白で、身体中の感覚が麻痺していた。そこからどうやってその場を離れ、どうやって暗い夜道を歩き、どうやって自分の部屋のベッドに滑り込んだのか。
極度のパニックにより防衛本能なのだろうか、記憶は全て濃い霧の向こうへと消え去り、僕は泥のような意識の底へと沈んでいった。
*
はっと目を覚ました時、カーテンの隙間から眩しい朝の光が差し込んでいた。
心臓が嫌なリズムで跳ねている。昨夜のことは、ひどくリアルで、ひどく悍ましい悪夢だったのではないか。そんな淡い期待を抱きながら、体を起こそうとした、その時だった。リビングから、つけっぱなしのテレビの音が部屋に入り込んできた。
『速報です。本日未明、都内の廃工場で男性が刃物で刺殺された事件で、警察は先ほど、大企業・雪澄グループのCEO・雪澄玲亜容疑者を殺人容疑で逮捕しました。雪澄容疑者は取調べの際、「私がやりました」と容疑を認めており、犯行に使われたと見られるナイフからも本人の指紋が検出された模様ですーー』
「・・・えっ?」
その顔を見た瞬間、堰き止められていた記憶の濁流が一気に脳内へ押し寄せてきた。生臭い鉄の匂い。手のひらに残る、肉を断ち切った時の感触。
そしてーー「大丈夫だから」と言った笑顔。
画面に映し出された彼は、複数の警察官や報道陣に囲まれながらも、いつもと変わらない冷徹な美しさを保っていた。カメラの無数のフラッシュを浴びる一瞬、彼がレンズの向こうにいる僕を見つめ、微かに口元を和らげたような気がした。
どうして。どうしてあなたが捕まるんだ。違う・・・。違う、違う、違う!刺したのは僕だ・・・!完璧だったはずの彼の未来を、僕が、僕の存在が、全て壊してしまった。
凄まじい罪悪感と絶望に、脳が圧搾されるような痛みを覚える。頭を掻きむしり、ベッドの上で狂ったように泣き叫んだ。
しかし、テレビの画面は、僕の絶望など意にも解さず、淡々と無情に次の話題へと切り替わっていく。
『ーー続いてはお天気のコーナーです。今夜は、木星と土星が20年ぶりに大接近する、世紀の天体ショー「グレート・コンジャンクション」が全国的に観測される見込みです。今夜の各地の天気は・・・』
軽快なBGMと共に、アナウンサーの声が「今夜の美しい星空」の話題を流し続ける。世界はこんなにも平然と回っている、その事実に涙で視界が完全に遮られ、過呼吸で胸が張り裂けそうになる。
・・・どうしてこんなことになってしまったのだろう。ただあなたの隣に並びたくて。隣を歩いても恥じない人間になりたかっただけなのに。
高校時代、父親の暴力と周囲のいじめによって暗闇の底にいた僕を、救い出してくれたのは彼だった。もらったものが多すぎて、数え切れないほどの彼への感謝を抱えたまま今日まで生きてきた。返せる日なんて来ないとしても、彼が言ってくれた「生きていてもいい」という言葉が、僕をここまで連れてきた。
だからせめて足を引っ張ることのないように、弱いままで置いていってしまわれないように、僕は必死に勉強し、護身術を習い、強くなろうと努力した。周りから「コネ入社」だとどれだけ罵られても結果で示し続けて、ようやく秘書として隣を歩く切符を手に入れたのに。
僕の人生の全てを彼のために使いたかった。
それなのに。その結果が・・・その結果がこれなのか。待っていたのは、僕の罪を背負う君の姿。
【僕の一番大切な人は僕のせいで殺人犯になった】
それからどれくらい時が経ったのだろう。
カーテンを閉め切った暗い部屋の中、放心状態で膝を抱え続けていた。
ニュースを見た後、僕は何度も警察に駆け込み、「僕が犯人だ」「僕が刺したんだ」と声を枯らして訴えた。けれど、警察の対応は冷淡そのものだった。
「雪澄容疑者の詳細な自白と、完璧な物証が揃っているんだ。秘書の君が取り乱して身代わりを申し出る必要はない。早く帰りなさい」と、まともに取り合ってもらえない。
面会を求めて拘置所へ向かっても、「弁護士以外との面会は本人が一蹴している」と、一度も会わせてもらえなかった。
誰も、僕の話を聞いてくれない。言葉を信じてくれない。彼を救う手立てが、この世界には何一つ残されていない。自分の無力さに絶望し、暗闇の中でただひたすらに涙を流していた。返せない恩も言葉も今はただ喉の奥で崩れていく。
「あぁ・・・そうか」
隣に並びたいなんて、あまりにもおこがましい夢を僕が抱いてしまったからか。君との未来を望んだ報いなんだ。
ーーもしも、もう一度人生をやり直せるなら。
ーーもしも、出会う前に戻れるのなら。
ーーもしも、あの夏をもう一度選び直せるのなら。
あなたの未来を汚さぬように僕は一人で生きてみせよう。
今度はあなたと出会わない。それが僕にできる償いなのだから・・・
激しい慟哭の中、世界がぐにゃりと反転した。視界が激しい白い光に包まれ、強烈な浮遊感が全身を襲う。
「・・・っ!?」
*
はっと息を吸い込んで、目を開けた。
耳に飛び込んできたのは、テレビのアナウンサーの声・・・ではなく、大勢の高校生たちが騒がしく喋り合う、耳慣れた喧騒だった。
机の上の落書き。西日の差し込む、古びた教室。
僕は、窓に映る自分の姿を見る。長い前髪が視界を鬱陶しく遮っている。前髪と眼鏡で顔の半分は隠れていた。父親への恐怖から世界を拒絶し、自分を隠し続けていた、あの頃の僕の姿そのものだった。
【4月21日(水)日直・・・】
黒板に書いてある日付は、10年前の4月21日を示していた。
タイムリープした。
あの悲劇が起こる、10年前の高校時代に。まだ、彼が転校してくる前だ。
僕の胸に断固として揺るがない決意が宿った。今度は・・・絶対に、君の手を汚させない。あの最悪の夜を、二度と引き起こさせない。そのために、僕がこの人生ですべきことは、ただ一つだけだ。
ーー雪澄玲亜。君に絶対に関わらないことだ。
僕は、“交わらない夏”を、君へ贈ろう。
名前も声も知らないふりをして、どうか僕のいない場所で、今度こそあなたが幸せに生きていけますように。
最終回まで頭の中でイメージできているのですが、私の語彙力や表現力が至らず・・・頑張りますので、お付き合いください。




