聖女の私には顔も名前も知らない夫がいるので、騎士様のお気持ちはお断りします。
帝都の神殿で聖女を務めるエリカ・サーントンは、今日も頭を抱える羽目になっている。
「……聖女様。ぜひ、私と食事を」
そう真摯な声で誘いをかけてきたのは、ルシアン・グレイヴス騎士爵である。
輝くような金髪に、長身かつ広い肩幅。長きにわたる隣国との戦争で武功を立てて『帝国の獅子』と称され、将来は近衛騎士団長の座を約束された傑物──。
おまけに、非の打ち所がないほど顔立ちまで整っているのだ。エリカと同年代でありながらこれほどの地位を築き、いまだ独身を貫いているのは珍しい。神殿の修道女たちに言わせれば、『最大にして最後の優良物件』となるらしい。
(……どうして、よりによってこんな立派な方が)
「申し訳ありません、グレイヴス様。わたしは神の前で誓いを立てておりますので、男性とふたりきりでのお食事はご遠慮させていただいています」
完璧な営業スマイルを浮かべて辞退を告げる。
ピクリ、とルシアンの眉が上がった。
彼は数秒ほど静止したのち、「……そうですか」とだけ残して静かに立ち去っていく。
見送ったエリカは、ほっと胸を撫でおろした。
もっとも、男性から熱烈なアプローチを受けるのはこれが初めてではない。
帝都の神殿に聖女として召し上げられてから早三年。気づけば、貴族からの縁談や言い寄りがあとを絶たない日々が続いている。
誘われるたびに「神の前で誓いを立てている」と断り続けた結果、大半の男は絶句して引き下がっていくようになった。
おかげで同僚の修道女たちの間では、『男との結婚が嫌すぎて神と結婚した既婚者』という不名誉な噂まで広まっている始末である。
もっとも、嘘をついているつもりはない。本当に結婚しているのだから。
◇
──翌週。ルシアン・グレイヴス騎士爵は再び神殿に姿を現した。
「サーントン聖女。礼拝がしたいのだが、同行していただけませんか」
「礼拝堂でのことでしたら、問題ありません」
神に仕える身として、礼拝堂はむしろ心が落ち着く領域。断る理由もないため了承し、共に祈りを捧げる。
だが、礼拝を終えてもルシアンは動こうとせず、祭壇をじっと見つめていた。
「……グレイヴス様?」
「いや、すみません。昔、こういう場所で……いや、たいしたことではありません」
何かを言いかけて、彼は静かに口を閉ぐ。
「……ところで、巷で評判の良い劇があるのです。神学に関する内容ですので、勉学を兼ねていかがでしょうか? ちょうどチケットが二枚手に入りまして……」
「申し訳ありません、神との誓いがありまして。男性と二人きりでの外出は……」
「そう……ですよね。差し支えなければ、そのお誓いとはどのようなものなのか、お聞かせ願えませんか」
「個人的なことですので」
取り付く島もない返答に、ルシアンは目に見えて落胆し、帰路についてしまった。
決して悪い人物ではないのは分かっている。これほど誠実に向き合ってくれる相手を無下にするのは心苦しいし、同僚たちからも「あんな優良物件、すぐにでも嫁に行った方がいい」と散々つつかれている。
だからといって、誓いを破るわけにはいかない。エリカは他でもない、神に仕える聖女なのだから。
◇
──さらに翌週のこと。
エリカが同僚の修道女と故郷の思い出話に花を咲かせていると、不意に背後から声をかけられた。いつものように礼拝へ訪れていたルシアンである。
「……風車のある村、と言いましたか」
その声はかすかに震えている。
エリカは振り返り、こくりと頷いた。
「はい。辺境の小さな村でしたが、丘の上に大きな風車があって──」
「もしかして、サーントン聖女のご実家は宿屋ではないか?」
◇
──あれは、エリカがまだ六歳だった頃の出来事。
父が営む宿屋を手伝っていた頃、息子を連れた旅商人が一夜の宿を求めてやってきた。
名前も、顔も、今はもう思い出せない。ただ一つ記憶に残っているのは、印象的な灰色の瞳だけ。
同年代の子供がいない小さな村だったこともあり、エリカはすぐにその少年と仲良くなった。
「ぼく、また絶対ここに来る。だから、それまで待ってて」
出立の朝、少年はそう言って笑いかけてくれた。
エリカも子供心に「じゃあ結婚の約束ね」と無邪気に返し、二人は宿屋の隣にある村の小さな礼拝堂へと向かった。そして、神様の前でごっこ遊びの結婚式を挙げたのである。
「神様の前で誓ったんだから、本物だよ」
「うん、本物の夫婦だ」
言い張るエリカに、少年も照れくさそうに頷いてみせた。
──だが、それきり少年が村を訪れることはなかった。
それから数年後。風車のある長閑な故郷は隣国との戦争で焼き尽くされ、家族も家も、文字通りすべてが灰燼に帰してしまう。
運良く生き延びたエリカは、類稀なる才能を見出されてサーントン家の養女となり、やがて聖女の座に就いた。聖女として生きていくと決めた以上、あのとき神の前で交わした結婚の誓いを無かったことにはできない。
だからこそ、エリカはずっと誓いを守り続けている。顔も名前も忘れてしまった、たった一人の夫との約束を。
……もしかしたら、彼はもう別の人と結ばれて幸せになっているかもしれない。私のことなんて、とうの昔に忘れているかもしれない。それでも、エリカにとっては些末な問題だ。相手がどうであれ、自分は神様の前で誓約を立てたのだから。
◇
「もしかして、サーントン聖女のご実家は宿屋ではないか?」
その問いかけに、エリカの心臓が大きく跳ねた。
「……なぜ、それを」
詰め寄るようにルシアンが一歩近づく。
まっすぐにエリカを見つめる、その瞳。
灰色の、瞳。
「十五年前、その村に泊まった。商人であった父に連れられて旅をしていたときのことだ。礼拝堂で──」
「──神様の前で、誓いを立てた」
気づけば、エリカの口からその言葉がこぼれ落ちていた。
ルシアンが、ゆっくりと力強く頷く。
「また来ると約束したのに、直後に父が急死して行けなくなりました。翌年も、その翌年も……身寄りもない子供が兵士として生き延びるだけで、あの頃は精一杯だった」
絞り出すような吐露に、エリカは言葉を失う。
「必死で武功を立て、騎士になってから……記憶を辿って迎えに行きました。ですが、村は既に廃墟になっていたのです」
目の奥がじわりと熱を帯びていくのを感じた。
十五年間。
「……彼女のことはもう諦めようと。せめて神に詫びを入れようと、私はこの教会へ足を運びました。そして、謝罪の祈りを終えて立ち上がった瞬間──貴方がいた。神に『この女性と結婚せよ』と告げられた気がしたのです」
名前も顔も覚えていないと思っていた夫は、今日この日までずっと探し続けてくれていたのだ。
エリカが神の前での誓いを守り続けていたように。彼もまた──この帝都随一と名高い騎士もまた──ずっと、ひとりの少女を想い続けていた。
「……神の前で、誓いを立てておりますので」
沈黙のあと、エリカはようやく口を開く。
声が、少しだけ震えていた。
「わたしはもう、既婚者なのです」
その言葉に、ルシアンは一瞬だけ目を細める。そして、ひどく優しい声で告げた。
「……そうですね。十五年前から、私たちは本物の夫婦だった」
◇
──後日。
聖女エリカが、あの颯爽たるルシアン騎士爵と礼拝堂でひそかに式を挙げた事実を知り、神殿の修道女たちは大いに騒ぎ立てることとなる。
「あの誓いって、本当だったの!?」
「というか、既婚者って言ってたの、本当の意味だったの!?」
「十五年前から結婚してたって……ちょっと待って、どういうこと……?」
大パニックに陥る修道女たちを尻目に、エリカはルシアンの隣で穏やかな微笑みを浮かべていた。
この世界で、ルシアンだけが知っている。
崇められるサーントン聖女ではなく、ただの『宿屋の娘エリカ』を。
そして、エリカだけが知っている。
帝国の獅子と畏れられる騎士爵ではなく、ただの『商人の子ルシアン』を。
聖女という重い衣の下に、『六歳のエリカ』はずっと生きていた。
それが十五年の時を経て、ようやく果たされたのだ。
「神の前で誓いを立てておりましたので」
悪戯っぽく、いつもの断り文句を口にするエリカ。
すると、隣でルシアンの肩がわずかに揺れ、小さく吹き出す音が聞こえた。
見上げた先にあったのは、十五年越しに約束を果たした『本物の夫』の──心底幸せそうな笑顔。
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